夏祭りも終盤だ。
 夕暮れ時だったか、もうすっかり空は夜の帳に覆われている。
 祭りのイベントが行われているステージでは、先ほどまで明るいロック調の曲が多かったのに、今は終わりに向けてバラードへと変化しつつあった。
 早く寝せないといけないからだろう、小さな子どもたちも親が連れて帰っていて、数も減りつつある。小中学生も学校の先生たちが生徒指導のために来ているからか、八時を過ぎた段階で家に帰るように促されていた。
 そのため、周囲には自分たちと同世代以上の人々だけで溢れているような有様だ。
 彼らも自分たちと同じで、きっと最後に上がる花火を楽しみにしているのだろう。
 座席から立ちあがった美織が、蒼汰の肩をツンツンと突いてきた。
「人が多くて、そろそろ疲れたよね、こっちに来て、少し休もう」
 そうして、ステージのある場所よりもさらに奥にある神社の建物へと向かう。さらにそこの裏手にある場所に誘われた。
「こっちこっち、穴場なんだよ」
「よく知ってるな」
「えへへ、昔ここは良い場所だって教えてもらったことがあるんだよ」
「へえ……」
 ……誰に?
 蒼汰にそれを聞く勇気はなかった。
 きっと答えは分かっている。
(俺と出会う前の美織は、きっと昼空学と一緒に遊んでいたのだろうからな)
 自分とは知らない美織が、自分の知らない人生を歩んできていて、誰かに自分には見せないような表情を浮かべていたのかと思うと、嫌で嫌でたまらなかった。
(集中しろ)
 今は自分と過ごしてくれている美織に。
 水の中に飛び込んだあと、水と一体化する感覚を味わう時のように、今ここに集中しろ。
 蒼汰は大きく深呼吸する。
 水面から顔を出して呼吸ができるようになった時の解放感を覚えながら、彼女の姿を眺めた。
「美織」
「ん? どうしたの? あ、そうだ、こっちこっち、休憩できる場所があるから来て来て!」
 そうして、彼女に促されるがまま、蒼汰は丸太に座った。隣の切り株に美織が腰をかける。
「君、身体が大きいから、丸太がえらく小さく見えるね?」
「久しぶりにこんなもん座ったな」
 美織は蒼汰の様子が面白かったのかクスクスと笑っていた。
 立ち並ぶ林の隙間から夜空を眺める。
「ねえ、島の祭り、ちっちゃいけど楽しいよね?」
「ん? ああ、そうだな……」
 すると、蒼汰の肩に美織の頭がちょこんと乗っかってきた。
 ドクン。
 彼の心臓が大きく高鳴った。
「えへへ、夏祭りに来れて良かったな」
「ん? ああ、そうだな」
「もう君ったら、さっきから、『ああ、そうだな』しか言わないんだけど?」
「え? ああ、そうだな……」
 蒼汰は結局同じような返答をしてしまった。
 少しだけ自己嫌悪に陥る。
 悪気があって今のような返答しかしないわけじゃあない。
 こんな風に女性に凭れ掛かられるような経験に乏しいので、どういう態度をとったら良いかわからないのだ。
 じっとこちらを見上げていた美織だったが、何かを察したのか、ふうっと息を吐いた。
「まあ、いっか」
 そうして、蒼汰の肩にもたれたままの美織が言葉を紡ぐ。
「私ね、花火と言ったら、病室で眺めてばっかりだったんだよ」
 思いがけず、過去の彼女の話がはじまったため、蒼汰の筋が少しだけ強張った。
 美織がポツポツと続ける。
「だから、こうやって花火を誰かと神社で見たのは初めてなんだ」
 初めて。
 そんな風に言われると、彼女の初めての存在になれたようで、蒼汰の気持ちは高揚していく。鼓動が高鳴っているのに、今日こそ気づかれてしまいそうで、落ち着かない。
「そうだ、花火と話は変わるけど」
「なんだ?」
「君の心臓の音、私のそれとは違って、逞しくって……聴くの、結構好きかもしれない」
「な……!」
 蒼汰は赤面してしまった。
 つまるところ、これまでずっと美織に心臓が早くなっているのは気づかれていたということなのか。
「お、おまえ……」
「わあ、また速くなったよ、面白いな」
 美織は蒼汰の肩先にあった頭を動かす。
 そうして、心臓の真上に耳を当ててくる。
「バカ、やめろって、恥ずかしいだろうが……!」
「ええ、だって、聴くのが好きなんだもん!」
 美織は蒼汰の胸に張り付いたまま微動だにしなかった。
