美織と会わなくなって数日が経った、とある早朝。
 蒼汰はといえば、結局成仏できないまま、自宅の中で悶々と過ごしていた。
 そもそも家が仏教だったかキリスト教だったのか、はたまた神道だったのか……うろ覚えだったから、成仏で正しいのかは正直分からないが……どちらにせよ、彼はまだこの世界で過ごしていた。
「五年経っているから、親父も老けていたし、ほのかも女子高生になっていたな」
 高校生の頃と変わらない自分に対して、家族二人はだいぶ様変わりしていた。
 そりゃあ、最近見た父親が老けたと感じてもおかしくはないわけである。
「仏壇も準備してないとか、結構冷たい家族だよな。まあ俺の写真はピアノの上に飾ってあったが……ああ、仏壇飾ってないのは、母さんがキリスト教だったからかな? 言われてみれば、母さんも写真だしな」
 そう言われると仏壇は管理が難しいからと、父が母の写真だけにしたことを思い出す。
 今にして思えば、父は死んだ母が亡くなったことを認めたくなかったのかもしれないと漠然と感じてしまった。
「好きな相手がもう二度と目を覚まさないとか、死んでいるだとか、もう会えないとか……認めたくないよな」
 蒼汰は父親に対して同情的な気持ちになった。
 なぜならば自分自身美織ともう二度と会えないのだと思うと苦しくて仕方がなかったからだ。
(美織と会わなくなってから、俺なりに色々調べたりはしたが……)
 結局、どうして蒼汰が現世に留まっているのか、合理的な理由を見つけることは出来なかった。
 とりあえず霊魂は生前の未練が解消されれば消えることが多いというのはよく聞く話だ。
「とにかく未練を解消して成仏しなきゃな」
 彼はふと気づく。
「そもそも、結局、俺のこの世の未練ってのは、やっぱり水泳なのかよ?」
 美織と星空の観察をして過ごす日々の中で、泳げないことに対する執着はだいぶ薄れてきていたように思う。
 もちろん水泳がどうでも良くなったとか、そういうことではない。
 以前のように泳げなかったのだとしても……愛し続けてきたはずの水泳に対して抱くようになってしまっていた重くて苦い気持ちから解放されたといった方が近いのかもしれない。
「きっと水泳のはず……だよな」
 蒼汰自身は一年間家に引きこもっていたと錯覚していたが、おそらく死んだことに気付かずに過ごしていた五年間ずっと水泳に対する後悔を抱え込んでいたのだし、未練は水泳で間違いないはずなのだが……
「なんだろうな、それだけじゃない気もするんだよな」
 小さい頃、好物である鯛の魚に残っていた小骨が、喉に刺さって取れなくなってしまったことがある。
 小骨がなかなか取れなくて困った時の……なんとなく気持ち悪いしスッキリしない感覚になんとなく似ていた。
「そもそも……俺は五年間水泳のことばかり考え続けて家に留まっていたっていう考えで合っているんだろうか?」
 蒼汰は引きこもり生活を送ってきていたと思っていたが、「美織の流れ星への願い」とやらで最近になって霊魂として姿を現わしたというべきか……
「ああ、くそっ、考えても全然分からねえな」
 正直言って、自分自身が死んでいるという事実だって、本来なら到底受けれることができるはずがないんだから。
 蒼汰は思いついた疑問を口にしてみる。
「もしも、このまま何もせずに過ごせたら、この世に留まり続けるんだろうか?」
 そうしたら、もう美織と喋ったりは出来なくなるかもしれないけれど、ちゃんと手術が無事に終わたんだろうかとか、ちゃんと回復して元気に過ごせているのかなとか、大人になって綺麗になっていく彼女のことを見守りながら、残留思念として過ごすことができるのだろうか?
