蒼汰たちが住む島の中央には小高い山がある。元は活火山だったようで、噴火を何度か繰り返している内に裾野が広がっていった経緯があるようだ。
 祭りが開催される神社は、山の中腹にあり南手側にある。蒼汰が住んでいる区域からは割と近い場所にある。
 蒼汰は自転車に乗って目的地に向かっていた。心なしか、いつもよりもペダルが軽く感じて、とても快適だ。
「せっかくだから美織を迎えに行くって言ったのにな」
 昨日のやり取りを思い出す。
『家の場所から歩くのは大変だから、神社の下手までバスに乗ってくるね』
 美織はそんな風に話していたので、蒼汰はとあることを提案した。
『それなら、一緒に自転車に乗るのはどうだ? 二人乗りも悪くはないだろう?』
 すると……
『だ、ダメだよ、自転車の二人乗りは道路交通法違反なんだからね!』
『お前、意外とルールとかに厳しいのな』
『ダメったら、ダメなんだから。そんな、だって、なけなしのむ、胸が、君の背中に当たって……』
 なぜだか顔を真っ赤にした美織にポカポカ叩かれた上で断られたのだった。
「やっぱり、女子は何を考えているのか分かんねえな。まあ良いか」
 蒼汰はぼやきつつも、気分が高揚していた。
 女性とどこかで待ち合わせをするなんて初めてだ。
 海岸線を駆け抜けて橋を渡ると隣の島へと移動する。
 しばらく漕いだ先、神社下の駐車場が見えてきた。
「ああ、そろそろだな」
 普段は閑散としている場所だが、今日は島中の車が集まっているのではないかという位ひしめき合っている。
 新品のマウンテンバイクやママチャリが立ち並ぶ中へと、蒼汰は自転車を走らせた。
 まだ待ち合わせの時刻よりも少しだけ早い時間だ。
(約束の時間の十八時まで、まだあと十分ぐらいあるな)
 恭介たちと約束していた頃は、わりとギリギリだったのに、美織との約束だと思うと、そわそわして落ち着かなくなってしまい、早めに家を出発してしまった。しかもペダルを漕ぐのもやけに軽く感じたのはなぜだろうか。
 駐車場の端にある駐輪スペースへと辿り着くと、ブレーキをかけて降りる。島での自転車盗難はあまり多くないが、しっかり鍵をかけると財布と同じポケットに仕舞った。
 ちょうど山手の方からお囃子が聴こえてきて、なんだか気持ちが軽妙なものへと変わっていく。
 屋台からは油物や甘いおかしの香りが漂ってきて、腹の虫が音を立てた。
「先になんか食っておくか?」
 だが、さすがに屋台に並んで食べ物を注文している時間はなさそうだった。
 待ち合わせは神社の入り口だ。
 朱塗りの鳥居の前へと向かうと、湧き上がってくる食欲と戦いながら、そわそわと美織の到来を待つ。
「なんか自分ばっかり、色々気にしてるな」
 気を紛らわそうとして、蒼汰は鳥居から神社の入り口に続く参道へと視線を移した。
 砂利道の左右には灯篭が立ち並んでおり、それに連なって屋台が出ていた。ひと昔前のヒーローのお面や綿菓子、ヨーヨーや金魚すくいなんかが視界に入ってきて、子どもに戻ったみたいで気分が高揚してくる。
「それにしたって……」
 腕時計に視線を移すと、待ち合わせの時刻まで残り五分を切っていた。
 いつもより時間が過ぎるのが途方もなく長く感じる。
 落ち着かずにその場をうろうろする。
 なんとはなしに鳥居の前にいる狛犬に話しかけてみた。
「なあ、あいつちゃんと来ると思うか?」
 もちろん返事があるはずはなかった。
「俺、一人で何やってるんだろうな」
 通りすがりの人たちに今の光景を見られたのではないかとキョロキョロと視線を彷徨わせてしまった。
 チクタクチクタク。
 遠くから祭りばやしが聴こえているはずなのに、やけに腕時計の秒針の音が大きく聞こえてしまう。
 心臓がざわざわ落ち着かない。
 しかも水泳競技で勝ちそうな時のざわめきじゃなくて、コンディションを崩した時の方のざわつきに似ていた。
 気づいてしまうと、胃を何者かに鷲掴みにされたような心地がしてくる。
 時計に視線を移せば、もう十七時五十九分ではないか。
「もう残り一分だぞ」
 蒼汰のことを美織が自分から誘ってきたくせに、約束をすっぽかしてこようとしているのか。
(今までだって、美織は事情があって数分遅刻してくることだってあったじゃないか)
 なんだか無性に腹が立って、鼓動が忙しなくなってきたため、ぎゅっと胸の前で少しよれたTシャツを握った。
 ――結局、十八時は過ぎてしまった。
「来ないじゃないか」
 何周か鳥居の付け根を回った頃、はたと気づく。
「まさか、あいつ」
 今まで自分のことに考えを奪われてしまって気づいていなかったが、美織は病気を患っているのだ。
 だとしたら……
「どこかで倒れてるんじゃないだろうな?」
 蒼汰の頭が一気に冴えた。
 まずいまずいまずい。
 倒れているのは、家の中かもしれない、それとも道路やバス停か、下手したらバスの中で倒れて大変なことになっているんじゃないだろうか?
