予言通り、数日の間、美織は浜辺には来なかった。
 今日から天文学部の部活動再開予定だ。
 蒼汰は浜辺に膝を立てて座ると、潮騒を聴きながら美織の到来を待っていた。
「あいつ、まだ来ないな」
 彼はぼやきながら溜息を吐く。
 彼女とは三日離れていただけだったのに、一年以上会えなかったような気になってしまう。
「そもそもまだ出会って一か月も経ってないっての」
 なのに、美織が来るのがこんなにも待ち遠しくて、永遠の時間を待っているように思ってしまうのは……
「俺はあいつのことが……」
 美織の愛らしい小動物顔を浮かべるだけで、どうしようもなく気分が昂っていく。
 とはいえ、彼女の顔だけが好きなわけじゃない。
 この間の花火大会の時だって、つい花火の雰囲気に流されてキスをしてしまったわけではないのだ。
「あいつは俺のこと、どう思ってるんだろうな。ああ、順番、間違った。こんなことなら、先に告白しておけば良かったな」
 蒼汰は、先にちゃんと気持ちを伝えるべきだったと激しく後悔していた。
 夏祭りの夜、キスをしたが美織に断られることはなかった。
 つまるところ、自分たちは両想いということで良いのだろうか?
(しかし、俺の勘違いだったとしたなら……あいつのことだから、『ごめんね、あの時は花火が綺麗で雰囲気に流されちゃったんだ』とか言いかねないな)
 蒼汰はそんなことばかり悶々と考えてしまい、この数日間は寝つきが悪かった。
 だけど、これだけ覚醒しているのに全然疲れないのは、なぜなのだろうか。
 もしかすると、興奮しすぎているのかもしれない。
(もし告白したとしてフラれたんだとしたら、もう美織は俺のところに会いに来ないかもしれないんだよな)
 そう考えると、美織から蒼汰に告白してくるのを待った方が良いのだろうか。
 だが、それは何となく卑怯な気がしてしまう。
 だったら、告白しさえすれば、美織の気持ちは分かるわけで……
 けれども、今の関係性が壊れてしまうのは、蒼汰としては嫌だった。
「完全に袋のネズミだな」
 八方ふさがりになった蒼汰が、赤くなったり青くなったりした後に、頭を抱え込んだ瞬間。
「何々、君ってネズミさんだったの?」
「うわっ……!」
 唐突に美織が姿を現わした。
 蒼汰は、考えが読まれてはしないかと心配になってしまい、思わずTシャツの上から自分の心臓を手で押さえた。
「なんだよ、お前、脅かすなよ」
 そうして、背後にいるはずの美織の姿を見て、蒼汰は二度目の絶句を経験した。
「君はネズミには見えないんだよね、どっちかというとネコさんだよね」
 軽口を叩く美織はといえば、長い黒髪をポニーテールにしており、ミントグリーンの愛らしい袖なしブラウスにホットパンツを履いている。そのため、普段は清楚なイメージの強いのだが、今日は快活な印象が強かった。
 それよりも何よりも……いつもよりも丈がかなり短い。そのせいで、すらりと長い生足が強調されていた。
 蒼汰の心臓が一気にうるさくなった。
(俺はいったいどこを見てるんだ、落ち着け)
「今日もちゃんとここにいてくれて、本当に良かった」
 にっこりと微笑む彼女の姿を見ていると、彼の心臓がバクバクと音を立てた。
「……そりゃあ、そうだろうさ、毎日来てるんだしな」
 蒼汰はなんだか相手の顔を見るのが気恥ずかしくて、ぱっと視線を海に向けた。
 すると、美織は笑みを浮かべながらこちらに擦り寄ってくる。ちょっとだけ意地の悪い表情だ。
 彼女は彼の隣にちょこんと腰かけた。
「ふうん、この三日間、君は私に会いたくなかったのかな?」
「……っ……」
 身体を寄せられると、彼女の髪からは石鹸の良い香りがしてドキドキが落ち着かなくなっていく。
「そんな……わけじゃないんだが……」
 蒼汰はますます真っ赤になった顔を背けた。
 すると、ますます美織が接近してくる。
 二の腕に彼女の胸がふにっと当たってきて、動揺が走った。
 彼女はニマニマと笑いながら彼の顔を覗き込む。
「じゃあ、どんなわけかな?」
「どんなわけも……なくって」