 彼の心臓の音を聴くのが好きだという言葉通り、彼女は日向ぼっこをしている猫のような微笑みを浮かべていた。
「なんか俺ばっかり、こんな恥ずかしい目にあってだな」
 すると、ちらりと美織が見上げてくる。
「自分だけ不公平だって思ってるの?」
「ああ、そうだよ」
 すると、美織が蒼汰のもう片方の手の甲にそっと手を重ねてきた。
「だったら、君も私の心臓の音、聞いてみる?」
「は……?」
 彼女の華奢な手が蒼汰の太い手首を掴んで持ち上げて、そっと彼女の胸の方へと誘導をはじめる。
「馬鹿か、お前は! 一応俺も男でだな! 軽々しく自分の身体を誰かに触らせようとするんじゃない!」
 蒼汰は、赤面したまま思いがけず説教してしまった。
 すると、美織がくすくすと笑いはじめた。
「ふふ、君は本当にからかい甲斐があって面白いなあ」
「くっ……」
 蒼汰は美織に対して、ある種の敗北感のような気持ちを抱いてしまった。
「後で見てろよ……」
「ふふふ、楽しみにしてるね」
 そうして、瞼を瞑った彼女がまるで夢心地のような口調で告げる。
「また来年も、君と一緒に見れたら嬉しいのにな」
 満面の笑みでそう言われると、心臓がドクンと高鳴った。
「…………」
 また一緒に見たいと言われて嬉しさが込み上げてくる。
 その反面、脳裏に美織の疾患と予後が過った。
 ――来年。
『そうだな』
 本当はそんな風に簡単に口にしたい言葉だった。
 けれど、彼女に来年が来てくれるかどうかは分からない。
 軽々しく相槌を打つことも何か返答をすることも出来なかった。
 蒼汰は、なんだか切なくて胸が苦しくなってくる。
(俺に力があればな……)
 親父なら美織を救うことができるのだろうか?
 いいや、親父の専門は呼吸器内科だ。美織の疾患のことは知っているだろうが専門ではない。
(こんな時も親頼みだなんてダサいな)
 テレビドラマみたいに、外科の名医が現れて助けてくれることなんてあり得ない。
 突然奇跡が起きて、病巣が消えてしまっただなんて――そんなおとぎ話があるはずがないのだから。
 もしも蒼汰がもう大人で医学部を卒業して研修医期間を経て、専門科に入局して一人前の医師として働くことができていたならば、もしかすると彼女の命を救う方法を得ることが出来ていたのだろうか?
 遠くで喧騒が聴こえる中、そろそろ花火が打ちあがる時刻なのだろう。
「美織、俺は……」
 何も告げないわけにはいかない。蒼汰が声を振り絞って何かを告げようとした時――
 隣に座る美織の表情が目に入った。
 何かを慈しむように眺めている。
 視線の先には、夜空に煌めく一番星がキラキラと輝いていた。
 蒼汰の胸が打ち震える。
(星を観てたんだな)
 星を愛する美織のことが愛おしくて仕方がなかった。
「美織」
「え?」
 彼は思わず彼女の名を呼んで、ぎゅっと自身の腕の中に閉じ込める。
 ちょうど彼の胸板のところに、彼女の小さな頭が触れた。
 美織の身体はとにかく華奢だ。蒼汰が抱きしめると、そのまま崩れて壊れてしまいそうだった。
「君、どうしたの、急に?」
 突然抱きしめられた美織が、少しだけ慌てたように言葉を発した。
 蒼汰は何も答えない。
 ただ強く強く彼女のことを抱きしめた。
 蒼汰は喋るのが苦手だ。
 だけど……
『叶うならば、来年もお前と一緒にこの星空を、花火を眺めたい』
 彼女に対しての溢れ出す、言葉に出来ない気持ちを、身体全体で伝えたかったのだ。
 ちょうどその時、遠くからドンと鈍い音が鳴り響き、空の上で花火が輝き始める。
 蒼汰は美織を抱きしめたまま、夜空に輝く花々を眺めた。
 最初は一つの花から始まったが、次第に色とりどりの大輪の花々が夜空に咲いては散っていく。
「来年も観に来たいな、君と一緒に」
 美織の瞳に涙が潤むと、頬を伝って流れはじめた。
 そっと指先で彼女の涙を拭う。
 彼女の身体から離れると、愛らしくて丸い頬を硬い両手で包みこんだ。
 柔らかな頬にそっと口づけた後、星と花火の光を宿す美しい瞳を見つめ直す。
 そうして、蒼汰は美織の半開きの桜色の唇にそっと口づけを落とした。
 全ての花火が打ちあがって、夜空に消えていくまで、二人は口づけを交わし合ったのだった。
