6話




――夢を見た。
学校からの帰り道、河川敷で、黒髪の男の子が三角座りで俯いている。
その背中が、どうしようもなく寂しそうで、抱えきれない何かに押しつぶされてしまいそうで、放っておけなくて。
俺は声をかけた。
不思議なことに、振り返った男の子は千紘とおんなじ顔をしていたんだ。

ああ、とうとう夢にまで出てくるようになったか。昨日、千紘のことを考えながら眠ったせいかな。
――いや、そもそも本当に夢?
なんで千紘は髪が黒いんだろう。…その背中や背景、オレンジ色の夕焼けまで、いやにリアルで鮮明だった。


「…へんな夢……」

起き抜けにぼそりと呟く。鳴り響くアラームを止めて、スマホを開いた。
今日は一緒に登校できるらしい。千紘からのメッセージに返信して、ベッドから降りた。


「おはよ、千紘」
「はよ。…今日は寝癖ついてない」
「直してきたからね」
「ふうん」

駅で待ち合わせた千紘は不服そうな顔だ。
…髪色は、うん、赤だよなぁ。

「わ、ちょっと、やめろ! せっかく直したのに!」

夢のことを思い出して千紘の頭を見つめていたら、わしわしと髪を撫で回されて俺は抵抗する。
何が気に入らないのか止まらない千紘の手を、がしりと掴んだ。

「ほんとになに!?」
「…なんか、ムカついた。前は寝癖なんて気にしてなかったじゃねぇか」
「いいだろ別に! 俺だってそういうの、気にすんの!」

まったく、とんだ言いがかりだ。
だけど、寝癖を直した理由についてはあんまり聞かないでほしい。
俺の願いも虚しく、千紘はなおも不機嫌そうに言う。

「京くんはボサボサなくらいがちょうどいいっつーのに。なんで色気づいてんの」
「はぁ!? 君それ、失礼だからね! ていうか、そもそも…」
「なんだよ」

あー、もう。これは言うつもりなかったのに!

「千紘と学校行くから、アラーム止めたあとの2度寝やめてまで準備してきたんですけど」

ふいと目を逸らして、でもやっぱりちらりと千紘を見上げる。
千紘はぽかんとしてこちらを見ていた。それに、ちょっと耳が赤い。この間抜け面はレアだ……

「…最近、京くんが甘ったるくて怖ぇ」
「…そう?」
「何か悪いことが起こる前触れか…?」
「千紘は俺をなんだと思ってるの」

疫病神? 恋人になんて扱いを。
でも、自分のリミッターが解除されていくのを、俺自身も気づいていないわけじゃない。
全くもって、厄災を起こそうなんて思っていないが。

「手ぇ繋いでく?」

にやりと笑って言ってみると、千紘は黙ってこくりと頷いた。
あ、繋ぐんだ。怖いからやめとくとか言うかと思った。
さすがに恋人繋ぎはしなかったけれど。俺たちは手を繋いで駅からの道を歩いた。

…案の定、朝から学校は大騒ぎ。ヒソヒソ、コソコソ、四方八方からの視線が痛い。特に女子。頼むからやめて、恋敵を見るような目は。

「おまえ、マジで大胆だな」
「急にかましすぎた自覚はある」
「友達の色恋が騒がれてんの、地味に気まずいんだけど」
「それはごめん」

昼休み、だいぶ視線は落ち着いたものの、弁当を一緒に食べる陽斗は居心地の悪さを感じているらしい。

「どういう心境の変化?」
「どういう……ふつーに、手、繋ぎたかったから繋いだだけ、なんだよなぁ」
「なんだよなぁ…って、惚気かよ、平和ボケが。なにライオンに可愛がられてんだ、ウサギのくせに」
「出た、それ。ほんと好きね」
「言い得て妙がすぎるからな」

好きな人と手を繋ぎたかった。なんとも素朴で純粋な欲望だと思う。
欲に忠実になった結果がこの騒ぎなわけだけど、俺は自分のしたいままにしたことを後悔していない。むしろ心は軽かった。だって、朝から千紘をより近くに感じられたんだから。

