図書館からの帰り道。
蒼汰は、提灯やコードなどを運ぶ大人たちの姿を見つける。
(そろそろ祭りか)
毎年この島ではお盆が近くなると夏祭りが開催される。
鬼に扮した大人の前を、小鬼に扮した子どもたちが踊りながら、島の商店街を歩いて回るというものだ。島の伝統行事でもあり、子どもの頃に無理やり踊らされた記憶がある。一緒に練習した恭平たちは、仮装行列のようではしゃいでいたが、蒼汰はあまり気乗りしなかった。
彼らの横をすり抜けてから帰る。
近所の大人たちも、蒼汰が子どもの頃にはよく挨拶をしろと話してきたものだが、高校生の自分に対して声をかけてくることもなかった。
家に一度立ち寄った後、望遠鏡の準備をして、浜辺へと向かう。
もうすっかりルーチンワークになってしまって、無意識に足が進む。
蒼汰は、陽の沈む海を眺めながら、ぼんやりと考える。
(夏祭りねえ)
小さい頃に、妹のほのかを連れて夏祭りに出掛けたことがある。父親は島の公営病院の当直だったから、兄妹二人で出かけることになった。ほのかがどうしてもピンクの浴衣を着たいと言って引かないものだから、蒼汰が慣れない手つきで一生懸命帯を結んであげて、雑誌の見よう見まねで髪を結ってから、神社へと出向いた。
最初は手を繋いで歩いていたのだが、些細なことで喧嘩になって、ほのかはどこかに行ってしまった。ものすごい人ごみで探しても見つからない。不安に駆られていると、ほのかの手を引きながら黒髪の少女が現れた。
『ほのかちゃん、ここにいます』
えんえんと泣きわめくほのかを連れてきた彼女に御礼を言おうと思った時には、もう姿を消してしまっていた。
(あの女の子、そう言われれば……)
美織に似ている気がしたが気のせいだろうか。
そもそも年代に食い違いがある。
だって、ほのかはまだ小学生であり、美織は高校生なのだから。
美織は一人っ子だけど、もしかすると親戚がいてもおかしくはない。
その時、さっと影が差す。
「ねえねえ、毎晩ここに来て退屈じゃないの?」
いつもよりも少しだけ早い時間だが、美織が姿を現わしたのだった。
「今日は早いな」
「ええ、早く来てみたの」
微笑みかけられると動悸がしてくる。
今が夕暮れ時で本当に良かったと心の中で安堵した。
けれども、同時に日中インターネットで彼女のかかっている疾患について調べていたことを思いだして胸が苦しくなってくる。
「なんで早く来たんだよ?」
「え? なんとなく早く君に会いたかったからさ」
そう言って、彼女は自分の隣に膝を抱えて座りこんできた。
蒼汰はどうしようもなく気になって、美織に問いかける。
「なあ、お前さ……」
「ん? どうしたの?」
夕暮れ時、潮騒を聴きながら、太陽が水平線に沈む様子を二人で黙って眺めた。
もう予後は長くない美織。
もうこの光景を一緒に何度も見ることはできないかもしれない。
「いいや、なんでもない」
本当は彼女に対して、医師から余命はどのぐらいと聞いているのか訊ねたかった。
けれども、あまりにもセンシティブな内容で、踏み込んで良い内容かどうかが分からなかったのだ。
すると、美織が黒髪をかき上げながら続けた。
「私さ、夏の間に儚くなるって言ってるでしょう?」
蒼汰の考えていることが分かっているかのような口ぶりだ。
そうして……
「主治医の先生からはね、去年の夏頃に、このままだと余命一年だって言われてるの」
美織からの思いがけない返事に、蒼汰は言葉に詰まった。
「医者から、去年の夏に、余命一年って言われただって?」
ドクンドクンドクンドクン。
蒼汰はぎゅっと拳を握った。
心臓の音がうるさい。こめかみまで拍動しているのが分かる。
「うん、そうだよ」
美織が困ったように笑った。
(そんな、だとしたら、美織は……)
誰だって簡単に分かる話だ。
美織は本当なら今生きているのが奇跡で、いつ死んでもおかしくない状況だということだ。
彼女の死が訪れる瞬間は、たった今この瞬間でもおかしくはないのだ。
(こいつは……)
ちょうど太陽が海の向こうに姿を消した。
「お前は……」
死ぬのが怖くないのか?
いいや、怖いのに隠しているのか?
どうして、そんなに俺の前で気丈に振舞うことができるんだ?