 なんの話をしていたのか、緊張しすぎて、すっかり頭の中からどこかに行ってしまった。
 美織が口の端を意地悪く吊り上げる。
「ふふ、今日の君、面白い」
「なんだよ! 俺は一応、お前より一つ先輩なんだから敬えよ」
「そうだね、確かに学年はね、でも同い年でしょう?」
 クスクス笑う美織に対して、蒼汰は腹を立てつつも悪い気はしなかった。彼は一度頭をガリガリとかいた後、そっと立ち上がろうとする。
「じゃあ、さっそく天体望遠鏡で月でも眺めるか」
 すると――
「待って」
 なぜか美織に袖を引かれて、動きを制されてしまう。
「なんだよ?」
 立ち上がりかけた蒼汰だったが、再び砂の上に腰を落とした。
 彼女は蒼汰のTシャツをぎゅっと握りしめたまま、海を眺めている。
「どうしたんだ?」
 美織の黒い瞳に映る星々がゆらゆらと揺らめいていて、蒼汰はそれ以上何も聞けなかった。
 しばらく潮騒を聴いた。
 軽く十分は時間が経過したのではないかと思っていたら、彼女が蒼汰のことを真摯な眼差しで穿ってきた。
「あのね、これからのことで君に話があるんだ」
「これからのこと?」
「うん、君の人生とも関係があると思ってるんだ」
「俺の人生?」
 美織から突然、蒼汰の人生に関係がある話という単語が飛び出てくるなんて、想像だにしていなかった。
「なんだよ、いったい?」
 蒼汰の声が心なしか震えた。
 まさか……
 美織からの告白。
 蒼汰の頭の中をそんな明るい未来が過った。
 だが、美織の顔を見ても、今から告白しようという恋愛独特のどきどきした様子は残念ながら想像できなかった。
 美織からはどちらかといえば決死の覚悟を決めたというような雰囲気が漂ってきている。
 だとすれば、やっぱりキスはしたけど、君のことは好きじゃないだとか、そんな答えを告げようとしてきているのだろうか。
 蒼汰まで顔面の筋が強張ってきてしまう。
 緊張というよりも、緊迫しているといった方が近いかもしれない。
「あのね、私の頭がちょっとおかしいって思うかもしれないんだけど、それでもちゃんと聞いてくれる?」
「え? ああ、お前が変わった行動とるのは、いつものことだろう?」
「ええっと、そういう冗談めかした話じゃないんだ」
 蒼汰はいつもとは違う彼女の雰囲気を感じ取ってしまう。
 同時に彼の肌に虫が這うような感覚が駆け抜けていく。
 ざわざわする。
 勝負をしていないのに敗北を喫しているような、そんな感覚に陥る。
 いつだって、昔の自分だったら、どんな勝負だって挑んでいたのに…
(覚悟を決めろ)
 蒼汰はきゅっと唇を噛み締めた。
「あのね、君はね、実は……!」
「待ってくれ、美織」
 蒼汰も決死の覚悟を決めた。拳をぎゅっと握った後、自分に喝を入れるべくパンと頬を両手で叩いた。
「どうしたの……!?」
 美織が素っ頓狂な声を上げて呆気に取られていた。
 蒼汰が声を上げてきっぱりと告げる。
「どうせフラれるなら、今から俺から先に言わせてもらう!」
 すると、美織が真っ赤になる。
「ふ、フラれる!? いったいぜんたい何の話をしてるの、君は!?」
「そんなの決まってるだろう、お前は俺のことを嫌いかもしれないが、俺はお前のことをだな……!」
「へ? ええっ!? 急にそんな話になるなんて、そ、その話をしに来たわけじゃなくって……う、嬉しいけど」
「は? だったら何を話そうとしてたんだよ!? っていうか、今、お前、嬉しいって言ったよな?」
「え、ええっ、だって……」
 二人でわいわい言い合っていた、その時。
「美織、探したぞ、またこんなところにいたのか!」
 凛とした中低音が響いた。
 次いで、ザクザクと砂を踏みしめる音が耳に届く。
「お前は……」
「あ……」
 蒼汰と美織の前に現れたのは、美少年・昼空学だったのだ。
(美織の幼馴染の昼空学とかいう名前だったか)
 砂浜のように色素の薄い綺麗な髪が、潮風にサラサラと揺れていた。
 彼は美しい顔を傲慢に歪めると、美織に向かって手を差し出す。
