⦅琉惺視点⦆

クレープ屋に入ると、ちょうど漣がレジで注文を終えたところだった。

「うわっ」

琉惺と愛美花に気づき、目を見開いたまま固まった。
……うわってなんだよ。
なぜか胸がチクリと痛む。
視線が左右に泳いでいる。
自分たちの横をすり抜けて、逃げようとしているのだろうか。

(俺、何かしたか?)

これまでの行動を振り返る。

――何もしてない。

それなのに、理由もなく怯えられるのは、さすがに腹が立つ。
その瞬間、ふと意地悪してやりたくなった。

「まるごとレアチーズケーキクレープのお客様~」

店員のお姉さんが明るい声を上げた。
漣はパニックの真っ最中で、まったく気づいていない。

「……」

困ったように笑うお姉さんの視線が、漣から離れ――やがて琉惺の方に向いた。
琉惺は反射的に「いつもの営業スマイル」を浮かべ、クレープを受け取る。
そのまま漣の腕をつかんで奥の席へ引っ張った。
強引に椅子へ座らせ、自分も隣に腰を下ろす。

――逃走防止だ。

「……なにやってんの?」

「え?」

ハッとして顔を上げると、目の前に愛美花が立っていた。
あきれ顔で、じっと琉惺を見下ろしている。

「アイスコーヒーでいい?」

投げやりな口調で言う。

「あ、ごめん。俺が買ってくる……」

「いいよ」

短くそう言い、愛美花はレジへ向かった。

やがて、愛美花がクレープとアイスコーヒーを手に戻ってきた。
琉惺の前に腰を下ろす。

「ねぇ」

「……え?」

「可哀そうだよ。さっきから固まったまま、クレープも食べてない」

愛美花の視線の先――漣はズボンの膝をぎゅっと握りしめ、顔を伏せたまま石像みたいに固まっている。

「……あ、ごめん。食べな」

声をかけても、漣はピクリともしなかった。
琉惺はため息をつき、クレープを手に取る。

「ほら。食えるか?」

クレープの端を、漣の口元へそっと近づける。

「ちょっと、やめなよ!」

愛美花が小声で制止する。

「溶けるだろ」

「だからって……さすがに、やりすぎ」

「じゃあ、どうしろって……」

険悪になりかけたそのとき――漣の唇がわずかに開き、半ば反射のようにパクリと食べた。

「あ、食べた」

思わずつぶやく。
――可愛い。
もう一度、クレープを口元に差し出す。
夢中で食べさせていると――漣がハッと我に返り、二人を見比べた。

「なに……してるの」

「……俺、今なにしてた?」

琉惺は思わず愛美花を見る。
愛美花はクレープをひと口かじり、真顔で答えた。

「さあ」

次の瞬間、ガタッと漣が立ち上がった。真っ赤な顔で琉惺を睨みつける。
怒っているはずなのに――やっぱり可愛い。
そんなことを考えているうちに、漣は琉惺の膝を強引に乗り越え、逃げるように店を飛び出していった。

「あーもう。ほんと、なにしてんのよ」

愛美花が、呆れた視線を琉惺に向ける。

「……なにって」

琉惺は視線をそらし、アイスコーヒーを無意味にかき混ぜた。氷がカランと鳴る。

「琉惺って、好きな子いじめるタイプだったんだね」

「なんの話…… 違うからな?」

思わず声が強くなる。

「あんたでも、そんな顔するんだ」

愛美花はおかしそうに笑い、ストローをくるくる回した。

「……うるさいな」

ぼそっとつぶやく。
やり過ぎたのは分かっている。けど、勝手に手が動いた。

(なんでだよ)

自分でも訳が分からないまま、琉惺は店の外に目をやった。

***

同じ頃。学校のプール。

プールサイドで、雫ヶ原は今日も固まっていた。
水面をじっと睨みつけ、まるで戦いでも挑むみたいに動かない。
スイミングキャップから滴った水が、目の際をつたって落ちる。
それでも、彼は瞬きすらしなかった。

(水が……こわいのかな?)

