病院を抜け出した美織は、濡れたコンクリートの上を、いつも履いているミュールで駆け下りていた。
もう少しで海岸線にある車道へと出る。
「はあ、はあ……」
ちょっと走っただけなのに、すぐに息が切れてしまった。
ふくらはぎの筋肉と足の裏が痛い。
小さい頃から病気続きで体力がないのだ。
台風の切れ間から西日が差していて、ちょうど今は晴れていた。
少しだけ強い風が吹いてきて黒髪が宙に舞い踊る。
美織は髪を整えながら額の汗を拭った。
「ああ、私もあの人みたいに元気だったら良かったのにな」
あの人。
初めて会った時から大好きだったあの人。
「同情なんかじゃない、罪悪感だから近づいたんじゃない、私は、ずっと……あの人のことが……」
彼の名前は、朝風蒼汰。
本当は浜辺で話しかける前から、ずっと知っていた。
だって、子どもの頃からの美織のヒーローなのだから。
「絶対に相手が私のことを覚えていないの、分かっていたけどね」
ふと、美織は蒼汰との初めての出会いを思い出した。
美織が小二の時のことだ。
『お母さんとはぐれちゃった』
母親が綿あめを買ってくれていた時、反対側の屋台でおこなわれていた金魚すくいに興味が奪われた。
『綺麗だし、スイスイ泳ぐのね』
幼い頃の美織は、金魚たちが自由に泳ぐ姿に目を惹かれて、ずっと眺めていた。
『私もな、せめて泳げたら良かったのにな』
子どもの頃から入退院の繰り返しで体育にはほとんど参加できていない。
せっかくの夏だし、友だちのほのかからも『一緒に海で泳がない?』と尋ねられていたのに、『うん』と即答することはできなかった。
『金魚さん達は自由で羨ましいな』
そんなことを考えていたら、気付いた時には美織は母親とはぐれてしまっていた。
『どうしよう?』
困ってうろうろしていたら、ドンと見知らぬ人物にぶつかってしまう。
『ああ、いてえな』
『ふあ……?』
見上げると、そこにはすごく大きい人。
夏祭りだからか、紺色の作務衣を着用していて、下駄を履いている。
たぶん中学生だ。
小二から見たら中学生はすごく大人だ。
ただでさえ大きい男の人。しかも、筋肉質でがっちりしていて、顔はカッコいいけど、どちらかと言えば強面の男の人が目の前にいて、怖くてびっくりしてしまった。
『ご、ごごご、ごめんなさい……』
見下ろされると威圧感しかなくて、幼い美織はうるうる涙が溢れてくる。
『なんだよ、急に、泣きはじめて』
その口調も怖すぎる。
『って、ああ、お前、ほのかの撮っていた写真で見たことあるな』
『え? ほのかのことを知っているの?』
『ああ、そうだよ』
その時、小学校でほのかが美織にスマホの写真を見せてくれたことを思いだした。
『あ! ほのかの自慢のお兄ちゃん! 頭が良くてスポーツ万能で、身長も高くてカッコいい!』
『は? そりゃあ褒めすぎだろ?』
そうはいうが、写真で見るよりもカッコイイのは間違いなかった。
『あいつも俺からはぐれたんだよな。せっかくだから一緒に探してやるから、お前も一緒に行くぞ。ああ、はぐれるな。嫌じゃなければ、手でも繋ぐか』
ぶっきらぼうな口調だけど、陽に焼けて浅黒い肌の彼が、そっと私に手を差し出してくれた。
お父さんはもういなくなってたから、初めて男の人と手を繋いだんだけど、すごく大きくて温かくて、お母さんと離れて怖い気持ちはすぐにどこかに飛んでしまった。
だけど、人がとにかく多くてなかなか見つからない。
泣きそうになった美織の気を逸らそうと、中学生時代の蒼汰が林の隙間から観える夜空を指さした。
『ああ、見ろよ、ここからは星がたくさん観れるんだぜ。星のことは詳しくないけどさ、すげえよな、天の川』
『ええっと、あの星はね、夏の大三角形っていうんだよ』
『へえ、面白いな、お前、まだ小さいのに星に詳しいんだな。中学の俺より詳しいじゃんか』
『えへへ』