「あー、あれ、お呼びじゃね? 彼氏さん」
「え?」

陽斗に対する素っ頓狂な俺の反応は、教室の悲鳴にかき消された。
きゃーとかわーとか、とにかく黄色い悲鳴。根も葉もない噂話をされるよりはマシだけど、派手な見た目に反して優しい千紘のイケメン具合に気づいた女子たちは最近、こっちにシフトチェンジしたらしい。
教室の入口にいる千紘の一挙手一投足に連動して、それは形を変えて止まない。
俺が席を立ち、千紘のところへ行っても、ぐさぐさ刺さるような視線と共に注がれる。

「なんか、賑やかだな、京くんのクラス」
「うん…千紘が来たからね。 何か用事?」

この人は自分が注目の的だということに気づいていないらしい。鈍感にも程があるだろ…と若干引きつつ、さらっと流しておく。

「ああ、今日一緒に帰れるか?」
「帰れるけど…珍しいね。部活がない日はいつもお迎え当番じゃん」
「母さんが休み取れたから、チビたちも保育園休んでんだよ。今頃3人で出かけてる」
「へぇ。 あ、ならどっか寄ってくか? 千紘、寂しいみたいだし」
「…べつに寂しくねぇけど。京くんがどうしてもって言うなら、飯くらい付き合ってやる」

唇を尖らせて不満気な千紘に、俺はあははと笑う。
拗ねてる。可愛い。上から目線な物言いすらも。
教室のどよめきを忘れて面白がっていると、廊下をすれ違った人がドン、と千紘にぶつかった。邪魔にならないようにしていたつもりだったけど、場所を移動した方が良さそうだ。
千紘が謝って、相手も――と思ったけど、どうやら雲行きが怪しい。

「てめぇ、調子乗ってんなよ」

え、なに、千紘が絡まれてる…?

「そんな見た目してるくせに無駄に騒がれやがって。舐めてんのか? 不良気取りが、ダセェんだよ」

この感じ、もしかしてわざとぶつかったんじゃないの。そんな疑惑が湧いてきて、驚きがだんだん怒りに変わる。
上靴の色が2年の学年色なので、千紘は先輩相手に強気で返すこともなく、ただ黙って相手を見つめていた。…まあ、それだけで十分迫力はすごいけど。本来千紘は誰彼構わず喧嘩を売ったりしないし、買うこともない。最初に陽斗に会った時だって、ちゃんと敬語だったし。…あれ、じゃあなんで俺は初っ端からあんなガン飛ばされたわけ……
いや、今はそれよりこっちだ。
千紘が反応しないのをいいことに、バカにするように笑う男。

「なんだよ、ビビってんのか? いざとなったら手も足も出ねぇくせに、おまえみたいのが目立ってんなよ! ふざけた髪色しやがって。親の顔が見てみてぇわ」

その瞬間、千紘の顔つきが変わった。たぶん、俺も。なんにも知らねぇくせに。千紘のお母さんの顔が浮かんで、怒りが限界を超えそうになる。
男は胸ぐらを掴み、意地の悪い笑みを千紘に向けた。

俺は歩み寄り、男の手首を掴んだ。ギリギリと力を込める。いや、そうしようと思わなくても入ってしまう。千紘の体から離させても、そのまま握っておく。野球部で鍛えられた握力がふつふつと蘇るような気分だった。

「いい加減にしろ」

腹の底から出た低い声に、教室と廊下から音が消える。
俺は構わず男を見上げ、その淀んだ瞳を射抜いた。

「何も知らない人のこと、馬鹿にするな。ダセェのはどっちだよ。手も足も出せない後輩相手に掴みかかるとか、自分がやってること恥ずかしいと思わねぇの?」

精一杯、怒りを抑えて冷静に努める。
呆気にとられたような顔をして、それから男は苦痛に顔を歪めた。
やべ、力入れすぎたか。何が冷静だよ、俺。

「ごめん、大丈夫? 手首」

パッと手を離し、かなり気まずさを覚えながら声色を変えて伺う俺のそれがとどめになったらしく、男は「ふ、ふざけんなっ」と弱々しく叫びながら去っていった。
これだけ大勢に見られてるんだ。もう手出ししようなんて思えないだろう。
そこで俺は、しん、と静まりかえる空間の最中にいるのを思い出した。