 気づいたら、居ても経っても居られなくなって、蒼汰は地面を蹴り上げると坂道へと向かおうとした。その時。
「君、どこ行くの!?」
 切望していた声音が蒼汰の耳に届いた。
「何やってるの?」
(脅かすなよ……)
 ひょっこりと美織が姿を現わしたため、蒼汰はほっと胸を撫でおろした。
「お前、ちゃんと約束の時間に来いよ、心配しただろうが……!」
 その時、現れた彼女の方へと振り向いて、蒼汰は文字通り絶句した。
「な……」
 美織の姿。
 いつも流している長髪は綺麗に結い上げられており、華奢で白いうなじが目に付く。後れ毛が出ているのも、どことなく色香を感じさせた。
 紫色の妖艶な浴衣姿にも関わらず、清楚な雰囲気を漂わせていた。
 帯には愛らしいレースの飾りが顔を覗かせており、彼女のチャーミングさを現わしているようでもある。
 手持ちには愛らしい紅い色の巾着があり、そこに若葉色の根付とうさぎの愛らしいチャームがついていた。
 さらに下方へと視線を移すと、着物の裾の下、すっと細い足首が露わになっているではないか。
 蒼汰は妙に心臓がドキドキしてしまった。
(俺はいったいどこを見てるんだ)
 とはいえ、年頃の男子なので仕方がない。そんな風に自分に言い訳をすることにする。
「ねえ君、もしかして、私が可愛くて見惚れちゃった?」
 美織は、してやったりな猫のような表情を浮かべながら、蒼汰を見上げてすり寄ってくる。
「そ、そんなわけないだろ!」
 彼が後じさりしながら抗議するが、彼女はぐいぐいと距離を詰めてきていた。
 出かける前に風呂に入ったのだろうか、今日はいつも以上に石鹸の良い香りが、彼女の黒髪から漂ってくる。
 蒼汰の頭の芯がぼうっとなっていくようだ。
「ふふ、私に見惚れてないっていうことにしておくね。さあ、行こうか」
「ああ。そうだな」
 見惚れていたことには気づかれないように、素知らぬふりをしながら、前へ一歩進もうとしたところ――
「美織、病室を抜け出して、こんなところにいたのか」
 突然、凛とした声音が耳に届く。
「……っ……」
 前を進む美織が身体を強張らせると足を止めた。
 彼女の名を呼んだ声の主のいる方へと振り向く。
「ちゃんと病院に戻るんだ、美織」
 色素の薄い髪がサラサラとたなびく。猫のようなキリリとした茶色い瞳。
 女性が好みそうな顔立ちをした芸能人のような雰囲気を漂わせた美少年。
 蒼汰と美織と同じ高校の制服を纏う彼が、美織のことをまっすぐに見ていた。
(なんなんだ、こいつは?)