「最近は海に来てなかったっていうのに、どうしたんだ一体? 早く病院に帰らないと先生たちが心配するぞ」
 学は剣呑な口調でそう告げると、蒼汰のことは無視して、美織の手首を掴んだ。
「離して、昼空くん! 私はまだここにいるの。もう少ししてから帰るんだから!」
 美織は敵を威嚇する猫のように学に向かって食い掛った。
「女子一人、こんな暗い場所に置いていけるか!」
 学は聞く耳持たず、美織をぐいぐい引きずりはじめた。
「離して……っ……!」
 彼に掴まれた腕が痛いのか、彼女の顔が歪む。
 それを見て、蒼汰はカッと頭に血が登った。
「おい、昼空とかいうの、離せよ! 美織が嫌がっているのが分からないのかよ!?」
 結構なボリュームで訴えたはずだったが、学は眉一つピクリとも動かさなかった。
 全く相手が反応しないことに違和感を覚えつつも、蒼汰は美織を庇うように学との間に割って入る。
「いいから俺の話を聞け!」
 蒼汰の大音声が近くで聞こえたからか、学が綺麗な顔を歪めながら、よろめいた。
「なんだ……!?」
「なんだじゃねえよ、美織の嫌がることをするなって言ってるんだよ!」
 すると、すぐに態勢を整えた学が蒼汰の方を見やるときっと睨んできた。
 何を言われるのかと身構えた蒼汰だったが……
「美織」
 またしても学は蒼汰のことを無視して美織の名を呼んだ。
 美織を守るように立つ蒼汰のことを完全無視する姿勢を崩すつもりはないようだ。
「僕は君のことがずっと好きだ!」
 蒼汰の背後に立つ美織がはっと息を呑んだ。
(俺のことを無視して愛の告白かよ)
 蒼汰の苛立ちは収まらない。
 今のこの状態だけ見れば、幼馴染同士の美織と学の間を引き裂く間男だと蒼汰のことを認識する者さえ出てきそうだ。
 蒼汰はざわつく気持ちをぐっと抑え込みながら、前方を見据える。
 すると、学が少しだけ静かな口調で語りはじめた。
「美織のことがずっと好きだったんだ。君のことが好きで、どうにかして気を引きたかったから、あいつと同じ水泳部に入ったさ。それに個人競技で県内一位だって獲ったんだ。なのに、どうして君は僕のことを見てくれないんだ!?」
 学の発言は鋭いナイフとなって、蒼汰の心の深い部分を鋭く抉ってきた。
 ドクンドクンドクンドクン。
 蒼汰の鼓動が激しく脈打つと同時に、一気に血の気が一斉に引いていく。
(昼空学が水泳の個人競技で県内一位?)
 末梢の感覚がどんどん失われていく。
 夏だというのに寒気が走った。
 蒼汰の声が震える。
「なんでだよ」
 昨年までは蒼汰がいたはずの場所に、今は美織の幼馴染の学がいるという真実が、蒼汰にとっては、どうしようもなく耐えがたかった。
 わなわなと全身が震える。自分では落ち着けることは出来なかった。
 その時。
「彼が一番だったから憧れたんじゃない。貴方が一番だから、好きになるわけじゃない」
 背後にいる美織の声を耳にして蒼汰はハッとする。
 震えているけれども、静かなのに力強い声音だった。
 蒼汰は深呼吸を何度か繰り返して自分のことを宥める。
(自分が引退した後に、かつての自分と同じ境遇になる奴がいたって、おかしくはないさ)
 そもそも蒼汰は学と同じ大会で戦ったわけでもなんでもない。
 同じ人間でも、置かれている立場や状況や環境、全てが違うのだ。
 勝手に比較して、今の自分にないものを持った相手に対して嫉妬で身を滅ぼして、本当に大切なものを見失うところだった。
 蒼汰は両手で自身の頬を叩くと気合を入れ直した。
 そうして、学を見据える。
(そもそも、この昼空学って奴は……)
 美織よりも学年が一個下だと話していなかっただろうか?
(美織は本当なら俺と同級生だ。だったら、この昼空学は俺の一学年下になるわけで……)
 蒼汰の通う高校は学年によってブラウスのネクタイの色が違う。
 昼空学はちょうど制服を身に纏っている。彼の纏うネクタイの色を見た時、蒼汰はどうしようもない違和感を覚えた。
(昼空がつけてるネクタイ、俺たちと同じ学年の色じゃないか?)
