「新入生代表、雫ヶ原裕理」
「はい」
彼が壇上に立ったその瞬間――声も、立ち姿も、すべてが光をまとっていた。
伸びた背筋、澄み渡る声。
息を吸うわずかな仕草でさえ、見る者に「特別だ」と思わせる。
「……私たちは困難に立ち向かい、仲間と支え合いながら――」
言葉のひとつひとつまでもが、輝いている。
信也は、大勢の新入生に埋もれながら、思わず目を細めた。
***
キラキラしている。
陽の光に透ける髪が。
その何気ない立ち姿まで。
休み時間。
ぼんやりしていたら、どうやら言葉が口から漏れていたらしい。
「……キラキラって、なに」
篠田漣が机越しにじっと見てくる。
近い。
「オレ……そんなこと、言った?」
羽瀬信也は頬杖を外し、漣のじとっとした視線から逃れるように、椅子の背もたれに身を預けた。
「言ってた。ボーっとあっち見ながら」
教室の前方で爽やかな笑い声が響く。
窓際に集まる三人組。
その中心にいるのが――雫ヶ原裕理。
男子二人、女子一人。
全員、やたら整った顔立ちで、まるで学園ドラマのキャストを並べたみたいだ。
「まさか、あいつらのこと? あのグループに入りたいの?」
漣が、冗談なのか本気なのか分からない真顔で問いかけてくる。
「入りたくない」
即答すると、漣は少しだけ安心したような顔をした。
あんな連中の中に入ったら、強すぎる光にかき消されて、影なんて一瞬で消える。
そんなことを考えていたら……
「信也」
不意に、漣が信也の頬を両手で挟み、ぐいっと自分の方へ向けた。
「オレを見捨てるな。お前がいなくなったら、学校での会話ゼロになるんだぞ……だから絶対いなくなるなよ?」
「わ、わかった……見捨てない」
どうにか頷く。
***
そのとき、ふと視線を感じた。
漣に顔を挟まれたまま、信也は視線の主を探す。
――雫ヶ原と目が合った。
涼しげだけど、どこか冷たさを帯びた瞳。
思わず息が止まる。
だが、それはほんの一瞬。
すぐに興味を失ったように、彼の視線は信也から離れていった。
入学から一週間。
見回す限り、ほとんどのグループがもう出来上がっていて、みんな楽しそうに休み時間を過ごしている。
信也と漣は相変わらずのスロースタート。
まぁ、これは性格だから仕方がない。
「……あいつ」
信也が小さく呟くと、漣がすぐに反応する。
「雫ヶ原だろ? 新入生代表の。顔が良くて、頭もいい。スポーツもできて、先生にまで好かれてる。――完璧すぎて『王子』って呼ばれてるらしい」
漣は椅子にふんぞり返り、つまらなそうな視線を雫ヶ原へ向けた。
「しかも、性格までいいらしい!」
声の元気さと態度が、まるで一致していない。
「どこでその情報知った?」
知り合いいないのに、という言葉は飲み込む。
「聞こえてきた。女子の話題、ほとんどそれだから」
そうだろうな――と信也は考える。
信也がいる後方の席からは、女子が彼を意識している様子がよく見える。
それに対して、雫ヶ原は全く気づく素振りを見せない。
本当に気付いていないのか、あえてそうしているのか――そこまでは、信也には分からなかった。
爽やかに笑う雫ヶ原。
――その笑顔の奥に、影のようなものが見えた気がした。
***
放課後。
信也が廊下を歩いていると、背後から足音が響いた。
「おーい」
漣だ。
そのまま歩き続けていると、漣が肩に腕を回してきて言った。
「どこ行くの」
「部活」
「どこに決めた? 俺はお前と同じ……」
「ゆる水部」
「ん?」
漣の足が止まる。
「なんだそれ」
「まあ……水泳部みたいなもん」
「信也……中学の時、水泳部だったっけ?」
「うん。途中でやめたけど」
自分らしく泳げる場所で、もう一度挑戦してみたい。
そんな気持ちだった。