「京くん……あれ、折れてねぇかな」
「え、さすがにそこまではいってなくない!? 一応力加減したんだけど…」

千紘がぽつりと声を漏らしたのをきっかけに、一帯に音が戻る。

「やべえ、相良って怒るとあんななの? 俺今までいろいろ押し付けてきたんだけど…もしかしてやばい…?」
「相良くんって怒れるんだね…」
「初めて見た…正直、赤間くんより怖かったくない?」

潜めるつもりはあるのかどうか、しっかり耳に届く俺への驚愕を隠しきれない言葉たち。
押しつけてきた、には、今更驚きませんよ、もう。
頭が冷えて、ムキになった自分を改めて思うと恥ずかしくなってきて、いたたまれない。
絶対にやりすぎた……

「京くん」
「…なんだよ」
「できんじゃん。庇ってくれてさんきゅー」

にっと歯を見せて笑う、どこまでも上からな台詞に、俺は千紘の腕を小突く。
千紘や、千紘のお母さんが悪く言われるのが嫌だった。腹が立った。心無い言葉を、千紘に聞かせたくなかった。咄嗟に体が動いて、震えることなく声も出た。
できたよ、俺にも。好きな人を好き勝手言われて、黙っていられるはずもない。だけど、多分俺はもう、不条理に流されないし、断る勇気も思い出せた。だからもう、大丈夫。千紘の隣で、胸を張っていられる。

千紘の見せた笑顔に群衆は大悲鳴。何故か男子も盛り上がっていた。

「よっ、相良! 男前ー!」
「私、初めて相良のことかっこいいと思ったわ」

ええ、なにこれ。なんのイベント…?俺のことはほっといてくれていいんだけど……
困り果てて千紘に助けを求めたら、彼は複雑そうな表情で俺を見つめていた。
え、こっちはどういう感情…?

「千紘?」
「…京くんが言ってたのって、これか。…なんか、京くんがどっか行っちまいそう。俺だけのものじゃ、なくなって」

…それは、前に俺が漠然と感じていた不安。誤解が解けて本当の千紘を知る人が増えるのが、たまらなくもどかしかった。

「俺は千紘のものだよ」

あの時は、そう、千紘が言ってくれたのが嬉しかった。それに、これは本心だ。本気で俺は、千紘以外のものになる気はない。
だけど、千紘の表情は晴れるどころか、少しだけ切なそうに、寂しげに笑うだけだった。
約束通りした放課後の寄り道では楽しそうにしていたけれど、いつも通りとは、言えないような。そんな小さな違和感は拭えなかった。





あの一件からしばらく経って、最近はようやく俺たちの話題が落ち着いた。
部活の方でもさすがにいろいろ聞かれたけれど、今日は普段通り。黙々と作業を進める部員たちを眺めて、ほっと息をつく。俺の好きな時間が戻ってきてくれて良かった。

「ぶちょー、ちょっといっすかー」

間延びした声に呼ばれ、はいはいと出向く。

「冬休み前の大掃除、俺部室の片付けなんすけど、代わってくれません? 部長は統括とかなんとかで、場所は決まってないんですよね」

悪びれる様子もなく言う谷本くんに、俺は苦笑する。舐められてる…ってやつだ、これ。
視線の奥で、千紘が何か言いたげにこちらを見ているのが分かった。俺はそれを目線で制して、心がけて親しみやすい笑みを湛える。谷本くんは一瞬、了承をもらえると思ったんだろう、明らかに目が輝いた。

「人が足りない所には俺も入るよ。でもそれは様子を見て決めたいから、代わるのは厳しいかなー」
「え…」
「人手がほしかったらまた当日、声掛けて」

ね、と添えれば、谷本くんは「は、はい…」と頷いた。俺は踵を返して、自分の席に戻る。予想外の俺の返答に戸惑っている彼と、他の部員との会話が聞こえてきた。

「おまえ、また部長になんか言ったの? やめろよ、ほんと…」
「いや、なんか断られたし」
「え、部長が? 意外だな、それは…てか、自分の分くらい最初から自分でやれ!」
「分かったってば…」