 蒼汰は、本能的に相手に対して嫌悪感のようなものを抱いた。自分のなわばりに別の獣が侵入してきたような感覚だ。
 島ではあまり見かけないような美少年が、美織に向かって口を開く。
「どうして入院しているはずの美織が夏祭りに来ているんだい?」
 同い年ぐらいだろうか。背格好はやや細身で、自分よりも少しだけ目線が下だ。だが、どちらかといえば粗雑な自分と比べると、線が綺麗な王子系の男子だと思った。
 それにしたって、美織に対して親し気な喋り方なのが、やけに蒼汰の鼻についた。
 彼女はといえば、バツが悪そうに地面に視線を落としている。
「|学くん、ううん、|昼空くん……なんで……?」
 ザワリ。
 蒼汰の本能がまたもや刺激された。
(美織は俺のことを「(きみ)」としか呼んでこない)
 だというのに、蒼汰の知らない美少年のことは「学くん」と下の名前で呼ぶのだ。
 知らず知らずのうちに拳に力が入り込んでしまい、爪が硬い肌に食い込んできた。
「美織が一人でこんなところに遊びに来るなんて、意外だったよ」
 どうやら目の前の美青年は蒼汰のことなど眼中にないようで、美織に向かって話を続ける。
(いけすかない奴だな)
 学と呼ばれた美少年が続ける。
「無断離院は、前みたいに先生や看護師さん達を困らせるよ。美織が帰らないって言うんなら、僕の家の運転手に頼んで車で連れ帰ってあげるから」
 すると、美織が声を出した。
「幼馴染だからって、そんなことしなくて良いから。それに無断離院なんかじゃない。ちゃんと一時退院したんだよ」
「一時退院? どうして僕に知らせてないんだい?」
「教える必要がないからに決まってるでしょう?」
 すると、目の前の学の表情が一気に陰る。
「どうしてなんだ、美織、昔だったら、何でも僕に話してくれたじゃないか?」
「小学生の時の話でしょう? もうさすがに何でも話せる年齢じゃないんだよ」
 だが、学と呼ばれた美少年は引かない。
「美織が周囲の人に隠し事をするようになったのは、あの男の事件があってからで……」
「その話はやめて……!」
 突然、美織が大きな声を上げたため、対峙していた学だけでなく、蒼汰の身体までびくりと反応してしまった。
 それまで傍観していた蒼汰だったが、美織と学の間に入る。
「美織が困っているだろう?」
 すると、学が眉を顰めた。
 制服のリボンの色を見れば赤。現在の一年生のカラーリングだ。
(こいつ、かなり失礼な下級生だな)
 そもそも、近くに見知らぬ男が立っていたというのに、まるで空気のような扱いをしてくるのだ。
 美織が続ける。
「学くん、私はちゃんと約束している相手がいるの。誤解されるような真似はやめて」
 すると、学が口を開いた。
「美織が約束する相手なんて、ほのかさん当たりだろう?」
「ええっと……」
 ほのか。
 蒼汰は自分の妹と同じ名前が出てきたので、ピクリと反応した。
 珍しい名前ではないので、美織の友人に同じ名前の女子生徒がいたとしてもおかしくはないだろう。
 学はサラサラの髪をかき上げると、ちらりと斜め上を眺めた後にコクリと頷く。
 どうやら一人で何かに納得しているようだった。
「それなら邪魔するのも野暮だね。だったら僕は行くよ、それじゃあ」
 結局、学は蒼汰に挨拶することもなく踵を返す。
 色素の薄い髪がさらりと揺れる。そうして、こちらを一瞥することもなく去って行ったのだった。
 最後まで嫌味な態度を取られてしまい、蒼汰はムカムカしてしまう。
「ごめんね、あの子は、私の一個下の学年の昼空学(ひるぞらまなぶ)くん。一応、転校してきてからずっと一緒の学校でね、いわゆる幼馴染ってやつなんだ」
「……そうかよ」
 蒼汰はとにかく腹が立って仕方がなかった。
 昼空学とかいうのに無視されたことも当然腹が立ったが、美織に他に親しい男性がいたことが、なんとなくショックだったのだ。
(くそ……)
 彼女を独占できているのは自分だけだという驕りのようなものがあったのかもしれない。
 気を取り直そうと思った蒼汰だったが……
 今度は二人の前に別の集団が現れた。
「美織、何やってるの?」
 少しだけ甲高い声がする。
 現れたのは、どことなく見たことのある少女だった。
 ツインテールに愛嬌のある顔立ち、キュッとしまった身体、すらりと伸びた手足。美織とは対照的に短めの丈のTシャツにホットパンツを履いていて快活な印象があった。
 ドクン。
(なんだ……?)
