蒼汰が次に気づいた時には、すでに朝を迎えていた。
 ずっと立ったままだたようだが、どことなく疲れてはいなかった。
「疲れてないって、そりゃあそうか」
 陽の光に当たる自分の身体を見て、よくわかった。
 どこまでも透けていて、手をかざすと、海が見えた。
「図書館には通ってたが、わざわざ自分の身体を眺めないしな」
 今の蒼汰は、いわゆる残留思念というやつだろうか?
 この世に未練を残して死んだ男子高校生が霊となって姿を現わしただなんて、出来すぎた話である。
 ポケットに手を差し入れると、スマホを取り出す。
「スマホに触れたり、ちゃんと自転車漕いだりしていたんだが……」
 とにかく人気を避けていたから幸いしたが、もしもスマホが宙に浮いているところや無人の自転車が動いているのを見られていたら、目撃者は腰を抜かして驚いていたかもしれない。
「じゃあ、今着てる洋服とかもどうなるんだろうな?」
 そこでとある事実に気付く。
 スマホも一緒に透けていたのだ。
「ああ、なるほど、俺に触れたものも透けるようになるってわけか」
 だから、人々には蒼汰のことが視えなかったのだろう。
「でも、図書館のPCとかは透けてないわけだし……だとしたら、俺の所有物だけが透ける都合が良い話だな」
 蒼汰は独り言ちた後、スマホをタップしてインターネットで「島 水難事故」とキーワードを入力して調べてみたが、うまく検索できなかった。
「仕方がない、図書館に行ってみるか」
 そうして、地元の図書館へと自転車を漕いで向かった。
 途中、中学生数人の自転車とすれ違ったが、やはり彼らには蒼汰のことは視えていないようだった。同様に畑で作業をしている人たちからも認識はされていない。
「はあ、マジで俺、透明人間なんだな」
 改めて事実を強く意識してしまった。
 図書館の中へと急ぐ。だいぶ外が涼しくなってきているので、前回来た時のような寒暖差は大きくは感じなかった。
 備え付けのPCで検索をかけてみたが、やはり島での出来事だからだろう、蒼汰と美織の水難事故については、全国紙のように大々的には報道されていない。
「台風、台風か」
 蒼汰は今日の新聞へと視線を移した。
 最後に彼が認識している年よりも、どうやら五年の月日が流れているようだ。
 五年前の八月のローカル新聞社の新聞に目を通す。
 一日から初めてガサガサと探る。
 そうして、どうにか辿り着くことに成功した。
 日付は五年前の八月二十三日。
「台風十九号到来、小学生女児を庇った男子高校生、生死不明の重体、高潮に飲まれた高校水泳期待のエース、夢半ばに散る……か」
 まだ生死不明の状態だったからだろう。未成年者である自分の名前は記載されてはいなかった。だが、状況を見て間違いなく蒼汰のことだ。
「翌日の新聞には……さすがに連日患者の容態を記事にしたりはしないか」
 新聞を折りたたみ、元のラックに戻そうとしたが、事実が重くて動く気がしなかった。
 すぐそばのカウンターに座る眼鏡のおばさん司書を眺めてみる。
 蒼汰はかなり相手を注視したけれども、カード類の整理で忙しいからか、そもそも彼のことが視えていないからか、とくにこちらを振り返ってくることはなかった。
 図書館のカードを所持していれば、特に司書の手を借りずとも蔵書は貸出できる。
 市民図書館ではあるが、わざわざ死亡しているからといって、会員削除などはしないのだろう。
 だから、蒼汰が本を借りても問題が生じていなかったのだ。
「延滞とかしていたんなら、死んだ奴が本を借りに来ているって話題になったかもな」
 考えてもみればだが、司書だって自分のことを認識していないのだ。
 通りすがりの人たちにも、ましては近くにいたはずの美織の友人たちも学でさえも視えていなかった。
 だとしたら、家族から無視されていたわけじゃあない。
 そもそも自分が死んでいて存在を認識できなかったから、声をかけようもなかったのだ。
「本当、そんなオチだったとはな」
 新聞を思わずぐしゃりと握りしめそうになったが耐える。代わりにコツンと机の上に突っ伏した。
 到底受け入れられる事実ではないが、誰も自分のことが視えていないのだ。
 それに新聞記事にも掲載されているぐらいの出来事なのだ。
 今にして思えば、やけにクローゼットの中身が段ボールに仕舞われていると思ったが、父や妹のほのかが片づけたのだろう。
「俺がもうとっくの昔に死んでいたとはな」
 だとすれば、どうして美織には俺の姿が見えていたんだ?
