それから蒼汰の過ごす毎日は、地獄のような日々だった。
 海の中、足を取られて溺れてしまい、必死にあがいてもがいても這い上がれない時のようでもあった。
 子どもの頃、実際に海で溺れたことがある。
 あの時は、近くに引率に来ていた山下先生が、幼い蒼汰の手を引っ張って助けてくれた。
 けれども、大人になった今、彼から手を離されてしまい、寄る辺もなく一人で海の渦にでも飲まれてしまったかのようでもある。
(これからどう生きていけば良い?)
 憧れの恩師でもある山下先生の言う通り、残りの高校生活を勉学に励んで生きていけば良いのだろうか。
 けれども、なんとなくそれは違う気がした。
 本来はあったはずの幸せが跡形もなく消えてしまったかのようで、これから先をどう生きていけば良いのか分からない。
(とりあえず、これからどうしたら良いか考えるしかないの分かっているが……)
 焦燥だけがどんどん募っていく。
 荒ぶる気持ちを必死に抑えつけながら生きていたら、だんだんと学校に通う足が遠のき、気付いたら一年の月日が経とうとしていた。
 そうして、高校三年になった蒼汰は不登校になってしまっていた。
 そんな彼は、水泳以外だと読書も好きだったから、図書館には足繫く通っていた。もう夏休み期間も間近な土日だったから、司書たちに不審がられることもない。
 けれども、どうしても足を運んでしまうのは、【スポーツ】のコーナーだ。
 人は頭の中で注目しているものに視線が奪われるということを山下先生が授業で話していたことを思いだす。そうして、もちろん目線が追うのは、水泳の二文字。
 幼児向けの水泳の方法論、水泳コーチの指導法、オリンピックで活躍した選手の華々しい経歴が描かれた自伝……が目についてくる。
(ダメだ、もう水泳選手としては終わったんだ。だから、これ以上、目にするのは毒だ)
 どうにかして視界に入れないように、そそくさと退場し、料理だとか郷土誌だとか、普段は目にしない書籍に目をやろうとした。だけど、そもそも興味がないから、文字を追っているだけで、さっぱり頭の中には入ってこなかった。
「もう出よう」
 図書館で過ごしたところで、人生の羅針盤みたいなものなんて簡単に見つかるわけもなく、ヒントはどこにも隠れてなんていなくて、なんとなく居心地が悪いだけだった。
 ふと、とある無料配布のチラシに目を奪われる。
『真夏の夜に天体観測はいかがですか?』
 ちょうど夏だからだろう。この手のチラシは増えてくる。島で暮らす前に本土で暮らしていたが、科学館で夏休み中の小中学生をターゲットにした催しものがおこなわれていたことを思いだした。
 なんとなく懐かしい気持ちになってチラシを手に取った。チラシの提供者の名前を見る。
 ――大島高校天文部。
「俺のとこの高校に天文部なんてあったかな……?」
 狭い島だ。高校なんて一つしかない。
 いくら体育会系の部活じゃないにしろ把握しているつもりだったが……
「それこそ興味なかったんで眼中になかったのかもな」
 そんなことを思いながら、蒼汰は何とはなしに、ポケットにチラシをねじ込んだ。
 医師として多忙な父と一緒に島にある唯一の科学館に行ったことがあった。ちょうど、今ぐらいの時期だ。水泳一途に泳ぎまくっていたのだが、科学館のポスターに掲載されていた宇宙に心惹かれ、どうしても観に行きたくなったのだ。
 夕方頃に出掛けて、展示物を眺めた後、プラネタリウムに足を運んだ。
 目の前には広大な宇宙の銀河系が広がっていたのを今でも覚えている。
 まるで踊っているような星たちを眺めていると、自分が自分ではないような、ちっぽけな何かになってしまったような不思議な気持ちになったのだ。
「星、か」
 そうして、冷房がガンガンに効いていた図書館の自動扉を抜けて外に出る。太陽があまりにも眩しくて咄嗟に目を瞑ると同時に、むわりと熱気に包み込まれた。
 玄関のすぐそばに立つ大木から、蝉の大音声が奏でられていて、なんだか無性に居心地が悪くて、そそくさと目当ての場所へと急いだ。
 駐輪場に停めていた自転車に跨り、ペダルをゆっくりと漕ぎ始める。脚は使える。競泳は無理でも競輪選手ならば行けるのではないかと安直な考えが浮かんではくるものの、気分を高揚させる考えでもなかったし、本気で目指している人物たちへの冒涜のようにも思えて、すぐにその考えを打ち消した。
 図書館の敷地内を覆っていた木々を抜けると、先ほど以上に強い日差しがじりじりと肌を焦がしてくる。
 とにかく暑い夏だ。
(こんな時こそ、プールや海で泳げたなら、どれだけ幸せだっただろうな)
 去年までは山下先生や親友の恭平と楽しく部活に励んでいて、先輩たちからは部を任せたと託されたばかりで、後輩たちに生き生きと指導をおこなっていたというのに……
 思い出すと胸がギシギシと軋んでいくようだ。
 とにかく水泳絡みのことを思い出さないようにしているのに、自分自身の人生は水泳で始まり水泳に終わっていたと言っても過言ではないぐらい、水泳なしでは自分というアイデンティティそのものが揺らいでしまいそうなほど、常に傍にいて、一心同体のような存在だったのに。
「ダメだ、考えるな、考えちゃだめだ」
 けれども、考えないようにすればするほど、水泳のことで頭がいっぱいになっていく。
 水泳なしの自分。
 そんな自分を受け入れることさえ難しい。
 これから先、どうして行けば良いのか、路頭に迷ってしまった。
「とにかく他に何か気を紛わせるものを……」
 図書館から家に帰るまでの道には、ちょうど地元の海水浴場がある。
 エメラルドグリーンの水面に光がキラキラと反射してきて目に染みた。
 地元の人間たちだけでなく、夏だけはこの浜辺に多くの人々が集まってくる。今年の夏もそれは変わらず、他の街からの旅行者だろうか、家族連れの観光客や大学生のサークル旅行者たちにサーファーたちなど多彩な顔触れが集まっていた。
 物心ついた頃から、この海で遊ぶのが大好きだった。
 けれども、今の蒼汰には毒でしかなかった。
 打ち寄せる潮の前ではしゃぐ人々を見ても鬱屈な気持ちが募るだけだった。
(昼間にここを通るのはもう止めよう)
 そう心に誓って、海から目を逸らし、アスファルトだけをまっすぐに見据えて、重たい足でなんとか前へ進んだのだった。