褒められて嬉しかった。
お母さんは仕事で忙しいからテストで良い点を取っても、あんまり褒めてはくれないのだ。褒めるつもりがないわけじゃなくて時間がないのは、今なら分かるけど、当時の美織からしたら悲しかった。
『織姫と彦星か、一年に一回しか会えないっていう』
『ええっと、みおは、その話が好きなの。あと、人魚姫』
すると、蒼汰がズバリと告げた。
『結構趣味が暗いのな』
『ええっ……!』
暗いと言われたのは初めてだった。
『悪い意味じゃねえよ。そういう悲恋系統が好きなのも悪かないだろ』
『ひれん……?』
『ああ、悲しい恋って書くんだよ。小二じゃあ、まだ習ってないのか、漢字』
『悲しい恋』
『そうだ、一年に一回しか会えないとか罰ゲームも良いとこだし、助けた王子が別の女と結婚して自分は泡になるとかさ。逆で考えたら腹立つしな、助けたお姫様が別の男と結婚したらって。ほら、まさに悲恋だろう』
やけに詳しい。
『ほのかのお兄ちゃんは、なんで、そんなこと知っているの?』
『ああ、死んだ母親がそういう物語が好きだったから覚えちまったんだ』
蒼汰が遠い目をした。
(みおはお父さんがいないけど、ほのかのお家はお母さんがいないって話してた気がする)
美織は思い切って口を開く。
『……みおはね』
『ん?』
『みおは、一年に一回でもいい、好きな人に会えるなら、それはしあわせだと思う。あとは、好きな人がしあわせなら、それが良いなって』
すると、蒼汰が感嘆の声を漏らす。
『へえ、お前、結構面白いこと考えてんだな? そんな考えは俺からは出なかった』
『え?』
『褒めてるんだよ』
彼に微笑みかけると、なぜだか心臓がドキンと大きく高鳴った。
『なんだろう? ドキドキする』
『……? なんだよ、お前、胸に手を当てて?』
蒼汰を見ているとドキドキドキドキ落ち着かない。
(なんだろう、この気持ち……もしかして……?)
美織は思い切って深呼吸をすると、自身が抱いている気持ちを蒼汰に率直に伝えた。
『ほのかのお兄さんと一緒に過ごしてみて、お父さんがいたらこんな感じなのかなって思いました』
『は? まだ中学生なのに親父扱いかよ』
蒼汰のぼやきを耳にして、美織は内心オロオロしてしまう。
(変なことを言っちゃった?)
すると、蒼汰が盛大に溜息をついた後、気を取り直したように口を開いた。
『まあ良いか……もしかして、お前んとこも片親なのか?』
『かたおや?』
『今の言い方だと、お前、父親がいないんだろう?』
『うん、そうです。お父さん、星を一緒に観ようって約束してたのに……』
美織の瞳にうるうると涙が浮かぶ。
すると、蒼汰が彼女の頭を優しく撫でた。
『悪いな。そうか、俺のとこと似たような感じなんだな』
ふと、蒼汰が何か思いついたのか、ポンと手を打った。
『そうだ、星好きのお前にこれやるよ』
そうして、蒼汰が作務衣の懐からとあるものを取り出すと、美織の目の前に掲げた。
『ほら、流れ星の欠片だよ』
『わあ、綺麗……!』
彼女は感嘆の声を上げる。
目の前にはキラキラ七色の石と砂が詰まった小瓶。
『強い願いは絶対に叶うんだってさ』
蒼汰が淡く微笑んだ。
美織は歓喜に満ちた笑みを浮かべる。
『まるで天の川みたい……!』
『へえ、やっぱりお前、面白い表現するな。母さんは人魚の涙だとか浜辺の宝石だって言ってたがな』
ふっと蒼汰が寂しそうに笑った。
『お前のことを見てたら、母さんのことを思い出したよ』
『え?』
美織が今度は目をお月様みたいに真ん丸に見開いた。
『母さんもお前みたいによく星を眺めてたな。死ぬ間際にも星になって俺とほのかのことを見守ってるって言ってたし。あの星のどこかに俺の母さんもお前の父さんもいるんだろうな』
そうして、彼が続ける。
『母さん、俺が泳ぐのを楽しそうに観てたけど……一緒に泳ぐって約束、叶えてはくれなかったな』