「なんか、俺ってストーカーみたいだな。ヤバい奴の思考だな」
 蒼汰としても、下手に現世に残り続けて、美織が昼空学と付き合いはじめたりしたら……嫌だ。
 そもそも今は普通の……といって良いのかは分からないが……残留思念のようだが、いわゆる怨霊になったりして美織を不幸にする存在にならないとも言い難い。
 とにかく現世の未練から解き放たれるのが、蒼汰にとっても美織にとっても幸福に違いない。
「やっぱり、さっさと未練とやらを解消して、あの世にいかないといけないよな。そもそも俺は霊なわけだし、事故の怪我なんて関係なく泳げるんじゃないか? 例えば海なんかで泳いだら、そのままあの世に消えていったりするのかもな」
 蒼汰はそんなことをぼやきながら、もたれかけていたソファの上で、身体を捻らせ起き上がる。
「よし、だったら善は急げだ。美織に迷惑かける存在になる前に、俺は海に消えるとするか」
 なんとはなしにつけたままにしていたテレビから、とある情報が流れる。
『この夏最大級の台風十九号は、今日の夕方から夜にかけて最接近する見込みで……』
 流暢な標準語を話す女性アナウンサーの声が蒼汰の耳にやけに残った。
「海に泳ぎに行こうかと思った矢先に嵐到来かよ、ついてねえな」
 蒼汰は再びソファの上に身体を沈めた。
 そうして、電気のついていない部屋の天井をぼんやりと見つめる。
「そういやあ、美織、そろそろ入院したのかな」
 蒼汰はもう残留思念でしかないのだから、荒れ狂う海に挑んでも良いかもしれないが……
 おそらく自身が死んだ時の記憶があるからか、はたまた子どもの頃から「嵐の時の海には近づくな」と教え育てられた影響なのか、曇天の中で荒れた波に近づきたいと思えなかった。
 とにかく今は美織の治癒を祈るのみだ。
「さて、ひとまず今晩の台風を凌いで……明日にでも海に行くとするか」
 そうして、蒼汰がソファから上半身を起こした、その時。
 玄関がガチャリと開いた。
 台風が迫っているからか、やや生温かくて強い風がリビングにまで吹いてくる。
「ただいま」
 ほのかが誰もいないはずの家に向かって帰宅を知らせてきた。
(ほのか……)
 あんなに兄の後ろに隠れてばかりの甘えん坊な印象のあった妹だったが、かなり気が強い雰囲気の女子高校生に成長していた。
(俺が死んだ後に……色々と一人で頑張ったんだろうな)
 蒼汰は申し訳なく感じてしまう。
 もしかすると、蒼汰の未練には妹ほのかに対する何かが関係しているのだろうか?
(そりゃあ、妹一人にしたのは申し訳なかったが、今の俺だから思うことであって、五年前の俺にはほのかに対して
未練を抱くような何かはなかったはずだよな)
 蒼汰が考え事をしていると、玄関先でほのかが「うげっ」と声を上げたのが聴こえてきた。
「わ、もしかしてまたリビングのテレビの電気が勝手についてる?」
 テレビの音量がわりと大きかったからか、リビングから玄関先に音が漏れ聞こえていたようだ。
(まずいな、死んだはずの兄貴の俺がテレビ観てるとか思わないだろうしな)
 父は当直で不在のことも多い。
 まだ女子高校生のほのかが家の中で一人で過ごす場面もあるだろう。
 不法侵入者がいると思って怯えでもしたら可哀そうだ。
(迂闊だったな)
 蒼汰は内心後悔していた。
 ほのかがリビングに聞こえるぐらいの大きなため息を吐いた。
「最近多いんだよ。あ、そうだ、良かったらこっちに見に来てよ」
 どうやら、ほのか以外に誰かが一緒にいるようだ。
 彼が何者かに対して声をかけた。
 もしかして台風が近いから父の診療が早く終わったのだろうか?
「電化製品だから誤作動も多いんじゃないか、ほのか?」
 ほのか以外の人物の声を聴いて、蒼汰はハッとする。
(この声は……)
 男性の声。
 兄として何となくざわついてしまった。
 しかも声の主は蒼汰にとっても親しみのある声で……
 そうして、ほのかが何者かに向かって返事をした。
「そうじゃない気もするんだよね、なんだろう、女の勘だけどさ……って、ああ、ほら、上がってよ、恭ちゃん。風で傘が壊れちゃうよ」
 聴こえてきたのは、蒼汰の親友・山下恭平の声だったのだ。
 リビングのソファに座る蒼汰に気付くはずもなく、ほのかは恭平をたまたま蒼汰の座るソファの斜め前にある一人がけのソファへと案内した。
 ほのかはもう高校二年生になっているはずだ。夏祭りで遭遇した時とは違って、今日はブラウスにスカートという美織がしそうな清楚な雰囲気の格好をしていた。
 恭平は昔と同じようにお調子者の雰囲気を残しつつも、以前と比べると大人びた顔つきをしていた。元々がっちりしていた体格もより筋骨隆々とした雰囲気になっていた。
 ダイニングスペースへと移動したほのかが恭平に向かって声をかける。
「恭ちゃん、麦茶で良い?」
「ああ、ほのか、助かるよ、ありがとう」
 蒼汰と恭平は幼馴染であり親友同士でいつも一緒に活動していた。