なんてことない一コマ。こうやって、何気なく流れていくのが、普通なんだよな。
俺は清々しい気分で、この気持ちを千紘と分かち合いたくなった。
姿を探したけれど、千紘はいない。さっきまでそこにいたのに。場所を変えたのかな。美術部は、最初と最後の挨拶さえ美術室に集まれば、自分の集中できる場所を自由に選んで作業していいことになっている。だから傍から見たら、何もおかしくないんだけど。…千紘が俺の近くから離れたのは初めてだったから、少し胸がざわついた。



二学期の終業式。体育館に集う生徒のほとんどがセーターと学ランを装備している。体育館は特別冷えるのだ。

千紘が表彰のため、壇上に上がる。声にならない悲鳴が溢れる中、俺はひとりほくそ笑んでいた。なに、驚くことはない。千紘はめちゃくちゃ絵が上手いんだぞ。そしてそれを発掘したのは俺なのだから。
千紘がコンクールで賞をとった。それも最優秀賞なのだから、部長としては鼻が高い。顧問の山根先生も、創部以来の快挙だと喜んでいた。大袈裟な、と突っ込めないくらいには、俺も浮かれた。千紘は真顔で、このくらいで…という顔をしていたけれど。

ここ最近感じる千紘の違和感ははっきりしないまま、明日から冬休みに入ろうとしている。だから、今日は一緒に帰ろうと誘うつもりだ。午前中で学校は終わりだからお迎えまで余裕があるだろうし、合法的に毎日会える日常から離れる前に、ちゃんと話した方がいい気がする。


式が終わってから誘いに行こうと思ったけれど、休み時間が体育館からの移動でほとんど潰れてしまったため叶わなかった。仕方なくメッセージで送ることにして、『分かった』とシンプルな返信に安心する。断られたりしなくてよかった。
成績を渡され、教室の大掃除をして、皆が長期休みに胸を躍らせる中、担任の締めの挨拶を聞いて、二学期は終わった。
千紘の教室まで行こうと廊下に出たところで、美術部顧問の山根先生に呼び止められる。

「相良くん、帰るところを申し訳ないんだけど、これを美術室に置いてきてもらえる?」

そう言って手に持たされたのは、デッサン用に使う人型の模型。
断る勇気とはいうけれど、先生の頼みを断るのは別の話だ。歯向かう部長の方が少ないだろう。
俺は引き受けて、山根先生が背を向けたのを確認してから模型を担いだ。
急ぎ足で美術室まで来ると、前の扉が開いている。
誰かいるのか?
そっと教室に入ると、谷本くんが絵の具セットを片付けている最中だった。

「谷本くん、おつかれ」
「あ、え、部長。おつかれさまです…」

若干気まずそうにする谷本くんに苦笑して、俺は意識的に明るく声をかける。

「それ、冬休みに借りてくの?」
「…はい。家でも進めたくて」
「そっかあ。熱心だね。谷本くんはいつも、描き始めると集中力がすごいよね。完成度は落ちないのに出来上がるのが早いなとは思ってたんだけど、家でも進めてたんなら納得」

長居してもこの空気は変えられなさそうなので、模型を置いて早めに退室した方が良さそうだと判断する。じゃあね、と口に出そうとして、谷本くんの方が「あの、」と遠慮がちに言う。

「ん?」

振り返ると、腕捲りしたまま俯いて、言いずらそうに口を閉じたり開いたりする。
筆を水洗いしていたんだろう。寒そうだから、袖を戻したらいいのに…なんて的はずれなことを考えた。

「あの、その…今まで、俺、部長に失礼なことばっか、言ってきましたよね」

意を決したように顔を上げた谷本くんは、続いて頭を下げた。

「すみませんでした。 …部長のこと、本当は尊敬してるんです。皆のことよく見てて、まとめるの上手いし、優しいから、いつも美術部は雰囲気が良くて…すごいなって…」

そ、そうだったのか。正直、谷本くんからは良くなさそうなオーラしか感じたこと無かったけど…

「でも、部長がたまに無理して笑ってるのも分かってて。だから、俺、イライラもしてました。そんな顔するならやめればいいのに、とか…自分は何も出来ないくせに…イライラをぶつけて試すようなことを…生意気でごめんなさい」

