そうして、現在。
美織は、荒れ狂う海を横目に海岸線の道路を駆けていた。
「当の本人からフラれちゃうなんてね」
思わず苦笑いをした。
彼と一緒に過ごせないなら、手術だって受ける価値はないのに……
「ふう……」
美織はちょっとだけ立ち止まる。
病室から持って来たポシェットから、彼からの借りた物を取り出す。
ベルトがぶかぶかの銀色の腕時計。
ちょっとだけ年寄りのような趣味のそれを見て、美織はクスリと微笑んだ。
「なんだかおじさんみたいな趣味だな。まあ、本当は五歳年上だから仕方ないか。あの人に腕時計を返さなきゃ……」
もう会いたくないと言われたけれど、何か言い訳をつけて蒼汰に会いたかったのだ。
「行かなきゃ……どうせフラれるなら、ちゃんと自分の気持ちを伝えてから」
手術だって絶対成功するわけじゃない。
悔いを残して死にたくはない。
生き延びるにしても、ちゃんと乗り超えてからにしたいのだ。
そうして、美織は前を見据える。
また強い風が吹き、雨がポツポツと降り始めた中、いつも二人で過ごした海岸へと風と一緒になって駆けていったのだった。
***
蒼汰は病室からいなくなった美織を追いかけて海岸線を駆けていた。
風がどんどん強くなっており、木々が激しく揺れ動いていた。
蒼汰に会うために美織が海に向かっていると、なぜかそんな確証めいたものを抱いていたのだ。
「なんでなんだよ、せっかく俺が色んなことを諦めようとしたっていうのに……」
ちょうど風が強くなってきて、雨がぽつぽつと降りはじめた。
こんな時に外に出るなんて、ただでさえ死期が迫っている彼女の体力を奪うことにしかならない。
「どうしてなんだよ、ちゃんと病室で寝ていろよ」
蒼汰は霊魂のはずなのに息をするのも苦しいぐらいの暴風だ。
防波堤には荒れ狂う海がぶち当たっては引いていく。
コンクリートの壁に巨石でもぶち当たっているかのような轟音だ。
停泊している船が、まるで湯船に浮かんだ玩具のように激しく上下している。
まるであの日の再現のようで、蒼汰は生きた心地がしなかった。
「って、もう死んでるんだった」
向かい風と戦いながら前方の進み続けたら、いつも彼女と約束をしていた浜辺へと辿り着いた。
蒼汰はキョロキョロと周囲を見渡したが、台風が来ているからだろう、周囲に人の姿はなかった。
美織が自分に会いに来ているだとか、さすがに自惚れだったのだろうか?
「くそっ、ここじゃないんなら、別のところを探すしかないか」
雨に打たれていると、だんだん逆上せていた頭が冷却されてきた。
もしかすると、ちゃんと主治医に相談して外出許可を貰った上で家に忘れ物を取りに帰っているだとか、そんなオチかもしれないのだから。
「引き返すか」
気づけばすっかり暗くなってきていた。
風の吹き方も尋常ではない。立っているのもやっとなぐらいだ。
そうして、蒼汰が踵を返そうとした、その時――
「君、どうして……?」
なんと背後に息を切らしている美織の姿があったのだ。
「美織……!」
もしかすると、美織は蒼汰とは別のルートでここに向かってきたのかもしれない。
足の速い蒼汰の方が美織よりも早くに到着してしまったというオチなのだろう。
「何をやってるんだよ! 台風の時の海が危ないって、お前が一番分かってるはずだろうが!」
思わず怒鳴りつけてしまっていた。
美織の瞳がみるみる潤んでいく。
「だって、だって……」
泣きじゃくり始めた彼女のことを抱きしめたい衝動に駆られたが、彼女に触れれば命を奪ってしまうかもしれないと思って出来なかった。
咽び泣く美織が続ける。
