二年の月日が経ち、再び夏を迎えた。
とある病院の個室。
ベッドの前、二人の少女が椅子に座って談笑していた。
部屋の中にいるのは、ほのかと美織だ。
ほのかは今年大学一年生になった。対して美織は二年留年してしまったので高校三年生だ。
「美織も諦め悪いんだから、私だったらもうさっさと諦めてるよ」
ほのかが「やれやれ」と言った調子で首を横に振る。その仕草は彼女の兄・蒼汰の姿を思い起こさせた。
「諦めが悪いのは、ほのかも一緒でしょう? そういえば、ちゃんと山下先生とうまくいってるの?」
すると、ほのかの顔がまるで林檎のように真っ赤になった。
「もう恭ちゃんとの話はよしてよ。さっそく離島の教員になったと思ったら、ここの看護師さん達を集めて合コンをはじめて! 生徒たちの親御さんもいっぱいいるっているのに、教員の意識はあるのって感じ! もうあり得ないんだから!」
美織はそんな友人の姿を見てクスクスと笑った。
「せっかく私が恭ちゃんの奥さんになってあげようっていうのに!」
その時、ガラリと扉が開いた。
「あ」
ほのかが声を上げる。
現れたのは恭平だったのだが、どうしてだか顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしている。
ほのかが動揺して椅子から立ち上がった。
「恭ちゃん、今の話を聞いてたの!?」
「ええっと、ほのか、今の話は聞いていたが、今はその話は出来ないというか」
たじろぐ恭平の後ろには、厳格そうな壮年の男が立っていた。
壮年の男は、白髪で眼鏡をかけていた。白衣を身に纏っており、この総合病院の勤務医として名札を身につけていた。そうして、恭平のことをじっと睨むように見つめた後、口を開いた。
「恭平君、あとで詳しい話を聞かせてもらおうか」
蒼汰とほのかの父親である朝風先生だった。
「君のお父さんも毎週来てくれているわけだし、ちょうど良い」
「は、はいい」
「恭ちゃん、もう出ようか! 美織、また後でね!」
情けない声を上げる恭平の腕を掴むと、顔を真っ赤にしたままほのかは病室から出て行ったのだった。
とたんに部屋は静かになる。
しばらく経った頃、朝風先生が口を開く。
「恭平くんの父親の山下先生も毎週来てくれているが……夜海さん、君も負い目を感じているんだとしたら、もう無理に来なくて良いんだよ」
すると、美織が首を横に振った。
「負い目を感じているからじゃないんです。前も言った通り、私が待ちたいから待っているだけなんですよ」
「……そうか。君が『蒼汰が絶対に帰ってくる』と訴えてきてから、もう二年経つ。人工呼吸器に無理に繋いで生かしていたと思っていたが……君がそんな風に言ってくれるなら、私も気長に待つとするよ」
朝風先生の瞳には涙がうっすら滲んでいた気がした。
「夜海さん、最近また暗くなるのが早くなってきている。早くお帰り。それでは」
朝風先生はそれだけ言い残すと踵を返す。
パタンと扉が閉まる。
美織はそっと窓辺へと歩む。
窓向こうでは太陽はもう沈んでしまい、薄明の時を迎えていた。
薄明るい光の下、海は静かに波打っている。
「君が姿を現わしてくれている間に、伝えられなかったことがあるの」
美織は外を眺めながら、そっと窓を開いた。
もうすっかり涼しくなった潮風が室内へと入り込んでくる。
彼女はベッドの上に横たわる青年へと視線を向けた。
「君はね死んでなんかない。本当は生きていたんだよ」
人工呼吸器に繋がれ、点滴やカテーテル類で全身を管理されていた。
ベッドいっぱいの高身長の身体は浴衣の病衣を纏っている。清潔に洗髪されているのだろう、漆黒の髪はサラサラしていた。凛々しい眉、目を瞑ったままだが、精悍な顔立ちだと分かる。けれども夕方だからか、少しだけ無精髭が生えていた。
