男の頬に何か温かなものが触れた。
ぽたり。
雨にしては生ぬるい。
男は睫毛を震わせながら、そっと瞼を持ち上げる。
なんだか口元は、何かで覆われていて息がしづらい。
「あ」
どこかで聞いたことのある声が聴こえた。
(ここはどこだ?)
確か海にいたはずだったのに。
霞む瞳の向こうには、見知らぬ白い天井と橙色のランプの灯りが見えた。
起き抜けだからか、手足に力が入らず、なんとか指先をピクリと動かせただけだった。
ちょうど、その時、ドタバタと扉が開かれる。
部屋の中に入ってきた若い看護師が騒ぎ始めた。
「し、師長さんっ、奇跡ですよ! 七年間目を覚まさなかった彼が!!」
バタバタと扉を飛び出す音が聞こえる。
(あいつ、いくつになっても騒々しいな。そういえば、中学時代だったかに告白された記憶があるな)
やたらと騒々しい眠りから覚めた男は、ふうっとため息を吐いた。
(どうして俺は?)
看護師に対してそんな風に思ったんだろうか?
そもそも男はまだ高校生のはずで、看護師として働いている女性の知り合いなんているはずがないのに……
男はきょろきょろと眼球だけを動かして周囲の様子を眺める。
どうやらどこかの病室のようだ。
病室だと思ったのは、看護師と思しき人物が近くにいたからでもあるし、室内がやけに落ち着いた色合いだったからかもしれない。
そんなことを考えていると、視界に何かが過る。
眼前に姿を現わしたのは、一人の美少女――綺麗な女性だった。
腰まで届く流麗な黒髪に小動物系の顔立ちで、とても愛らしくて清楚な雰囲気をしている。
自分と同い年か少しだけ年上ぐらいに見える。
この小さな島にこんな綺麗な女性がいただろうか?
看護師のようではない。彼女はノースリーブの白いワンピースを身に纏っている。
それよりも、どうして自分の病室に見ず知らずの女性がいるのだろうか?
まるで月の女神のような出で立ちの見知らぬ女性。
だけど、どうしようもなく郷愁のようなものが胸の奥底から湧き上がってくる。
男は胸が苦しなる。
なぜか彼の瞳から涙が零れ落ちて頬を伝った。
「俺は……なんで……」
どうして泣いているのか自分でも分からなかった。
一緒に涙を流す女性が、彼の首に抱き着いてくるではないか。
「な……」
相手がそんな大胆な行動に出てくるとは思っていなかったので、動揺してしまった。
彼女から石鹸の良い香りがふわりと届いた。
どうしてだろう。
彼女のことを知っている気がするのは?
だけど、頭に浮かんで来ようとしては、記憶はまるで泡のように消えていく。
「お前は、俺の何なんだ?」
男が問いかけると、女性が少しだけ息を呑んだ。
しばらく返事はなかったが、桜色の唇をそっと開く。
「私はね、ほのかの友達」
「ほのかの……? そんなやつが、なんで俺のそばにいるんだよ」
確かに妹のほのかに友人がいた気がする。
けれども、思い出が這い上がってこようとしては記憶の海へと消えていく。
女性が少しだけ寂しそうな表情を浮かべた後に悪戯っぽく微笑んだ。
「思い出してもらえた方が嬉しいから、教えない」
首を横に傾げた愛らしい仕草だ。
起き抜けの男の鼓動を速くした。
(こんな可愛いやつが、ほのかの友達とはな)
島にこんな美少女がいたなんて初耳で……
(というよりも、ほのかの友人にしては年が離れすぎてないか?)
ほのかはまだ小学生なのだ。
男はどうしようもなく困惑してしまう。
けれども、涙を流す女性の姿を見ていると、どうしようもない愛おしさと抱きしめたいという衝動が胸の奥底から込み上げてくる。
思い出したいのに……
思い出そうとして、浮かんで来ようとしては、記憶がどこかへ消えていく。
男は唇を噛み締めると返答した。
「俺は、お前のことは知らない」
目の前の女性がハッと息を呑んだ。そっと視線を床へと向ける。
「そっか、そうだよね」
彼女が愛想笑いを浮かべながら椅子から立ち上がる。
「ごめんなさい、目が覚めたら不審者がそばにいるとか、やっぱり嫌だよね、ごめんなさい。看護師さんと先生を呼んでくるから」
そうして、彼女はその場を立ち去ろうとした。
白いワンピースの裾が翻ると同時に長い黒髪も揺れ動く。
(あ……)
やはり……彼女の背に見覚えがあった。
だけど、どうしようもなく思い出そうとしては消えていく。
「待ってくれ」
翻った彼女がその場でピタリと立ち止まる。
なぜならば、長期間眠っていたことでやせ細った彼の手が、彼女の肉感的な手首を掴んでいたからだった。
「俺は……」
彼女を帰らせてはいけない。
どうしてそう思ってしまったのか理由は分からない。
掴んだ彼女が震えたのが分かった。
「良かったら、起こして、くれないか……?」
「……うん」
涙を拭った彼女が、彼の背に片腕を差し入れ、そっと上体を起こすのを手伝ってくれた。
(俺はどのぐらい寝たままだったんだろうか?)