 心臓が早鐘のように脈打っていた。
 決して相手に異性としての魅力を感じたわけではない。
(なんで……?)
 蒼汰の全身が戦慄く。
(どうしてこんなにも母さんに顔が似ているんだよ?)
 現れた少女は死んだ母親の若い頃にそっくりだったのだ。
 どうしようもなく既視感を覚えて、血の気が引いていくのを感じた。
 動悸を落ち着けようと、Tシャツの裾をぎゅっと握る。
 少女が美織に対して語りかけた。
「美織、なんで一人でこんなところに来てるの? っていうか、学が近くにいたけど、あんたと一緒じゃないの?」
「え? ううん、昼空くんは今日は一緒じゃないよ」
 ――今日は。
 蒼汰の胸に美織の言葉が引っかかった。
(その言い方だとまるで、普段はいつも昼空と一緒にいるみたいじゃないか)
 少女がカラカラと笑う。
「ふうん、学はさ、あんたのことばっかり追いかけてるじゃん。あんたの憧れの人のことだって知ってるけどさ、もう色んなことは忘れちゃって、さっさと学とくっつきなよ」
「それは……」
 美織が口ごもった。
 蒼汰はショックだった。
 ……自分だけが知っていると思った美織。
 だけど、彼女には彼以外に色々な繋がりがあって、彼女の世界のようなものがあるのだ。
 引きこもって隔絶された場所で暮らす自分とは違って、取り巻く周囲が存在するのだと。
 勝手に仲が良くなったと思っていた美織と自分の間には大きな隔たりがあるのだと思い知らされたようで、胸の中が靄で覆われていくようだ。
 いてもたってもいられなくなって、駆け出したい衝動に駆られたが、足裏に力を入れて、なんとか踏みとどまる。
 その時――
「おい、お前たち何やってるんだよ?」
 これまた聞き覚えのある男性の声が聴こえてくる。
 ドクン。
 先ほど少女に出会った時以上に心臓がうるさくて敵わない。
(この声は……)
 頭の中に嫌な記憶が蘇ってくる。
『この間の事故、不運だった。あれさえなければ、この夏も来年も、お前はインターハイに行って、間違いなく活躍しただろう。だが、お前のその脚じゃあ、もう無理だ。ダメなんだよ』
 ドクンドクンドクン。
 死刑宣告にも似た宣言をされた際のイヤな記憶。
 先ほどまではじんわりと汗ばむほどだったのに、今となってはドッと汗が噴き出して、滝のように背を流れていく。
 案の上、少女たちが想像通りの名前を呼んだ。
「あ、山下先生!!」
「……こんにちは」
 快活な挨拶をしたのが美織。ツンツンした調子で挨拶したのが美織の友人の少女だ。
(こんなところで山下先生に出くわすなんて……)
 蒼汰は振り向いて相手の顔を見るのが怖かった。
「悪い、悪い、遅くなったな」
 山下先生が現れたと知るや、美織の友人の少女の頬がさっと朱に染まった。
「もう、いつも来るのが遅いんだから!」
 ツンツンした口調だが、山下先生の到来を心待ちにしていたのだと分かってしまう声音だった。
 若い生徒が教員に対して憧れを抱いているとか、そんなところだろうか?
「ほのか、珍しくお前が早く来すぎなんだって」
 山下先生の発言を聞いて、蒼汰に衝撃が走る。
(ほのかだって……?)
