5話




日曜と振替休日を挟んだ火曜日。
校内の片付けから始まる朝、俺はクラスではなく部展の方にいた。
教室は人手が足りていたのと、顧問の山根先生に頼まれたからだ。

「…誰もいない」

美術部にはあらかた声をかけたと聞いていたのに、いざ来てみれば無人の空き教室に思わず呟く。
まあ、一人でやってればいいか。そのうち誰かしら来るかもしれないし。
そう思い直して作品を1つずつ撤去していく作業を始めた。

黙々と手を動かしていると、廊下で人の話す声と足音が近づいてきた。
それらは俺のいる教室の前で止まり、美術部の面々が顔を出す。

「あ、相良くん。早いね」
「え、もうほとんど終わってるじゃないですか」
「ほんとだ、俺らやることないんじゃないの?」
「お、おい、失礼だろ、その言い方は…」

素直な感想を漏らした1年生の谷本くんに、声を潜めて慌てる川野くん。
俺は「いいよ、いいよ。 あとこれだけ外したら、美術室に運ぶのだけお願いしてもいい?」と笑って言う。
もうここまできたら自分で全部やってしまっても良かったけれど、片付けを命じられてやってきた彼らの仕事を全て奪っては気を使わせてしまうだろう。
部長っていうのは、肩書きだけ立派で大したことはしていないのに、立ち回りが難しい。
俺のいつもの笑顔に、同級生の発言を咎めてくれた川野くんがほっとした顔をする。
――うん、これで合ってた。
顔には出さず、俺は密かに安堵した。
わらわらと動き出す部員を見渡して、俺は首を傾げる。
千紘がいない。

「相良くん? 何か探してる?」

きょろきょろと視線を巡らせていたら、鈴木くんがメガネを押し上げながらこちらを向いた。

「あー、あの、千紘知らない? 片付けサボるようなタイプじゃないよなぁ、と思って」
「赤間くん? たしかにそうだね。でも、僕も1年生の様子はあんまり…」

そうだよな。鈴木くんは俺と同じ2年だし、一つ下の学年の情報なんて流れてこない。
クラスから離れられないのかな。それだけなら、いいんだけど。
先週、千紘とは喧嘩別れ…いや、俺が勝手にキレて自己嫌悪に陥ったんだけど――休みが明けてやっと会えると思っていたから姿が見えなくて不安が過ぎる。
朝一緒に登校する日は、千紘のお母さんが弟妹を保育園に送り届ける日なので、その都度連絡をくれていたから、今朝連絡がなかったのはそういうことだろうと勝手に思っていたけれど…
…俺に会いたくないからとかだったら、どうしよう。
思考がネガティブに寄り始めた時、そばに居た谷本くんがさらりと言った。

「赤間なら休みですよ。クラスのやつに聞きました。風邪らしいです」

千紘、学校来てないんだ。それに、風邪って…
驚いて1人思考の沼に足を突っ込みそうになって、なんとか返事をする。

「そ、うなんだ。ありがとう、教えてくれて」
「いえ。あ、赤間の絵はどうします? 作品は各自持ち帰りなんですよね」
「ああ、それなら、俺が美術室に運んでおくよ」
「……そーですか」

含みのある言い方に、胸が少しザワつく。
これは、不満がある時の顔だ。何か、変なことを言っただろうかと身構える。

「…どうかした?」
「いや、……あー、部長って、ほんとになんでも1人でやろうとしますよね」

遠慮がちに、でもはっきりとした台詞。
心臓がぴしりと固まったのを感じながら、それでも笑ってみせる。

「そう、かな」
「いつも、聖人君子みたいな顔して。だから1年にも舐められるんですよ」

え、俺舐められてんの。
まあ、尊敬とかそういうのは、感じたことなかったけどさ。それは俺が特別絵が上手くもなく、コミュ力も人並みで人としてのカリスマ性みたいなものも持ち合わせていないから、当然のことだと思っていたんだけど。
そうか、まさか舐められるまで行っているとは。…無理もないか、ヘラヘラ笑ってるだけの部長なんて。

「ごめん。頼りない部長で」
「…別に、謝ってほしくて言ってるわけじゃ…俺はただ、もっと人を使えばいいのにって、思っただけで」

気まずそうに目を逸らす谷本くんに、いよいよ俺はどうしていいか分からなくなってきた。
人を使う、指示を出す。頼まれたら断れないくせに、人に頼むとか考えていなかった。