何か言いたげな漣を無視して、信也はそのまま歩き続ける。
「で、ゆる水部?」
「うん」
ひとり廊下に取り残された漣は、ぽつりと呟いた。
「……ゆる水部ってなに?」
***
屋内プール。
ここ、煌光学園は水泳の強豪校だ。
年中使える立派な設備があり、八つのレーンのうち七つを水泳部が独占している。
残りの1レーン――そこが「ゆる水部」の活動場所だった。
プールサイドに立つ部長・蓮見が、低い声で言い放つ。
「ゆる水部は正式な部活動だ。モットーは、競う相手は昨日の自分! 楽しく安全に! 本気の者だけ残れ」
すでに水着に着替えて体育座りをしていた一年生たちが、真剣な面持ちで頷く。
その時、蓮見の視線が何かを捉えた。
視線を追うと、制服姿のまま突っ立っている漣が、蓮見に睨まれて固まっている。
――さっそく目をつけられたらしい。
蓮見はしばらく漣を睨みつけていたが、やがて深く息をつき、あるものを差し出した。
「……まずは着替えろ。今回は俺のを貸す」
「え……」
漣は受け取った水着を、まるでカエルでも掴まされたような顔で見つめた。
(分かる。水着を借りるのは、パンツを借りるのに似た抵抗感がある……)
信也は、漣にそっと同情の眼差しを向けた。
蓮見はそんな二人には気づかず、続けた。
「そっちのおまえも、入部希望か?」
「はい」
(え!?)
信也は思わず目を見開いた。
そこに立っていたのは、雫ヶ原だった。
だが、その姿は教室での「王子」とはまるで違う。
地味なスクール水着に、スイミングキャップ。
髪はきっちり押し込まれ、整った顔立ちが、何とも言えない違和感を生み出している。
「うむ。完璧だな」
蓮見が満足げに頷く。
――キャップで前髪が消えると、こうも変わるものなのか。
信也と漣は、無言で目を見合わせた。
***
水着に着替えた漣が合流し、全員で準備体操を始める。
雫ヶ原が――かっこいい。
ただ準備体操をしているだけなのに、どう見ても「運動ができる人」の動きだ。
しかも制服のときは分からなかったが、意外と筋肉がある。
胸板も厚い。
均整の取れた体は、まるでモデルのようだ。
スクール水着でも、全然かっこいい。
――むしろ、スクール水着だからこそ、余計に映える。
信也が見惚れていると、すぐさま蓮見の声が飛んだ。
「準備体操を鑑賞するな!」
「すみませんっ!」
信也は慌てて目を逸らし、隣でいそいそと準備体操をしている漣に視線を向けた。
「あいつ、水泳部と間違えてないか? 教えてやった方がよくね?」
小声で言うと、漣はいつもの仏頂面を崩さず答える。
「間違えてたらアホだろ。……おまえが言え」
漣は話しかけたくないらしい。
信也はプールの向こう側に見える水泳部の面々と、ゆる水部員を見比べた。
たしかに、間違えようがない。
それに、装備だけ見れば、雫ヶ原は完全にこっち側の人だ。
均整の取れた体つきも、水泳ガチ勢のそれとは違う。
洗練された筋肉というより、オールラウンダーといった感じだ。
運動、なんでもできます――みたいな。
雫ヶ原は、プールサイドに立ち、水面をじっと眺めていた。
信也は恐る恐る声をかける。
「あのー」
「え?」
その顔は「だれ?」とでも言いたげだった。
心の中で「同じクラスの羽瀬です」とつぶやく。
分かっていても、ショックだ。
「水泳部は、向こう側だけど……」
雫ヶ原はちらりと「向こう側」を見てから、信也に目を戻した。
「……知ってる」
やっぱり、王子だ。
「知ってる」って言っただけなのに、かっこいい。
――でも、顔色が悪い。
額にうっすら汗がにじみ、なんだか呼吸も浅い気がする。
水面を見つめる目が、ほんの少し揺れているように見えた。
(もしかして……水が怖い?)