 深海に潜り込んでしまったかのように、押しつぶされそうな気持ちの中、考える。
 死んでいるはずの蒼汰のことが美織には見えていた。
(そもそもどうして五年経って、俺はこんな風に美織の前に姿を現わしたんだ?)
 神様の気まぐれというやつだろうか?
 学に連れ去られる美織が叫んでいた内容を思い出す。
『流れ星にお願いしたから』
 蒼汰はふっと口の端を持ち上げた。
「なんだよ、あいつが流れ星に願ったから、現世に戻ってきたってことかよ。じゃあ、わりと御利益あるのかもな」
 つっぷした顔を横にして自分の掌を眺めてみる。
 蒼汰が自身が本当は死者だということを認識しはじめたからか、いついかなる時も自分の身体が透けているように見えてきた。
 ……蒼汰は死んだ人間だ。
「まあ、俺が戻ってきたのは、流れ星に美織が祈ったからって理由だとして……なんであいつにだけ視えてたんだろうな。祈った張本人だから、あいつにだけ視えてるってことなのか?」
 そんな気もするが、そうでない気もする。
 現状、とにかく不明瞭なことが多かった。
 すれ違う人々も、蒼汰の家族でさえも蒼汰が視えていなかったというのに……
 美織にだけ死んでいるはずの蒼汰の姿が見えていたのだ。
 彼女が願い事をした張本人だから彼のことが視えているというのが一番しっくりくるのはくるのだが……
 蒼汰はそこでとある可能性に気付いて愕然としてしまう。
「まさか……」
 蒼汰は瞠目した。
 死者が視えるということは……
(美織の死期が近いということなのか?)
 元々余命短いと宣告されていたはずだった。
 死期が近いから、蒼汰のことが視えているのか?
 蒼汰はぐっと拳を強く握った。
「俺はもう死んでるからともかくとして……あいつには少しでも長く生きて、好きなだけ星を観てから死んでもらいたい」
 所詮は蒼汰のエゴでしかないのかもしれないが……
 そもそも思考過程が間違っているのかもしれない。
 蒼汰は席を少しだけ図書館にあるオカルト系の書物へと手を伸ばす。
 幽霊だとか心霊現象だとか、そういった類の本をパラパラとめくる。
 もしかすると、今こうしているのも、図書館の司書から見れば、心霊現象に見えているかもしれない。そう思っていたら、司書がちょうどちらりと蒼汰のことを見てきたが、すぐに作業に戻っていった。
 蒼汰は妙にホッとしながら、パラパラとページをめくる。
 研究論文や症例報告の類ではなく、胡散臭い類の本でしかないが、藁にもすがりたい思いだった。
 ふと、とあるページに目が留まる。
「これは……」
 生者が死者の近くで過ごせば、魂がすり減るという類のことがページいっぱいに書かれていた。
 最近は特に美織の具合が悪そうだった。
 美織は貧血だと主張していたので、あまり気にしないようにしていたが、突然ふらついたり、視線を彷徨わせたりすることがあった。
(去り際の昼空学も言っていたな。最近は美織の調子がどんどん悪くなっている……って)
 そこで蒼汰は愕然とする。
「まさか、死者である俺と一緒に過ごしているから、美織が余命よりも早く死に近づいている?」
 そこまで考えると指先に力が入らなくなっていく。手指が震えはじめる。
 昼空学は紛うことなき生者だから、霊魂である蒼汰のことをすり抜けたのだろう。
「俺がそばにいれば、美織を死に追いやってしまう?」
 仮説でしかない。
 だが、ありえないとは言い切れない。
 自分と触れ合うことができる美織。
 それだけ彼女が死に近づいているということの証明としか思えなかったのだ。
「だとすれば、俺は……」
 蒼汰はそれ以上、ページを繰ることは出来なかったのだった。
 昨晩、あんなことがあったばかりだ。
 美織が来るかどうかは分からなかったが、蒼汰はいつものように浜辺で過ごしていた。
 天体望遠鏡のそばで立って夜空を眺める。
 雲一つない快晴で、夜空では星々が綺麗に輝いていた。
