別の日。

体育館は熱気に満ちていた。
ボールが弾む音、シューズのきしむ音、そして飛び交う歓声。
体育館全体が熱を帯び、誰もが授業を楽しんでいるように見えた。
その熱気の輪から取り残されているのは、信也と漣だけ。
バスケットボールを抱えたまま、二人はコートの隅に取り残されたように立っていた。

ここ――煌光学園は、進学校でありながら運動部が幅をきかせる学校だ。
ゆえに、生徒の大半は体を動かすのが好きで――体育の授業を心から楽しむ人たちだった。

「運動神経さえよければ」

漣がぼそりとつぶやく。
その声は、瞬く間に体育館のざわめきに飲み込まれた。

「…………」

信也は何も言わず、じっと漣を見た。
漣の運動音痴は――ある意味、才能だった。
特に球技となると、目を疑うレベルだ。

そのとき、女子の悲鳴が響く。
華麗なシュートを決めたのは――蒼之森琉惺(あおのもり りゅうせい)
「王子」の親友で、誰からともなく「騎士」と呼ばれている。

「……なんなんだ、あいつ。あんな大げさなシュート必要ないだろ」

漣がぼやく。
蒼之森はすぐにまたパスを受け、軽やかに二本目のシュートを決める。
その無駄のない動きに、また女子の悲鳴が上がった。

「なんだよあれ!」

漣が口を開け、信じられないものを見るように指をさした。
言いたいことは分かる。
――けれど、人を指さすのはやめた方がいい、と信也は心の中で思った。

***

「まぁまぁ。オレらはドリブル練習でもしようぜ」

信也がそう言ってボールをついた、その時――

「痛っ」

腕に鈍い衝撃が走り、思わずボールを落とした。
ボールは、コロコロとコートを転がっていく。

「どうした?」

漣が覗き込んでくる。
信也が袖をめくると、腕が紫になっている。

「……なんだこれ」

まるで何かに掴まれた跡のように、生々しく、不気味だ。
信也は腕をさすりながら、数日前から続いていた鈍い重さを思い出す。
何かしたっけ? 記憶を辿っていると……

「の、呪い……? 呪いなのか?」

漣が震える声で言った。

「な、なんでオレが呪われなきゃならないんだよ」

信也は思わず声をあげた。
普段から、無害に生きているし。
この前、あそこでキャーキャー言われてる「王子」を助けたんだぞ。
褒美をもらってもいいレベルだ。
爵位とか、土地とか…… そこで、ハッとした。

「あれだ」

「なに?」

漣が首をかしげる。

「この前、プールで雫ヶ原を助けたとき、思いっきり掴まれた」

「それだけで、こんなんなる?」

漣が眉をひそめる。

「……すごい力だった」

「いくらなんでも、それはないだろ」

漣はトントンと不器用にボールをつきながら言った。
その時――

「これ、羽瀬の?」

不意に声が降ってきた。
ボールを二つ持った雫ヶ原が、いつの間にか目の前に立っている。
途端に周囲の歓声が止んだ。

「あ……ありがとう」

ボールを受け取る。
女子たちの沈黙が突き刺さる。
視線のすべてが自分たちに集中している気がした。
吐いた言葉すべてを聞き取られている気がして、ごくりと喉が鳴った。
しかし、雫ヶ原はなにも感じていないらしい。
いつも通りの顔で言った。

「さっき、俺の名前呼んだよな?」

「よ……呼んでない」

信也は、思わず腕を背に隠した。
しかし、それがよくなかったらしい。
雫ヶ原の視線が、吸い寄せられるように腕へと向かう。
次の瞬間――なんのためらいもなく信也の腕を取った。

