翌日の夕方、蒼汰は浴槽に溜めた湯に浸かりながら、昨晩の出来事について自分なりに整理していた。水泳をしている時の癖で、顔をブクブクと沈めながら、昨晩出会った美少女のことを頭の中に浮かべる。
(昨日の夜海美織って子、変わった子だったな)
 蒼汰はわりと理系脳なので、幽霊はこの世に存在しないと思っている。
 だから、彼女はきっと倒れている彼のことを目撃して、病人か酔っぱらいだと思い込んで、心配になって声をかけてきたのだろう。けれども、実際の彼は目を覚ましていた。夜に異性と一緒だなんて危ない、もしくは周囲から誤解されると思って、さっさと逃げ出した。
 ……という筋書きならば、ありえなくもないなと思ったのだが……
 美織はどうしてだか蒼汰のことを天文学部の入部希望者だと思って迫ってきたのだった。
 そのことが彼の頭の中に引っかかっていた。
(俺の記憶じゃあ、やっぱり高校に天文学部はないんだよな)
 蒼汰が水泳部を退部してから学校に行かなくなって、しばらく経つ。だから、新しく部活が出来ていたとしてもおかしくはないのだが、どうにも拭いきれない違和感のようなものがあった。
 美織に触れられた時、あれだけ生々しい感触があったのだから、幽霊ではなく生きた人間のはず。
 蒼汰はザパリと水飛沫を上げながら湯面から顔を出す。
「ぷはっ。ああ、もう気になって仕方ねえな。せっかくだ、確かめに行くか」
 そのまま浴槽から出て、洗い立てのふわふわのタオルで湯を拭う。近くに投げ捨てていた白いTシャツを着て、お決まりのジーンズを履く。浴室を出ると、階段を一足飛びで駆け上がり、部屋に置いていた天体望遠鏡を抱えて、家から出ることにした。
 ちょうど階段を降りると、奥にある居間からテレビの音が聞こえてくる。
(親父、今日は当直じゃないんだな)
 この小さな島で呼吸器内科医として働く父は、当直で夜を不在にすることが多い。たとえ、日勤を済ませて帰宅していても、島の中央病院の入院患者に何かがあれば、すぐに家を飛び出してしまう。だから、夕方の今の時間帯に父の姿が家の中にあるのは意外だった。
 ふと、扉の隙間から父の姿が見える。
 以前よりも増えた白髪が年を取ったことを感じさせた。
「蒼汰」
 思いがけず名を呼ばれた気がしたが、残念ながら父が自分のいる方を振り返ることはない。
(空耳だろう)
 相変わらず今日も、家族は自分のことなどいないかのように、声をかけてくることさえないのだ。一抹の寂しさを感じつつも、はじめに家族を拒絶したのは自分の方で、呆れられても仕方がないと判断するようになっていたのだ。
「なんで……」
 父がまた何かをぼやいた。
 やけに郷愁を感じる声音で、なぜだか胸がざわついた。
(死んだ母さんのことでも思い出しているんだろうか?)
 それほどに切望するような声だった気がする。
 父のそんな苦しそうな声をそれ以上聞きたくなくて、蒼汰は頭を振ると、そのまま玄関を飛び出したのだった。
 自転車を漕いでしばらく走る。もうすっかり夜空には星々が顔を覗かせていた。
 浜辺に到着する。海独特の香りを感じながら、砂浜を踏みしだく。
 そうして、昨晩、あの美少女・夜海美織と出会った場所へと到着した。
「さすがに連日姿を現わすわけないか」
 やはり胸のどこかで期待していたのかもしれない。少しだけ残念な気持ちを味わいながら、望遠鏡の脚立を開いて砂の上でなんとか立たせる。レンズを覗き込んで星々を探す。
「月って、こんなに綺麗だったんだな」
 蒼汰はしばらく月を眺めた後に望遠鏡から離れると、星空を見上げた。
 なんとなく昨日見える風景と同じようで違う気がする。
 毎日の星座の移り変わりを観察して過ごせば、今までとは違う自分に生まれ変われそうだと漠然と思った。
「星だって毎日動いているんだ。自分もなんとかして動かないといけないな」
 そんな風に未来のことに意識を移すと、途端に居心地の悪さを感じた。
 考えれば考えるほど身体が重くて仕方がない。
 なんだか立っていられなくて、そっと砂の上に寝そべった。
 砂のザラザラした感触と頬を嬲る生ぬるい風を感じていると、なんとなく心地よくなってくる。
 このまま夜空を眺めながら、眠りに就いてしまいたい衝動に駆られてきた。
「ああ、それにしたって綺麗だな」
 ちょうど、その時――
「良かった、今日もいた!」
 突然、高い声が耳に届いてきて、蒼汰の身体がびくりと跳ね上がった。