「今日はさすがに来ないかもな」
 蒼汰は図書館で自分に関してある一定の真実に辿り着いてしまった。
 もしかすると、自分のそばで過ごしていることで、美織の死期を早めているかもしれないという事実が胸に重くのしかかってくる。
 とはいえ、紛れもない事実を目の当たりにしたのだが、昨晩ショックを受けすぎたせいもあってか、真実が明るみになって幾分か気分はマシだった。
 それから半日かけて考え抜いたことがある。
(今の俺はあいつにとって……)
 蒼汰は自身の拳に視線を戻す。
 決意を固めるべく、きゅっと拳を握りしめた。
 その時。
「良かった、いたね!!」
 昨晩の出来事など何もなかったかのように、美織が姿を現わした。
 今日は頭に簿麦わら帽子は被っていないが、いつもの白いワンピーススタイルだ。
 ちょっとやらかしちゃったと言わんばかりに舌をペロッと出して笑いかけてくる。
「ごめんね、待ったかな? さあ、良かったら、今日は空に瞬く天の川を一緒に観ようよ!」
 爛々とした笑顔をこちらに向けてくる美織。
 だけど、どことなくいつも以上に顔色が青白い気がした。
「あ……あれ?」
 しかも、何もない場所で突然ぐらついてしまう。
「美織」
 蒼汰は咄嗟に彼女の身体を支えると同時に、ぎゅっと眉根を寄せた。
(やっぱり。こいつはかなり無理をして俺に会いに来ている)
 そんな風に確信するには十分なほどに、美織の様子はおかしかった。
 蒼汰は一度強く瞼を閉じる。
 ……このまま触れるだけでも危ないかもしれない。
 彼女がしっかりと立つことが出来るのをしばらく待ってから、そっとそばを離れた。
「あ……」
 自分から離れる蒼汰を見て、美織の瞳が星の瞬きのように不安げに揺れ動く。同時に、彼女の手が空を切った。
 しばらくシンとした空気が流れたが、それを破ったのは彼女だった。
「ねえ、君はさ、昨日の学くんと私との会話を聞いて、どう思った?」
 こちらを伺うような彼女の視線を感じて、彼はそっぽを向く。
「あの抽象的なやりとりじゃあ、何にも分かんなかったな」
 蒼汰が素知らぬフリをして返すと、美織の表情が一気に明るくなった。
「そっか、そうだよね! わかんなかったよね!」
「ああ、そうだな」
 嘘だ。
 本当はあの話を聞いたことで記憶が蘇ったし、図書館で調べて、どうやら自分が死んでしまったことを知った。
 けれども、嬉しそうな美織の様子を見ていると、本当のことを言いづらかったのだ。
 彼女は喜々とした調子で続ける。
「そうだ、今日はね、花火を買ってきたんだよ!」
「花火?」
「そう、打ち上げ花火じゃなくて、手持ち花火だよ! 良かったら一緒にやろうよ!」
 確かに彼女の手を見れば、花火セットがあるではないか。
「花火、か」
 先日の祭りの際の花火のことを思いだす。
 初めてキスを交わした、あの日。
 余命短い美織と共に最期まで一緒に過ごそう。
 そんな風に思っていたのに……
 ……自分の方こそが、もうすでに死んでしまっていたのだ。
 蒼汰は美織の見えない場所でぎゅっと拳を握った。
 花火ならば、そんなに長時間にはならないだろう。
 ……これで最後なのだから。
 そんな風に自分に言い聞かせると、蒼汰は美織に手を差し出した。
「分かったよ、ほら、花火の袋貸せよ、火種は何かあるか?」
「あ! 火のことは考えてなかった!」
「仕方ねえな。ロウソクは花火セットに付属してついてんだろう?」
「うん!」
 蒼汰は近くに落ちている石を拾うと、カチカチと擦り合わせて火花を散らす。ロウソクをタイミングよく近づけると、ポッと火が灯った。
「わあ、すごい! 君って無人島に行っても頑張れそうだよね!」
「はあ? 行きたくないがな」
 そうして、ロウソクの火が消えないように、いくつか石を重ねて小さな壁を作った中に立てる。
「じゃあ、定番のカラフル花火から!」
 さっそく美織が花火を始める。