 ザワリ。
 蒼汰の全身の血管がざわついた。
 何か、何か大事なことを見落としている気がして、仕方がない。
 その時、昼空学が断固たる口調で告げた。
「美織、いい加減、現実を見るんだ! あの人は……」
 だがしかし、美織が学を遮るように大声で叫んだ。
「学くん、もうそれ以上は良いから! 前も断った通り、私は貴方と付き合うことはないの! だって、私は……私はずっと昔から憧れていた、あの人と、一緒に……!」
 思いがけない美織の叫びに、蒼汰はハッとなる。
 ……美織がずっと昔から憧れていたという男。
 その相手に対して敵対意識を持って水泳をしているという学。
 学が口惜し気に声を絞り出してくる。
「お前の憧れていたあの男性は、もういないんだよ! そもそも水泳界から姿を消して以来、家に引きこもって、島の誰の前にも姿を現わしてはいなかった。最初からいなかったんだ、そう思えって皆も言っているじゃないか!?」
 水泳界から姿を消して引きこもっていた。
 そんな人物がこの島に何人もいるはずもない。
 蒼汰は一つの事実に行きついた。
(だとすれば、自惚れでもなんでもなく、美織の憧れの男というのは俺なのか?)
 美織は以前から自分のことを知ってくれていたのだ。
 そう思うと、蒼汰の胸は不安でいっぱいだったが、嬉しさが塗り替えてくれるようだ。
 だが、どうしても違和感を拭えない。
 先ほどから頭の中で警鐘のようなものが鳴りやんではくれないのだ。
 すると、学が続ける。
「ああ、そうかそういうことか。僕と付き合えないのは、あの事件のことを気にしているからなのかい? そうなんだろう、美織?」
「違う……それ以上、色々、言わないで」
 明らかに怯えた様子の美織に向かって、学が畳みかけるように続けた。
「あの事件は不幸な事故だったんだ。小学生だったんだし、負い目を感じる必要はない。あの人は、君が殺したわけじゃない。だから、君はもっと幸せになって良い。わざわざお前がそいつのために自分の幸せを我慢することはないんだ!」
 突然、思いがけない話となったために、蒼汰は目を見開いた。
 事件……?
 美織が殺した……?
 どういうことなのか分からないが、目の前の学は蒼汰が知らない美織の過去を知っているのだ。
 蒼汰の背にしがみついている美織は、カタカタと震えていた。
(どういうことだ……?)
 蒼汰は情報の整理が出来ない。
 気になる話題だったが、ここで学を辞めさせた方が良いかもしれない。
 そうでないと美織の繊細な心が砕けて散ってしまいかねない。
 そんな風に思った蒼汰は学を睨みつける。
「おい、お前、やめろよ」
「なんだ?」
 蒼汰が学の手首を掴もうとしたが、さっと払われてしまった。
「おい、昼空とかいうやつ、聞いてるのかよ!?」
 すると――
 学が流麗な眉を顰める。そうして、吐き捨てるように言い放った。
「今の、誰かに触れられたような気がしたが、なんなんだ……?」
 相手の反応を聞いて、蒼汰の全身が総毛だった。
 まるで蒼汰のことを透明人間か何かだと思っているかのような反応だ。
(なんなんだ、こいつは……?)
 人として認識されていないような感覚に陥ってしまい、怒りよりも恐怖の方が背筋を這いあがってくる。震えている美織以上に、指先が震えはじめ、感覚がなくなっていくようだ。
 ドクンドクンドクンドクン。
 先ほどから感じている違和感の正体。
(なんだ、俺は……)
 だんだん、蒼汰の自他が曖昧になっていくようだ。
 背後を振り返るまでもなく、美織の震えは止まらなかった。
 学は眉根を寄せながら彼女に問いかける。
「美織、あの台風の事件の時以来、海に来ることなんてなかったのに、どうして……?」
 台風が来ている時の海は時化る。事件の時、美織は台風なのに海に近づいたというのだろうか?
 ざわり。
 蒼汰の胸中に黒い靄のようなものが生まれると同時に、頭の中の白い靄のようなものが、一瞬だけ晴れたような感覚が陥る。そうして、彼の中で何かが閃いた。