***
「よーし、ゆっくり水に入れ!」
蓮見の声が響いた。
その直後、雫ヶ原が足を滑らせ、プールに落ちた。
ざぶんと重い音が響き、派手な水しぶきが広がる。
「え?」
水面を見つめる。
――8、9、10。
浮かんでこない。
考えるより先に、信也はプールへ飛び込んでいた。
水中を漂う雫ヶ原。
その瞳は、驚いたように見開かれている。
信也がそっと近づき、手を差し出すと、視線が合った。
ホッとしたように表情が緩む。
信也に向かって手を伸ばした。
信也は、その手を掴み、ゆっくり水面へ引き上げた。
「大丈夫か?」
問いかけると、雫ヶ原はわずかに頷いた。
……ん?
なんだか、腕が締め付けられている。
見ると、雫ヶ原の手が信也の上腕をがっちりと掴んでいた。
小刻みに震えている。
信也はその震える手と、雫ヶ原の顔を交互に見比べた。
顔にはまったく出ていないが、きっと怖かったのだろう。
「大丈夫。雫ヶ原なら余裕で足つくし、オレもいるから」
信也が笑ってみせると、雫ヶ原はハッとして、わずかに力を緩めた。
でも、手を離そうとはしない。
「ごめん。もう少し、このままで……」
え?
思わず隣を見ると――王子らしからぬ表情でうつむく雫ヶ原がいた。
信也は、ぱっと顔を前に戻す。
なんか、しゅんとしてて……可愛かった。
ええ?
もう一度、顔を見ようとしたその時――
「羽瀬、助かった。経験者か?」
蓮見が言った。
「あ、はい」
「雫ヶ原のことは頼んだ」
「はい?」
蓮見は立ち上がり、周囲を見渡す。
「他に泳げないやつがいたら、正直に手を上げろー」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、信也以外の全員が、そろって手を上げた。
続けて言う。
「副部長は羽瀬に頼む」
「え? なぜ――あ、はい」
雫ヶ原の担当と……副部長になってしまった。
まだ入部届も出していないのに。
***
着替えて下駄箱に行くと、雫ヶ原がいた。
――もう、王子に戻ってる。
髪型も、きっちり締められたネクタイも完璧だ。
まるで、学校HPのトップページにでも載っていそうな、爽やかで凛々しい姿。
自分たちはまだ半乾きで、久しぶりの水泳にぐったりしてるというのに……
「さっきおまえが助けたの……あいつだよな」
漣がこそこそと耳打ちしてくる。
「……自信なくなってきた。違うかも」
信也も同じように小声で返した。
そこへ、キラキラ三人組の残り二人がやってくる。
「本当に部活入るの? 待つの嫌なんだけどー」
女子が不満そうに言った。
「……待たなくていいし」
雫ヶ原が短く答える。
「俺も入ろうかな。運動したい……で、結局入部するの?」
男子の方が軽く笑って言った。
「……する」
「マジか。頑張れよ」
「ああ」
そのまま彼らは、信也と漣に一瞥もくれず帰っていった。
「……」
「……」
たぶん、視界に入ってない。
信也は小さく息をつくと、雫ヶ原に掴まれた腕をそっとさすった。
なんだか、今になって急に痛みが出てきた気がする。
漣が虚ろな表情でつぶやいた。
「あいつ……王子、本当に入部するのかな?」
「さあ……するって言ってたけど。てか、漣は?」
漣は気まずそうに信也の表情をうかがった。
「入らな……くていい?」
「べつにいいよ。最初から入らないだろうと思ってたし」
「そう?」
「うん」
「帰るか」
「だな」
「明日、部活?」
「明後日。火曜と木曜だから」
「じゃ、明後日入り口まで付き添うわ」
「いらん」
漣とくだらない会話をしながら、三人組の少し後ろを歩く。
雫ヶ原の背中を見つめながら、信也は――次の部活が少し待ち遠しいと思っている自分に気づいた。
「はい」