「ちょ、おまえ何言ってんの? すみません、こいつ生意気で…」

俺が何か言う前に、もうひとり後輩が割って入ってきてくれたので会話は続かなかった。

舐められてる……このままでいいのか、本当に。
自分の気持ちが分からなくなって、分からないから、誰かに言われたことだけをすればいいという答えに辿り着いた。
いつまでも昔のことを引きずって、受け身でしかない自分は嫌いだ。
なら、変わらなきゃいけないんじゃないのか。
それにきっと、俺が自分を卑下する限り、自分の気持ちに正直になれない限り、胸を張って、大事な人に大事だとは伝えられない。

今はまだ、はっきりと気持ちを告げるのは難しいけれど。
いつか、ちゃんと言えるように、俺が今やらなきゃいけないことはなんだ。
今の俺にもできること。
千紘が来るのを待っているだけじゃ駄目だ。行動しろ。千紘相手なら、それができるはずなんだ。








その日の放課後、俺は丸々町の千紘の家に向かった。『大丈夫か?』と送ったメッセージには既読がつかない。寝ているんだろう。…たぶん。
ゼリーやらお粥やら見舞いの品が入ったビニール袋を提げて、赤間家の前に立つ。
緊張で、深呼吸をしてからインターホンを押す。
だけど、前にここに来た時よりも気温が随分下がって涼しかったから、汗はかいていない。そう考えられるくらいには、余裕が持てていた。

玄関が開く。のそりと出てきたのは千紘だ。
マスクを着けて、緩慢な動作でこちらを見た後、目をぱちぱちさせて「…幻覚?」と呟く。

「違う。本物。ちゃんといる」

ついツッコミを入れるが、舌っ足らずで現状をよく理解していない千紘に内心で焦りを覚える。
ちゃんと確認もしないで出てきちゃ駄目じゃないか。悪いやつだったらどうすんだ。今のおまえ、ソッコーでやられそうだぞ。

「…俺だよ。京。 千紘が心配で様子見に来た。あと、謝りたくて……一応連絡入れたんだけど、寝てた?」
「ああ……わるい、気づかなかった」
「いや、こっちこそ、起こしてごめん」
「…上がれよ」
「はい。お邪魔します」

まだ眠そうな千紘に、謝罪は後だと、お見舞いのビニール袋を持ち直した。





「千紘、寝てていいから。ベッド入って」
「はなし、あんだろ…?」
「そうだけど。勝手に押しかけちゃったし、千紘、思ったより具合良くなさそうだし。眠っちゃってもいいけど、寝ながら聞いて」

無茶苦茶なことを言っている自覚はある。
千紘はしっかりした足取りで階段を上がり、自室に俺を通した。
初めて入る、千紘の部屋。ものは少なめで片付いているのが彼らしいけれど、ところどころに子ども向けアニメのおもちゃが無造作に転がっていて、なんだか微笑ましかった。きっと、弟妹たちが置いていったんだろう。

「…読み聞かせみてぇ」

大人しく布団に入ってくれた千紘は、俺を見上げながらふっと控えめに笑った。
きゅんと胸が鳴る。弱ってる…なんか、ちょっと守ってあげたくなるようなかわいさが――いや、言ってる場合か。

「あ、ゼリーとか買ってきたけど食べる? ていうか熱は? 最後に測ったのいつ?」
「…おかん?」
「だって千紘、どうせ自分は大丈夫だからってずっと1人だったんでしょ」
「…大丈夫に決まってんだろ。もう、高一だぞ、俺」

残念ながら、今の千紘は威勢の欠片も残っていないので、威嚇されても全く怖くありません。
むっとして見せる千紘に俺は畳み掛ける。

「じゃあご飯は食べたのか?」
「ひるに、冷蔵庫にあったからあげ、食った」
「からあげ!? 嘘だろ、からあげ食う病人がいるかよ…」
「母さんが粥も作ってってくれたけど、よそうのめんどーだったから」

よそうのもしんどいほど、弱ってるってことだろ、それ。
何が大丈夫だ。今だって、熱のせいなのか知らないけど目に涙溜めてるくせに。ほんとは心細かったんじゃないの。こういう時って、人肌恋しくなるもんなんだよ。

「腹は? 減ってる?」

千紘はこくりと頷く。

「お粥あっためて持ってくるよ。ゼリーも食う?」
「うん。…何味?」
「オレンジ」
「ぶどうがよかった…」
「悪かったな! センスがなくて!」

口ではそう言いながら、好みを聞いておくんだったと少し思う。立ち上がって部屋を出る直前、「じょーだん。ありがと」と呟いたのが聞こえたから、本当は何味でも良かったんだろうけど。