信也がそっと隣に立つと、雫ヶ原は気づいて、表情をゆるめた。

「腕、大丈夫だった?」

「あ。腕はぜんぜん……あの、雫ヶ原……くんは」

「裕理でいいよ」

ゆ、ゆうり……

――ゆうり!?

呼べるだろうか。自分が「裕理!」なんて。

「裕理! 部活遅れるぞ!」とか。

……たぶん、ムリだ。

「雫ヶ原って、長くて呼びづらいし」

裕理がぽつりと言った。

「確かに……」

し・ず・く・が・は・ら。信也は指を折って数える。

「6文字もある!」

思ったより長い。

「……ふっ」

裕理が、笑った。
普段の完璧な笑顔じゃない。偶然こぼれた素の笑顔。
その瞬間、信也の肩から力が抜けた。

「あの、どこまでできるの?」

「え?」

「……水に顔をつけるとか」

「ああ」

裕理はふるふると首を横に振った。

――できないらしい。

「じゃあ、シャワーは?」

「それは、さすがにできる」

言って、面白そうに笑う。

「……お風呂に潜るのとかは?」

「……やったことないな」

「そ、そっか」

確かに、彼がお風呂で潜ってる姿なんて、まったく想像できない。
体格的にも無理がある気がする。

(自分はよくやるけど)

「水の中って、けっこうキレイなんだけどな……」

信也のつぶやきに、裕理がうなずく。

「それは、分かる。この前、信也が助けに来てくれた時……すごくキレイだった」

「えっ……と」

思いもよらない言葉に思考が止まる。

「あーなんか、泡が光ってて……」

裕理は、気まずそうに襟足の辺りを掻いた。
信也はその横顔を見つめ――胸の奥が、不意に熱くなるのを感じた。

「あ」

「え?」

「ゴーグルがあればいいかも」

「ああ。ゴーグル……いいかもな」

裕理が頷く。

(ただ、裕理の頭に浮かんでいたのはゴーグルではなく――シュノーケルだった。もちろん、信也は知るよしもない)

「帰りに、店寄ってみる?」

信也の言葉に、裕理は静かにうなずいた。

***

どうしてこうなった――
信也は街を歩きながら、自問自答していた。
制服姿の裕理は、すっかり「王子」に戻っている。
ただ一つ、額にスイミングキャップの跡がうっすら残っている。
その小さな違和感を除けば、完璧だった。
周囲から、ものすごい数の視線が突き刺さる。
同年代だけじゃない。年齢を問わず、女子たちがみんな視線を送ってくる。
ときには、男子も。
そして、会話も聞こえてくる。

「あれ、王子だよ。煌光学園の」

「え、隣にいるのだれ? あれが騎士!?」

「騎士じゃない! なんでいないの?」

――疲れる。ただ隣を歩いているだけなのに。
信也は小さく息を吐いた。

「ごめん。疲れた?」
裕理が、申し訳なさそうに言った。

「あ、いや。その……大変だな。常に視線を浴びてるのって」

思わず本音が漏れる。

「うん。まぁ、俺は慣れてるけど……信也はつらいよな」

――信也って呼ばれた。

それだけで、頭が真っ白になる。
王子に……「信也はつらいよな」って言われた。
気遣われると同時に、ごく自然に「非モテ」扱いされたような気もする……
嬉しいのか、悲しいのか――自分でも分からない。
胸の中で感情がごちゃ混ぜになる。
ほんの一言で心を乱すなんて――裕理はすごい。

「ゆる水部にいるとなぜか落ち着くんだよな……なんでだろう?」

歩きながら、裕理がしみじみとつぶやいた。

――それは、あのクソダサい格好のせいではないだろうか。

そのせいで誰も裕理を特別視していない。
きっと「王子」だと気づいてすらいない。
せいぜい、イケメン風のちょっと変わった一年生。
その程度の印象だろう。
信也はそう思ったが……