 振り向くと、そこには昨日見た美少女・美織の姿があったのだ。
「なんだ、どう……して……?」
 蒼汰は思わずうなり声をあげてしまった。
 夢か何かの類だと思おうとしていたが、やはり生きた人間だったのか。
「今日も君がもしかしているのかなって思って……そしたら本当にいたから驚いちゃった」
 美織が首を傾げながら、零れんばかりの笑顔を向けてくる。見た人全てを魅了しそうな表情だ。愛らしい頬にはえくぼができていた。
 蒼汰は、彼女が自分に向かって嬉しそうに微笑んできているのだと意識したら、心臓がドキドキ高鳴って落ち着かなくなっていく。平常心でいたいのに、そわそわと何度も掌を履いているジーンズで拭った。
 潮風が吹く。美織の艶やかな黒髪が揺れ動くと、月の光を反射した。華奢な体には白いワンピースをまとっており、手には幅広の麦わら帽子を手にしていた。夏だというのに儚いぐらいに白い肌をした彼女は、やはり生きている人間ではない気がしてくる。
 ふと、彼女が天体望遠鏡のレンズを覗いた。
「あ、今日はちゃんとレンズの焦点を合わせて観れてるみたいだね、良かった」
 彼女がふんわりと微笑むと、彼の気持ちはとにかく落ち着かない。
 そうして、蒼汰はきゅっと唇を噛み締めると、美織に向かって懲りずにもう一度尋ねる。
「どうしてなんだ?」
「え?」
 こちらを振り向いた彼女に向かって、蒼汰は真剣な眼差しを向けた。
「どうして、ここに来たんだ?」
 二人の間を風が吹くと、サラサラと砂が舞い踊った。
 美織は人差し指を顎に当てて、斜め上に視線を向けながら、しばらく考え込んだ後、ぱっと蒼汰の方へと振り向いた。
「それは、もう一度あなたに会いたかったから」
 美織から月の精霊か天使さながらの笑顔を向けてこられると、蒼汰の鼓動がますます忙しなく鳴り響く。相手に聞こえてやしないかと不安になるぐらいだ。
 蒼汰には水泳で活躍していた頃もあったし、中学高校時代には女子生徒から何度か告白されたことがある。けれども、部活に打ち込みたいからと、誰かと交際することはなかった。友人たちからはもったいないと散々言われたが、個人的には部活の時間が奪われる方が嫌だったのだ。
 それだけストイックだったのに、いざ水泳がなくなったら、こんなにも女性を意識してしまうような、そんな現金なやつだったのだろうか。
 そんな複雑な胸中を悟られたくなくて、ふいっと顔を逸らした。
「俺に会いたいっていうのが分からない」
 そういうと、天体観測を続けるために、地面に再びドカリと座り込んだ。
 その時、美織が猫のようなしなやかな動きで蒼汰の隣に腰かけてきた。
「なんだよ、お前……っ……」
 悪態をついて隣を振り返った蒼汰はハッとなる。
 なぜならば、美織の顔が目と鼻の先にあったからだ。
 この世のものとは思えないほどの綺麗な顔立ちを目にして、蒼汰の鼓動がドクドクと高鳴る。
 そうして、彼女が気まぐれな猫のように肢体をひねると、そっと彼の二の腕に寄り掛かってくる。
 彼女の黒髪がさらりと揺れると、石鹸の香りがふわりと、彼に届いた。
「な、何を……」
 蒼汰の口から素っ頓狂な声が漏れ出た。
 少しでも動けばキスできそうな距離。
 こんなに至近距離に女性がいたのは生まれて初めてだ。
 ドクンドクンドクン。
 美織が蠱惑的な唇をゆっくりと開いた。
「会いたいのは会いたいから。それ以外に理由はないけれど、それじゃあダメ?」
 そうして、彼女が彼の顔にそっと顔を近づけてくる。
 誘惑するような美織の視線から、蒼汰は逃れることが出来なくなったのだった。
 悩まし気に眉根を寄せて、縋るような視線を向けられると、「会いたい理由がないのはダメだ」と言いたかったはずなのに、なぜだか伝えるのを躊躇ってしまった。
「離れろ!」
 そんな風に言えば良かったのに、妙な期待で頭がのぼせたみたいになって、何も言えなくなった。
 蒼汰と美織の間には体格差だってある。振り解こうと思えばできるはずなのに、どうしてだか、メデューサに睨まれて石化でもしてしまったかのように、相手を振り払うことができなくなった。
 そうして、出てきた言葉は……
「別に」
 「別に」ってなんだよと自分自身にツッコミを入れてしまうが後の祭りだ。
 美織の瞳がやけに潤んでとろんとして見える。
 そうして、彼女の顔がゆっくりと蒼汰の顔に近づいてくる。
(まさか、キスされるんじゃ……!?)