「今日、五年前とそっくりだから、君が今日こそ、消えちゃう……そう思って……せっかく会えたのに、もう会えなくなるって……最後かもしれないからって……」
先ほど耐え抜いたばかりなのに、蒼汰はこらえきれずに彼女に手を差し伸べようとしてしまう。
その時、自分自身の手を見てハッとする。
「これは……」
陽に当たると透けて見えていたのだが、指だけでなく肘の辺りまで、夜でもすっかり透けるようになってしまっていた。
美織の言う通り、本当に今日が最後になるかもしれない。
「そうか、俺は、消えるんだな」
なんとなく悟ってしまった。
何かしら自分自身に未練が残っていると思っていた。
それについては結局何なのか分からないままだが……
「お前、手術を受けるんだろう? 受けたら、長生きできるかもしれないんだろう? だったらさ、ちゃんと受けろよ」
「私が手術を受けて長く生きたいって思ったのは、君と一緒に過ごしたいからなんだよ。だから、君と一緒に入れないんだったら、長く生きたって意味がなくって……」
美織の涙には嘘がなくて、とても透明で、儚くて……
なんて綺麗なのだろうか。
蒼汰はもう見えなくなった拳をぎゅっと握って、自身の存在を確かめた後、彼女に向かって告げた。
「あの日のこと、幼いお前は、自分のせいで俺がこうなってしまったんだと思ったのかもしれない。だけど、違うんだ」
「違う……?」
「ああ、五年前の俺は……色んなことに絶望して、自分で命を絶とうとしていた」
「……っ……」
「だから、お前が俺のことを気にする必要なんて、ないんだ。むしろ、俺としてはお前を助けることが出来て良かったぐらいだ」
「でも……」
何か言い掛けた美織に対して、蒼汰は首を横に振った。
「だがな、五年経って、こうやって生身の俺じゃあないわけだが、お前のおかげで色々と前向きに考えることができるようになった。ありがとうな。あのまま死んでたら未練タラタラだったかもしれないが、俺はちゃんとこうして綺麗な俺のまま消えることが出来そうだ」
「……っ……」
美織がその時、ポシェットから何かを取り出した。
蒼汰が貸していた腕時計だ。
「腕時計、返すから」
「……もうお前にだって、俺の腕は見えないだろう?」
だが、美織はそっと蒼汰の透明な腕をそっと握ってきた。
「……っ……美織……」
「目には見えないけど、君は確かにここにいるね」
そうして、彼女が彼の手首に時計を嵌めてこようとする。
「この辺り、うまく巻けないけど、ちゃんとここに君がいるの、分かるから……」
一生懸命手に巻こうとする美織の優しさに触れて、蒼汰の胸は熱くなった。
「美織、もういい。この時計、お前にやるよ」
「え?」
「手術、うまくいくように、願掛け代わりに持っててくれよ」
すると、美織が上目遣いでこちらを見てきた。
「本当に良いの……?」
「ああ、もちろん。そうだ、俺もお前に――」
そうして、千切れた根付と流れ星の欠片が詰まった小瓶を手渡そうとした、その時――
「美織、ここにいたのか!」
第三者の声が聴こえる。
暴風雨の中、現れたのは昼空学だった。
「帰るぞ! ……っ……なんだ、お前……?」
その時、彼はぎょっとしていた。だが、すぐに目を凝らすと、ほっと溜息を吐く。
「気のせいか。ほら、台風で危ないのは分かっているだろう!? 帰るよ!」
だが、美織が抵抗する。
「今度こそ帰らない! ちゃんとこの人に時計を返してからじゃないと!」
すると、学が眦を吊り上げた。
「だから、誰もいないんだよ、美織……その時計は……!」
そうして、時計の刻印に目を見やる。
「SOUTA.A……あの男のものか……」
すると、美織の手から学が腕時計を勢いよく奪い取る。
「きゃっ、何するの……!」
……こいつ……!