勝手にキッチンをお借りすることに罪悪感を覚えつつ、鍋のお粥を温め直して茶碗によそう。
食器類も適当に使ってしまったこと、あとでお母さんが帰ってきたら謝ろう。

「お待たせ。お皿とか、これでよかった?」
「京くん…さすがに、それが俺のじゃないのは分かるだろ…」
「あー、やっぱり? 1番最初に目に付いたのがこれでさあ。この可愛いパンダ、やっぱ千翔のだった?」

俺はへらりと笑いながら腰を下ろす。ローテーブルにお盆を置いて、「…たりめーだろ。なんでもいいけどよ…」と呟く千紘に、ごめんごめんと軽く詫びる。

「はい、食べな。熱いからふーふーしてからなー」
「ガキ扱いすんな」

だって、今日の千紘、だいぶガキっぽいよ? とは言わないでおく。
体調のせいだろうけど、いつもの威勢が無い分ずいぶん幼く見える。…というか、年相応、なんだろうけど。

ゆっくりではあるけれど、しっかりお粥を口に運んで咀嚼する千紘に安心して、俺は彼の名を呼んだ。

「千紘」
「…ん」

とろんとした瞳がこちらを向く。
子犬みたいな純粋な視線に、俺は「食べてていいよ」と言いながら目を逸らしたくなった。
陽斗が言ってた『捨てられた子犬』って、こんな感じなんだろうな。

「この前…文化祭の日。おにぎり食ったよ。ありがと、美味かった」
「…こんぶと鮭で迷った」
「うん。鮭のが好き」

俺の返答に、千紘は頬を緩める。

「…それと、ごめん。変なこと言って、急に戻ったりして。せっかく誘ってくれたのに、ほんとにごめん」
「あれは俺が、」
「千紘は悪くないよ。俺が勝手に、自己嫌悪してたの。⋯千紘が、みんなの千紘になっていくのを見て、馬鹿みたいに」

自嘲気味に笑う俺に、彼は分からないという顔をする。
本当に、優しいやつだよなぁ。自分のせいだと思ってんだもん。

「千紘さ、校長先生泣かせたことある?」
「⋯ねぇよ」

唐突な話題に怪訝な顔をしつつ、千紘は答える。

「あはは、だよね。じゃあ、他校の生徒と喧嘩したことは?」
「ねぇな」

俺はまた、小さく笑った。

「…だよね。千紘はそんなことできないって、分
かってる。⋯そういうの、俺だけだって思ってたんだよな、自意識過剰で恥ずいんだけどさ⋯」

千紘の顔を見ることができない。酷いやつだと、呆れられるかもしれない。

「本当の千紘を学校の皆が知っていくのが、喜ぶべき
ことなのに、なんか寂しくて」

ああ、こんなみっともない感情、知りたくなかった。
俺はいつだって間違って、誰かを傷つけてしまう。こんな独占欲みたいなものは、千紘を縛り付けることになるだけなんじゃないのか。
恐れていた。自分のこの気持ちが、収集もつかなくなるんじゃないかと。
…だけど、自分の意思で止められないくらい、もう、どうしようもないんだ。

「……俺だけの千紘が、いなくなっちゃうと、思って」

ぎゅっと拳を握りしめる。ここまで来ても、俺だけのものでいてほしい、とは言えなかった。

「…京くんのだ」

凛と響いたその声に、とくんと心臓が揺れた。
すっと伸びてきた千紘の手が、俺の頬に優しく触れる。大きくてごつごつした男らしい手が、壊れ物を扱うみたいに、そっと。

「京くんだけのだろ、俺は。…こうやって触れるのも、キスも、俺がしたいと思うのは京くんだけ。それじゃ駄目か?」

息が詰まりそうで苦しかったのが嘘みたいに、全身の力が抜けていくのが分かる。
俺の顔を強制的に持ち上げた熱い手を、外側からきゅっと握った。
心地よくて、頬をぐりぐりと擦り寄ってみると、千紘はくすぐったそうに身じろぐ。

「…うん、いい。いいんだ」

ベッドの上の千紘を見上げて、俺はへらりと笑った。
少し潤んだ、意志の強い綺麗な瞳が俺を映す。真っ直ぐで、情熱的で、そこはかとなく愛情を感じるその視線は、俺専用なんだと思うと、そのまま吸い込まれてしまいそうで、だけどそれもいいかな、なんて思う。
だから、つい、思わず。ぽろりと零れるように言の葉が落ちたんだ。