遠くを見る蒼汰を見ていると幼い美織の心臓がぎゅっと何かに掴まれたような気がした。
彼女はぐっと唇を噛み締めると彼に向かって思いきりよく告げた。
『だったら、みおが―――――――――』
すると、強面の蒼汰がまるで太陽のように微笑んだ。
『ありがとう、だったら俺も――――――』
まだ小さな美織の心臓がドキドキ高鳴りはじめる。
『約束だ』
『約束』
そうして、美織がねだると蒼汰がやれやれと首を振りながらも指切りを交わしてくれた。
(えへへ、約束しちゃった)
そうこうしていたら迷子のほのかが遠くで見つかったから、美織は蒼汰の元へと連れていった。美織の母親も現れたところで蒼汰と別れることになった。
『じゃあな、今度ははぐれるなよ』
太陽みたいに笑って手を振ってくれた蒼汰。
それからしばらく、なんだかドキドキして落ち着かなかった。
友達のお兄ちゃん。
ほのかに聞いたら、名前は蒼汰だって教えてくれた。
『そうた、漢字、難しいな』
まだ習っていない漢字だったけれど、蒼と汰はしっかり書けるようになっていたのだ。
夏祭りで出会って以来、ほのかが『お兄ちゃんの試合を観に行く』って話した時にはいつでもついていった。
まるで魚みたいにスイスイ水の中で自由に動く彼の姿が、あまりにも綺麗でいつも魅入っていた。
『すごいな』
泳げない自分の代わりに泳いでくれてるみたいで、なんだか見ているだけで幸せだった。
『みお、本当に、私のお兄ちゃんのことが好きだね。今度喋りに家に来なよ』
『え? 好き? ち、違うよ! 泳ぐの上手だなあって思って、いつも観に来てるだけ!』
『それを好きって言うんだよ。ほら、今日こそお兄ちゃんのとこに一緒に行って話かけなよ』
『ええっ……! 遠くで見てるだけで良いんだよ!』
ほのかが気を利かせてくれたけど、意気地がなくて……
蒼汰が現れる前に、美織はいつも脱兎のごとく逃げ出していたのだ。
蒼汰と美織は時々すれ違うことはあった。けれど、彼はいつでも水泳に一生懸命で、妹の友人である美織のことなんて、もちろん眼中になかった。
『そもそも中学生だったんだし、小学生の私に興味を持つわけないしね』
今となっては良い思い出だ。思い出すだけで、なんだか胸がぽかぽかなってくる。
それからもずっと彼の動向を逐一ほのかに聞いていた。
蒼汰は中学時代、個人自由競技で県内トップの成績を獲った。
トロフィーを抱える彼の姿が、地元の新聞社のスポーツ欄を飾ったのが、なんだか誇らしかった。
『えへへ』
その時の新聞は後生大事にとってある。
そうして、私が小学生の高学年になる頃には、彼は高校生になっていた。
てっきり他県に出ていくのかなって思っていたら、地元の高校に入って水泳を続けるらしい。
ほのかに聞いたら、『本土だと雑念に囚われそうだからな。大学でどうせ他県に出ないといけないんだし、今はこのまま島で頑張りたい』って話していたそうなんだけど、ストイックだなって尊敬した。
そんなある時、事件が起きた。
『え……? そんな……』
たまたま蒼汰が事故に遭ったのだ。しかも、結構な事故だったようで、腕の腱を損傷してしまったらしい。
これまでのように泳ぐことは不可能だろうと医師からは宣告されたそうなのだ。
『お兄ちゃん、水泳できなくなるとか、可哀そう』
ほのかが入院中の美織にそんなことを話してくれた。
つい先日まで楽しそうに泳いでいたのに、そんな不幸な目に遭ってしまうなんて……
『あ……』
なんだか美織まで悔しくなって、悲しくて、どれだけ苦しいだろうって涙が止まらなくなってしまった。
本当は彼の近くに行きたかった。彼のことを励ましたかった。
けれど、自分は彼にとって妹の友人でしかない。
彼と一緒に苦しんでやることもできない立場なのだ。
『どうか、怪我が治らなくても、あの人がまた自由を取り戻してくれますように……』