 美織の友人である少女の名前は、蒼汰の妹と同じほのかというらしい。
 蒼汰の心臓が大きく鳴った。
(それにしたって……)
 山下先生と似たような声色だ。けれども、蒼汰の知る威厳のある喋り方というよりも、どことなく若くて軽妙な口調に感じた。
 蒼汰は違和感を覚えつつも、選手生命が絶たれた際の出来事がフラッシュバックして木霊してきて、全身が何者かに支配されてしまったかのようで、苦しくておかしくなってしまいそうだった。
 呼吸も脈拍数も勝手に上昇していく。
 そんな中、山下先生とほのかとが会話を繰り広げはじめた。
「ほのか、普段のお前が遅いから俺が合わせてやったんだよ」
「はあ? その言い方、マジでむかつくんですけど……若い女子高生の私が、あんたと一緒にいてあげるだけ良かったと感謝しなさいよね?」
「強気だな。こんな奴に育ったって知ったら、兄貴が悲しむぞ」
「お兄ちゃんは悲しまないわよ、あんたが一番知ってるでしょう? まったくもう……!」
 どうしてだか彼らの会話が頭に響くだけで浸透してこない。
 蒼汰は胸をかきむしりながら、ゆっくりと背後を振り向く。
 ドクンドクンドクンドクン。
 そうして――
「……!」
 山下先生と呼ばれた男の顔を見て絶句してしまった。
 なぜならば、そこにいたのは――
「なん、で……?」
 喉がひりひりと乾く。
「どうして……?」
 胃の中がぐわんぐわんと揺れ動くようだ。
 何やら調子が悪くて仕方がない。
 目の前に立っていたのは、山下先生。
 だけど――
「何がどうなって……?」
 この中にいる四人の中では、一番身長が高くがっちりした体格の男。短く刈り込んだ髪に、人の良さそうな垂れ眼に、穏やかな微笑。いわゆるイケメンではないが、愛嬌のある顔立ちをしている。
 確かに知っている山下先生によく似ていた。
 だけど……
 蒼汰のよく知る山下先生よりも年若い青年だったのだ。
 血の気が引いていくような感覚があって、指先にうまく力が入らない。
 目の前がぐるぐる回るような感覚がある。
(なんだ……何かがおかしい気がするのは気のせいか?)
 母親によく似た少女に、どちらかと言えば恭平に近い山下先生。
 自分は違う時代にでもタイムスリップしてしまったのだろうか?
 そう思わないと説明がつかないぐらいの事態が目の前で起こっている気がするのだ。
(いや、待てよ、そんなおかしなことが起こるはずがない)
 島の中には割と親戚同士の家も多い。
 だから、もしかすると自分の知っている人間たちの親戚かもしれないのだ。
 そもそも時間遡行だのタイムスリップだの、そんなのあり得るわけがない。
 深呼吸をして自分自身を落ち着かせようと努力する。
(夢みたいな話があるはずがないんだ)
 少女と山下先生はやはり自分などいないかのように美織とだけ会話をはじめる。星空学の時もそうだったが、知り合いじゃないので仕方がないのかもしれない。とはいえ、愛想笑いや会釈ぐらいあっても良いのではないかと思ってしまう。
 けれども、ないものねだりだ。
「じゃあね、美織」
「じゃあな」
 そうして、ほのかと呼ばれた少女と山下先生は一緒に並んで去って行った。
「二人とも仲が良いんだから」
 美織がふふっと嬉しそうに微笑んだ。
 蒼汰は一気に現実に引き戻される。
 先ほどまで無音に感じていたが、人々のざわつきや祭りばやしや笛の音が耳にはっきりと聞こえるようになってきたのだ。周囲を見渡せば、普段こんなに島に人がいるのかと思わせるぐらいに、神社境内の人口密度が一気に高くなっていた。
 蒼汰は美織に向かって問いかける。
「美織、お前が言ってたほのかと山下先生って、あいつらのことだったのか? てっきり俺が知ってる山下先生と一緒のやつだったと思ってたのに……全然違うやつだった」
 そう、違う人物だった。
 どこか異界にまぎれてしまったような心持ちになる。
「ええっとね、山下先生は島の外の国立大学に通ってるんだけど、教育実習生として帰ってきてたみたいだよ、二人は幼馴染で仲が良いんだって」
 ザワリ。