学の手から時計を奪い返してやりたかったが、いよいよ蒼汰の腕は上腕の辺りまで透けはじめており、それは叶わなかった。
そうして、学が自身のポケットの中にそれをしまった。
「返して、学くん!」
「後から返すから、とにかく帰るぞ」
その時、学が差していた傘がびゅうっと強い風に煽られ、波の瀬戸際へと落ちる。
「くそっ、こんな時に傘が」
「待て、この荒れている海の中に近づくのは、やめておけ!!」
だが、静止も聞かずに学は波に近づき、こちらを振り返った。
「美織、傘を確保したら帰るからな……っ、なんだ、お前っ……!」
ふと、蒼汰は何かに気付く。
「な、お前……なんでっ、美織のそばに……」
昼空学が悲鳴じみた声を上げた。
先ほどもそうだったが、死んでいるはずの蒼汰の姿に、昼空学は気づいているような節があった。
それはつまり……
消えゆく蒼汰は声を上げる。
「まずい、美織、このままだと、昼空学は死ぬ!」
「え? そんなっ」
直後――
先ほどまでとは違い、強い波が昼空学の足を掬う。そのまま転んでしまい、波に身体を飲み込まれてしまう。
「プールと海じゃあな、違うんだよ! 海舐めんなっての!!」
蒼汰の身体は勝手に砂浜を駆けていた。
濡れて硬くなった砂を踏みしめて、学に向かって手を差し伸べる。
「良いから、手を差し出せ!!」
海の中に飲まれそうになっていた学は恐怖で悲鳴を上げる。
「うああっ、うっ、どうしてっ」
学が溺れているのは、そんなに遠い距離じゃあない。
だが、いつもとは違う事態で錯乱してしまっているのだろう。
そうして、学の元に辿り着くと、首根っこを掴んだ。
「ほら、暴れるなっての、本当にお前は水泳部の期待のエースなのかよ!」
文句を言いながら、蒼汰は学を浜へと引き上げた。
「ほら、さっさと美織を病院へ連れて行けっての!」
どんどん潮位が上がってきている。速く岸辺に上がらないと、今度こそ三人とも海に飲まれてしまうだろう。
「何が、起きてるんだ?」
学はゲホゲホと咳込んだ後、美織を置いて防波堤のある海岸線へと急ぐ。
「ほら、美織、行くぞ! 波が迫ってきている!」
「うん、分かった」
そうして、二人して今から防波堤へと向かおうとした、その時――
「あっ……!!」
美織が悲鳴を上げる。
「美織……!」
彼女の背後、暴れ狂う波が迫ってきた。
五年前のあの時のように、荒波が二人のことを飲み込もうとしてきたのだった。
まるで三年前の再演のような出来事だ。
高潮が海岸にいる二人のことを襲ってくる。
「きゃあっ……!」
間一髪、蒼汰は波に呑まれなかったが、美織が飲み込まれてしまった。
海面に彼女の華奢な腕が上がっては引っ込む。
「美織!」
ずっと泳いでいなかった海。
泳がなければ、大事なものを失ってしまう。
心臓がドキドキとおかしな音を立てはじめる。
競泳とは違う。
以前のようなスピードを出すことは出来ないかもしれないが、泳ぐことならできる。
けれども途中で肩が悲鳴を上げてしまったら……?
逸る心臓の音が耳元で鳴り響くようだ。
「いいや、そもそも俺は……」
蒼汰はもう生身の人間ではない。
だったら……もしかすると、肩の故障など関係なく泳げるのかもしれない。
いいや、泳げるに違いない!
「美織、待ってろ」
海を眺める。
美織の帽子を取る時や昼空学を助ける時にだって海に入ることが出来た。
けれども、遠い海へと身を委ねることに潜在的な恐怖が残っていた。
蒼汰は自身に気合を入れるために両手で頬を叩く。
暴風雨の中、乾いた音が響いた。
頬がジンジンと熱くなってくる。
(ちゃんと前を見ろ)
そうでないと大事なものを見失う。
「行くぞ」
蒼汰はビーチサンダルを脱ぎ捨てると、濡れた砂浜を駆けて、思い切って水の中へと足をつける。足の裏に水圧を感じると同時にバシャリと水が跳ね返ってきた。久しぶりの海の中はひやりと冷たくて全身に痺れが駆けるようだ。同時に懐かしさが胸を支配してきて苦しくなった。
ざぶざぶと海の中を歩いていると、水面が膝位の高さになる。腕を伸ばしたが美織には届かない。
泳ぐしかない。
……美織を助けるためだ。
(覚悟を決めろ)
一度目を瞑る。
夏の夜の海だ。そんなに水温は低くないけれど、なぜだかざわざわと全身に鳥肌が立って、カタカタと震えはじめた。
高波に攫われて意識を失ってしまった日のことが脳裏を過る。
泳げなくなっていたのには、肩の怪我だけでなく、美織を庇った際に起きた災害によるものも潜在的にあったのだろう。
今はあの時の状況に酷似している。
だが、こんなところで自身を見失うわけにはいかない。
(美織を助けるんだろう)
蒼汰は自分自身に言い聞かせる。
逸る心臓をどうにか落ち着けるべく、海に入る前に必ずおこなっていた深呼吸をする。
全身を襲ってきていた震えが自然と落ち着き始める。
そうして、前方を見据えた。
――今だ!
