目的地に辿りついた頃には、もう外はすっかり暗くなりつつあった。
蒼汰は人気の少ない砂浜に向かうと、いつもと違うことをしているのだという気持ちになれた。
一方で、海の香りが鼻腔を突いてきて、泳ぎたい気持ちがどうしようもなく湧いてくる。
「落ち着け、今日は泳ぎに来たんじゃない」
相反する気持ちに抗いながら、彼は砂浜の上に望遠鏡を組み立てていく。
「よし」
完成した望遠鏡をそっと覗いて、遥か頭上にある星々を観察することにする。
「ん……?」
だがしかし、レンズの取り付け方を間違えたのだろうか。
見えるはずの煌めきは瞳に映ってはこず、視界は真っ暗だった。
「なんだよ、せっかく気分良かったってのに」
新しい何かをはじめようとしたのに、水を差されたような気持ちだ。
「あ~あ、なんだかな」
蒼汰はそれだけぼやくと、どさりと砂浜に背を投げ出して、大の字になって寝転んだ。
ざらざらした砂が、首や髪の間に入り込んでくる。
潮騒が耳に届くと、どうしようもなく郷愁が胸を支配してきた。
「ああ、海なんて来なきゃ良かったな」
星は観たかったが、海を見るのは――まだ怖かった。
水泳選手としてはダメだと言われた夏から、もう一年が経とうとしている。
どんなに海を避けようとしても限度がある。だって、蒼汰が住んでいるのは島なのだから。どれだけ目を逸らしても視界に入ってくる。外に出るには海と向き合う必要があるのだ。結局海と対面しなければならないというのなら、克服するしかないのではないか。
「そんなこと、分かっちゃあいるさ」
だけど、心は追いつかない。
蒼汰は誰もいない浜辺でぼんやりと夜の星を眺め続けることにした。
「なんだかな……」
家族は蒼汰の心の傷に敢えて触れてくるようなことはしない。今みたいに夜に外出したとしても、蒼汰のことを咎めてさえこないのだ。そうやって距離を取られ続け、ほとんど家族とは顔を会わせていなかった。
「ほのかも宿題のことを聞いてもこないしな」
小学六年生になる妹ほのかの宿題を、去年まではよく見てやっていたけれど、今年は声をかけてさえ来ない。
最近の蒼汰は外出しないせいか食も細り、たまにお供え物か何かのように準備された食事を摂取するだけになっていた。
自分の家なのに居場所がないように思えて、窮屈で仕方がなかった。
「ああ、全部が夢だったら良かったのに」
昼間とは違い冷えた砂の上はひんやりと気持ち良かった。
潮騒を聴きながら満天の星空を見ていたら、なんだか色んなことがどうでも良くなってくる。
まるで贅沢な演奏会の特別な招待客にでもなった気持にでもなったかのようだ。
星を見ていると、宇宙全体で見れば自分がどれだけちっぽけな人間なのか分かる。
けれども、それこそが蒼汰に一種の解放感を与えてくれた。
「俺は、何かになりたかったんだろうか?」
水泳選手として活躍するという夢を手にする、すぐそこまできていたのに。
何者にもなれない自分が、どうしょうもなく惨めで仕方がなかった。
蒼汰はギリリと唇を噛み締める。
けれど、星を観ていたら――何者にもなれずとも生きていけるのだと、星々が慰めてくれているようだ。
(俺は特別な何かになりたかったのだろうか? 水泳の世界で名声を得たかったのか?)