 据え膳食わぬは男の恥というが、今がまさにその状況なのではなかろうか?
 口から心臓が飛び出てくるのではないかというぐらい落ち着かない。
 そうして、鼻先が触れ合いそうになった、その時。
 蒼汰の眼前で、美織が口を開けて笑いかけてきた。
「もちろん会いたかったよ。だって、せっかく新入部員になりそうな人を見つけたんだから、勧誘したいに決まってるじゃない!」
 両手を上げてはしゃぐ彼女の姿を見て、蒼汰は内心がっくりと肩を落とした。
(なんだよ、やっぱりそういうことかよ)
 自分に会いたいと言われて嫌な気はしなかったが、結局そういうオチか。
 蒼汰は思わずぼやいてしまう。
「まあ、それもそうか。こんな綺麗な女子が、もう何もない俺を相手にしてくるはずがないよな」
 美織が不思議そうに首を傾げていた。
「え? なになに? どうしたの?」
「……なんでもないよ」
 蒼汰はバツが悪そうに髪をガリガリとかくと、美織から視線を逸らした。
「昨日の続きだよ。せっかくだから入部してほしんだけどな?」
 部員は美織だけだという天文学部。
 水泳の夢も絶たれたことだし、なんとなく星に興味を持っている。
 だから、相手の願いを無下にする必要はないのだけれど、なんとなくムシャクシャしてしまって、蒼汰はぶっきらぼうに返した。
「俺に何の得もねえから、嫌だね」
「むう、そりゃあ損得で考えたら、得することはないかもしれないけれど。君って合理主義者なの?」
「合理主義者? そんな風に誰かに言われたのは初めてだな。まあ、なんだ、無駄なことはもうしたくないなって。時間もったいないし。なんとなくな」
 ……無駄なこと。
 蒼汰は自分で言っておきながら胸が苦しくなった。
 それ以上何か伝えることが出来ず、そのまま星空を眺めることにした。
 今日は昨日と違って、空には雲一つない。教科書で習ったから知っているのだが、夏の大三角形が綺麗に見える。星が燦然と輝いていて、なんだか無性に眩しかった。
(無駄なこと、無駄な時間だったんだろうな)
 そう、水泳に多くの時間を費やしてきた。
 残せた成果だって多かった。
 けれども、結果として選手生命は絶たれてしまったのだ。
 これまでの全てが無駄で徒労に終わってしまったように感じて、どうしようもない。
(くそっ……)
 胸をかきむしりたくなる衝動を抑え込む。
 放っておけば、抱え込んでくすぶった内なる獣が胸の中で暴れて、蒼汰の身体を突き破って飛び出してきそうだった。
 やるせない気持ちを抱えたまま、静かな時を過ごす。
 どれだけの時間が経っただろうか。
 蒼汰の隣に座り込んだ美織が、一緒に黙って星空を見つめていた。
 どうやら彼女に帰るつもりはないらしい。
 せっかく一人で天体観測ができる穴場だと思っていたのに、誰かがそばにいるようじゃあ、なんだか休んだ気にもなれない。
 そんな風に伝えようかと思っていた、ちょうどその時……
「あのね、この場所なんだけどさ」
「なんだ?」
 蒼汰の心を知ってか知らずか、美織は突然場所の話をはじめた。
 かと思えば、瞳をくるくる上下左右に動かして、見ていて飽きない。
 そうして、こちらを見据えると続けた。
「君がくる前は、私専用の場所だったんだよ!」
「は?」
 蒼汰は驚きの声を上げる。
 自分がこの穴場を見つけたのはつい昨日だ。結構人が少なくて良い場所だなって、昨晩は自分だけの特等席だと思いこんでいたわけだが、そもそも公共の場所で自分のそんな場所があるはずもない。
(そりゃあ、そうだよな)
 どう返して良いか考えあぐねた後、蒼汰は返答した。
「じゃあ俺がお前の邪魔していたってことか、悪かった」
 すると、美少女がくすくすと笑い始めた。
「なあんてね! 最近はずっと来てなかったんだ。ここ、涼しくて誰もこない穴場で良い場所だよね」
「ああ?」
 最近は来ていないのなら、美織専用でも何でもないではないか。
(もしかすると揶揄われた?)