 五つ年下のほのかは、自分たちの水泳の大会なんかにもいつも着いてきていたし、恭平とほのかが仲が良くても違和感はない。
 ないのだが……
(俺なしで二人が仲が良いのはなんとなく違和感があるのは何でだろうな)
 蒼汰としては少しだけ複雑な心境だった。
 ほのかが恭平に向かって声を掛ける。
「恭ちゃん、ありがとう。お父さん以外の先生たちがこぞって感染症にかかったとかで、連日当直になっていなくってさ。台風が来るっていうのに『役場に避難しろ』って電話があったきりで困ってたんだよね」
「まあ、親父さんは忙しいんだから仕方ないさ」
「恭ちゃんがたまたま島に帰ってきてくれてて良かったよ」
「俺で手伝えることがあるんだったら何でも言ってくれよ」
 ほのかが頬を朱に染めながら返答すると、どうしてだか恭平もまんざらでもなさそうに目の下を赤らめていた。
 会話の内容を察するに、接近する台風に備えた準備をするために、ほのかが恭平の助けを借りたらしい。
 それにしたって……
(やっぱり何だかモヤモヤするぜ)
 蒼汰としてはやはり複雑な心境だった。
 そんな中、ほのかがソファに歩んでくると、恭平の前に冷えた麦茶の入ったグラスを置いた。
 そうして、二人してグラスに口をつけた後、しばらく談笑を始める。恭平が本土での大学生活の話をしている中、サークルにいる可愛い同級生の話をしはじめると、ほのかの機嫌がだいぶ悪くなった。慌てた様子の恭平が茶を濁して別の話題に切り替えようとしたのを察したのか、ほのかが今度は話しはじめる。
「そうだ、恭ちゃん、美織のことなんだけどさ」
 突如として美織の話題が飛び出てきたのだから、蒼汰としても動揺した。
(美織の話)
 蒼汰の心臓がドクンと跳ね上がる。
「美織? ああ、あの蒼汰の追っかけの可愛い女の子だろう? 小学生の時にガールスカウトか何かで一緒になって友達になったとかいう」
「そうそう」
 目を爛々とさせたほのかに対して、恭平も顎に手を当てうんうんと頷いていた。
「美織ちゃん、高校生になって、えらく綺麗になってたな」
 ほのかは美織のことを褒める恭平のことを一瞬だけ睨んだ後、深呼吸をして本題へと移った。
「学くんに聞いたんだけど、美織がどうもお兄ちゃんが浜辺にいるって話してるらしくて」
「蒼汰が?」
 恭平がほのかへと視線を移した。
 彼女はと言えば伏し目がちになりながら、麦茶の入ったグラスのストローを手にグルグルと中をかき回していた。
「うん、そうなんだ。お兄ちゃんが浜辺にいるはずないのにね」
「ああ、蒼汰がいるはずはないからな」
 蒼汰の妹と親友の二人の姿からは哀愁が感じられた。
 二人のそんな姿を見て、蒼汰の胸がざわざわすると同時にぎゅっと苦しくなった。
 ほのかが口を開くと同時にカランと氷が鳴った。
「この間また入院したけど、美織の病状、あんまり良くないのかな……」
 恭平は黙ってほのかの話を聞いている。
「脳外科の権威とやらに手術してもらえるって話じゃなかったのか?」
「そうだけど……そもそも手術自体、成功する確率がそんなに高くないし、ある程度体力が残ってないと出来ないらしいんだけど……ちゃんと手術まで生きられるのかな、昨日会ったら顔色真っ白でさ」
 ほのかの瞳に涙が浮かぶ。
「美織、海見ながら『ほのか、ごめんね』って。そして……」
 ほのかの声が上ずる。
「『あなたのお兄ちゃんを不幸にした私が、手術受けても良いのかな』って呟いてきて……私は」
 泣きじゃくるほのかの傍に恭平が寄り添った。
(美織……)
 蒼汰は拳をぎゅっと握る。
(俺が傍にいるから病状が悪いんじゃないのか?)
 いいや、おそらく蒼汰が離れたとしても美織の病魔の進行を食い止めることが出来ていないのだろう。
 ほのかは恭平に向かって語りかける。
「美織さ、夢見がちなところがあるんだけどね、お兄ちゃんに貰ったとかいう『流れ星の欠片』とかいうのを後生大事に持ってたんだよ」
「蒼汰に貰った?」
「うん、そう」
 ほのかが微笑んだ。
(俺が美織に渡したプレゼント?)
 確かに以前、神社で「流れ星の欠片」がどうとか美織が話していた気がする。
 ほのかが遠い目をしながら続ける。
「ずっと肌身離さず持っていたみたいだけど、お兄ちゃんがあんなことになってから、願掛け代わりに神社のクスノキの下に埋めたみたいなんだよね」
「へえ、蒼汰がお前以外の誰かにプレゼントするところが想像つかないな」
「でしょう? それでね、美織にお兄ちゃんからのプレゼントとやらを渡して元気づけられたらなって思ったんだけど……見つからなかったんだ」
 切なげな表情を浮かべて話すほのかを見ながら、恭平がふっと微笑んだ。
「お前も割と夢見がちなんだな」
「何よもう、失礼しちゃうんだから!」
 再び二人が言い合いを始める。
(俺がほのかに渡した『流れ星の欠片』)
 ふと、母との懐かしい記憶が蒼汰の中に戻ってくる。