海の奏でるメロディを耳にすれば、また泳ぎたいと本能が訴えてくる。
ざわざわと指先に痺れるような感覚が走った。
肩の怪我の後遺症があるが、全く泳げないわけではない。
だけど泳いだとしても、かつての自分のようには――海と一体化したようには――泳ぐことができないだけだ。
「俺の人生は、結局なんだったんだろうな」
自分自身という存在そのものが揺らぐ。揺らいでいる。
泳げる。だけど、泳いでも未来がない。
そんな事実に直面するのが嫌で仕方がなくて避けているだけに過ぎない。
分かっている。泳ぎたいのなら泳げばいい。
追いかけていた夢を心の奥底に沈み込めさえすれば良いだけだ。
だけど、どうしようもなく追いかけた夢と、どれだけ追いかけても実現することのない現実とがせめぎ合って、胸が苦しくて仕方がなくなる。
蒼汰はざわつく掌で砂を掴むと宙に掲げた。
「水泳よりも熱くなれる何かに出会うことなんて……」
――この先、絶対にないだろう。
手の内からサラサラと零れ落ちる砂を見ながら、絶望的な気持ちで身を崩しそうな自分を重ねる。
一年。
あまりにも苦しんできた。
もういっそ死んでしまえば楽になれるかもしれない。
死んで海の藻屑になったところで、何もなれないのなら一緒だ。
けれども、波に呑まれたと失踪する勇気もない。
死にたいと思いながらも死ねずに、どうにかして夢を叶える手段はないかともがいてしまう。
「山下先生と去年話した日が近いから、いつになく後ろ向きになってるな」
残念ながら雲が月を隠してしまった。本日の天体観測は終いだ。
蒼汰は自嘲した後、砂を蹴りとばして立ち上がった。
ちょうど目の前に流れ星が翔る。
幻想的な風景に心を奪われていた、その時。
ひらひらと何処かから麦わら帽子が飛んでくる。
「なんだ、これは?」
幅広の麦わら帽子には愛らしいリボンがついており、女性のものだと分かる。
さっと影が差した。
送り主が現れたのだろうか。
「あの、これ」
相手に返そうと思って振り向いていたところ……
「……朝風、蒼汰……」
突然自分の名前を呼ぶ声が聴こえる。
ドキリ。
心臓が大きく跳ね上がった。
紛れもなく少女の声。
どこかで聞いたことがあるようだけど、思い出すことができない声音。
ちょうど雲に隠れていた月が出てきて、月光が砂浜の上に華奢な影を作る。
「誰だ? 俺のことを知っているのか?」
知っている人がいてもおかしくはない。朝風蒼汰といえば、水泳で名を馳せていて、一時期は島の期待のスーパースターのような存在だったのだから。
どんどん鼓動が高鳴っていく心臓を片手で押さえつけながら誰何した。
自分の声が情けなくも震えたのが分かる。
「私は……」
紡ぐ声はまるで金糸雀のように澄んでいた。
声の主の白いワンピースが翻る。
蒼汰の眼の前に現れたのは――
流麗な黒髪に清楚な白肌、小動物のような愛らしい目鼻立ちに、可憐な唇の持ち主だった。
島の中にこんな美少女がいただろうか?
まるで月の精のように美しい少女の登場。
「夜海美織、夜の海を美しく織ると書いて、よるうみみおり」
どことなく見覚えがある気がする。
けれど、その名前に聞き覚えはなかった。
夜風が艶やかな黒髪を靡かせる。彼女の漆黒の瞳からは一粒の涙が零れ落ちる。
幻想的な出会いの海に揺蕩いながら、蒼汰はその日運命を感じた。
……彼女が自分の人生を大きく変えてくれる。
そんな予感がしたのだった。
蒼汰は人気の少ない砂浜に向かうと、いつもと違うことをしているのだという気持ちになれた。
一方で、海の香りが鼻腔を突いてきて、泳ぎたい気持ちがどうしようもなく湧いてくる。
「落ち着け、今日は泳ぎに来たんじゃない」
相反する気持ちに抗いながら、彼は砂浜の上に望遠鏡を組み立てていく。
「よし」
完成した望遠鏡をそっと覗いて、遥か頭上にある星々を観察することにする。
「ん……?」
だがしかし、レンズの取り付け方を間違えたのだろうか。
見えるはずの煌めきは瞳に映ってはこず、視界は真っ暗だった。
「なんだよ、せっかく気分良かったってのに」
新しい何かをはじめようとしたのに、水を差されたような気持ちだ。
「あ~あ、なんだかな」
蒼汰はそれだけぼやくと、どさりと砂浜に背を投げ出して、大の字になって寝転んだ。
ざらざらした砂が、首や髪の間に入り込んでくる。
潮騒が耳に届くと、どうしようもなく郷愁が胸を支配してきた。
「ああ、海なんて来なきゃ良かったな」
星は観たかったが、海を見るのは――まだ怖かった。
水泳選手としてはダメだと言われた夏から、もう一年が経とうとしている。
どんなに海を避けようとしても限度がある。だって、蒼汰が住んでいるのは島なのだから。どれだけ目を逸らしても視界に入ってくる。外に出るには海と向き合う必要があるのだ。結局海と対面しなければならないというのなら、克服するしかないのではないか。
「そんなこと、分かっちゃあいるさ」
だけど、心は追いつかない。
蒼汰は誰もいない浜辺でぼんやりと夜の星を眺め続けることにした。
「なんだかな……」
家族は蒼汰の心の傷に敢えて触れてくるようなことはしない。今みたいに夜に外出したとしても、蒼汰のことを咎めてさえこないのだ。そうやって距離を取られ続け、ほとんど家族とは顔を会わせていなかった。
「ほのかも宿題のことを聞いてもこないしな」
小学六年生になる妹ほのかの宿題を、去年まではよく見てやっていたけれど、今年は声をかけてさえ来ない。
最近の蒼汰は外出しないせいか食も細り、たまにお供え物か何かのように準備された食事を摂取するだけになっていた。
自分の家なのに居場所がないように思えて、窮屈で仕方がなかった。
「ああ、全部が夢だったら良かったのに」
昼間とは違い冷えた砂の上はひんやりと気持ち良かった。
潮騒を聴きながら満天の星空を見ていたら、なんだか色んなことがどうでも良くなってくる。
まるで贅沢な演奏会の特別な招待客にでもなった気持にでもなったかのようだ。
星を見ていると、宇宙全体で見れば自分がどれだけちっぽけな人間なのか分かる。
けれども、それこそが蒼汰に一種の解放感を与えてくれた。
「俺は、何かになりたかったんだろうか?」
水泳選手として活躍するという夢を手にする、すぐそこまできていたのに。
何者にもなれない自分が、どうしょうもなく惨めで仕方がなかった。
蒼汰はギリリと唇を噛み締める。
けれど、星を観ていたら――何者にもなれずとも生きていけるのだと、星々が慰めてくれているようだ。
(俺は特別な何かになりたかったのだろうか? 水泳の世界で名声を得たかったのか?)