 こちらは割と心配して謝ったというのに、冗談だと分かってムッとなってしまった。
 そんな蒼汰の胸の内に気付いているのかいないのか、美織は話を続ける。
「だけど、本当に本当のことなんだ」
 ふんわりした言い回しだ。
 ふと彼女の横顔を見れば少しだけ陰って見えた。伏し目がちになって黒くてびっしりと生えた睫毛が頬に影を作っている。頬に落ちる黒髪をそっと耳にかける姿が、やけに妖艶に映った。
 彼女は砂浜を見つめたまま続ける。
「私、あんまり海には顔を出してなかったんだ。だけど、昨日はなんとなくここに来たくなってね。ううん、来なきゃいけないって直感。だから、外に飛び出してきたの」
「直感で……? っていうか、女性が夜に一人でこんな場所は危なくないか?」
「ああ、それは大丈夫。この場所だったら、ね」
 何を根拠に「大丈夫」だと言っているのだろうか。
 もしかすると、危機管理に乏しいタイプなのかもしれない。とはいえ島暮らしだから仕方のないところもあるだろう。
 子どもの頃に聞いた話だ。わりと島に住んでいるご高齢の人たちがまだ若い頃は、家の鍵を閉めずにいると、近所の人が勝手に家の中に入っていることはあれども、泥棒は入ってこなかったそうだ。
 そもそも、広い島ではあるものの閉ざされた空間だし、何かあればすぐにバレてしまう。なので、島での犯罪行為自体が少ない。こういった理由も危機意識が薄くなる原因の一つなのだろう。
(しかし、美織の両親は何も言わないんだろうか?)
 もしかすると自分と似たような境遇かもしれないと思うと、勝手に親近感がわいてきてしまった。
(俺の勝手な想像だな。)
 蒼汰が頭を振ると同時に、膝を抱え直した美織が口を開いた。
「もうずっとずっと昔。まだ小学生だった頃、ここで潮騒を聴くのが好きだったの」
「……」
「だから、嘘じゃないんだよ?」
 美織は膝の上で頭を傾げながら蒼汰の方を振り向いた。
 どことなく寂しそうに微笑んでみえる。
 目くじらを立てて怒る自分が子どもっぽい気がしてしまった。
「そうか」
 一度溜息を吐いて、そっと海を眺める。
 浜辺に波が打ち寄せては返す。
 一定のリズムで奏でられるメロディを静かに二人で耳にする。
「俺は海よりも星を観察する方が好きになれそうだな」
 夜だからこそ、海に出て来れているところがある。だって、昼の海だと、泳ぐ人たちの姿を見て、胸が苦しくなるから。
 蒼汰がセンチメンタルな気持ちに陥っていたら、美織が目を細めながら続けてきた。
「私もさ、ずっと海に来るのが怖かったの」
 彼の潜在的な恐怖を察知したのだろうか?