「キス、しないの…?」

ほら、なんとなく、そういう雰囲気、じゃない?
俺の突飛な発言に、千紘は大きくため息をついて、俺の肩に顔を埋める。
赤い髪がつんつんと首を触って、くすぐったい。

「…京くん、それわざと?」
「うん?」
「駄目だろ。カゼ引いてんだから。これ移るやつなんだよ。そもそもちぃが最初にもらってきて、千翔を経由して、今俺」

移るやつだから、駄目か。そっか、今日はしないのか。それで俺に移ったら、たぶん千紘はすごい気にするだろうしなぁ。

「…分かった。じゃあ、治ったらね」

代わりに、というか。ただ触りたかっただけなんだけど。俺は頑張って手を伸ばし、千紘の頭をぽんぽんと撫でた。

「お兄ちゃん、いっぱいしたんだな。…今は俺だけだし、甘えてもいいよ。先輩に」

にやりと口角を上げる。ここぞとばかりに先輩ムーブをかます俺に、千紘はふはっと吹き出した。

「なぜ笑う」
「センパイがデレるから」
「な、俺は千紘にデレさせたいんだけど! あ、手とか繋ぐ? ほら」

言いながら、千紘の手のひらを広げて自分のと重ねる。
指を絡めとって、恋人繋ぎをした俺はその手を掲げてみせた。

「どう? 寝れそー?」
「余計寝れねぇ」
「なんでだよ」

正直、ちょっとからかいたい気分もあった。いつもは千紘の方が先輩みたいで、たまには余裕なとこも見せたいだろ、って。
だから、千紘の表情が切なげに揺れるのを見て、俺はどきりとした。

「…なあ、なんでそんな可愛いことばっか言うんだよ。 …これじゃあ嫌でも、期待、しちゃうだろ……」
「期待…って、………え、」

…寝た?
肩口からすうすうと聞こえる少し寝苦しそうな息遣い。
どういうことかと聞くことは叶わないらしい。
俺は全神経を集中させて、千紘をなんとか寝かせることに成功した。
手は繋いだまま、あどけない寝顔の千紘を覗き込む。

「はは、かわいー…」

うん、可愛い。俺の目の前で眠る姿が。布団を肩までかけてやると、穏やかな顔になりすやすやと眠る恋人が。
…言い訳をするなら、千紘があまりに無防備で、可愛かったからだ。
俺は顔を近づけて、サラサラの前髪を避けたその額に、軽くキスを落とした。
おでこなら、移んないでしょ。
自分でしておいて顔に熱が集まり、ドクドクとうるさい心臓を抑える。

…俺だって、こんなことしたくなるの、千紘だけなんだ。
これが恋ではないのなら、きっと、いちいちドキドキしない。会いたくて家にまで来ないだろうし、頭を撫でてやりたくもならないんだろう。

「好き……って、ちゃんと言うからな」

優しくてかっこよくて、真っ直ぐな千紘が好き。
ヘタレな俺は、今は本人が寝ている時にしか、口には出せないけれど。

これからいくらでも、千紘の中身を見てくれる人は増えていく。だってこんなにいい子なんだもんな。おそらくいちばん最初に見つけられた俺は、ラッキーだったんだ。
それでいい。千紘が俺のために笑ってくれるなら、それで。

繋いだ手から伝わる温もりを離したくなくて、俺はしばらく千紘の寝顔を眺めていることにした。



トントンと軽快に階段を上るスリッパの音。コンコン、と耳に届くノック。

「千紘ー? 誰か来てるの……」

むくりと顔を上げて、上半身がパキパキ鳴るんじゃないかってくらい凝っているのに気づく。
それから、帰宅してきて部屋を見に来た千紘のお母さんの存在にも。

「お、あ、お母さん! お帰りなさい、あ、いや、お邪魔してます! すみません、また勝手に上がり込んでしまって…」

寝ぼけた頭は一気に覚醒して、しゃきっと立ち上がった俺に、お母さんは柔らかく笑む。

「あらまあ、京くんだったのね。いいのよ。心配してきてくれたのよね、ありがとう。それで千紘が寂しがるから手を繋いであげてたら、いつの間にか一緒に寝ちゃった?」

にこにこと言われ、俺はかあっと全身が熱くなる。やばい、手、繋いだまんま寝落ちしたんだ、俺…しかもそれをお母様に見られるという、なんて失態!恥ずすぎる!