なるほど。
正直な谷本くんに、俺は思わず笑ってしまった。
谷本くんが人より俺に手厳しかったのはそういうことだったのか。
こんなこと、言わずに黙っていてもよかったのに。わざわざ頭を下げてくれるんだから、良い後輩を持ったなぁとしみじみする。

「谷本くん、顔上げて。 今まで俺が、やりたくないことも安請け合いしてきたのは本当だから。気にしてくれてありがとうね。 ほら、寒いでしょ、服を着なさい、服を」

すぐ近くに無造作に放られていたセーターを手に取り、谷本くんに手渡す。

「谷本くんが謝ることはないよ。俺もこれから、もっと部長として頑張るから。引退まで、ついてきてくれる?」

にこっと笑いかけると、谷本くんは「はい!」と元気よく頷く。
俺は満足して、満ち足りた気分のまま彼の頭に手を伸ばした。

「その意気、その意気」
「…部長、それ皆にやってるんすか」
「え?」
「素で頭ポンポンとか…やめた方がいいっすよ」
「ええ、!?」

引きつった顔で言われて、俺はぴたりと手を止める。やばい、これってセクハラなのか。赤間家のチビたちと戯れる感覚で、つい…距離感ミスった…

「あ、いや、不快だとかじゃなくて。 ただ、勘違いするやつもいるんじゃないかな、と」

谷本くんが慌てて付け加えた台詞に眉を顰める。イマイチ意味がわからない。
そのとき、ガタッと背中の方で音がした。
振り向くと、千紘がいて視線がかち合う。
え、なんでここに…
状況を理解するより先に、千紘はふいと顔を逸らし、来た方へ歩き出してしまう。
その横顔が今にも泣き出しそうに見えて、俺は狼狽した。

「なんで、」
「部長、手。 だから言ったじゃないですか。気軽にするもんじゃないって。 分かったら早く追いかけたほうがいいんじゃないですか?」

谷本くんの呆れたような声音に、俺はそこでようやく合点がいった。
千紘のこと言えないくらい、俺もたいがい鈍感らしい。

「ごめん、ありがとう谷本くん! また部活で!」
「がんばってくださーい」

谷本くんの気のない応援を背に、俺は美術室を飛び出した。
千紘はもう見えない。いなくなるの早すぎ!
とにかく急いで学校を出て、千紘を探した。
学校から駅に向かう川沿いの道。河川敷に、見覚えのある背中を見つける。
――この前、夢に出てきた場所に似ているからだろうか。なんだか、その背中に声をかけるのは、初めてじゃないような気がした。

「千紘!」

赤い髪が風に靡く。息を切らす俺に心配そうな顔をして、何か言いかけてやめてしまう。すくっと立ち上がると、すたすたと逃げるように歩いて行ってしまうから、俺はまた走った。

「待って、千紘! なんで逃げんの、」

両手で腕を掴んでぐっと引き寄せて、なんとか止められた。

「なんで追いかけてきたんだよ」

ぶっきらぼうな言い方にすかさず答える。

「千紘が逃げるから! ていうか、一緒に帰ろって言ったじゃん」
「…だから美術室まで迎えに行った」
「ても先帰っちゃっただろ!」

千紘はむっとした顔をする。そうだ、俺が軽率に頭ぽんぽんなんてしたからこうなってるんだった…

「…ごめん。 さっきのは、そういうのじゃない。谷本くんが今までのこと謝ってくれて、健気な後輩を元気づけようと思った。その方法が、あれしか思いつかなくて…ほら、ちぃとか千翔にもするでしょ、それと同じ」
「…俺には?」
「え?」
「俺にするのも、それと同じなのかよ」

…そんなわけない。千紘に触れたいと思うのは、ただの後輩やちびっ子と同じ理由なんかじゃない。
好きだから。その気持ちが溢れてどうしようもない時に、自然と、愛でたくて仕方なくなる。
どう伝えようかと考えあぐねて、すぐに答えなかったのがまずかった。

「…だから嫌だったんだよ。期待すんのは」

千紘が自嘲気味に言う。

「千紘、違う、」
「知ってたよ」
「なに、を?」
「京くんが、俺のこと好きじゃなかったこと」
「え、?」

『俺のことが好きか?』
暑い夏の日、そう聞かれて俺は、ハイと返事をした。千紘のことを好きだと嘘をついた日。…嘘だって、知ってた、?