けれども、蒼汰はその質問達を問いかけることは出来なかった。
「仕方ないよね、今の日本じゃあ病気を治す方法がないって、先生からは言われちゃったよ」
美織は困り顔を浮かべていた。
蒼汰は砂浜を眺める。
「悪い、お前の病気聞いて、図書館で調べてはいたんだ。だから、もしかしたらとは思っていたんだが、そんなに病状が悪いとは思ってなかった」
「私の病気のこと、調べてたの?」
「この間、『詮索するな』みたいなこと自分から言ったくせに、ごめん。どうしても気になって調べてたんだ、悪かった」
すると、美織が首を横に振った。
「ううん、だって私が病名を告げたんだもの。気になったら調べちゃうよ。私以外にも同じ病気の患者さん、いっぱいいるだろうしさ」
そうして、彼女は海を眺めながら続ける。
「元々体は丈夫じゃなかったけどさ。先生から余命は残り一年って言われてね、最初は頭が真っ白になっちゃった。え、私の人生、たった十八年で終わっちゃうの? 成人したら、大学生活楽しんだり、お酒飲んだりしたかったなって」
彼女の横顔は儚く泡になって消えていく人魚のように美しかったけれど、一方で前を見据える姿は、王子のことを思って泡になって消えていくだけの存在には見えなかった。
「最初はショックだったけど、でも、もう本当に一年しかないんだったら、自分が心底やりたいことだけやって死にたい、そんな風に思うようになったんだ」
美織の力強い眼差しを見て、蒼汰は胸を鷲掴みにされたような心持ちがした。
過去を憂いていた彼とは違う。
死に直面するその日まで――前を向いて生きようとしている彼女の芯の強さのようなものを感じた。
「いつ死ぬかは分からない。一分一秒だって無駄にしたくない。だから、星を毎晩見て過ごしたの。星になりたい、だから……」
美織の語りに対して、ついつい蒼汰は腰を折ってしまった。
「星になりたい、っていうのはどういうことだ?」
すると、煌々とした光を目に宿したまま、彼女は続ける。
「私たちが見ている星はさ、実はもう何百年も前に消えてしまっているかもしれないでしょう? だけどさ、消滅してしまっても、綺麗な光を私たちに届けてくれる。消えても尚輝きを誰かに届けることができる。そんな存在になりたいなって思ったの」
消えても尚輝きを誰かに届けることができる、星のような存在。
「たくさんの人たちじゃなくて良いんだ。私の大事な人たちにとって、そんな存在になれたら、すごく幸せなことだなって思ったんだ」
自分の大事な人にとっての輝ける星。
綺麗な表現だと、蒼汰は漠然と思った。
そうして、美織が彼を見上げる。
「大事な人たちの星になるために、私には克服しないといけないことがあったの」
「克服しないといけないこと?」
「うん、私は海が怖くて、しばらく来れなかったって、言っていたでしょう?」
「そういやあ、そんなことを言っていたな」
美織の瞳に映る光が、少しだけ揺れ動いた。
「私ね、ずっとずっと後悔していたことがあったの。海にまつわることで。そうしたら、君に会えた。死ぬ直前の私のために、神様が奇跡を与えてくれたんだって、そう思ったんだ」
彼女の強い眼差しを受けて、蒼汰は息を呑んだ。
以前から気になる発言を彼女は繰り返していた。
思い切って尋ねてみることにする。
「お前は、ずっと俺のことを知っているみたいだったな。もしかして、昔どこかで会ってたり、するのか?」
すると、美織の瞳から一粒の涙が零れて、風が攫っていった。
「うん、君は私のことを知らないと思う。だけど、小さい頃から、貴方はずっと私にとってのヒーローなんだよ。それは君がもう泳げなくなったんだとしても変わらない。そうだね、私のなりたい星みたいな存在、それが君なんだ」
蒼汰の瞳が見開かれた後、まるで水面のように揺れ動いた。
……美織にとってのヒーロー。
たとえ泳げなかったとしても……
彼女にとっての輝ける星。
「俺がお前にとっての……星」
目元と頬を朱に染めた美織がコクリと頷いた。
ちょうど、その時――視界の端で何かが閃く。
「あ!」
隣に座っていた美織が、突然空を見上げて声を上げる。
つられて蒼汰も夜空を薄ぼんやりした空を眺めた。
目の前を星が横切る。
「流れ星」
「流れ星」
二人して声を上げた。
まだ仄かに明るい夜空から海に向かって、流れ星が姿を落ちていった。
そうして、続けて何個かの星が流れていく。
「今日は流星群が観れる日だったのか?」
蒼汰がぼやいた。
その時、突如として美織がクイズを出してきた。
「ねえ、君、流れ星とほうき星と彗星の違いって知ってる?」
「流れ星とほうき星と彗星?」
「そう!」
残念ながら蒼汰の通う高校の授業では「地学」を取り扱ってはいない。
中学時代の理科の記憶を辿る。教科書に厳密な違いは載っていただろうか?