 シューっと音を立ててカラフルな光が弾けはじめる。
「こうしてると、この間の花火大会のことを思いだすよね」
「ああ、そうだな」
 蒼汰の胸が軋んだ。
 今にして思えば、あの時が人生の絶頂だったのではないか、そんな気さえする。
 水泳以上に愛することのできる人に会えたことは幸せなことだ。
 けれども、もうそばにはいてやれない。
 二人で一緒に派手な花火をこなしていく。
 永遠にこの時が続けば良いとさえ思ったが、そんなことはあり得ない。
 花火の数はどんどん減っていき、気づけば定番の線香花火になっていた。
 二人でしゃがみ込むと、線香花火に火をつける。
 じりじりと小さな火花を燃やしはじめる。
「この線香花火の色、夏の大三角形のアンタレスみたいな綺麗な色だね」
「こんな時まで、お前は星の話題に持っていくのな」
 なんだかおかしくなって、蒼汰は噴き出してしまう。
「もう、だって好きなんだから仕方ないじゃない」
「そうだな、お前はそういう奴だったな、悪い悪い」
 まだ出会ってひと月も経っていけれど、もうずっと一緒に過ごしてきたかのように、彼女のことを知っているし、きっと彼女の方もそうなのではないかと思う。
 しばらくだんまりになった後、美織がポツポツと口を開いた。
「あのね、実はね……」
 美織から続きを溜めてこられたので、蒼汰は先を促すことにする。
「なんだ?」
 すると、美織が続きを話し始めた。
「ものすごく有名な先生がね、私の手術の担当をしてくれるようになったんだ。最近新しい手術の方法が出来て全国に普及しはじめたんだって。だから、もしかしたら今よりもっと長く生きられるかもしれないんだ。まだ手術件数自体が少ないから、絶対に成功するかは分からないんだけどね。先生たちから見てもまだ未知の領域みたい」
 蒼汰は目を見開いた。
 図書館に置いてある情報は古い。医学は日々進歩している。昔だったら死んでいた病気でも、今なら延命することだってある。
 美織の病気が治る可能性が少しでも上がるのだったら、それはすごく幸せなことだ。
「そうか、お前の病気が治る可能性があるんだったら、俺は嬉しいよ」
 蒼汰は心の奥底から笑みが零れた。
 美織からも笑顔が溢れる。
(どうか手術がうまくいって、こいつが少しでも長く生きて、星を観て過ごしてほしい)
 それならば、尚のこと未来ある彼女の大切な時間や命を奪うことが出来ない。
 先ほども蒼汰のそばに来たから美織はふらついたのかもしれない。
 これ以上は一緒にいてはいけない。
 もう花火は中間地点まで来ている。
 蒼汰の中で覚悟が決まった。
 けれど、心の奥底では、まだ何かが戦っている。
(どうか……)
 どうかまだ炎よ消えないでくれと願ってしまう。
 まだ終わりたくないと本能が告げてきている。
 離れなければならないのに……
 なのに……
「手術を受ける気になったのはね、君のおかげなんだ」
 美織がポツポツと続きを呟きはじめた。
「俺の……?」
「うん。君ともっと星を観たい。また来年の夏も一緒に花火大会に行きたい。こうやって花火をして過ごしたい。そう思ったんだ」
 美織にそう思ってもらえたことは、とても嬉しいことだ。
 だけど、蒼汰には何も答えることが出来なかった。
 ……美織も気づいているはずなのだ。
 本当は蒼汰はここにいてはいけない人間なのだということに。
 美織は生きていて、蒼汰は死んでしまっている。
 いくら一緒にいたいと言っても、現実に彼女の命を奪ってしまっているだけなのだ。
 死者と生者は一緒に過ごし続けることは出来ない。
 生者は生者たちと一緒にその人生を歩み続けなければならないのだから。
「あ……」
 美織が声を上げた。
 同時に最後の線香花火がぽとりと落ちる。
 ちょうどロウソクの炎も風に揺らいで消えた。
 周辺が夜の帳に包まれる。
 優しく打ち寄せる波の音だけが二人のことを包み込んだ。
 夏が見せた奇跡の時間は――もう終焉を迎えるのだ。
