天文学部の部員になって迎えた翌日。
「ああ、俺って結構単純なやつだったんだな」
蒼汰は張り切って浜辺に来てしまった。
来るのが早すぎて、まだ海に太陽が沈んでいる真っ最中だ。けれども、そばでは天体望遠鏡をすでにスタンバイしている。
「何をやってんだろうな、俺は……」
蒼汰は砂浜の上で横になると、美織が来るのを待っていた。
まだ一時間以上時間がある。
遠足ではしゃぐ子どもみたいな行動をとってしまった。
ずっと引きこもって家族とも会話がない生活を送っていたから、誰かと話すのが嬉しいのかもしれない。
「嬉しい、か」
最近はそんな気持ちになるのを忘れてしまっていたように思う。
「夜海美織」
同級生の名簿を持っているので、彼女の名前を探してみたが、残念ながら見つからなかった。だから、学年が違うのかもしれないが……
「やっぱりなんか違和感があるんだよな」
なんだか引っかかりがあった。
もしかしたら、最初に考えたように夏の間だけ出る幽霊の類かもしれない。
天文学部の入部以上に、もしかしたら未知の存在である夜海美織に対して興味が沸いてきている可能性だってある。
とはいえ、本当に三日連続で来るのだろうか?
昨日来たのだってたまたまかもしれない。それとも二日連続で来たのだし、ちゃんと入部したわけだから、今日もちゃんと来るかもしれない。
水平線に沈む太陽の揺らめきと、遠くで聞こえる人々の別れの声を聴きながら、時間が経つのを待った。
蒼汰は、ちらりと腕時計を目にする。
「まだ時間があるな」
秒針を眺めていると、高校入学の祝いにとこの時計を渡してくれた父のことを思いだした。
蒼汰は、誰かを待つことに対して諦めているところがある。
その原因こそが実の父親の存在だ。
幼少期の蒼汰は、父親が早く迎えに来てくれるのをいつも待っていた。
『蒼汰、今日はお前の好物のハンバーグを母さんの代わりに作ってやるから』
母は、妹のほのかを産んでしばらくして産後の肥立ちが悪くて死んでしまった。現代の医療水準では珍しいことかもしれないが、元々そこまで体が丈夫だったわけじゃないそうで、残念ながら亡くなってしまったのだ。
『六時の迎えには間に合わせるから』
そんな風に話してくれて、幼いながらに、わくわくして父のことを待っていた。夕方になるにつれて、どんどん他の父母が周りの友達を迎えに来る中、いつも蒼汰とほのかは園舎の中で最後まで残っていた。
おかげで先生たちには可愛がってもらえたが、本当に迎えに来てもらえるのか不安で仕方がなかった。
『蒼汰くん、ほのかちゃん、迎えが来たよ』
父親が迎えに来てくれたと、わくわくして玄関に向かう。
けれども、立っていた人物を見て、すぐに期待はぶち壊された。
『ごめんなさいね、お父さんに頼まれたものだから』
玄関の前にいたのは、民間の託児サービスのお姉さんだった。
父が忙しくて迎えに来れない時にサービスを利用していたのだ。
お姉さんのことは嫌いじゃなかったが、幼い蒼汰の落胆ぶりといったら、ものすごいものだった。
(父さんは、ぼくとほのかのことなんて、どうでも良いんだ)
子ども心にそう思ったとしても止む無しだった。
父はいつも診療が長引いただの急患対応をしないといけないだのと言って、約束した時間に子ども園や学童に迎えに来てくれたことがほとんどなかった。
蒼汰だって、大人に近づきつつある今となっては、父は人の命がかかっている職業に就いているのだから仕方がない。そんな風に思えるようになってきていた。
とはいえ、父親の医師という仕事に対して敬意は払う一方で、子どもの立場としてはとにかく寂しいという気持ちと、自分の優先順位はそんなに高くないのだという思いがとにかく募っただけだった。
こんな子ども時代を送ったせいか、誰と何か約束をしたのだとしても、反故になる可能性があるということを常に念頭に置いて生きていくようになってしまった。
おかげさまで、遊びの約束をしていた友達が遅刻してきたのだとしても、「まあそんなものか」と諦めるようになってしまった。
過去の父親とのやりとりもあるので、誰かとの約束に対して、全面的に信頼を置くことが出来なくなっていたのだ。
だからこそ、蒼汰は期待半分で美織のことを待つことにする。
思考に耽っていたら、気づけば薄明に月が浮かんでいた。
蒼汰は、ちらりと腕時計を目にする。
「そろそろ昨日と同じぐらいの時間か」
チクタクチクタクと鳴る針の音を聞いていると、無性に焦りのようなものが出てくる。
無性に胸の中がモヤモヤしてしまった。黒い靄のような何かが渦巻いているに違いない。
けれども美織に怒っているのではなく、期待していた自分自身に腹が立っているのに近かった。
「まあ、適当な口約束だし、さすがに今日も来るわけないか」