「あはは、いいじゃない、可愛らしくてほっこりしちゃったわ。 千紘も、よく眠れているみたいだし、良かった」
「はい…。ほんと、よく寝てますね…」

お母さんに笑い飛ばされ、千紘の邪気のない寝顔を見たら、なんだかもう、いいやって気になった。
ふと、お母さんの視線はテーブルの上。空になったパンダの茶碗を乗せたお盆を捉える。

「ちゃんとお粥も食べられたのね。京くんが用意してくれたの?」
「あ、はい。キッチンお借りしました。いろいろと勝手にすみません…」

再び頭を下げたところで、階下から元気な声が響いた。

「ままぁーー? にいにいたぁー?」

俺とお母さんは目を合わせてくすりと笑って、千紘の寝顔をもう一度確認して、そっと部屋を後にした。


リビングの戸を開けた途端、ちぃが俺の膝の辺りに突進してきた。

「ママ!…じゃなくて…京だ! えー、なんでいるのー?」
「にいにのお見舞いに来てくれたの。ほら、2人ともご挨拶は?」
「こんにちは!」
「…こんにちは」
「久しぶりだな、ちぃ! 千翔〜!」

園服に身を包む小さな体を受け止めきれてよかった。俺はそのまましゃがんで、2人の頭をわしわしと撫で回す。
きゃはきゃはと楽しそうに声を上げるちぃの横で、千翔は唇を引き結んでいるけれど、ぷくぷくのほっぺが緩んでるいるの、隠せてないぞ。
まったく、揃いも揃って可愛くて困る、赤間家は。

「ねぇ、京もいっしょにあそぼ! パパのおへやで!」
「こら、京くんもお家に帰らないとなの。今からご飯作るから、千翔とふたりで遊んでて?」
「えー、やだあ! 京も!京もあそぶ!」
「ぼくも…京とあそぶ」
「もう、ふたりして本当に京くんのこと好きなんだから…ごめんね、京くん、気にせず帰っていいからね。あんまり遅いとお家の方が心配されるだろうし…」

2人が結託してせがむので、キッチンで慌ただしく動きながらお母さんは困った顔をする。
俺は苦笑して、「大丈夫です」と答えた。

「家には連絡入れておくんで、もし良かったら、夕飯までの間だけでも遊んでいっていいですか?」
「うちは助かるけど、…いいの?」

お母さんは眉を下げて遠慮がちにする。笑って頷くと、「…じゃあ、お願いしようかしら。親御さんが了承されたら、お礼に、夕飯は食べていってね」と小首を傾げて顔を綻ばせた。

そうして俺は母親に連絡を済ませ、夕飯まで2人と遊び倒し、すっかりご馳走になって帰宅した。
帰り際、そっと千紘の様子を見に行ったけれど、お行儀よく布団に収まったまま彼は穏やかな表情で眠っていた。
その寝顔にまた手が出そうになったけど、お母さんが顔を出したことですんでのところで引っ込めた。

好きな人っていうのは、どうしてこう、可愛く見えるんだろうな……。


翌日には千紘も復活して、一緒に登下校したり部活に行ったり、いつもの日常が戻ってきていた。

季節はもう秋が過ぎて冬を迎えようとしている、二学期。期末テストを控えた俺たちは学校の図書館で勉学に励んでいた。
つい先日、千紘が中間テストで赤点を取っていたことを知ったのだ。
そんなとこでまで赤にこだわらなくていいってのに。まあ、普通に勉強不足が原因なので、期末テストは赤を回避するため、俺が勉強を見ることになった。

「お母さんも心配してたからな。今回はきっちりやってもらおうか」
「…いつ母さんがそんなこと…」
「この前連絡先交換したから。テストの日程聞かれて、千紘がやばいから頼むって。…まさかこんなに酷いなんて…俺としたことが…」
「なんで京くんが落ち込んでんだよ…。つか、俺の知らないとこで母さんと繋がってたのがびっくりだわ」
「あはは、これでもう悪さはできませんよ、千紘くん」
「しねぇっつの」

会話OKのコーナーだけど、俺たちはヒソヒソと話す。
千紘がワークを解くのを見守って、躓いたところを解説するのが俺の仕事。
肩と肩がくっつく距離感。何ともないように軽口を叩いているけれど、耳元で囁くように話すのはやめてほしい。いや、でかい声出せないだけなんだけどさ。
千紘は三角関数を前に唸っているから邪魔したくないのに、妙にドキドキする不純な俺を知られたくなくて目を逸らす。
自分の勉強はあらかた済んでいるのをいいことに画集を眺めていたら、千紘がじっとこちらを見ているのに気がついた。