「断れなかったんだろ。俺に告白されて。それでもいいと思って、京くんの弱いとこに漬け込んだんだよ、俺」

じゃあ、千紘はずっと、自分に気持ちが向いていないと知っていながら俺と付き合ってたのか?
それなのに、あんなに優しく、何度も助けてくれてたってこと、?

「嘘でも、京くんと付き合えて幸せだった。本当に俺のこと好きなんじゃないかってくらい、一緒にいると楽しかった」
「…っ、なんで、…千紘は、俺のこと…」

千紘は川向こうを見つめて思い出すように目を細める。

「京くんは覚えてないかもしれないけど、俺たち前に、会ったことあるんだよ。…ちょうど、この辺だったな」

これが最後みたいに、千紘は諦めた笑みを浮かべた。

「前に話しただろ。…泣かせてくれた人がいたって。京くんのことだよ」
「え、」
「…父さんが死んで、俺が家族を守らなきゃって思うのに、1人になるとどうしようもなく泣きたくなって、あん時の俺はどうすりゃいいか分かんなかった」

眉を顰めた沈痛な面持ちに、その時の記憶が一気に頭を巡る。
今年の春、俺は高校1年から2年に上がろうという時期。千紘は、まだ中学3年生。

「俺は泣いたら駄目だと思い込んでたから我慢して…でも、急に声をかけてきた高校生…京くんが言ったんだ。泣きたい時は泣けばいい。誰も責めないからって。何があったのかは聞かないのに、俺が泣き止むまでずっと隣にいてくれた。…京くんの言葉に救われた。父さんが死んで悲しい。だから泣いていい。でも俺はやっぱり家族を守るんだって、心から思えた」

この河川敷で、小さな背中に大きな何かを背負う少年に、声をかけた。余計なお世話なんじゃないかと怖かったけれど、あまりにも儚くて、そのまま消えてしまうんじゃないかって気になって仕方がなくて。
――そうか、あれは千紘だったんだ。思い出すと、夢で見た男の子が千紘だったのにも納得だ。
俺も誰かを救えていた。その事実に、胸がいっぱいで苦しい。だけど、息ができなかった今までとは違う。確かに感じるのは、心が晴れていくような感覚と、千紘を愛おしいと思う素直な感情。

「…もう1回会えねーかなって、ここも何回も見に来たけど会えなくて。 夏休み明け、部活の表彰で名前を呼ばれた京くんを、見つけた」

俺の知らない、千紘が俺を見つけるまでの話。
信じられない気持ちで彼を見つめる。

「俺は、俺を強くしてくれた京くんが好きだった。自分のことみたいに辛そうな顔したり、優しい顔で笑ったりする京くんが。その日のことは忘れられなかった。だからすぐ、告白したんだよ」

それで、あの夏休み明けの美術室での、突然の告白。
千紘が最初から俺を知っていた理由が分かって、腑に落ちる。

「千紘…」
「…京くんの弱い所を見る度、俺がなんとかしたいと思った。今はもう、怖いもんなんてないだろ?」
「うん。ないよ、千紘のおかげだ」
「それで十分。だからもう終わりにする。今まで付き合わせてごめんな」
「え、待ってよ、千紘、」

まだ、俺何も話してない。千紘に言わなきゃいけない1番大事なこと、一度も口に出せていない。本人の前で、ちゃんと、起きている時に。
それなのに、悟ったような顔して千紘は俺の手からするりと抜け出してしまう。
俺は迷うことなく追いかけて、手だけで足りないなら、と千紘の大きな背中を捕まえる。ぎゅう、と後ろから抱きしめて、「待ってって言ってるでしょ」とくぐもった声で抗議した。