 夏祭りも終わりが近づいてきている。
 これまでで一番大きな鈍い音が響いたかと思うと、空の高い位置で巨大な花火が咲いた。
 光が散っていくと、神社裏手の林の中は真っ暗闇に包まれて、シンと静かになった。
 そっと唇が離れた後、二人は見つめ合う。
 真っ暗なのに、頬を朱に染めた美織が潤んだ瞳で見上げてきているのが蒼汰には分かってしまった。
 そのせいで、彼の鼓動は高鳴り続けて鳴りやまない。
 彼の指が彼女の指と絡み合う。
 そうして再び二人の唇が近づきあった、その時。
「最後の花火、大きかったね」
「確か花火師の大将さん、息子さんに代替わりするって、今年は盛大に大きく上げるって話だったよ」
「それで大きかったのか!」
 少しだけ遠くの場所ではあるが、がやがやと人が帰る音が聞こえ、蒼汰と美織は二人とも身体をビクンと跳ね上がらせた。
 ぱっと身体を離すと、互いに別の方向を向く。
 蒼汰は両眼を片手で覆うと告げた。
「悪い。悪気があったわけじゃないんだ」
 すると、美織が俯きながら抗議をはじめる。
「悪気って、なんだか悪いことしてるみたいじゃない。それとも、わ、私とキ、キスするのが、嫌……だった……とか」
 彼女は両手で自身の真っ赤になった頬を包み込んだ。
 そんな彼女に向かって、彼は食いかかる。
「そんな、嫌なやつにわざわざキスするような真似するわけないだろう!」
「ちょっと、君、こ、声が大きいよ!」
 慌てふためいていた二人だったが、互いの視線がハタと出会って、そろそろと顔を見合わせる。
 そうして……
「ふ」
「ふふ」
 二人して噴き出した。しばらく笑い声が雑木林の中に響く。
「二人して慌てちゃっておかしいね」
「それもそうだな」
 蒼汰と美織は最上級の笑みを浮かべあった。
 そうして、二人は互いの手を取り合う。
 人が去って行ったのを確認した後、二人は、そっとまた口づけを交わし合った。
 ……どれぐらい時間が経っただろうか。
 少しだけ人のざわめきが落ち着きはじめた頃、蒼汰は美織からゆっくりと離れた。
 握りしめ合ったままの手から感じる体温が心地よくて、離れがたかった。
(ああ、俺はこいつのことが……)
 物思いに耽りそうになった蒼汰だったが、ハタと気づいて、丸太の上からガバリと立ち上がった。
「おい、急がないと最終バスを逃すぞ!」
「え? もうそんな時間なの?」
 立ち上がろうとする美織に向かって、蒼汰はそっと手を差し伸べようとする。
「君、待ってね!」
 だがしかし、彼女は猫のようにしなやかに蒼汰の手をスルーしたかと思いきや、神社の裏手にある大木の下に向かうと、浴衣が土に汚れるのにも構わずしゃがみ込んだ。挙句の果てに地面を掘り起こそうとしている。
「どうしたんだよ、いったい」
 蒼汰が呆れたようにぼやくが、美織は無視して土を弄っている。
「う~ん、おかしいな? ここに埋めたはずだったんだけど……」
「何をだよ?」
 蒼汰のことを見上げた美織が目を爛々と輝かせながら告げる。
「流れ星の欠片だよ?」
 美織からは当然だと言わんばかりの口調で言われてしまい、蒼汰は口を噤んだ。
 しばらく一心不乱に土を掘っていた美織だったが、残念ながら目的のものには辿り着けなかったようだ。
「そうだね、もう五年近い前のことだし、残ってないよね」
 少しだけしんみりした様子の彼女の背に向かって、彼は問いかける。
「そういやあ、ここは良い場所だってお前に教えた奴がいるって言ってたな」
 すると美織が淡く微笑んだ。
 ちょうど月が雲から顔を覗かせた。少しだけ冷たくなってきた風がそよそよと木々の葉を揺らした。
 月光が彼女の白い顔と艶やかな黒髪を輝かせる。
「そうだよ、友達のお兄ちゃんに教えてもらったんだ」
 彼女の漆黒の瞳が真っすぐに彼を射抜いてくる。
 蒼汰は美織から目を離すことが出来なくなった。
(友達のお兄ちゃん)
 てっきり昼空学とかいう幼馴染が美織にこの場所を教えたと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。
 彼女の話す「友だちのお兄ちゃん」に対しては、蒼汰はどうしてだか妙な対抗心が湧いてはこなかった。
「あとは願掛けでね、五年前に埋めたの、彼から貰った大事な宝物を」