 花火の光に慣れてしまっていたせいもあるのだろう。
 一気に暗闇に包まれたような錯覚に陥る。
 線香花火が燃え尽きて、真っ暗で静寂な中、しばらく過ごした。
「昨日の話なんだけど……」
 美織が昨日の話をはじめた。
「ええっとね、君もびっくりしたと思うんだけどさ、私が想像していることを私の口からちゃんと伝えたいなと思ってて」
「想像?」
「うん。昨日言いかけたことなんだけど、私ね、君のことで実は思ってることがあるんだ。ええっと、昨日は学くんが色々言ってたことは、とりあえず、あんまり気にしないでほしいんだ」
「あいつの言ってたことって、俺がお前を海で庇って波にさらわれた話か?」
 死んだ、という直接的な表現は、彼女のことを傷つけるかもしれない。そんな風に思って、言葉をオブラートに包み込むことにした。
「うん、私が台風の日に海に近づいたのが全部悪いんだ。だけど、子どもの頃の罪悪感があるから今の君に近づいたんじゃないんだ。悪いことをしたことを君に許してもらいたいだとか、そんなつもりで近づいたわけでもなくて……」
 こちらのことを慮って言葉を選んでくる彼女のことがあまりにも健気で抱きしめたくなった。
 だけど、それはもうできない。
 ……今でも美織の温もりを覚えている。
 思い出すと妙に胸が苦しくなってきた。
 だが、蒼汰はきゅっと唇を引き結ぶ。
 様子がおかしいことに気付いたのだろう、彼女の表情が陰った。
「君からしたらイヤだよね。あの時私を庇っていなければ、君は今頃、ちゃんと年を重ねて、もっと色んなことを経験できたかもしれない。山下先生と一緒の大学で楽しく過ごしていた可能性だってあるし、ほのかだって大好きなお兄ちゃんと一緒にもっと過ごすことが出来たのかもしれない。なのに……」
 まだ暗闇に目が慣れないが、美織が後悔して泣いているのが伝わってくる。
「貴方の大事な時間を奪うようなことをしてしまって……本当にごめんなさい……ごめん、なさい……」
 泣きじゃくる美織のことを本当は抱きしめたかった。
 だけど、できない。
 できないのだ。
 蒼汰は言葉を選んで伝えることにする。
「俺は気にしていない」
「え?」
 美織がこちらに顔を向けたのが、なんとなく分かった。
「お前に時間を奪われたとも思っていない。そもそも俺の時間は高校三年の夏で止まっているんだからな。そんな感覚すらない」
「あ……」
 美織の声が震えた。
 蒼汰は一度だけ瞼を閉じる。そうして、瞼を持ち上げると、暗闇に慣れてきていた。
 美織の顔が先ほど以上にくっきりと確認できる。
 ちゃんと相手に向かって伝えないといけない。
 蒼汰は死者で、美織は生者だ。
 自身が立てた過程が正しいとするならば、このまま彼女のそばにいれば、彼女の寿命を短くしてしまう恐れがある。そうなれば、ただでさえ残り少ない時間、彼女がやりたいことをやる時間を奪ってしまうのかもしれないのだ。
 もしそれでも美織がそばにいたいと話したとしても、死んだ自分では彼女に何かを与えてやることは不可能だ。
 これまで通り、星を観て、彼女の生きる時間を短くして……考えるだけで害悪しかないのだから。
 そう、だから、蒼汰は決めたのだ。
 力強く美織を見据えると、震えそうになる自分に喝を入れて、口を開いた。
「昨日の話も聞いてたし、俺がお前のことを好きなのはよくわかったよ。しかも割と昔っからさ」
 美織としては思いがけない話だったのだろう。キョトンとした後、頬を赤らめる。
「ええっと、それは、またちょっと別の話だけど……そう、ずっと昔から知ってて、憧れてたんだよね。ごめんね、隠し事ばっかりしてて」
 恥ずかしそうに話す彼女の言葉の数々が、蒼汰は本当はすごく嬉しい。
 もし昨日までの自分だったら、彼女の告白を手放しに喜ぶことが出来ただろう。
 だけど、純粋に喜べないのは、彼女が病魔に侵されているからか、それとも自分自身が死者だからか、はたまたそのどちらもか。