身体が軋んで元の身体ではないようでさえある。
たまたまベッドサイドの近くに置いてあった鏡が視界に入る。
男は自分の顔を見て愕然とした。
そこには自身が知る高校生時代よりも幾ばくか年を重ねた男の姿があった。髪は誰かが切りそろえて洗ってくれているのか綺麗に整っていて、髭は毎日剃れていないのか無精髭が生えている。
「俺は……」
思考の整理がつかない。
自分は高校生だったはずなのに。
逸る鼓動を抑えるべく、開いた浴衣の合わせを握った。
「俺は……なんで……?」
別人とは言わないが、明らかに違う自分の姿に戸惑いを隠せない。
「君は、ね……」
何か応えようとしてくれた女性だったが、そこで言葉に詰まってしまう。
「何が起きて……?」
壁にカレンダーが掛かっていた。
八月は八月のようだが、どうやら七年の月日が経っているらしく、平成だったはずの元号が令和という見知らぬものに変わっていた。
ちょうど、その時。
視界の端……窓の向こうで何かが光った。
「あれは……」
もうすっかり暗くなっている外へと視線を移す。
病院の高層にいるからか、階下に広がる大海を見渡すことができた。
男は目を見開く。
広がるのは満天の星。
一度だけ星が流れると、次々に流れはじめた。
大量の流星が海に向かって降り注いでは消えていく。
幻想的な光景に心を奪われる。
男は感嘆の声を漏らした後、ポツリと思ったことを口にした。
「ああ、そうか、この時期は流星群が見えやすい時期だって、教えてもらったな」
そこで男はハッと口を噤む。
どうして自分はこの時期に流星群が見えやすいと知っているのだろうか?
いったい誰がそんなことを教えてくれたのだろうか?
ずっと水泳一筋に生きてきて、星について詳しく調べたことなんてなかったのに。
何も思い出せないけれども、心臓が高鳴りはじめる。嫌な感覚ではなく、どこか居心地の良い鼓動だった。
男が降り注ぐ星々に目を奪われていた、その時――
「君がまた海を泳げますように! 星を愛してくれますように! 幸せになりますように!」
突然、名も知らぬ美少女が、流れ星に向かって願いを叫びはじめた。
「お願いします! どうか、また海を泳げるように! お願いします!」
男はハッとする。
(そうだ。事故に遭って肩を怪我してしまって、水泳選手だった俺は現役選手時代のようにはもう泳ぐことは出来ないと、そんな風に山下先生に宣告されて……)
だから、もう泳ぐのが嫌になって泳がなくなっていたのだ。
そうだった。
けれども……
(どうして、この女性は自分の願いではなく俺のことを願ってくれているのだろう?)
「何でなんだ?」
ズキン。
何かが閃きそうで、だけど、何も閃かない。
ズキンズキン。
記憶がどうしても泡のように消えていく。
同じように以前、彼女が自分のために願いを口にしたことがなかっただろうか?
「……っ……」
思い出そうとすると、頭が割れるように痛くて、何も思い出せない。
男が頭を抱えて呻いていると、女性が身体を支えてくれた。
「君、大丈夫……!?」
「大丈夫、だ……」
男は顔を歪めながら、覗き込んでくる彼女の顔を見上げる。
『君がまた泳げるようになりますように!』
いつだったか分からない。
思い出せないけれど、女性の声が木霊する。
(昔は自分の方がこいつの病気が治るようにって心配してたのにな)
昔?
昔とはいつなのだろうか?
だけど、そんなことはどうでも良いぐらい、なんだか胸が何かに鷲掴みにされたように苦しくて……
ざわざわと蟻走感が指先に駆けては消えていく。
男の視界が涙で滲んだ。
頬に何か熱いものが流れ落ちる。
それは自身が流した涙だった。
「俺はなんで泣いて……俺は、どうしてお前のことが、こんなにも……」
それ以上は唇が戦慄いて言葉が出来ない。
降り注ぐ流星の中、目の前の女性が泣きながら微笑んできた。そうして、首を横に振る。
「無理に思い出さなくても大丈夫。だけどね、これだけは言わせて」
彼女の言葉を待つ。
桜色の愛らしい唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君がお願いしてくれたから、病気、ちゃんと治ったんだよ、ありがとう」
彼女は泣きながら嬉しそうに微笑んでいた。
(ああ、そうか、俺は……)
まるで走馬灯のように脳裏に彼女の顔が浮かんでは消える。
彼女のくれた言葉の数々が聴こえては消えていく。
「美織」
突然、女性の名前が口を吐いて出た。
全てを思い出せたわけではない。
だけど、目の前の彼女が自分にとって、どうしようもなく大切な女性だと。
記憶は消えていくけれど、心が、体が、魂が、男の全身全霊が――彼女のことが愛おしいと叫んでいた。
「あ……」
目の前の美少女がハッと身体を強張らせた。
そうして、涙を流しながら、男の身体に飛びついた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
泣きじゃくる美織の背を、男のやせ細った腕がそっと抱きしめる。
そうして、彼女の黒髪を細くなった指で梳くと、耳元で囁いた。
「また一緒に星を観よう、良かったら、そうだな、小さい頃に交わした約束通り、一緒に泳ぐとするか」
美織の瞳が涙で揺れる。そうして、戦慄く唇で答えた。
「じゃあ、カナヅチの私に泳ぎを教えてくれる?」
「ああ、そうか、泳げないんだったな、仕方ないから教えてやるよ」
そうして、彼がそっと右手の小指を指切りの形で差し出した。
彼女がおずおずと彼の小指に自身の小指を添わせる。
「じゃあ、君とまた約束」
「ああ、そうだな。あの時の約束を今度こそ果たしてみせるよ」
二人は指切りを交わす。
「ちゃんと『一緒に海を泳ぐ』約束を守りに帰ってきてくれて、ありがとう、――」
彼女が初めて彼の名を呼んだ。
窓の向こうの夜空では流星群が海に向かって駆けては消えていく。
二人は、互いが生きていることを証明し合うように、強く抱きしめ合った。
満天の星の下、消えゆくはずだった二人は、再び恋をはじめるのだろう。