蒼汰が前腕で両眼を覆い隠しながら、ぼやいた瞬間。
「なになに? そんなに私に会いに来てほしかったの?」
鈴のように愛らしい声音が耳に届く。
ドクン。
蒼汰の心臓が大きく跳ねた。
「ごめんね、遅くなって! ちょっと急用ができて時間を取られちゃったんだ!」
ちょっとだけ小走りで駆けてくる少女の姿を見て、ほっと胸を撫でおろす。
(マジで来たのかよ)
蒼汰は、緩みそうになる唇をきゅっと閉じる。
そんなにたくさん走ったわけではないけれど肩で息をしている美織が、ふんわりと微笑みかけてきた。
「ふふ、楽しみにしてくれたのなら嬉しいな」
彼女が少しだけ揶揄うような口調で話しかけて来るものだから、蒼汰はなんだか癪で、その場で腕を解いて返事をしてやりたくなかった。拗ねているだけだと自分でも分かってはいるけれども。
「ちゃんと約束通り、今日も来たよ」
美織が猫のようなしなやかな動きで、さっと寝転がる蒼汰の隣に膝を抱えて座ってくると、膝の上に頭をちょこんと載せて悪戯っぽい表情で覗き込んでくる。
蒼汰はそれでも負けじと腕を解かずに過ごしていたが、ひしひしと相手の視線を感じてしまい、根負けした。
蒼汰は腕を動かして瞳をチラリと覗かせると美織相手にぼやいた。
「ちゃんと天文学部の活動をしにきたのかよ? それともまた俺の天体観測の邪魔をしに来たんじゃねえだろうな?」
「邪魔ってなによ、失礼なんだから! 寂しがり屋の君に会いに来てあげたのに!」
「別に寂しがってるわけじゃねえよ!」
「だって、君、全然昔と変わってないのに、変わってるんだもん! なんだか儚げっていうかさ」
全然昔と変わっていない?
彼女の口から発せられた言葉に、ドキリと大きく心臓が跳ね上がった。
(まさか美織は俺のことを知っているのか?)
そもそも蒼汰は島の中で期待のアスリートだったわけだから、知られていたとしてもおかしくはないのだが……
「なんだよ、お前、まるで俺のことを知っている風な口を聴いてくるなよ」
先ほどまでは機嫌が良かったのに、思いがけず獣の唸り声のような声音になってしまった。
すると、先ほどまで騒がしかった美織がピタリと静止した。
(まずい、言い方がきつかったかもしれない)
他の男子生徒に比べるとがっちりした体格で水泳で焼けて色も黒かったから、威圧感がある。
そんな風にクラスメイトから言われていた。
だから、なるべく強い口調にならないように気をつけていたというのに。
「悪い、今のは……」
蒼汰が両眼を覆っていた腕をパッと退けると、美織が真剣な眼差しでこちらを見据えてきていたのに気づいてしまった。
彼女の見せる大人びた表情に、蒼汰の心臓がドクンと跳ね上がる。
「ごめんね、自分の知らないところで、自分のことを知られたり、知っているって態度とられたら嫌だよね?」
謝罪してくる彼女の声音は真剣そのもので、蒼汰は圧倒されてしまった。
「いいや、今のは俺も言い方が悪かった」
すると、彼女が続ける。
「失礼を承知で聞きたいんだけど……」
「なんだ?」
そうして、美織が口を開く。
「君は、もう泳がないの?」
ドクン。
心臓が大きく脈打った。
やはり予感は的中した。
そうだ。島の人間だったら、ほとんど誰もが知っているような内容なのだ。
期待の水泳選手・朝風蒼汰が故障して、選手生命が絶たれてしまったという事実。
引きこもりでもしない限り、好奇の目で晒されてしまうような、そんな閉ざされた島。
分かり切っていたけれど、それでもどうにかして逃れる場所が欲しかった。
あまりにも閉塞的な空間での暮らしなせいで息が詰まって、おかしくなりそうだ。
「うるせえな、お前に関係ないだろう?」
せっかく元の調子に戻そうとしたのに、先ほど以上に低い声が出てしまった。
けれども、自分自身の触れてはいけない部分に触れられたみたいで、感情を制御しようとしても、うまくできなかったのだ。
そばにいた美織の筋が強張ったのが伝わってきて、蒼汰は何度か深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。
「悪い、お前を脅かしたかったわけじゃないんだ」
ポツリポツリと声に出す。
「いいえ、私が急におかしなことを言ったから悪かったの」
「俺も悪い、自分でまだ処理できてないんだよ」
「ごめんね、気を悪くしちゃったんなら、デリカシーなさすぎた。人付き合いが下手で、やらかしちゃうんだ。本当にごめんなさい」
謝罪を繰り返していた美織だったが、意を決したかのように続ける。
「あのね、実はずっと昔から知っているの、あなたのこと」
思いがけない言葉を聞いて、蒼汰の全身に雷が討たれたかのような動揺が駆け抜けたのだった。
美織は蒼汰のことを昔から知っているらしい。
(どこで?)