そう、青年は実は生きていたのだ。
だけど、ずっと意識不明のまま。いわゆる植物状態になって、もう七年近く眠りに就いているのだ。
「あの台風の日、君は姿を消したけど、もしかして目を覚ましてるかもしれないって期待していたんだけどさ。病院を覗いてみたけれど残念ながら君は眠ったままだった」
強い風が吹き込んだ。
美織の腰まで届く長い髪の毛先がさやさやと揺れ動く。
「君のお父さんに『生きたかったって君が言っていたから、もしかしたらいつか目覚めてくれるかも』ってお話ししたら、にわかには信じがたいっていう反応をしてたけど……」
次第に外が暗くなっていき、水平線から月が顔を覗かせ始める。
「山下先生とほのかが、君がノートに書き置きをしてきたっていうんだ。『美織は海にいる。俺の最後の願いだ。美織には生きてもらう』ってさ。だから信じたいって、気を利かせてくれてね」
美織の白い肌と真っ黒な丸い瞳を月光が輝かせた。
「君のお父さんが『僕の息子の顔を確認するのが、君の闘病生活の糧になるんなら』って言ってもらえて……それでね、私も君に面会ができるようになったんだ」
彼女が伏し目がちになると、長い睫毛によって色濃い影が頬に落ちる。
「毎日毎日ね、君が目覚めないかなって、まるで夜空の星の一年間の動きを観察してるみたいに、変化がないかなって、いつも観察してるんだ」
少女は一度窓辺に立って暗くなりつつある空を眺めた後、男の眠るベッドサイドへと移動した。丸いパイプ椅子に腰かけると、男の顔を慈しむように眺めはじめた。
「ねえ、いつになったら君は目を覚ますのかな?」
彼女はそっとベッドに肘をついて両手の上に顔を乗せると、横たわる男のことを愛おしそうに眺める。
「別に起きなくても君の自由だけど、私は君に会いたいよ」
これまでずっと明るい口調だったけれど、彼女の声が少しだけ上ずった。
しばらく室内で輸液ポンプのランプが明滅する。
「そうだ。ねえ、私ね、ちゃんと手術を受けたんだ。そしたらね、手術、成功したんだよ。成功率すごく低いって言われていたのにさ。しかも、手術中に心肺停止に陥ったらしいんだよ」
美織が続ける。
「だけど、夢の中に君に似た知らない女の人が現れてね。真っ暗闇の中を『まだ生きなさい』って一緒に歩いてくれたの。そうして、目覚めたら手術が成功していたんだ」
美織はまるで架空の人魚姫のような笑顔を浮かべる。
「リハビリ、しんどかったけど、君が目を覚ましてるかもって思ったら、猛烈に頑張れてね、私って本当に単純なやつだなって」
そうして、少しだけ無精ひげが生えてこけた頬を、華奢な指でツンツン突いた。
「起きてほしいよ。また天体観測しようよ、一緒に。競争に囚われずに、私の前で泳いでよ。速くなくても泳ぐ君が好きなんだ」
物言わぬ青年に向かって、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「やっぱり、もう起きないのかな? 起きてほしいよ。だけど起きなくても、それでもね、私は君が……ああ、そうだ、あのね、思い出したんだよ。小さい頃に交わした、君との約束のこと」
少女の――いいや、もう大人の女性になった彼女の瞳が涙で潤む。
「ねえ、ちゃんと約束守ってよね」
ポタリ。
美織の涙が男の頬に零れた。
彼女は指先でそっと自身の瞳を拭った後、彼の硬い肌に落ちた涙に指先で触れた。
「ああ、そろそろ帰らなきゃ、もうすぐ面会終了だった……また来るね」
その時。
美織が椅子から立ち上がろうとした瞬間、夜空に流れ星が落ちた。
「あ」
ピクリ。
同時に何かを感じ取る。
美織の桜色の唇が戦慄いたのだった。