成績が良いと言われてきたが、さすがに習っていないことは分からない。
「分からねえ」
すると、美織が人差し指をピンと突き立て、胸を反らしながら得意げに告げた。
「ふふふ、天文学部部長のこの私が教えてあげるね」
「頼んだ」
すると、気を良くした美織が、流れ星と彗星・ほうき星・流星群についての違いを簡潔に述べはじめる。
「彗星はガスやちりを含んだ氷のかたまりで、太陽に照らされて宇宙で輝いているの。別名ほうき星。彗星のちりが流星群のもとになるんだ。」
「へえ、じゃあ、流れ星は?」
「流れ星は宇宙にあるちりが地球の大気にぶつかって、地球で輝いたものなんだよ。流れ星の大半は、地上に辿り着く前に燃えつきちゃうんだけど、燃えずに地上に落ちてきたのが隕石」
ふふんと鼻高々で得意げに語る美織の姿は、なんだか愛らしかった。
「燃え尽きても、それでも人の心に残る流れ星、か」
蒼汰はポツリと呟いた。
先ほど美織が放ったヒーローという言葉も相まって、彼の胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
「今日はさっそく流れ星が観れてラッキーだったね」
「ああ、そうだな」
蒼汰は気を取り直して返事をすると、美織が喜々として続けた。
「毎年この時期はペルセウス流星群が観れる時期なんだけど、今年はたくさん観れたら良いな、去年は少なかったからさ」
夜空を見上げる彼女は、流星群の観測を心待ちにしているようだった。
「今年がきっと最後になるかもしれないしさ」
今年が最後。
蒼汰の中で彼女がいなくなる実感がまだ湧かないが、想像するだけでなんだか胸が苦しくて仕方がなかった。
美織がこちらに笑顔を向けてくる。
「そうだ、今日はせっかくだし、惑星を観察しようよ。水金地火木土天海。昔は冥王星も惑星だったけど、今は準惑星扱いになってるのは、中学時代に習ったよね?」
「ああ、それぐらいは知ってるな」
「だったら、惑星の語源は知ってる?」
「いいや、分からないな」
すると、美織がゆっくりと口を開いた。
「語源は――惑う星。夜空を惑うように動く星。だから惑星」
惑う星。
まるで水泳を失ってしまい行き場を失くして、新たに何かに縋りたくて美織を見つけたけれど、いなくなってしまうことに恐怖を感じている、自分の気持ちを表現しているかのようだった。
「なんだか自分のことみたい」
けれども、口を開いたのは美織だった。
彼女の言葉を耳にして蒼汰はハッとなる。
膝を抱えていた彼女の表情を見ようとしたが、ちょうど顔を埋めたので見えなくなった。流麗な黒髪がさらりと揺れる。
(美織も迷っているんだろうか?)
星になりたいと言いつつも……きっとまだ彼女の胸の内には様々な葛藤があるに違いない。
だって、近づいている死をすんなりと受け入れることなんて、誰にだってできるわけじゃないし、きっと死ぬ最後まで死にたくないと思っている人の方が大半だろうから。
ちょうど、その時、夜空を見上げた彼女が声を上げる。
「あ!」
また流れ星が過った。
続けざまに次の流星が輝く。
蒼汰は大きな声を上げた。
「美織の病気が治りますように!」
「え?」
美織がきょとんとしている。
余命がもうなくて、厳しい状況なのは分かっている。
けれど、何かに縋りたい気持ちでいっぱいだった。
「俺はお前に生きててもらいたい」
美織は蒼汰をちらりと見ると、瞳を揺らめかせた後、唇をきゅっと噛み締める。じわりと瞳に涙が滲み、目頭が赤くなっていく。彼女は一度瞼を閉じると、また夜空を見上げた。
また流れ星がキラリと閃く。
深呼吸をした美織が一息に叫んだ。
「君の怪我が完治して、また泳げるようになって、未練がなくなりますように!」
水平線に星が消えていくのを見届ける。
蒼汰が呆れたように美織に伝えた。
「お前、すぐ俺に未練とか言ってくるな、そんなに女々しそうに見えるのかよ?」
「え? うん、そうだけど……?」
「まったく、敵わないな」
バツが悪そうに微笑んだ蒼汰だったが、彼女が自分のことを願ってくれたのが胸に染み入るようだった。
その時、そっと掌の上に何かが重なる。
視線を動かすと、美織が自分の手に手を重ねてきていたようだった。
「お互いの願いが叶うと良いね」
ふわりと彼女が微笑む。
昨晩雷が怖いと話す彼女を抱きしめていた時とは違って、今度は彼女の方から積極的に触れ合ってこられたのだ。
年頃の男子高校生らしく、美少女にそんな行動をされたら落ち着かない。
いいや、美少女が相手だからなんかじゃない。
……美織だから。
相手に気取られぬように何度も深呼吸を繰り返した。
「ああ、そうだな」
はにかむ彼女からは幸福感が溢れてくるようで、彼の心まで充たされるようだった。
再び流星が空を翔るのを眺めていると、美織が蒼汰に願いを告げてくる。
「あのね、君にお願いがあるんだ」
「お願いって何だよ?」
すると、彼女が満面の笑みを浮かべた。
「今度ある夏祭り、一緒に行きたいんだけど、どうかな?」
彼女の突然の思い付きのようなお願いにはだいぶ慣れてきた。
蒼汰はふっと口元を綻ばせる。
「いいぜ」
彼は彼女の華奢な手をそっと握り返したのだった。