海の奏でるメロディを耳にすれば、また泳ぎたいと本能が訴えてくる。
ざわざわと指先に痺れるような感覚が走った。
肩の怪我の後遺症があるが、全く泳げないわけではない。
だけど泳いだとしても、かつての自分のようには――海と一体化したようには――泳ぐことができないだけだ。
「俺の人生は、結局なんだったんだろうな」
自分自身という存在そのものが揺らぐ。揺らいでいる。
泳げる。だけど、泳いでも未来がない。
そんな事実に直面するのが嫌で仕方がなくて避けているだけに過ぎない。
分かっている。泳ぎたいのなら泳げばいい。
追いかけていた夢を心の奥底に沈み込めさえすれば良いだけだ。
だけど、どうしようもなく追いかけた夢と、どれだけ追いかけても実現することのない現実とがせめぎ合って、胸が苦しくて仕方がなくなる。
蒼汰はざわつく掌で砂を掴むと宙に掲げた。
「水泳よりも熱くなれる何かに出会うことなんて……」
――この先、絶対にないだろう。
手の内からサラサラと零れ落ちる砂を見ながら、絶望的な気持ちで身を崩しそうな自分を重ねる。
一年。
あまりにも苦しんできた。
もういっそ死んでしまえば楽になれるかもしれない。
死んで海の藻屑になったところで、何もなれないのなら一緒だ。
けれども、波に呑まれたと失踪する勇気もない。
死にたいと思いながらも死ねずに、どうにかして夢を叶える手段はないかともがいてしまう。
「山下先生と去年話した日が近いから、いつになく後ろ向きになってるな」
残念ながら雲が月を隠してしまった。本日の天体観測は終いだ。
蒼汰は自嘲した後、砂を蹴りとばして立ち上がった。
ちょうど目の前に流れ星が翔る。
幻想的な風景に心を奪われていた、その時。
ひらひらと何処かから麦わら帽子が飛んでくる。
「なんだ、これは?」
幅広の麦わら帽子には愛らしいリボンがついており、女性のものだと分かる。
さっと影が差した。
送り主が現れたのだろうか。
「あの、これ」
相手に返そうと思って振り向いていたところ……
「……朝風、蒼汰……」
突然自分の名前を呼ぶ声が聴こえる。
ドキリ。
心臓が大きく跳ね上がった。
紛れもなく少女の声。
どこかで聞いたことがあるようだけど、思い出すことができない声音。
ちょうど雲に隠れていた月が出てきて、月光が砂浜の上に華奢な影を作る。
「誰だ? 俺のことを知っているのか?」
知っている人がいてもおかしくはない。朝風蒼汰といえば、水泳で名を馳せていて、一時期は島の期待のスーパースターのような存在だったのだから。
どんどん鼓動が高鳴っていく心臓を片手で押さえつけながら誰何した。
自分の声が情けなくも震えたのが分かる。
「私は……」
紡ぐ声はまるで金糸雀のように澄んでいた。
声の主の白いワンピースが翻る。
蒼汰の眼の前に現れたのは――
流麗な黒髪に清楚な白肌、小動物のような愛らしい目鼻立ちに、可憐な唇の持ち主だった。
島の中にこんな美少女がいただろうか?
まるで月の精のように美しい少女の登場。
「夜海美織、夜の海を美しく織ると書いて、よるうみみおり」
どことなく見覚えがある気がする。
けれど、その名前に聞き覚えはなかった。
夜風が艶やかな黒髪を靡かせる。彼女の漆黒の瞳からは一粒の涙が零れ落ちる。
幻想的な出会いの海に揺蕩いながら、蒼汰はその日運命を感じた。
……彼女が自分の人生を大きく変えてくれる。
そんな予感がしたのだった。