***

雫ヶ原は袖をめくり、痣に気づくと、そこに指先をそっと滑らせた。

「ひっ」

変な声が漏れる。
ギャーッ――女子の悲鳴が重なる。

「これ……俺がやった?」

表情が曇る。
信也は慌てて首を振った。

「本当に大丈夫だから……気にしないで」

必死にごまかすが、雫ヶ原の表情は暗いままだ。
その時――

「なに? なんかあった?」

タイミング悪く、ボールを抱えた蒼之森琉惺が現れた。

「ひぇっ」

今度は漣が変な声を上げた。
琉惺がチラッと視線を寄こす。

「……なに?」

「ぜ、全然! まったく! なんでもない!」

漣の焦り方は、どう見ても不自然だった。
陰口を言っていた負い目でもあるのだろうか。

蒼之森は「?」という顔で、じっと漣を見ている。

「信也ぁ……」

漣は縋るような目で信也を見たが、信也の方もそれどころではなかった。
腕を掴まれ、動くに動けない。

「え、これどうした?」

蒼之森が信也の痣に気づき、指先でスッと触れた。

――なぜ、この二人はごく自然に他人の腕に触るのだろう。

一方的に悪者にされる自分の身にもなってほしい。
案の定、ざわめきが波紋のように広がる。

***

「なにあいつら、だれ?」

「王子×騎士の邪魔すんな」

「てか、騎士様に触った!」

そんな声まで聞こえてくる……

(幻聴だよな……いや、幻聴であってほしい)

だが、これだけは言わせてほしい。
触ったのは騎士様の方だ。

「……たぶん、俺がやった。部活で……」

雫ヶ原が歯切れ悪くつぶやく。
すると蒼之森が首をかしげて言った。

「こいつが溺れて、裕理が助けたとか?」

裕理――たしか王子のファーストネームだ。

「いや……」

(逆だから)

信也は心の中でツッコミを入れた。
きっと漣も同じツッコミを入れてる――そんな顔をしてる。
……でも、今はそんなことどうでもいい。
とにかく二人が、イケメンすぎる。
少し乱れた前髪。長い指に収まるボール。
ただボールを持って立っているだけなのに――それだけで、完成された一枚の絵のようだ。
自分たちはコートの隅で、おとなしくドリブルしていただけなのに。
なぜ、こんな目に遭わなきゃならないんだ。
一刻も早く、この場所から逃げなければ。
信也は、雫ヶ原の手からそっと腕を引き抜いた。
漣と顔を見合わせ、小さく頷き合う。

――逃げよう。

2人はじりじりと後ずさり、素早く外に逃げた。

***

「あー、生き返る」

「やっぱ日陰は心地いいな。日陰最高」

体育館の外。
コンクリートの階段に腰を下ろし、二人はのんびりとくつろいでいた。
さっきまでの熱気と歓声が、まるで幻だったかのように遠い。

「あの二人、ヤベーな」

漣が大きく息を吐きながら言う。

「……かっこ悪いところが一つもない人間とか、いるんだな」

信也がぼそりと答えた。

「喉乾かない?」

「乾いた。……緊張して」

「飲み物買ってくる!」

漣はスタッと立ち上がり、自販機へ駆けていった。
足だけはやたら速い。
残された信也は、涼しい風を感じながら、そっと目を閉じる。
さっきまでの汗がすっと引いていった。
――けれど、胸のざわつきは収まらない。
雫ヶ原に触れられた腕が、まだ熱を帯びている。
その熱を確かめるように、思わず指先でさすった。
その時――

***

「羽瀬」

上から声が降ってきた。
目を開けると、雫ヶ原が立っていた。
手にはアイスパック。わざわざ保健室から持ってきてくれたのだろうか。
……別に、いいのに。優しい。

「本当に、だい――」

慌てて立ち上がろうとした瞬間、雫ヶ原は慣れた仕草で、トンッと信也を押し戻した。

「え……」

コンクリートに尻もちをつく。
雫ヶ原はしゃがんで、信也の袖をめくった。

「……腫れてる」

小さくつぶやき、冷たいアイスパックをそっと押し当てる。

「――っ……!」

思わず声が漏れた。

「痛い?」

心配そうに顔を覗き込んでくる。

「つ……冷たい」

それなのに、雫ヶ原の指は温かい。
冷たさと温かさ――その落差に、思わずドキッとする。
雫ヶ原は再び腕へ視線を落とした。
その表情が少し明るくなったことに、信也はホッした。
……けれど、すぐに別のことが気になってしまう。
手が、大きい。距離が、近い。
自分の心臓が、バスケットボールのドリブルみたいに爆音で鳴っている。
――体育館のざわめきよりも、ずっと大きい。

(これ、死ぬ?)