 幼馴染のほのかと山下。
 どうしてだか、自分の妹ほのかと幼馴染の山下恭平の姿が脳裏に浮かぶ。
 先ほど出会った二人の姿を交互に思い浮かべてみる。
「あいつらは……」
 冷静になってみると、自分の母親や山下先生が若返ったわけではなく、ほのかと恭平が成長した姿だと言われば、なんとなく納得のいく姿だった。
 だが、それはそれでおかしい。
(馬鹿な考えはやめろ……)
 美織から話を聞いて、気づいてはいけない何かに気付かされるのも怖かったのかもしれない。
(今は考えるな、夏祭りを全力で楽しめ)
 美織と過ごす夏祭りはこれが最後なのかもしれないのだから。
 蒼汰は頭を振って荒唐無稽な考えを打ち消すことにした。
「君、どうしたの?」
 美織が不思議そうにこちらの顔を覗いてきた。
 鼻先が触れそうなほどに至近距離だ。そんな近くになるまで彼女が接近していることに気付かなかったなんて。
 蒼汰は思わず顔を仰け反らせる。さっと頬が朱に染まるのが自分でも分かった。
「近いっての……」
「ええ、もしかして君、恥ずかしいの、身体はこんなに大きいのに、可愛いなあ」
「うるせえ、腹を指で突いてくるな」
「ふふふ……じゃあ、さっそく神社の中を回ろうよ」
 すると、彼女が巾着を持っていない方の手を差し出してきた。
 そっと小さな掌に手を重ねる。
 少しだけ冷たい手が、蒼汰の火照った身体には気持ちが良かった。
「こっちだよ」
 まるで手を繋ぐのが当たり前になってきている。
 彼女に手を引かれて人ごみの中を歩いている内に、先ほどの出来事はどんどん薄れていった。
「お腹が空いたから、まずは屋台だよ」
 強い力で引っ張ってくる美織がはしゃいでいるのが、指先からも伝わってくるようだ。
 それにしたって……
 久しぶりにこんなに人が大勢いる場所に顔を出した。
 周囲の人々の視線がどことなく怖い。
 見られておかしな噂を立てられてやしないか不安で、心臓の音はなかなか元の回数には戻ってはくれなかった。
(落ち着け、自意識過剰になりすぎだ)
 スタート台からプールに向かって飛び込む際に、数多くの人たちから見られていた時は、期待と羨望に満ち満ちたものだったから怖くなかったのだ。
 今は、もしかすると誹謗中傷や悪意のようなものに晒されるのではないかと心配になってしまい、身が竦むようだった。
 気持ちを落ち着かせようと何度か深呼吸をしていると、次第に平常心に戻ってきていた。
 先を歩く美織の背を見ていると、どんどん心の荒波は凪いでいく。
「せっかく美織と一緒なんだ。楽しまなきゃ損だよな」
 そう、美織と夏祭りに来るのは今年で最後かもしれない。
 彼女にとって最後になるだろう夏祭りの同伴者に選んでもらえたのは蒼汰なのだ。
 胸の中に妙な誇りのようなものが沸いてくる。
 人ごみの中を歩いていると、小さな少年少女が走り回って、どんとこちらにぶつかってきた。
「お兄ちゃん、ごめんな!」
「ごめんなさい!」
 どうやら兄妹のようだった。
 蒼汰の脳裏に小さい頃の記憶が蘇ってくる。
『お兄ちゃん、どこにいるの?』
『ほのか、ここだ、探したぞ』
(俺の妹のほのかも小学校の友達と遊びに来てるんだろうか……?)
 もしかしたら、今頃の実妹ほのかが、この人垣の中にいるかもしれない。
 その発想には行きついていなかったなと思った。
 なぜだか妙に妹に今の自分を見られたらと想像したら、ドギマギしてくる。
 きょろきょろと見回すが妹の姿はもちろんなく、蒼汰はなぜか安堵した。
「俺は何に動揺してるんだよ」
 その時、先を歩いていた美織がくるりとこちらを振り返った。
「ねえねえ」
「なんだよ?」
「林檎飴が食べたいなって」
 美織が指さしたのはリンゴ飴やパイン飴が売ってある屋台だった。多種多様な彩もさることながら、色んな種類の甘ったるい香りが鼻腔を突いてくる。
 以前に夏祭りに来た時とは違って、かなり数が増えていたので、蒼汰は思わず独り言ちた。
「昔と違って、リンゴ飴だけじゃなくて、ブドウ飴にイチゴ飴とか色んな種類が今はあるんだな」
「んん、前からなかったかな?」