両手の指をそろえて水面へと潜りこむようにして海の中へと入った。
水の中に入ると見えないヴェールが全身を覆ってきているような感覚があった。
久しぶりの海だ。
ゴーグルをしていないことなど忘れて、水中で目を開く。第二の故郷ともいうべき海の中だ。体が勝手に泳ぎはじめた。
本当に一瞬の出来事だったのに――一気に気分が高揚していくのが分かる。
海の中から顔を出して、息継ぎをすると解放感があった。そうして、美織の元へと向かう。
荒れ狂う海に翻弄されるのではなく身を任せる。
(ああ、この感じは)
水と一心同体になる感覚を蒼汰は思い出してくる。
(泳げる!)
本当はずっと……水泳のことを愛していて、ずっとずっと再び自由に泳ぎたかった。
事故に遭って昔のようには泳げなくなってしまっていたかもしれない。
だけど、海の中で自由に、どこまでも自由に過ごせたら……
それだけで幸せだったのだ。
蒼汰の全身がとてつもない幸福感に充たされていく。
今は霊体になっているからか怪我なんてなかったかのように自由に泳げている。
だけど、速く泳ぐだとか、故障前の身体に戻りたいだとか、……霊体になったおかげで実際に泳げた頃の調子に戻っているから幸せなわけじゃあない。
(俺は……)
かつての自分に囚われて本質を見失ってしまっていた。
勝ち負けなんてどうでも良い。
子どもの頃から、どうしようもなく好きなものは好きなんだ。
選手として活躍できなかったとしても、それでも水泳を愛しているのだと。
ずっとずっと泳ぎ続けたい。
本当は、ただそれだけだったのだ。
(あの日、死ぬつもりだった俺は……)
美織を助けるために久しぶりに入った海。
事故以来避けていた海だったけれど――ずっと焦がれていた海にもう一度入って泳げて幸せだったのだ。
例えそこで自身の人生が途絶えたのだとしても、それでも海の中に戻れて幸せだったのだ。
だけど、一人の少女を不幸にしてしまった。
海に攫われる前に観た、少女時代の美織の絶望した瞳が、脳裏に焼き付いて離れてくれなくて……
『蒼汰お兄ちゃん!』
ほのかの友達の身体の弱い女の子。
確か夏祭りの際に、星を観ながら指切りをして何か約束をしたんじゃなかったか?
あの娘が自分のことに囚われずに生きていく様を見ないと死ねない。
そんな強い思いと美織の願いとが共鳴して、この夏の夜に奇跡を起こしたのだろうか?
ジーンズのポケットに入れた流れ星の小瓶がどうしてだか熱を帯びはじめた。
そうして――
溺れる美織の身体に手が届く。
「美織!!」
「あっ……!」
そうして、蒼汰は美織の冷たい身体をかき抱く。水を含んだ衣服越しに感じる体温はほんのり温かくて安堵した。
荒波から顔を覗かせた彼女が咳込むと小刻みに身体を震わせる。
荒れ狂う波の中、蒼汰はちゃんと美織のことを連れて泳いで浅瀬へと辿り着いた。
浅い呼吸を繰り返す彼女の身体を横抱きしてから浜辺へと乗り上げた。
「良かった、美織。またお前を助けることが出来た」
美織がパチパチと睫毛を震わせると、漆黒の瞳に涙を潤ませながら告げてくる。
「ありがとう。やっぱり君はずっと私の王子様だよ」
「そうか、ありがとう」
蒼汰は美織の海岸へと誘導する。
ちょうど台風の目に入ったのだろうか。もうすっかり暗くなった空には満天の星が輝いている。
そうして、防波堤に繋がる階段に到達した頃には、すっかり蒼汰の身体はもうほとんど消えてしまっていたのだ。
彼は美織の身体をそっと石の階段の上に座らせた。
何かを悟ったのだろう、彼女が瞳を潤ませる。
「消えないで」
透けてゆく蒼汰のことを美織が抱きしめてこようとした。
「ダメだ」
だが、彼は拒否する。
彼女がひゅっと息を呑んだ。
蒼汰は一度だけ瞼を瞑るとそっと持ち上げた。
そうして、美織のことをまっすぐに見据える。
「これから先、色んな奴に教えてやってくれよ」
「え?」
「お前が俺に教えてくれたみたいにさ」
蒼汰はふっと微笑んだ。
「私が君に何を教えたっていうの?」
「好きなものは好きだってことだよ」
「え?」
美織が面食らった表情を浮かべた。そうして、唇を尖らせて抗議してくる。
