蒼汰はベッドの上で目覚める。どことなく室内が薄暗くて、ほんのりと橙色に染まっていた。
「もう夕方か、寝すぎたな」
昨晩、美織が帰るのを見送って、帰宅してからも寝付くのに時間がかかった。
「っ」
起きたばかりだが、なぜか水の中で揺蕩うような感覚に襲われた。
おそらく昨晩、久しぶりに海の中に入ったからだろう。
砂を蹴って水中に潜って、背筋をしゃんと伸ばして、指の先から足先まで一本の線のようになった筋の緊張だったり、水をとらえて引き寄せて後ろに押して水上に肘を出して、そうやって前進していく、両足の親指ぐらいが触れるように蹴りを入れて……
身体が勝手に水の中での動きを覚えていた。
無意識にもっともっと、海の中を泳いでいたかったように思う。
「俺は、やっぱり、どうしようもなく……」
けれども気づいてはいけない。
気づいたら、どうしようもなく苦しくなるから。
ふと、窓の向こうを見る。
どうやら今日は生憎の曇り空だ。
「久しぶりに天気が悪いな」
枕もとのスマホを手に取る。
天気予報では夜は雨のようだった。
「今日は中止だって連絡を入れるか」
そう思ってSNSメールを開こうとしたのだけれど……
「マジか……」
そこでハタと気づく。
「俺、あいつの連絡先、聞いてないじゃんかよ」
今の今まで毎日約束通りに姿を現わしていたから、連絡先を聞いておこうという発想に至っていなかったのだ。
蒼汰は目を顰める。
「まずいな。昨日の内に、今日は天体観測は休みだって伝えておけば良かったか」
けれども、昨日は帽子騒動もあって、うっかりして伝えそびれてしまった。
さすがに天候が悪かったら浜辺には現れないかもしれないが、万が一のこともある。
蒼汰はもしもに備えて、ベッドから飛び降りると着替えをはじめる。
時間が近づいてきたのを見計らって、今日も一人でビニール傘を手に、海岸沿いへと向かうことにした。
「まだ雨は降ってないが、時間の問題だな」
どんどん雲が澱んでいき、普段に比べて夜を迎えるのが早いような気さえした。
そうこうしていたら、定刻である夜の八時を迎える。けれども彼女はやってこない。
それから十分待ったが、姿が見えないままだ。
ちょっとだけ残念なような、雨が降るかもしれないのに、美織が無理して来なくて良かったという安堵とか綯い交ぜになる。
「さすがに来ないな。帰るか。また明日出直すか」
ちょうど雨粒がぽたりと頬を濡らしてくる。空を見上げた、その時――
「あ、君、やっぱりここにいてくれたんだね!」
なんと砂浜に美織が姿を現わしたのだ。
「お前、なんで来たんだよ?」
蒼汰は悪態をつきつつも、心の中で歓喜している自分に気付いてしまう。
白いワンピースの裾を翻しながら、彼女は彼のいる方へと駆けてきた。
「君が来てるかもって思ったんだよ。やっぱり来てくれてたんだね。こっちに向かって良かった」
美織が心底嬉しそうに微笑んでくる。
蒼汰の期待による思い込みかもしれないが、美織も自分に会うと嬉しそうだと漠然と思った。
なんだか胸の中がむずがゆくなる。
蒼汰は意を決して伝える。
「お前に……会えて良かった」
「え? 何々、急にどうしたの? 素直な君はなんだか怖いよ」
「怖いってなんだよ」
「だってだって、怖いんだもん!」
そんな風に文句を言ってくる美織だったが、頬が朱に染まっていて、愛くるしい印象が増していた。
「俺だってたまには素直に発言するさ。まあとにかく今日は解散だ。ほら、お前、いつもどこかにすぐ消えるけど、今日は道路のところまで送るから」
「えへへ、ありがとう」
そうして、蒼汰は美織に背を向けると、先を歩きはじめた。
その時――
「あ……」
背後からか細い声が聞こえてきたため、ハッと彼は後ろを振り向いた。
「美織……?」
美織の身体が傾ぐ。
「どうした……!?」
彼女は背中を丸めたまま、その場に頽れた。
「美織……!」
蒼汰も咄嗟にしゃがみこむ。
美織の視線は像を結ばずぼんやりしていて、全身から力が抜けてしまっているようだった。
(今まで勝手に美織は元気だと思い込んでいた自分が馬鹿だった)
バカみたいに明るいから、気付いていなかった。
蒼汰は激しい後悔に襲われる。
「くそっ、どうしたら……」
水泳でケガをする場面というのはほとんどなかったが、それでも熱中症や軽い怪我なんかはある。だからこそ、初期対応のようなものは習ってきたが、明らかにそれらとは違う症状で、どう対応して良いのか分からなくなってしまった。
焦っていると、息も絶え絶えになりながら、美織が話しはじめた。
「大丈夫、しばらくしたら、身体、また動くようになる……から……」
そうは言われても、美織の顔色があまりにも白くて、本当に元に戻るのかと不安になってくる。彼女の肩に置いた指先に勝手に力がこもってしまい、彼女の柔肌を傷付けないか心配なぐらいだ。
そんな中、ぽつぽつと降っていた雨足が強くなる。
「美織、俺が担いでも大丈夫か?」
「……うん」
そうして、彼女を横抱きにすると、さっと立ち上がる。抱えた彼女の身体は、まるで幼児のように軽かった。
その重さは彼女が病に侵されていることの証明のようで……
蒼汰は頭を振ると、周辺へと視線を配る。
「まずいな、雨がひどくなってきてる。どこかに移動しよう」
けれども、残念なことに近くに隠れるための高いものは何もない。
砂浜から防波堤の階段を登って道路に出る。海岸線の向こう、向日葵畑を挟んだ向こう側に、家の灯りがポツポツ見えた。
すると、そこよりもっと山手の方を美織が指を差した。
「あっち、家があるから、あの青い家」
「お前の?」
「うん」
彼女の指さした先にある家に向かって、彼は急ぎ足で進んだのだった。