そんな風に尋ねる必要はない。狭い島に住んでいるから。それが理由に違いないのだから。
美織はどこで蒼汰を知ったのかは知らせないまま話を続ける。
「君はさ、水泳に対して未練っていうのかな、そういうのがあるんじゃないかなって、私が勝手に思っていてね」
どうやら蒼汰が水泳をしていたことを知っているようだ。
なんだか胸がざわついて仕方がない。
そもそもが気持ちを誰かに決めつけられるのは、心の中に境界侵入されるようで正直あまり好きではない。
けれども、もしかしたら心のどこかで誰も知らない自分のまま、違う誰かになれると思っていた節があるのかもしれなかった。
「ごめんなさい、おかしな話をしてしまって。お節介だったよね」
蒼汰の境界に侵入しすぎたと反省しているのだろう。
シュンと項垂れている美織の姿は、後輩の女子高生といった調子だったし、そもそも素直に謝罪されれば、蒼汰としても悪い気持ちにはならなかった。
「いや、別に気にしなくて良い」
また前腕で両眼を隠す。
(この狭い島の中で、新たな自分に生まれ変わるなんて出来ないんだ)
何をやったとしても誰かから過去の自分を引き合いに出されて、当時の負の感情に引き戻される。きっとこれから先もずっと、それの繰り返しになるだろう。
暗い思考に飲み込まれそうになっていると、美織が口を開いた。
「私ね、本当は高校三年生なんだけどさ」
「へえ、だったら俺と同じ学年だな」
けれども、こんな美少女は残念ながら同じクラスにはいなかった。
「だが、俺は残念ながら、お前みたいな女を見たことはない。名簿にも載ってなかった」
「あ……」
なんとなく美織はバツが悪そうだった。
「嘘ついているのか? それとも幽霊か何かなのかよ?」
少しだけ今の少しだけ暗い空気を壊したくて、ちょっとだけ軽口を叩いてみたのだが、なぜだかしんみりした空気になってしまった。
けれども、美織の方が調子を戻したようで、嬉々とした口調で返事があった。
「それはそうかもね、私って実は幽霊なのかも」
彼女の言葉を聞いて、蒼汰は思わずガバリと上体を起こしてしまった。
「マジかよ」
すると、美織が目を真ん丸に見開いた。しばらくすると、ふふっと声を上げて笑いはじめる。
「え? 君、今の言葉の通り受け取ったの?」
「は? なんだよ、受け取ったら悪いのかよ?」
「すごい怖そうな顔してるのに、おかしいったら」
美織の笑い声がどんどん大きくなっていく。
「怖そうってなんだよ! 気にしてるんだからやめろよ!」
「え? しかも怖い顔って自覚あるんだ、ますますおかしい」
美織は、愛らしい相好を崩して腹を抱えて大笑いしている。
「ちっ、なんだよ、人のことからかいやがって」
蒼汰は色黒で良かったと思う。きっと恥ずかしくて顔が赤くなっているだろうから。
ひとしきり笑い転げた後、美織が浮かんだ涙を人差し指でそっとぬぐう。そうして、静かになった後に口を開いた。
「実はさ、私、留年してるんだ」
「え?」
思いがけない言葉を掛けられて、勢い込んで美織の方を振り向いてしまった。
「だから、学校では幽霊みたいな存在なの」
美織の姿を上から下まで眺めてみる。
そもそもちゃんと足はあるし、幽霊の類ではないのは明白だ。
それはそうとして、見た目は清潔に整っていて、素行不良の女子高生には見えない。
だとすれば、考えられる留年の理由は……
美織が首を傾げながら告げた。
「見ての通り、美人薄命ってやつ? 私さ、子どもの頃からあまり丈夫じゃなくて、それでね、入退院を何度も繰り返してたの。そうしたら、出席日数が足りなくて。補講も何度も受けたけど、結局留年しちゃった。だからまだ、高校二年生なんだよ」
病気で留年しているとなれば、正直すごく深刻な内容のはずなのに、美織は笑って話してきた。
相手が言いづらい内容の話を切り出してきたため、どう答えるのが最善なのか迷ってしまい、結局何も返すことが出来なくなった。
(本人もあっけらかんとしているから大丈夫なのか?)