「君の言い回しは抽象的で難しいよ」
「そうか? お前の抽象的な言い回しが移ったのかもな」
身体はどんどん陽の光に透けていっていたが、蒼汰はくつくつと笑った。
「お前が俺に教えてくれたこと……そうだな、全ての人には光を届けてはやれないかもしれないけれど……誰かの星にはなれるかもしれない」
美織がハッとした。
「消えてしまった後も、輝きを誰かに届けることができる」
いいや、きっと誰かの星になるのではなく――
きっと人は生まれてきた瞬間から、誰かの希望の星たる存在なのだ。
命の炎を燃やし続けている間も、消滅してしまった後でも……
大きな光や小さな光でも……
明るい光や暗い光……
色んな光があるけれど……
どんな光でも誰かの心の中で未来永劫輝き続けることが出来るのだから。
「あとはさ、すげえ好きだった水泳と同じぐらい、いいや、それ以上に愛せそうなものがこの世にあるんだって、お前は俺に教えてくれたんだ」
蒼汰はふっと微笑んだ。
彼女の濡れた髪が頬に張り付いている。彼の指がそれをそっと払った。
「それ以上に愛せそうなものって、天体観測のこと?」
美織の解答を聞いて、蒼汰は苦笑した。
「そうだな、天体観測もその一つかもしれないな?」
「んん? なんで疑問形なの? 私、何かおかしなこと言ったかな?」
「いいや、別に。そうでもないさ」
彼はもう片方の手で彼女の頬を包み込んだ。硬い肌に濡れた肌がしっとりと吸い付いた。
「きっとお前に出会っていなかったら、俺は俺自身の望みを見失ったままだった」
そうして、雲の切れ間から月が姿を現わして、二人のことを静かに照らした。
蒼汰の顔が美織の顔に近づくと、二人の唇がそっと重なり合う。
一度だけ、とても長いキス。
蒼汰がそっと離れると、美織に告げる。
「好きなもの全部守れたんだ。俺は今、すごく幸せだよ」
「あ……」
「好きなもの全部」の中に自分が含まれていることに気付いたのだろう。
美織が頬を朱に染めた。
「死ぬつもりだった俺に、幸せな時間をくれてありがとう。これで俺はもう未練はなさそうだ」
「未練はやっぱり泳ぐことだったの?」
美織が尋ねると蒼汰が苦笑した。
「俺の心残りはさ……まあ、自分で思い出してくれよ」
「え?」
彼女はキョトンとしていた。
蒼汰の心残りは――高波に攫われる前に思い出した、かつて美織と交わした約束。
「だけど、そうだな、もう俺の未練はなくなったけど、心残りがあるとしたら……」
蒼汰は美織の身体を引き寄せると強く強く抱きしめる。
どれだけ抱きしめ合っただろうか。
空で星が輝き水平線へと落ちていく。
「あ」
「流れ星」
まだ流星群には早い日のはずなのに。
暗闇の中、星が海に向かって流れては消えていく。
風は凪ぎ幻想的な光景が二人の眼前に広がる。
「綺麗」
蒼汰に抱きしめられながら美織はうっとりと夜空の流れ星を眺めていた。
ずっとこうしていたかったが、どんどん蒼汰の身体は視えなくなっていく。
次第に美織を抱きしめる感覚も失われていく。
そんな中、ポケットに仕舞っていたはずの流れ星の欠片を詰め込んだ小瓶だけが熱を放っていることに気付く。
蒼汰は小瓶を取り出した。彼が手にしているにも関わらず形を保っている。
美織が「あ」と声を上げた。
「蒼汰お兄ちゃんにもらった流れ星の欠片……この間探しにいっても見つからなかったのに……!」
美織が歓喜の声を上げる。
「美織、お前にこれを返しておくよ」
そうして、蒼汰が美織に小瓶を返そうとしたのだが……
パキン。
小瓶は音を立てて割れてしまった。
「あ!」
そうして、中に入っていた小さな石粒がサラサラと零れ落ちていく。
凪いでいたはずの風が粒を巻き上げると、キラキラとまるで星々のように輝いて二人の周囲を舞い踊った。
「ああ、もう時間みたいだな」
蒼汰はすうっと光になって夜闇に溶けて消えていく。
美織の瞳から溢れた涙が、流星群と星の欠片の光で煌めく。
「美織、俺はお前と一緒に生きたかったな」
消えゆく蒼汰の表情は、まるで海の中を自由に泳いでいた頃のように、とても充たされたものだった。