思わず身じろぐと――

「……動かないで」

低く、甘い声が耳元で響いた。
長い睫毛。汗で濡れた前髪。
こんなの、耐えられない。
思わず視線を彷徨わせた、その時――

***

「おーい! スポドリ買ってきたぞ!」

漣が元気よく戻ってきた。
そして同時に――

「裕理ー、どこ行った……あ」

蒼之森がこちらへ歩いてくる。
四人の動きが一瞬止まった。

「今行く」

雫ヶ原が普通に答え、信也のそばを離れる。
その顔は、公の場で見せる「王子」のものに戻っていた。
さっきまでの甘さは、跡形もない。

「ひどくなるようなら、病院行けよ」

短く言い残し、何事もなかったかのように体育館へ戻っていった。

「オレ……来てよかった?」

ペットボトルを抱えた漣が、そろそろと近付いてきて不安そうに言った。

「いやいや、助かった。心臓死ぬかと思った」

信也は大きく息を吐く。

「飲むか?」

漣がペットボトルを差し出した。

「ありがとう」

ひと口飲む。
冷たい液体が喉をすべり落ちていく。
その瞬間、胸の鼓動は少し静まった――けれど、別の何かが始まった気がした。

***

⦅琉惺視点⦆

放課後。
教室の隅で、信也と漣が言い争っていた。
琉惺はその様子をぼんやりと眺める。
少し前まで、気にも留めていなかった存在。
――なぜか、今は気になる。

「信也と一緒に帰る」

「……無理だって」

「なんでだよ!」

「だから、部活」

信也がうんざりした顔でため息をつく。
それに気づいた漣が、怒った顔でバンッと机にリュックを叩きつけた。

「部活とオレ、どっちが大事……っ」

「……部活?」

さらっと返され、漣の顔が一気に赤くなる。

「オレだろ! そこは!」

声が裏返り、教室が一瞬静まり返った。
数人の女子が、ちらちらと様子をうかがっている。

「明日は一緒に帰ろうな」

そう言って、信也が漣の肩をポンポンと叩く。

「……わかった」

漣はコクリと頷いた。
それから二人は、何事もなかったかのように並んで教室を出ていく。

「……仲良いんだな」

琉惺は、二人の背中を見送りながらつぶやいた。

***

愛美花(あみか)視点⦆ ※キラキラ三人組のひとり

「なにあれ」

愛美花あみかはぽつりとつぶやいた。

「面白いよな。あいつら……てか、なんか可愛い」

琉惺が楽しそうに笑う。

「は? 何言ってんの?」

愛美花は眉をひそめた。

――正直、琉惺の笑顔の方が百倍可愛い。滅多に見られないけど。

「え、可愛くない?」

琉惺が驚いたように言う。

「ただの平凡男子じゃん」

思わず出た言葉に、琉惺が吹き出した。

「平凡男子って……まぁ、そこがいいんだよ」

その笑い声に、近くの女子がちらりと視線を送るのを感じた。
素で笑う「騎士」じゃない琉惺は、本当にヤバい。
愛美花は慌てて目を逸らす。
気を抜けば、頬が赤くなってしまいそうだった。
そんな顔を、誰かに見られるなんて絶対に嫌だ。

リュックを背負う琉惺を、愛美花はそっと目で追う。
さらさらの髪。容姿も、振る舞いも、すべてが完璧で――しかも優しい。
毎日、家まで送ってくれる。

――でも、私を好きなわけじゃない。それは、感覚で分かっていた。

だから告白はしないと決めた。
琉惺はきっと、裕理と私、三人でいる時間が好きなんだ。
それを壊したくなかった。
愛美花が黙っていると――

「なんか、怒ってる?」

琉惺がさりげなく機嫌を取ってくる。
こういうところが、ほんとずるい。

「クレープ奢って」

「はいはい。抹茶ね」

自分の好みを当たり前のように把握しているところも、ずるい。
きっと私の気持ちに気づいているのに――気づかないふりをしている。
……私も、興味のない男子にはよく同じことをするから分かる。

「なんか、守ってあげたくなるんだよな……」

琉惺が小さくつぶやいた。
その言葉が自分に向けられたものでないことは――もう分かっていた。