今日も勿論彼女の天文学部の活動とやらに付き合う予定だ。
「ああ、もうこんな時間か」
 連日睡眠時間が短かったこともあってか、今日の夜はさすがにぐっすり眠ることができた。というよりも、寝すぎたかもしれない。
 ベッドの上、枕の下に置いていたスマホを手に取って時間を見れば、もう昼近かった。
 蒼汰が布団の中から這い出て、部屋の外に向かうと、家族は皆外に出てしまった後だった。
「今日も朝起こしに来なかったな」
 リビングに入って、ソファの近くを抜けて、ほのかの習っている黒いピアノの上に飾られた写真立てに目をやる。
 年を取ることのない美しい母の姿をじっと眺める。
 まだ母親が生きていた頃、子ども園の入学式に制服を着て満面の笑みを浮かべる自分の姿が、なんとなく自分ではないように感じた。
 ほのかが生まれたばかりの頃に撮ったのだろう、家族四人で仲睦まじく映る家族写真を見たが、どことなく気持ちは醒めてしまっていた。
「結局、水泳が出来なくなってからは俺に話しかけてもこないくせに……」
 皆の笑顔がどことなく嘘らしく感じたのだ。
 けれども、父親は蒼汰が最低限の生活ができるようにと支援はしてくれているわけだし、不平不満を言いすぎても良くないかもしれない。
 そんなことは頭の中では分かってはいるものの、やはりどこかにやるせなさのようなものが募った。
 なんだか無性に虚しくなって、結局昼間は自室に戻って鍵をかけてベッドの上で突っ伏して過ごしてしまう。だらだらと過ぎる時間を漫然とテレビの映像や配信中の映画を眺めたりしていると、気づけば一日が簡単に過ぎ去ってしまう。
「今日の昼間も結局、似たようなつまらない日になっちまったな」
 去年の今頃の自分ならば、まだ陽が暮れるまで泳ぎ続けてやると勢い込んでいたはずだ。
 けれども、夕暮れ時の太陽を見ても、早く夜になれば良いのにとしか思えなくなってしまっていた。
 輝いてた頃の自分と比べたって仕方がないことは分かっている。
 けれども、どうしたって比較してしまうのだ。
「だけど、今の俺には……」
 そう、夜になりさえすれば、美織と一緒に天体観測することが出来る。
(今までの無為な生活とはおさらばだ)
 今日は、家族が帰ってくる前にさっさと外に出てしまおう。
 そう思って、夕暮れ時に望遠鏡を担いで外に出て自転車に乗る。
 いつもならば重たく感じていたのに、ペダルを漕ぐのが軽く感じた。
 まだぬるい風を体中に纏いながら前進する。
「あいつと今日もまた会えるんだな」
 夜海美織。
 本当なら同級生だったはずの女子高生。
 どうやら話をしている内にいくらか分かってきたことがある。
 島に越してきたのは数年前、小学生の頃なのだという。
 島に高校は一つしかないが、中学は一応三つある。蒼汰がいつもいく浜辺の近くから別の校区になり、浜辺向こうの地区に住んでいるらしい。だから、中学は違うわけだから、蒼汰は美織のことを知らなかったのだ。
「あんな美少女が転校してきたってなったら、俺の小学校でも噂になりそうなもんだが、ならなかったみたいだな」
 ふと、彼女が話していた単語が気になってきた。
「何の病気なんだろうか」
 おそらく療養のことなどもあるから、大きな話題にもならなかったのだろう。
 彼女が話していたように、学校では皆の知らない幽霊のような存在として扱われているのかもしれない。
 だとしたら……
「あいつのことをちゃんと知ってるのは俺だけ、ってことか」
 最初は儚げに見えた美織だが、日々接している感じでは病気の雰囲気は微塵も感じさせない。血色だってかなり良くって、時折蒼汰に接近してきて、触れた肌からは熱を感じて心地が良い。
 最初は「なんだ、この女は」と思っていたのだが、最近は夜が待ち遠しくて仕方がなかった。
 心なしか、重たかったペダルがどんどん軽くなっているような気がしたけれど、どうしてなのか気づかないふりをしたのだった。
 浜辺では美織がバンザイをしながら明るい声を上げた。
「じゃじゃ~ん、今日は月の観測をおこなうことにします!」
「お、やっと本番か」
 蒼汰が口の端を吊り上げた。
 天体望遠鏡の照準を月に合わせると二人で観察をはじめる。ピントを合わせると、黄金の月がくっきりと映っていた。
「今日は綺麗に月が見えるな」
「観察日和で良かったね!」
 蒼汰は月が観れたので気持ちが弾んだが、隣ではしゃぐ美織を観察するのも同じぐらい面白かった。
「月の海」
 美織が突然そんなことを言いはじめた。
「月の海? ああ、黒いとこは海みたいだよな」
 蒼汰が問いかけると、美織が嬉々として語りだす。
「月の海っていったら綺麗な言葉だけど、実は海でもなんでもないんだよね。黒い玄武岩が溜まって海みたいに見えるんだ、神秘的だよね!」
「へえ、まあ確かにそうだな」
 子どものようにはしゃぐ彼女を見ていると、蒼汰まで気分が明るくなってくる。
 彼は思いついたことを彼女に向かって告げた。
「そのさ、月ってお前みたいだな?」
「え? どうして?」
 美織がキョトンとしていた。
「お前って顔は悪くないだろう?」
「んん? 褒めてるの?」
「まあそうだな。でも実際は月みたいな儚い感じじゃあない」
「あんまり褒めてるようには聞こえないんだけど……!」
「まあとにかくだ。一応褒めてるんだよ」
 食い掛ってこようとした美織を押しのけて、蒼汰は話を進める。
「そういやあ、こんな狭い島なのに、どうして話題になってなかったんだろうな?」
「え?」
 美織が顎に手を当てて考え込み始めた。
「それは昨日も言った通り、体が弱くて学校に行ってないからだよ」
 あっさりとした解答が返ってきたので、蒼汰も納得したのかポンと両手を打った。
「ああ、それもそうか」
「あと、私は元々眼鏡だった」
 その発言を聞いて蒼汰はピンときた! 