「そうだったか?」
「うん、私が小さい頃にはたくさんあったよ?」
 美織がリンゴ飴を買ったが、蒼汰はなんとなく腹が空かなかったので、食べるのは断った。
 そうして、リンゴ飴を頬張りながら進む。
 ちょうど彼女が飴を舐めきると、今度は射的に連れて行かれた。
「ふふふ、小さい頃から射的をやるのが楽しみなんだよね」
「得意なのか?」
「それはね……内緒だよ」
 彼女の自信満々な笑みを見るに、どうやら相当な腕利きのようだ。
(そういやあ、天体望遠鏡の照準を合わせるのは上手だったな)
 原理としては似たようなものだから、美織は射的も得意なのだろう。
 そう確信しながら、彼は彼女が銃で商品を狙う姿を眺めて過ごしていたのだが……
「ものの見事に……」
 全部的外れのところに弾が飛んでいっていた。
(下手過ぎだろ)
 どうやら原理がいくら同じでも、実際にできるかどうかは別のようだ。
「悔しい! あの一等のふんわりわんちゃんのぬいぐるみが欲しいのに! 毎年もらえないよ!!」
 美織は、地団太を踏んで跳びはねて悔しさを表現していた。
「ねえねえ、君もやらない?」
「俺はパス」
「ああん、どうしても欲しいよ、あのぬいぐるみ!」
 嘆く彼女の姿を見て、彼はため息を吐く。
「ああ、ほら、俺はしないが、手伝ってやるから」
「手伝ってくれるの?」
 ぱあっと美織の表情が明るくなる。
「まず構えからが、おかしい。それと、ちゃんと銃口をほしいぬいぐるみの方に向けてだな……ああ、ズレたぞ」
「んん、こっちかな?」
「自分の思ってるところと狙いを定めるところは別なんだよ。照準当てる窓があるわけじゃないから特にだ。ああ、ほら力が入りすぎてる。狙いがズレるぞ」
 彼女の強張った身体に肩を置いてリラックスさせる。
「ほら、引き金引いてみろ」
「分かった! えいっ!」
 そうして、パンと乾いた音が響いたかと思うと、目当てのぬいぐるみが揺らぎ、台の上に倒れた。
 美織が歓喜の声を上げる。両手を上げて、その場でピョンピョン跳びはねている。
「やったあ! ずっと欲しかったぬいぐるみをゲットだよ! ねえねえ、君も見た見た?」
「ああ、ちゃんと見たよ、見た見た」
 そもそも蒼汰が美織の手伝いをしたのだから、見ているに決まっている。
 うんうんと適当に相槌を打っていたら、美織がぷうっと頬を膨らませる。
 彼女の腕の中には射的のおじさんに貰った景品のぬいぐるみがある。遠目で見たら可愛かったが、近くで見ると割と縫製は雑で、どことなく本来のイラストとは違う何者かになっている気がしたのだが……美織はといえば、今まで手に入らなかったものが手に入った喜びの方が強いようだった。
「もう、君、ちゃんと聞いてるの?」
「もちろんだって」
 ぬいぐるみを抱き抱えたまま、愛らしい表情で迫られると心臓に悪い。
「ほら、行くぞ」
「あ、待って!」
 そうして、再び二人で並んで歩きだす。
 ものすごい勢いで喜んでいたはずなのに、再び何か不満げに口を尖らせていた。
 とにかくクルクル表情がよく変わる女性だ。
「せっかく目当てのものが獲れたってのに、今度は何が不満なんだよ?」
 すると、美織がぽつりと呟く。
「この子、ふわふわしてて気持ちが良いんだけど、抱っこしたままだと、君と手が繋げないんだもん」
「は……? 俺と、手が繋げない?」
「そうだよ、そう言ってるの」
 美織がぬいぐるみに顔を埋めながら、蒼汰のことを見上げてきていた。
「な…にを……」
 思いがけない返答があって、蒼汰は顔が紅潮してしまった。
 美織は本当にしょげているようだったので、彼は機転を働かせる。
「ああ、ほら、だったら、貸してみろよ。そのイマイチ可愛くないやつ」
「可愛くないって失礼ね、ぶさ可愛いでしょう?」
「ぶさ可愛い、なんだよ、そりゃあ」
 そうして、美織から巨大なぬいぐるみを受け取ると片腕で抱きかかえ、反対側の手を差し出した。
「ほら、これで良いだろう?」
「……うん、ありがとう!」
 彼の掌の上に彼女の小さな手が乗ると、少しだけ躊躇いながら握り返したのだった。