 蒼汰の心臓が忙しなく音を立てた。
 そうして、美織がふっと微笑んだ。
「埋めていたはずなのに失くなっているのはさ、私の願いが叶ったからかもしれないね」
 月の光の下で見る美織はやけに神々しくて美しかった。
 蒼汰は知らぬ間に掌に汗をかいていた。拳をぎゅっと握りしめて、彼女に手を差し伸べようとしたけれど……
「いっけない、確か最終バスって九時半だったよね!? このままだと乗り遅れちゃう!」
 美織は大声を上げると、蒼汰の脇をすり抜けた。
 またしても、彼女に差し伸べた彼の手が空を切る。
「……」
 蒼汰がむっつりとした表情を浮かべていたら……
「ほら、君、何してるのさ、行くよ! ほらほら急いで!」
 美織が彼の手をすかさず手にとり駆けだした。
「おい、お前、強引だな!」
「だってだって遅れちゃうんだもん!」
 美織に手を引かれながら、蒼汰はなんだか嫌な気はしなかったのだった。
 二人して神社の境内を急いで駆け抜けたけれど、神社発の最終バスを逃してしまった。
そのため、蒼汰は自転車を押しながら美織と海岸線を歩いて帰っていた。
 帰り道、なんとなく気恥ずかしさもあって最初は言葉数が少なかったが、あと数百メートルで美織の家に着くという頃、彼女がポツポツと口を開いた。
「実はね、入院が近くて、明日からは検査や準備で忙しいんだ。だから、明日から三日間の部活動は中止だよ」
「ああ、そうなのか。まあ、ちょうど、盆だしな」 
 蒼汰は少しだけ寂しかったけれど、美織の身体のことが最優先事項だ。
「うん、そういえば、そろそろお盆なんだけど」
 彼女が彼のことを上目遣いで見上げてくる。
「私が色々準備している間に、どこかに行ったりしないよね?」
 蒼汰は眉を顰めた。
「は? 俺が? どこに行くんだよ? 親父はしばらく転勤ないらしいし、急に引っ越したりはあり得ねえな」
 すると、美織が目をパチパチさせると、うんうんと一人で何度か頷いた後、巾着についていた根付をそっと取り外した。
「だったら願掛けの石みたいになくなったら嫌だからさ、君にこれ、渡しておくね」
 美織が蒼汰の掌の中に根付を渡してくる。
「なんだよ、これ、いったいどうしろっていうんだよ?」
「もう、風情がないな。願掛けの石の代わりって言ったでしょう? お守りだよ。次会ったら返してほしい」
「お守り? 普通は逆だろう? お前が入院するんだしさ。なんで、そんなものを俺に渡してくるんだよ」
 すると、きゅっと美織が唇を引き結んだ。
 機嫌を損ねてしまっただろうか?
 蒼汰はどうしてだか美織の反応に一喜一憂してしまう自分に気付いた。
 とりあえずぶっきらぼうに返事をする。
「ああ、よく分かんねえけど、分かったよ」
「そう、良かった」
 明らかに安堵した美織の姿を見て、蒼汰も心の中で胸を撫でおろす。
 彼女にもらった根付をポケットに仕舞おうとしている際に、ふと閃いた。
「そうだ、じゃあ、俺からはこれを貸しておくわ。両掌を出してくれ」
 シャラリ。
 蒼汰は左手首に装着していた腕時計を外すと、彼女の掌の上に置いた。
「俺からはお前にこれを預けておくわ。次会った時に返せよ」
「え? いいの? 腕時計だよ?」
「ああ、授業の時はスマホを見るなって言われていたから役に立っていたけど、家にいる間はスマホを見りゃあ良いからな」
 すると、美織が腕時計のベルトを掴んで目の前にかざすと、うっとりとした表情を浮かべる。
「ありがとう。じゃあ、これが私のお守りだね」
 そうして、彼女は何げなく自分の手首に腕時計を巻きはじめた。
「ベルト、ぶかぶかで大きい」
 蒼汰は自分の腕時計を嵌める美織の姿を見て、なぜか羞恥が走る。
「なんだ……」
 そんな彼の顔を彼女が覗き込む。
「んん? どうしたのかな? 顔が真っ赤だよ?」
「いいや、別に、なんでもねえよ」
 そんなやりとりをしていたら、彼女の家の玄関口に辿りついた。
 自転車のタイヤが少しだけ動いた後に停まった。
「それじゃあ、またね」
「ああ」
 そうして、きょろきょろと近所の人がいないか確認してから、電信柱の陰に隠れてキスをしてから別れた。
 彼女を家まで送り届けた後、蒼汰は自転車でやけに軽快な走りを見せたのだった。