 怖いと直球で告げられてしまい、蒼汰の胸中に動揺が走る。
「俺は別に怖くなんか……」
 言い訳しようとしていたのだが……
「だけど、昨日ここに来たら、君に会えたから良かったなって」
「え?」
 先ほどから心臓に悪い。
 真剣な黒い瞳で見つめられる。星の煌めきが宿っていて、彼女の美しさを引き立たせていた。心臓がドキドキして落ち着かない。
(落ちつけ自分。こいつが言っているのは新入部員だから、どうにかして俺のことを口説き落としたいと持っている。それだけなんだから、勘違いするな)
 すると、美織がふわりと微笑む。
「明日もここにきて良い? 私だったら、慣れない天体望遠鏡の使い方も教えてあげられるよ」
「ちゃんと説明書読むよ」
「だったら、私は不要かな? 本当は天文学部に入部してもらいたいんだけど、君が嫌ならこれ以上の勧誘はやめておこうかな?」
 そんな風に聞かれては、蒼汰としても戸惑ってしまう。
 一人で静かに過ごせる穴場だし、誰かが一緒なのは、ごめんこうむりたかった。騒々しいのも正直嫌いだ。けれども、年頃の少年の性だろうか、美少女が「入部してほしい」だとか「明日も来たい」と話しているのに無下にすることもできない。
 内心の動揺を悟られないように星を眺めながら続ける。
「別に俺だけの場所っていうわけじゃあないから、ここには勝手に来たら良い」
 すると、目の前の少女の表情がパアッと明るくなった。清楚な美少女といった雰囲気だが、表情がくるくると変わって面白い。
「だったら、良かった! また明日も来るからね!」
 喜々として告げる彼女に向かって何も答えずにいたら、またもや接近される。
「お前、近いって……!」
「あ、ごめんなさい」
 美織は舌をぺろりと出した後、続ける。
「そうだ、入部の件は、どうかな……? ダメ……?」
 上目づかいをされると、ドキドキしてしまって、喉がカラカラになっていく。
「ええっと、ああ……その、まあ考えてやらなくも……」
 すると、美織が蒼汰に抱き着きそうな勢いで、ガバリと身体を起こした。
「やった! じゃあ、入部決定ね!」
「入部したいとは言ってなくてだな」
「してくれないの?」
 叱られた小動物のような、縋るような瞳を向けられる。
「お前が、そんなに言うなら……」
「じゃあ、入部決定! やった! 明日からもよろしくね!!」
「勝手に話を進めるなよ」
 蒼汰はぼやきつつも、夜にも関わらず太陽のように笑う美織を見ていたら、なんだか悪い気はしなかった。
「そうだ、ねえ、君は私の名前を覚えてくれた?」
「え?」
 藪から棒に問いかけられてしまい面食らう。
 相手の名前は夜海美織だ。ほとんど人との接触のない生活を送っているから、新しく出会った人物の情報はすぐに頭に入ってしまった。
 美織の顔を見れば、期待に満ち満ちた表情でこちらを見てきていた。
 なんだか素直に応じたくはなくて、ぶっきらぼうに返す。
「夜海美織、だろ?」
「そうだよ、ありがとう。さて……」
 彼女は立ち上がると、さっと彼に向かって手を差し出してきた。
「これから天文学部の部員どうし、よろしくね!」
 妹とならあるが、同年代の女性と手を繋ぐ経験なんてない。
 緊張して少しだけ身体を強張らせながら、小さな掌に大きな掌を重ねると、そっと握り返される。
 蒼汰は立ち上がりながら、彼女の手の温もりを感じると同時に、未来への期待のようなものが胸の中に湧き上がってきた。
「あ! もう九時になっちゃう! 明日もまた、八時ぐらいに会いにくるから!」
 ぱっと手が離れると、一抹の寂しさを感じてしまう。
「それじゃあね!!」
 美織はなぜか浜辺から海外線には向かわず、反対側にある洞窟側へと向かっていった。
「おい、そっちは……!」
 けれども、静止は聞かず、気付いた時には彼女の姿は消えてしまった。
 彼の伸ばした手は空を過る。
「なんなんだよ、あいつは、まるでお化けか何かみたいだな……それに……」
 蒼汰はハアっと盛大な溜息を吐く。
「自分の名前はごり押ししてくるくせに、俺の名前は聞いてこないのかよ」
 打ち寄せてくる波の音が、彼のぼやきを消してしまった。
 蒼汰は彼女と触れ合った掌を眺めると、きゅっと拳を握った。
「明日から天文学部の部員、か」
 ……天文学部の部員。
 消えゆく言葉を噛みしめる。
 水泳を失ってからぽっかりと空いた隙間を完全に塞ぐことは出来ない。
 けれども、新たな役割を得たようで、これまでとは違う自分になれそうで。
 まるで初めて水泳の試合に出た子どもの頃のように、久しぶりに気分が高揚していたのだった。
 満天の星の下、穏やかな波の音が聞こえる。
 蒼汰の新しい毎日のはじまりを祝福してくれているようだった。