彼が壇上に立ったその瞬間――声も、立ち姿も、すべてが光をまとっていた。
伸びた背筋、澄み渡る声。
息を吸うわずかな仕草でさえ、見る者に「特別だ」と思わせる。
「……私たちは困難に立ち向かい、仲間と支え合いながら――」
言葉のひとつひとつまでもが、輝いている。
信也は、大勢の新入生に埋もれながら、思わず目を細めた。
***
キラキラしている。
陽の光に透ける髪が。
その何気ない立ち姿まで。
休み時間。
ぼんやりしていたら、どうやら言葉が口から漏れていたらしい。
「……キラキラって、なに」
篠田漣が机越しにじっと見てくる。
近い。
「オレ……そんなこと、言った?」
羽瀬信也は頬杖を外し、漣のじとっとした視線から逃れるように、椅子の背もたれに身を預けた。
「言ってた。ボーっとあっち見ながら」
教室の前方で爽やかな笑い声が響く。
窓際に集まる三人組。
その中心にいるのが――雫ヶ原裕理。
男子二人、女子一人。
全員、やたら整った顔立ちで、まるで学園ドラマのキャストを並べたみたいだ。
「まさか、あいつらのこと? あのグループに入りたいの?」
漣が、冗談なのか本気なのか分からない真顔で問いかけてくる。
「入りたくない」
即答すると、漣は少しだけ安心したような顔をした。
あんな連中の中に入ったら、強すぎる光にかき消されて、影なんて一瞬で消える。
そんなことを考えていたら……
「信也」
不意に、漣が信也の頬を両手で挟み、ぐいっと自分の方へ向けた。
「オレを見捨てるな。お前がいなくなったら、学校での会話ゼロになるんだぞ……だから絶対いなくなるなよ?」
「わ、わかった……見捨てない」
どうにか頷く。
***
そのとき、ふと視線を感じた。
漣に顔を挟まれたまま、信也は視線の主を探す。
――雫ヶ原と目が合った。
涼しげだけど、どこか冷たさを帯びた瞳。
思わず息が止まる。
だが、それはほんの一瞬。
すぐに興味を失ったように、彼の視線は信也から離れていった。
入学から一週間。
見回す限り、ほとんどのグループがもう出来上がっていて、みんな楽しそうに休み時間を過ごしている。
信也と漣は相変わらずのスロースタート。
まぁ、これは性格だから仕方がない。
「……あいつ」
信也が小さく呟くと、漣がすぐに反応する。
「雫ヶ原だろ? 新入生代表の。顔が良くて、頭もいい。スポーツもできて、先生にまで好かれてる。――完璧すぎて『王子』って呼ばれてるらしい」
漣は椅子にふんぞり返り、つまらなそうな視線を雫ヶ原へ向けた。
「しかも、性格までいいらしい!」
声の元気さと態度が、まるで一致していない。
「どこでその情報知った?」
知り合いいないのに、という言葉は飲み込む。
「聞こえてきた。女子の話題、ほとんどそれだから」
そうだろうな――と信也は考える。
信也がいる後方の席からは、女子が彼を意識している様子がよく見える。
それに対して、雫ヶ原は全く気づく素振りを見せない。
本当に気付いていないのか、あえてそうしているのか――そこまでは、信也には分からなかった。
爽やかに笑う雫ヶ原。
――その笑顔の奥に、影のようなものが見えた気がした。
***
放課後。
信也が廊下を歩いていると、背後から足音が響いた。
「おーい」
漣だ。
そのまま歩き続けていると、漣が肩に腕を回してきて言った。
「どこ行くの」
「部活」
「どこに決めた? 俺はお前と同じ……」
「ゆる水部」
「ん?」
漣の足が止まる。
「なんだそれ」
「まあ……水泳部みたいなもん」
「信也……中学の時、水泳部だったっけ?」
「うん。途中でやめたけど」
自分らしく泳げる場所で、もう一度挑戦してみたい。
そんな気持ちだった。