「みんな一生懸命だからな。あの雰囲気、けっこう好きかも」

そう返す。嘘ではない。
裕理は、「なるほど」と軽くうなずいた。

***

スポーツ用品店に入ると、裕理は楽しそうに店内を物色し始めた。
テニスラケット、バレーボール、野球のバット、卓球のラケット――なにを持っても様になる。
ただ、最後にシュノーケルを持って来たのだけは意味不明だった。

「あったよ」

「……?」

「ゴーグル」

「それ、シュノーケル。海で魚見るやつ」

「え?」

本気で驚いている。
その表情が妙におかしくて、信也は思わず吹き出した。

「これだと思い込んでた」

裕理が恥ずかしそうに視線を落とす。

――やばい。可愛い。

「じゃ、本物のゴーグル探そうか」

信也がそう提案すると、裕理はホッとしたように微笑んだ。

「……頼む」

その素直な一言と、はにかんだ笑顔が胸に突き刺さる。
もう反則だ。ドキドキがおさまらない。
信也は胸の高鳴りを隠すように、シュノーケルをそっと棚に戻した。

***

その時。

「しーんや! 何見てるの?」

幼なじみの雪乃が、いきなり後ろから抱き付いてきた。

「雪乃!? くっつくなって!」

信也は反射的に雪乃の手を振り払い、きっちり一メートル距離を取る。

「ごめんごめん。胸、当たっちゃった?」

「胸……?」

信也はスレンダーな雪乃の全身を、上から下まで眺めた。

――胸って、どの辺にあったっけ?

顎に指を当て、首をかしげながら胸のあたりを凝視する。
その瞬間――ビリビリと殺気が走った。

「信也? 私の胸がどお……おおおっ」

「どうした?」

様子がおかしい。

「王子ーーっ!」

雪乃がガクガクっと崩れ落ちる。

「ちょ、雪乃! やめろ、こんなところで!」

慌てて立たせる。

「裕理、ごめんな! こいつ、美形に異常に弱くて」

「いや……」

裕理はまったく動じることなく、淡々と受け流した。
……受け流し方が華麗すぎる。

「ゆうり? ……ゆうりって、だれ?」

雪乃が放心したままつぶやく。

「……俺」

裕理が答える。

「……俺って言っただけなのに、かっこいい」

雪乃はつぶらな瞳で、信也をじーっと見上げた。

(分かる!! なんでだ!!)

信也は心の中で、全力で同意した。

***

「この子、大丈夫? 水でも飲ませた方がいいんじゃ」

息も絶え絶えの雪乃を見下ろしながら、裕理がつぶやく。

「あ、いつもこんな感じだから大丈夫……それより、ごめん。オレ、こいつを家に送って行かないと……」

信也がそう言うと、裕理はほんの一瞬、寂しげに目を伏せた。

「わかった」

(あ……)

影を落とした横顔。
思わず守ってあげたくなるような。

「あ、やっぱり……裕理も一緒に――」

そう言いかけたとき、死にかけの雪乃がかすれた声で必死に言った。

「わ、私のことはいいから、王子を――」

裕理は雪乃を見て、ふっと微笑んだ。

「俺のことこそ、気にしなくていいよ。また明日な」

そう言って、手にしたゴーグルを確かめるように持ち直し、レジへと歩いていった。

***

十分後。

「王子……いい人すぎない?」

生き返った雪乃が、制服を直しながらつぶやいた。

「うん……」

信也は、裕理が歩いて行った方向をぼんやりと見つめていた。
どうしよう。あんな顔するとは、思わなかった。

「王子のこと、好きなの?」

「うん……」

気づけば、頷いていた。
雪乃が黙り込む。
ハッと我に返った信也が、慌てて雪乃を見た。

「な、なんか……ほっとけないっていうか……!」

「たしかに」

雪乃は腕を組み、うんうんと頷いた。

「王子。学校でのイメージと違うね。雰囲気が柔らかいっていうか」

「そうかも」

裕理に触れられた右腕の感覚が、不意に蘇る。

「わたし、まだ膝がガクガクしてる」

「オレも。座ろう」

二人は並んで、近くのベンチに腰掛けた。