星に向かって祈りを捧げる日々が続いた。
そうこうしていると、ほのかから蒼汰が家から出なくなったと話を聞いた。
『いつかまた、元気になってくれるのかな?』
もちろん泳ぐ彼のことは好きだった。
だけど、泳げなくたって良い。
あの初めて出会った夏祭りの頃のように、またぶっきらぼうで明るくて優しい彼の元気な姿を見たかったのだ。
『どうかお願いします、彼をどうか自由にしてください、お願いします』
流星群を見ながら、勢いよく願い事を口にしていた。
近くて遠い距離から、ずっとずっと彼の幸せを願っていたのだ。
そんなある日、もう何回目かも覚えていない病室で過ごして時のこと、
ちょうど台風が到来したので、窓はすごくガタガタ揺れ動いていた。
『お星さまは見れないけど、病院は島で一番丈夫な建物だから、台風の時は安心ね』
音がうるさくて結構怖いし、看護師さん達に言われていたから、カーテンを閉めようかなと思って窓に近づいた。
ふと、海に視線を奪われる。
ちょうど満潮のようだ。暴風の影響で、海は普段の穏やかさを失っており、激しくうねっていた。防波堤に打ち寄せる波の様子は、近づけば飲み込まれてしまいそうで、あまりにも恐ろしいものだった。
普段は釣りをする人たちが並んでいるのだが、今日は誰も近づこうとしていた。
『さすがにこんな日には誰も近づかないかな? えっ……!?』
美織は見間違いかと思って、目を何度か擦った後に、パチパチ瞬く。
どう見たって人がいるのだ。
台風の浜辺を歩く男性は、どうも近くの高校の制服を身に纏っているように見える。
『それに、あの人は……』
ドキンドキンドキン。
ずっと外に出て欲しいと思っていたから、目の錯覚かもしれない。
入院中、いくら個室とはいえ天体望遠鏡を設置するわけにはいかないと思って、双眼鏡を持ってきている。オーバーテーブルの上から双眼鏡を手に取ると、また窓辺に戻ってレンズを覗いた。
『あ……』
やっぱり、そうだ。
『蒼汰お兄ちゃん』
外に出ているのは喜ばしいことだが、防波堤から海をぼんやりと眺めていた。
まだ小学生の美織だった分かっている。
こんな台風の海に近づくのが危ないことなんて。
そんなこと、頭の良い彼のことなのだから、もっと分かっているに違いない。
なのに、どうして、危険な場所から動こうとしないのか?
『行かなきゃ!』
美織は病室を抜け出した。
ちょうどスタッフステーションを覗いたけれど、誰も姿が見えない。
突然いなくなったらびっくりするだろうから、近くにあったメモに『海にいきます 夜海美織』と書き残して、エレベーターホールへと向かった。
台風の準備で忙しいのか、人に出くわすことがほとんどなかった。
『間に合って……!』
病院の正面玄関を抜けて、坂道へと駆け出す。
海岸線に向かって坂道を駆け降りる。
胸の中では嫌な予感が渦巻く。
こんなに走ったのは初めてかもしれない。
すごく息が苦しくて、心臓が壊れそうだし、全身が熱いし痛い。
だけど、間に合わせないと……!
『きゃっ……!』
坂道の最後の方、雨に足を取られて転んでしまった。ぬかるんだ場所にスライディングしてしまったから、お気に入りの白いワンピースが泥でぐっしょりと濡れてしまった。
膝を擦りむいてしまって、すごく痛かった。
普段だったら泣いて動けなくなっていたかもしれないけれど、なんとか立ち上がった。
そうして、泥だらけの姿のまま平坦な道を駆ける。走る場所が最近舗装されたコンクリートに移ったからか足裏がすごく痛い。
なんとか海岸線に辿り着く。
雨足が強くなってきて、礫の雨が全身を打ち付けてくるせいで痛いぐらいだったが、前だけを見据えた。
傘も持たずにぼんやりと防波堤から身を乗り出そうとする男の人――蒼汰の姿が目に入った。
……彼がどこかに行ってしまう!