 そんな彼女に向かって、蒼汰は頬を引き締めると伝え直す。
「美織、でも俺たちはもう一緒にいない方が良い」
「え?」
 美織の表情が絶望に歪んでいく。
 蒼汰は、心臓が鷲掴みにされてしまうようで、息が苦しい。
「お前は星を観て過ごしたいんだろう? だけど、俺がそばにいれば、お前の寿命は短くなるだけだ」
「どうしてそういう話になったの!? 元々残り少なかったんだもん、それが短くなったって構わないよ!」
 美織も身体に変調をきたしているのに気づいているはずだ。
 蒼汰は首を横に振った。
「生きるために手術に挑むんじゃなかったのか? 下手をしたら、お前は明日死ぬかもしれないんだぞ?」
「……っ」
 だけど、美織は引かない。
「明日死ぬかもしれないだなんて、そんなこと知ってるよ。だけど、残り少ない命を誰と一緒に過ごすかは自分で選びたいんだよ」
 嗚咽を漏らす美織のことを、もう抱きしめてやることもできない。
「お前が俺のそばに現れたのは、自責の念からだろう?」
 すると、美織が猛反論してきた。
「さっきも言ったけど、それは違うよ! 絶対に違うんだから! 私は君のことが、ずっと……!」
 だが、蒼汰は冷淡に遮った。
「いいや、お前が俺の将来を奪ったから、俺に近づいてきたのは、それだけの理由だ」
「ちがう」
「お前はそうじゃないと思ったかもしれないが、俺はお前のことをそんな風に思ってしまった」
 嘘だ。そんな風には思っていない。
 美織は正直な女性だ。嘘はつけない。心底自分と一緒にいるのを楽しんでくれていた。
 そんなことは分かり切っている。
 だけど、ここで美織を突き放さないと……
 彼女の優しさに甘えて、彼女の時間を――いいや、命を奪ってはいけないのだ。
 蒼汰は心を鬼にして続ける。
「そんな責任みたいな気持ちで一緒に過ごされたって、俺の方こそ迷惑なんだよ」
「……迷惑……」
「ああ、そんな気持ちが少しでもあるのに一緒に過ごされたって、俺としては嬉しくねえよ」
 美織が打ちひしがれているのが分かった。
「手術を受けるんだろう? 受けて俺の分まで長生きして、楽しく生きてくれよ」
「でも……私、私は……私が手術を受けたいのは、君と一緒にいたいからで……一緒にいれないんだったら、手術を受ける意味はなくって……」
 蒼汰はそっと美織の隣をすり抜ける。
「だから、お前は残りの人生、自分の好きなように生きろよ。俺もどれだけこの世界に残ってられるかは分からないが、好きなように生きるからさ」
 それだけ言い残すと彼は浜辺から姿を消すことにした。
 けれども、実際には海岸線から彼女のことをずっと眺めていた。
 彼女を一人残していくのが心配だったからだ。
 しばらく美織は浜辺の上にしゃがみ込んで泣きじゃくっていたが、そのうち立ち上がると、ゆらゆらと自宅へと歩みはじめた。
 蒼汰は、ちゃんと彼女が帰宅できるかどうか、こっそり後をつけて見送った。
 ちゃんと彼女が自宅玄関の中に入るまでを見届けた後、蒼汰は別れの言葉を呟いた。
「今まで楽しかった」
 未練たらしいかもしれないが、二階の彼女の部屋に灯りが点くのをぼんやりと眺める。
 しばらくすると電気が消える。
 ちょうど雨が降り始める。
 降り出す前に美織が帰宅できて良かったと思う。
 曇り空でもう星は見えない。代わりに雨が降り始める。
 蒼汰の頬を雨粒が流れる。
 同時に彼の視界が歪んだ。
 それは、雨のせいか、それとも……
「美織、俺はお前のことが好きだった。いいや、今でもお前のことが好きだ。だから……」
 雨に濡れても寒さも何も感じない。
 そんな事実に打ちのめされながら、蒼汰は美織の家の前を立ち去った。
 残りどれだけの時間が残っているかは分からない。
 けれども……
「美織、俺はお前と出会えて前を向けたよ、ありがとう」
 蒼汰の本心は美織本人に届くことはなかったのだった。