それとも、心の中では泣いているんだとしたら、余計な発言をしては、相手を傷つけてしまうかもしれない。
だけど、沈黙は苦手だ。
ひとしきり考えあぐねた後、蒼汰は一度唾を飲み込むと、美織にぶっきらぼうに返した。
「なんで、俺にそんな話をするんだよ? ほとんど初対面に近い相手だぞ。別にお前の秘密を知りたくて、機嫌を損ねたんじゃない。言いたくないことなら、無理に言わなくたって、俺は困らないんだ」
「だって、君のことばっかり私だけが知ってて、なんだかフェアじゃないなって思ったんだよ」
「そうか……」
蒼汰に気を遣ってか、美織は自分のことを話してくれたのだろう。
(自分の不幸にばかり気を取られて、相手に何か事情があるなんて、気遣うことができなかったな)
この数日の自分を思い出して、蒼汰は恥じた。
「ごめんね、こんな急に暗い話をしちゃって」
「いいや、俺の方こそ悪かった」
蒼汰が素直に謝ると、美織が穏やかに微笑んだ。
しばらくの間、二人してだんまりになる。
今の静けさは嫌いな静けさではない。
潮騒が、まるで子守唄のように優しかった。
「っていうことは、お前は俺とタメってことになるな」
「そう、そうなの!」
美織が夜という苗字とはまるで反対の――太陽のように、ぱあっと明るい表情を浮かべた。饒舌になった彼女が続ける。
「実は子どもの頃から、憧れの水泳選手がいたんだけどね。その人に君がよく似てたから、最初は本人かもって誤解してたの」
「へえ」
憧れの水泳選手。
今の言い回しだと、どうやら美織の憧れの相手は自分ではなかったようだ。
(この島で自分以外に水泳選手といえば恭平か?)
とはいえ、蒼汰とさえ接点のなかった美織が、蒼汰の親友である恭平のことを知っているのには違和感があった。
(いいや、恭平は俺の事故の後に水泳部の部長になったりしている。同じ高校の中に居るわけだし、俺が知らない間に出逢ってるのかもな)
蒼汰は恭平の幼馴染だ。
憧れの人物である恭平に近づくために、美織は蒼汰に近付いたのだろうか?
(やっぱり俺に興味があって近づいてきたわけじゃなかったのか)
そもそも天文学部の勧誘とやらのために今日も来ると話してたじゃないか。
妙な期待を抱いてはいけないと思いつつも、なんだか漠然と胸の内が靄ついてしまった。
「恭平との架け橋みたいにはなれないぞ、俺は」
蒼汰のボヤキに美織が反応した。
「恭平? 架け橋? なんのこと」
「お前の憧れの水泳選手」
「そんな名前じゃないよ?」
どうやら蒼汰の杞憂に終わったようだ。
心の奥深くで安堵している自分に気づいてしまい、バツが悪くなって、蒼汰はそっぽを向いた。
「別に」
美織が眉を八の字に下げた。まるで困った小型犬のような表情だ。
「ごめんね、憧れの人に似てたからとか、そういうのも嫌だよね」
どうやら美織は自分の発言のせいで、蒼汰が機嫌を損ねたと思ったようだ。
「いいや、別に良いさ、暗かったし遠目で見たら似てることなんてあるだろうしな」
すると、機嫌を良くした美織が膝を抱えたまま身体を前後に揺り動かしはじめた。どうやら機嫌を良くしたようだ。
(なんか美少女だが、病弱なせいもあってか、幼いとこが目立つな)
蒼汰が、そんなことを思っていたら――
「きゃんっ!」
前後運動の反動で、美織が背中からひっくり返ろうとしている。背後は砂だから怪我はしないはずだが、蒼汰の身体が反射で動いていた。
「危ない!」
彼女の背中にそっと腕を回して抱き寄せる。
すると、思いがけず密着する格好となった。少し動けば唇が触れそうなほどに顔も近い。
蒼汰の鼓動が高鳴っていく。平静を保とうとする彼とは対照的に、美織は驚愕の表情を浮かべていた。
「やっぱり昨日までのは夢じゃなくて、君は私に触れることができるの!?」
「ああ? 何がおかしいんだよ? なんだ? やっぱりお前は幽霊なのかよ」
美織が目をパチパチさせると、やはりおかしなことを言い始める。
「ふふ、そうかもね。だけどさ、やっぱり奇跡ってこの世にあるんだなって」
少しだけ目じりと鼻先を赤くしながら美織が笑い掛けてきた。
(なんで泣きそうになってるんだよ、こいつは?)