美織の胸の内に焦燥が募った。
そうして、彼が海に飛び込もうとする時、大声を上げる。
『お兄ちゃん、ダメ、行かないで……!』
直後、どこまでも高い波が自分たちを襲ってきて……
波に攫われると思った時には、美織の身体は何者かにきつく抱きしめられていた。
気づいた時には、水の中に引きずりこまれていた。
身体に纏わりついてくる水はあまりにも重くて、少女時代の美織の身体を水底に引きずり込んできた。
だけど、そんな彼女のことを蒼汰が抱きしめて、引き上げてくれる。
なんとか海面に顔を出した時の、解放感と安堵感はすさまじかった。
波の動きは激しいけれど、さすがインターハイ出場経験のある男性だ。見事、荒れ狂う海の中から、防波堤のある階段まで、美織のことを助け出してくれた。
『ほら、先に登れ……』
ずぶ濡れになりながら、先に私の身体を押し上げてくれた。
『ありがとう、蒼汰お兄さん』
『ああ、お前、どこかで見たと思ったら……』
美織のことを助けてくれた救世主。
人魚姫を助けてくれた王子様みたいだった。
救急隊の人が助けに来てくれて、蒼汰よりも先に美織は防波堤の上へと登る。
感謝を告げようと振り向く。
だけど……その一瞬の隙が命取りだったといわんばかりに、大きな波がまるで蠢く怪物のように口を拡げて、彼の身体を飲み込んでいく。
『あ……!』
手を差し出したが、目の前で波にさらわれて、蒼汰の姿はいなくなってしまった。
波が引いた時にも、彼はどこにも見当たらない。
小学生の美織には衝撃が強すぎたのか、その場で意識を失った。
そのまま美織まで海に飲まれなかったのは幸いだった。
数日後、彼女は目を覚ました。
病院のベッドの上だった。
しばらくの間、こんこんと眠りについていたらしい。
母親が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
『私……』
助かったんだ。
最初に自分が生きていることに安堵した。
海の底、真っ暗闇から脱出できたことに対しての安堵。
けれども、どうしてそんなことになったのか。
『そうだ……』
次に気になったのは……
『蒼汰お兄ちゃんは……!?』
すると、母親が目の前で顔を歪ませる。
『あの……高校生の男の人はね……』
母親は涙を流したきり、それ以上は美織に何も声をかけてこなかった。
台風はすでにどこかに行ってしまっていた。
空はすっかり快晴だ。
外はこんなにも明るいのに、美織の胸の内には曇天が渦巻いているようだった。
『あ……私……』
美織の目の前が真っ暗に塗りつぶされていく。
まるで魚のように自由に泳ぐ蒼汰お兄ちゃん。
彼にとっての水泳は彼自身を形作る何かだったのかもしれない。
もしかしたら彼にとっての全てだったのかもしれない。
だけど、これまでの人生を歩む中で――水泳だけが彼の全てではなかったはずなのだ。
美織ももちろん泳いでいる蒼汰のことが好きだった。
けれどもそれ以上に……のびのびと自由に好きなことに打ち込んでいる彼の姿が好きだった。
当の本人には酷かもしれないが……
たとえ昔のように早く泳げなくたって良い。
自分なりに向き合ってくれさえすれば、それで……
生きてさえすれば、どれだけでも無限の可能性があったはずなのだ。
なのに……
『私が余計なことさえしなければ……』
蒼汰お兄ちゃんを殺したのは自分なのだ。
事実を受け入れたくなくて……
当たり前にいつも泳いでいた彼が泳がなくなった時だってショックだった。
けれど……
生きているのが当たり前だと信じていた人が――もう動く彼の姿が見れないのかと思ったら……
哀しすぎて涙も出てこなかった。
ただ……彼に生きていて欲しかった。