(眼鏡を外したら美少女という王道展開が現実にもあるなんてな……)
 彼は嬉々として続ける。
「それだな、眼鏡だから話題にならなかったんだ。顔だけはとにかく可愛いからな」
「男の人に可愛いって言われるのは苦手なんだけどな? っていうか、顔だけはとにかく可愛いっていったい何!?」
 頬を赤らめて抗議する美織は心底愛らしく、見ていて蒼汰の方まで頬が赤らむのを感じてしまう。
「ついつい本当のことを言っちまったな」
 二人で和気あいあいとしていた、その時。
「あ……!」
 美織の被っていた麦わら帽子が風に吹かれて空を舞い始める。
 そうして、夜の海へと誘導されていく。
「大事な帽子なの!」
 ザクザクと砂浜を進んだ美織だったが、打ち寄せる波際で足をすくめた。
 そうして、彼女の顔を見れば、唇をぎゅっと噛みしめているではないか。眉根を引き絞ると、潤んだ瞳で蒼汰を見てくる。
「泳げないの……私……」
 そこまで遠い距離ではない。
(海の中を歩くぐらいなら、今の俺だって……!)
 蒼汰は勢いよく海の中へと足を突っ込んだ。
 ざぶざぶと腰のあたりまで水の中に浸かる。久しぶりの感覚だった。
 そうして、泳がずとも平気な距離で帽子を手に取った。
「ちゃんと拾ったぞ!」
 彼は大声を上げつつ片手を振って知らせると、美織の表情が明るいものへと変わった。
 再び砂の上に足をつけると物足りなさを感じてしまう。
「ほら」
「ありがとう……だけど……!」
 突然、美織がハラハラと涙を流し始めてしまい、蒼汰はぎょっとしてしまう。
「どうしたんだよ……!?」
「だって、だって……」
 それ以上は言葉にならないようだった。咽び泣く彼女の姿を見て、蒼汰の胸の内にどうしようもなく愛おしさが込み上げてきてしまう。
「そんなに遠い距離じゃなかっただろう? 泣くなよな」
 完全に無意識だった。
 気付いた時には――
 彼は彼女のことを抱き寄せていた。
 彼の濡れた両腕が彼女のワンピースを濡らす。
 静かな浜辺に優しいさざ波の音色が聴こえる。
 しばらく抱きしめ合っていた二人だったが――
「キャンキャン!」
「シロや、夜は見えづらいから、ゆっくり歩いておくれ」
 ちょうど向こうから犬の鳴き声と飼い主と思しき老人の声が聴こえた。
 はっとなって二人して身体をパッと話す。
「悪い」
「いいえ、私の方こそ急に泣いてごめんなさい」
 謝る美織に対して、蒼汰がぶっきらぼうに返す。
「いいや、仕方がないだろう。俺が急に飛び込んだのが悪かったんだから」
 そうして、美織が鼻を啜りながらにっこりと微笑んだ。
「ううん、だけど、生きててくれて良かった」
 心底嬉しそうに微笑む美織の笑顔を見て、蒼汰の胸の内に動揺が走る。
「いいや、別に」
 どうしてそんな答えしかできないんだろう。
 彼は自分の愚かさを恥じてしまう。
 けれども、それさえも見透かしているかのように、美織が笑顔を浮かべた。
「大丈夫」
 ふと、蒼汰は湧いてきた疑問を尋ねる。
「そういえば、お前はさ、身体があんまり丈夫じゃないんだよな」
「え、うん、そう」
「ぱっと見全然どこが悪いのかが分からない。こう儚くはないよな」
「儚くないとか失礼なんだから!」
 蒼汰をポカポカと叩きながら猛抗議してきていた美織だったが、ふっと伏し目がちになる。
「だけど、確かに私も月になりたいな」
「なんでだよ?」
 すると、彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「月ってさ、綺麗なところしか見せないでしょう? 地球からは表側しか見えないじゃない」
「ああ、そうだな」
 その時、そっと美織が蒼汰の肩に頭をコツンと乗せてきた。
 ドクン。
 蒼汰の心臓が跳ね上がった。
「好きな人には綺麗なところだけを見せて、儚くなりたいなって……思ってるんだ、ずっと、ずっとね」
 彼はそんな彼女の肩をそっと抱き寄せたのだった。