何か言いたげな漣を無視して、信也はそのまま歩き続ける。
「で、ゆる水部?」
「うん」
ひとり廊下に取り残された漣は、ぽつりと呟いた。
「……ゆる水部ってなに?」
***
屋内プール。
ここ、煌光学園は水泳の強豪校だ。
年中使える立派な設備があり、八つのレーンのうち七つを水泳部が独占している。
残りの1レーン――そこが「ゆる水部」の活動場所だった。
プールサイドに立つ部長・蓮見が、低い声で言い放つ。
「ゆる水部は正式な部活動だ。モットーは、競う相手は昨日の自分! 楽しく安全に! 本気の者だけ残れ」
すでに水着に着替えて体育座りをしていた一年生たちが、真剣な面持ちで頷く。
その時、蓮見の視線が何かを捉えた。
視線を追うと、制服姿のまま突っ立っている漣が、蓮見に睨まれて固まっている。
――さっそく目をつけられたらしい。
蓮見はしばらく漣を睨みつけていたが、やがて深く息をつき、あるものを差し出した。
「……まずは着替えろ。今回は俺のを貸す」
「え……」
漣は受け取った水着を、まるでカエルでも掴まされたような顔で見つめた。
(分かる。水着を借りるのは、パンツを借りるのに似た抵抗感がある……)
信也は、漣にそっと同情の眼差しを向けた。
蓮見はそんな二人には気づかず、続けた。
「そっちのおまえも、入部希望か?」
「はい」
(え!?)
信也は思わず目を見開いた。
そこに立っていたのは、雫ヶ原だった。
だが、その姿は教室での「王子」とはまるで違う。
地味なスクール水着に、スイミングキャップ。
髪はきっちり押し込まれ、整った顔立ちが、何とも言えない違和感を生み出している。
「うむ。完璧だな」
蓮見が満足げに頷く。
――キャップで前髪が消えると、こうも変わるものなのか。
信也と漣は、無言で目を見合わせた。
***
水着に着替えた漣が合流し、全員で準備体操を始める。
雫ヶ原が――かっこいい。
ただ準備体操をしているだけなのに、どう見ても「運動ができる人」の動きだ。
しかも制服のときは分からなかったが、意外と筋肉がある。
胸板も厚い。
均整の取れた体は、まるでモデルのようだ。
スクール水着でも、全然かっこいい。
――むしろ、スクール水着だからこそ、余計に映える。
信也が見惚れていると、すぐさま蓮見の声が飛んだ。
「準備体操を鑑賞するな!」
「すみませんっ!」
信也は慌てて目を逸らし、隣でいそいそと準備体操をしている漣に視線を向けた。
「あいつ、水泳部と間違えてないか? 教えてやった方がよくね?」
小声で言うと、漣はいつもの仏頂面を崩さず答える。
「間違えてたらアホだろ。……おまえが言え」
漣は話しかけたくないらしい。
信也はプールの向こう側に見える水泳部の面々と、ゆる水部員を見比べた。
たしかに、間違えようがない。
それに、装備だけ見れば、雫ヶ原は完全にこっち側の人だ。
均整の取れた体つきも、水泳ガチ勢のそれとは違う。
洗練された筋肉というより、オールラウンダーといった感じだ。
運動、なんでもできます――みたいな。
雫ヶ原は、プールサイドに立ち、水面をじっと眺めていた。
信也は恐る恐る声をかける。
「あのー」
「え?」
その顔は「だれ?」とでも言いたげだった。
心の中で「同じクラスの羽瀬です」とつぶやく。
分かっていても、ショックだ。
「水泳部は、向こう側だけど……」
雫ヶ原はちらりと「向こう側」を見てから、信也に目を戻した。
「……知ってる」
やっぱり、王子だ。
「知ってる」って言っただけなのに、かっこいい。
――でも、顔色が悪い。
額にうっすら汗がにじみ、なんだか呼吸も浅い気がする。
水面を見つめる目が、ほんの少し揺れているように見えた。
(もしかして……水が怖い?)
