梅雨が明けて、蝉が鳴き始めた頃のこと。
 県立大宮高校二年・朝風蒼汰(あさかぜそうた)は、通っている高校の職員室へと呼ばれて廊下を歩んでいた。
 少しだけ短く刈り上げた黒髪に、母親譲りのキリリとした端整な顔立ち、水泳で焼けた褐色の肌。標準的な男子高校生よりも背丈に恵まれており、水泳のおかげで身に着いたしなやかな筋肉が、運動神経に恵まれたことを表現しているようだ。
 季節的に湿度が非常に高いせいか、廊下にはむわりとした熱気が漂う。白い開襟シャツが肌に張り付いて鬱陶しいし、掌が汗ばんで気持ちが悪かった。
 部活に没頭しすぎて課題を忘れて職員室に呼ばれるのが日常だったが、その日はそうではなかった。
 蒼汰が呼ばれたのは、人気の少ない生徒指導室だった。
「おお、来たか、蒼汰――いいや、朝風」
 高校の担任でもあり、部活の顧問でもあり、幼馴染の恭平(きょうへい)の父親でもある山下先生。
 蒼汰が生まれ育った島は、そこそこの面積を有しているものの、主要都市に比べたら人口はだいぶ少ない。だから、近所のおじさんが小中高の先生だとかは割とよくある話だ。
 山下先生は、蒼汰以上に日に焼けた浅黒い肌に、彫りの深い顔立ち、がっちりとした体躯の持ち主だ。いかにも島出身の男といった風貌をしており、部活の黒いジャージを身に纏っている。
 蒼汰の父親は、島の病院に勤務医として所属して診療に明け暮れ、同じ家に住んでいるのかも分からないような人物だった。そのため、山下先生が幼少期の蒼汰の世話を焼いてくれていたのだ。そのため、この人こそが実の父親であればと思ったことが蒼汰には何度もあった。
 そんな尊敬と 信頼とを全面に預けていた男性が、蒼汰に放ったのは残酷な言葉だった。
「朝風、お前が小さい頃から知っているから、こんなことを言うのは酷だが、お前に水泳はもう無理だ」
 あまりにも直球な言葉に、正直何を言われているのかが分からなかった。
「え、どうしてですか?」
「恭平とは違って、お前は子どもの頃から賢いやつだった。分からないはずはないだろう?」
 蒼汰の心臓が奇妙な鼓動を立てはじめ、じっとりと嫌な汗をかく。
 先ほどまでは美しいメロディを奏でていたような気がした蝉の声が、やけに煩く耳をつんざいてきて、まるで不協和音のようだった。
「この間の事故、不運だった」
 この間の事故というのは、先日蒼汰の身に起きた事故のことだ。
 県大会へ向けて燃え盛っていた五月の中盤。
 学校からの帰り道、建設途中の家の近くをたまたま通って歩いていたら、蒼汰の肩の上に機材が落下してきたのだ。
 それが原因で全治数か月の怪我を負ってしまった。しかも運悪く、肩の腱を断裂してしまい、手術後にリハビリに励んだものの、元のようには動かせなくなってしまっていた。
 思い出しただけでも悔しさで胸が重苦しくなってくる。
 蒼汰は以前よりも握力の落ちた拳をぎゅっと握りしめた。
 山下先生が淡々と告げる。
「あれさえなければ、この夏も来年も、お前はインターハイに行って、間違いなく活躍しただろう。だが、お前のその肩の怪我じゃあ、もう無理だ。ダメなんだよ」
 無理。
 ダメ。
 否定的な言葉が鋭い刃となって刺さってくるだけでなく、繰り返された結果、胸に重しのように圧し掛かってくる。
 ――無理なんかじゃない。
 そう反論したかったけれど、もうきっと水泳で活躍できないことは自分自身がよく理解していた。
 けれども、どこかで誰かに「大丈夫」だよと否定してもらいたかったのも事実だ。
 山下先生が言葉で追撃をしかけてくる。
「お前はさ、頭が良い。狭い島だから成績トップなわけじゃあない。お前はずば抜けて賢い子だった」
 彼はどこか懐かしむように告げた。
「大島高校には高校は一つしかないから、頭の良い奴も悪い奴も一緒に通ってるわけだが……お前の場合は、全国模試の成績だって大概良いだろう。もう水泳なんて忘れて勉強しろ。父親と同じように本土の医学部に行け。話はこれで終わりだ」
 相手の言葉に衝撃を受けすぎて、頭が真っ白になって、その後、どうやって学校から家に帰ったのか記憶がないのだった。