美少女なのにどこか不思議で掴みどころのない発言を繰り返してくる。
蒼汰は彼女と一緒にいると気恥ずかしくて堪らない。
「ああ、なんだ……」
美織には、闘病生活ゆえに幻想に浸る癖のようなものがあるのかもしれない。
それぐらい漠然とした発言が多いのだ。
「私ね」
ぽつりぽつりと口を開く。
彼女は指先で砂の上に文字を残す。
何を書いているのかは分からない。
そうして、顔を上げると穏やかに打ち寄せる波を見ながら告げた。
「夏の終わりには、儚くなるんだ」
美織の言葉の真意が分からない。
すっくとその場に立つと……
おもむろにミュールを脱いだ彼女が素足になって、波へとゆっくりと歩む。
月光の下、黒髪をなびかせる彼女の姿は、そのまま海に吸い込まれそうに儚いものだった。
「あ、行かなきゃ! ごめんね、今日は短くて! 明日も会いに来るからね」
それだけ言うと、美織は洞窟の方へと駆けていく。
「待てよ! お前は結局どこで俺のことを知ったんだよ!?」
蒼汰の声掛けも虚しく、彼女はまるで幽霊のように姿を消した。
「まさか、あの夜海美織、本当に幽霊とかじゃないだろうな?」
夏だとありがちな怪談話だ。
「いいや、普通に俺が触れたわけだし、そんなわけあるわけないな。あいつのアホみたいな妄想が俺にも移ったのかな。さて、帰るか」
そうして、天体観測用の望遠鏡を担いで砂浜を歩く。
蒼汰は呆れたような溜息をつきつつも、ふっと頬を綻ばせる。
水泳が出来なくなってから久しぶりに笑みが零れたことに蒼汰自身が気づいていなかったのだった。
美織と出会って約一週間が経とうとしている。
あれから空はずっと快晴続きで、毎日彼女は蒼汰の元へと現れた。
『お待たせ、さっそく今日は天体望遠鏡の使い方の説明だよ』
そういうと、彼女は蒼汰に望遠鏡の基本的な使い方を教えてくれた。
『君が持ってるのは、まずケプラー式という種類でね』
『そういやあ、この間は、なんとか式、なんとか式とか、望遠鏡について色々言ってたな』
『そうだよ、ケプラー式とガリレオ式が定番で、反射式っていうのもあるんだよ。ケプラー式っていうのは、対物レンズ凸レンズで……』
『そういう細かいのはどうでも良いからさ、さっさと星の観方を教えてくれよ』
正直、天体望遠鏡のあれこれはどうでも良いから、早く月や星を眺めたい。
蒼汰が話の腰を折ると、美織は顔をまるで般若のように歪めながら怒りはじめた。
『君、それは甘い考えだよ!!』
『は?』
彼女からびしっと指を突きつけられて、彼は面食らってしまう。
『甘いってなんだよ?』
美織は蒼汰に詰め寄ると、続きを話しはじめた。
『天体望遠鏡は星々を観察するための必須道具だよ。球技をする人たちだって、ボールを大事にするだろうし、剣道や弓道や茶道をする人たちだって、道具は大事にするでしょう? 音楽を演奏する人は楽器を大事にするだろうし、身体で出来るスポーツなら、本人のウォーミングアップが必要で……だから、天体望遠鏡の使い方は大事なんだから!』
ものすごい剣幕で説明され、蒼汰はそれもそうだと押し黙った。
『言いたいことは分かった。基礎をおろそかにするなってことだな』
『そうだよ、さすが飲み込みが早い!』
美織にキラキラした瞳を向けられると悪い気はしなかった。
実際、三脚の固定の方法や、レンズの焦点を合わせたりといった、一見すると単純そうに見える作業も、しっかり理解してやろうと思えば時間がかかる作業だった。この五日間ぐらいは、そんな基礎固めで終了した。
連日、新しいことを覚えて興奮していたのか、なかなか寝付けず、部屋の中から時折空を望遠鏡で覗いては、移ろう星々の動きを堪能して過ごしたのだった。