***
「よーし、ゆっくり水に入れ!」
蓮見の声が響いた。
その直後、雫ヶ原が足を滑らせ、プールに落ちた。
ざぶんと重い音が響き、派手な水しぶきが広がる。
「え?」
水面を見つめる。
――8、9、10。
浮かんでこない。
考えるより先に、信也はプールへ飛び込んでいた。
水中を漂う雫ヶ原。
その瞳は、驚いたように見開かれている。
信也がそっと近づき、手を差し出すと、視線が合った。
ホッとしたように表情が緩む。
信也に向かって手を伸ばした。
信也は、その手を掴み、ゆっくり水面へ引き上げた。
「大丈夫か?」
問いかけると、雫ヶ原はわずかに頷いた。
……ん?
なんだか、腕が締め付けられている。
見ると、雫ヶ原の手が信也の上腕をがっちりと掴んでいた。
小刻みに震えている。
信也はその震える手と、雫ヶ原の顔を交互に見比べた。
顔にはまったく出ていないが、きっと怖かったのだろう。
「大丈夫。雫ヶ原なら余裕で足つくし、オレもいるから」
信也が笑ってみせると、雫ヶ原はハッとして、わずかに力を緩めた。
でも、手を離そうとはしない。
「ごめん。もう少し、このままで……」
え?
思わず隣を見ると――王子らしからぬ表情でうつむく雫ヶ原がいた。
信也は、ぱっと顔を前に戻す。
なんか、しゅんとしてて……可愛かった。
ええ?
もう一度、顔を見ようとしたその時――
「羽瀬、助かった。経験者か?」
蓮見が言った。
「あ、はい」
「雫ヶ原のことは頼んだ」
「はい?」
蓮見は立ち上がり、周囲を見渡す。
「他に泳げないやつがいたら、正直に手を上げろー」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、信也以外の全員が、そろって手を上げた。
続けて言う。
「副部長は羽瀬に頼む」
「え? なぜ――あ、はい」
雫ヶ原の担当と……副部長になってしまった。
まだ入部届も出していないのに。
***
着替えて下駄箱に行くと、雫ヶ原がいた。
――もう、王子に戻ってる。
髪型も、きっちり締められたネクタイも完璧だ。
まるで、学校HPのトップページにでも載っていそうな、爽やかで凛々しい姿。
自分たちはまだ半乾きで、久しぶりの水泳にぐったりしてるというのに……
「さっきおまえが助けたの……あいつだよな」
漣がこそこそと耳打ちしてくる。
「……自信なくなってきた。違うかも」
信也も同じように小声で返した。
そこへ、キラキラ三人組の残り二人がやってくる。
「本当に部活入るの? 待つの嫌なんだけどー」
女子が不満そうに言った。
「……待たなくていいし」
雫ヶ原が短く答える。
「俺も入ろうかな。運動したい……で、結局入部するの?」
男子の方が軽く笑って言った。
「……する」
「マジか。頑張れよ」
「ああ」
そのまま彼らは、信也と漣に一瞥もくれず帰っていった。
「……」
「……」
たぶん、視界に入ってない。
信也は小さく息をつくと、雫ヶ原に掴まれた腕をそっとさすった。
なんだか、今になって急に痛みが出てきた気がする。
漣が虚ろな表情でつぶやいた。
「あいつ……王子、本当に入部するのかな?」
「さあ……するって言ってたけど。てか、漣は?」
漣は気まずそうに信也の表情をうかがった。
「入らな……くていい?」
「べつにいいよ。最初から入らないだろうと思ってたし」
「そう?」
「うん」
「帰るか」
「だな」
「明日、部活?」
「明後日。火曜と木曜だから」
「じゃ、明後日入り口まで付き添うわ」
「いらん」
漣とくだらない会話をしながら、三人組の少し後ろを歩く。
雫ヶ原の背中を見つめながら、信也は――次の部活が少し待ち遠しいと思っている自分に気づいた。