「…やめろって、そういうの。 俺京くんのこと、諦められなくなる」

散々千紘に救われてきた。いつも、肝心なことは千紘に言わせてきた。自分は流されるまま、なるように身を任せて。でも、駄目だ。それじゃ駄目なんだ。俺は、こいつのおかげで声を上げることの勇気を思い出したんだ。間違ってもいい。正しくなくていい。自分がしたいと思うことを。俺の今の気持ち。そんなの、1つしかない。

「――諦めなんな!俺のこと、ずっと好きなままでいいんだよ!俺も好きだから!」
「……は、」
「たしかに最初は、断れなくて、千紘と付き合った。最低だと思う。 …でも今は、俺を見つけてくれたのが千紘で良かったって、本気でそう思ってる。…今まで言えなくて、ごめん」
「ほんとに、言ってんの…?」
「ほんとだって。千紘が好き。だから俺、別れてなんてあげないよ? 終わりにする、とかなんとか言ってたけど」

今度は千紘が信じられない、という顔をする番だった。
好きって言うの、大事なんだなぁと改めて思う。
キスをせがんだり手を繋いだり、好きな人にしかしないことはたくさんあるけれど、そのどれよりも、言葉にして伝えるのが1番有効なんだと思い知る。

「京くん…」
「うん。俺は千紘が好きだけど。それでも別れる?」
「…別れねぇ」

千紘の答えに、俺は満足気に頷いた。
両手を伸ばし、千紘の綺麗な頬を包み込む。
背伸びをしないと届かないのが悔しいけれど。

「…治ったらしていいって、言ったでしょ」

いつかの言質を持ち出して軽く口付ければ、彼は耳を赤くして笑った。

「京くんが甘ったるいの、悪いことの前兆かと思ってた」
「うん、まじ失礼」
「幸せの予兆だったな」
「はは、可愛いこと言う〜」

千紘は俺と向き合って、ぎゅーっと抱擁を強める。
抱きしめ返した俺は、千紘の腕の中で「1個だけ聞いていい?」と鼻の潰れた声で聞く。

「なに」

低くて落ち着いた千紘の声がダイレクトに響くのが心地よかった。

「なんで俺にだけ、最初から当たり強かったの?」
「ああ、そりゃ……京くんはドMだって聞いたから」
「は!? な、なんっだそれ、誰から聞いたんだよ?!」

衝撃の発言に、俺は思わず顔を上げて叫ぶ。

「引退した美術部の3年の先輩。たまたますれ違った時に話してたの聞いて…京くん拒否らないし、本当だったんだと。まあ、途中から別の理由あんの気づいてたけど」
「嘘だろ…なんでそんなことになってんの…」
「京くんにこにこしながら、誰もやりたがらない仕事も引き受けてたからだろ。喜んでるように見えたんじゃね?」
「うわぁ、性癖捏造されるのはやだから、まじ気をつけよ…」
「俺は京くんがドMでも好きだけど。Sでもなんでも」
「どっちかって言ったらSは千紘でしょ」
「そうか?」

俺たちは顔を見合せて、ふはっと笑う。好きな人の温度は、冬の寒さにだって勝る暖かさをもっている。
でも、さすがにここが外であることを思い出して恥ずかしくなってくる。身体を離そうとすると、強すぎる抱擁に引き寄せられて敵わなかった。

「…ほらぁ、やっぱりSだろ、千紘ー」
「でもそれで喜んでんだから、京くんはドMってことだろ」

言われて耳まで真っ赤になるのを、千紘は楽しそうに顔を綻ばせて見つめる。
赤い髪が昼間の太陽に照らされて、いっそう色濃く輝いて見えた。
左耳の2個のピアスも、きらきらと反射して綺麗だ。
無縁だと思っていたこの強気な見た目のヤンキー――もどきも、すっかり日常に溶け込んでいる。
こんなに優しい瞳をする猛獣は、他にいないだろう。

「京くんが好き」
「うん」
「俺のこと、…好きか?」
「…大好きだよ。千紘」

――放課後の美術室から始まったのは、そんな平凡で、幸せな恋だった。