「…なに? 分かんないとこあった?」
「分かんないとこしかねぇけど……京くんのこと見てただけ」

俺は千紘の問題発言に引くべきか、にっと微笑む恋人にきゅんきゅんすべきか悩んだ。悩んだけど、反応は素直だったらしい。

「真っ赤だ…照れてんの?」
「う、るさいな。俺の顔見てても赤点回避できないよ? 集中してると思ったのに…」

ふいと顔を反対側に向けて千紘の視線から逃げる。
すると、千紘が机の上の俺の手をつっついた。
驚いて振り返った俺は、目の前にある千紘の顔に慌てて身を引いた。けれど、距離を取ったって変わらない。千紘の綺麗な顔立ち。

「今日は手、繋いでくんないの?」
「は? なにいって……っ、あーもう、」

きゅるんと効果音がつきそうな勢いで見つめられ、俺はわなわなと唇を震わす。それから、ぎゅうっと雑に千紘の手を握り、口元に持っていった。

「…集中しろ、バカ」

端っこの席だったけど、周りに人がいないことをちゃんと確認して。文句と共にちゅ、と手の甲に小さく口付ける。
ちらりと千紘の顔を見上げれば、彼は真っ赤な顔で固まっていた。

「いや、自分で言っといてその顔! やめろよ、俺恥ずかしいやつじゃん…」
「びっくりした……だって京くんは―― いや…あ、それ、好きなのか?」

取ってつけたような話題だな…
言いかけてやめたことは気になったけど、俺の今のを深堀されても困るので、指さされた手元に視線を戻す。

「ああ、これ、俺がいちばん好きな画家の。今ちょうど美術展やっててさ。テスト終わる日が展示の最終日だから、行ってこようかなーって」
「ふーん。じゃあ赤点取れねぇじゃん。1日目の分の補修は最終日の放課後にやるんだろ?」
「…千紘。俺は赤点取ったことないよ」
「…うざい」
「え、悪口! ていうか千紘は人のこと気にしてる場合じゃないだろ!」

本当に、こんな調子で大丈夫なんだろうか…。テスト期間中、俺は邪念を振り払い母親のような気持ちで彼を見守るのだった。
…ていうか、手、離そうな。



心配したけれど、どうにかテストを乗り越えたらしい千紘から、熊がドヤ顔で力こぶしを作ったスタンプが送られてきた。
結果はまだだけど、ひとまず初日の補習は免れたらしい。
いつも通り、16時30分にHRが終わったので、俺はカバンを手に急ぎ足で教室を出ようとした。美術展の最終入館は17時。次のバスに乗らないと間に合わない。

「相良!」

クラスメイトの俺を呼ぶ声に、ぴたりと足が止まる。
反射で柔らかい表情を作って振り向けば、そいつは両手を顔の前で合わせて、お願いのポーズを取る。

あ、これ、振り向いちゃ駄目だったやつ――

「掃除、変わってくんない? 俺この後予定あってさ〜」

やっぱり。予想通り降ってきた頼み事に、俺はぐっと唇を引き締める。
俺も、用事あるからごめん。そう、言わなきゃ。だってずっと楽しみにしてた。今日が最終日だから、逃したら次はいつ機会があるか分からないんだぞ。分かるだろ、俺。
断れ。即答で請け負わなかっただけ、俺にしてはまだマシだ。
行きたい。でも断っていいのか?
ドクドクと鼓動が早まる。口が乾いて、なにか言おうとしても声にならない。喉が痒い。
断ったら、がっかりされる。俺が何か間違った時の顔。悲しいとか、怒りとか、期待外れだって反応が頭の中を駆け巡る。

「なあ、聞いてる? 相良、いつも変わってくれんじゃん。な、今日も頼むわ! 俺、人待たせてるんだよ」

そんなん、ちょっとくらい待たせとけよ。
思考回路は冷静なのに、心臓だけがうるさかった。
――無理だ。

「…うん。分かった」

やっと出た声は、びっくりするくらい掠れていて、聞こえたかどうかも分からない。だけどクラスメイトは「よっしゃ! まじサンキュー、今度お礼するから!」と満面の笑みで教室を掛けて行ったので、ちゃんと声にはなっていたんだと思う。
そう言って、お礼をしてくれたことなんて今までない。俺が断るわけないと踏んで、頼み込まれて、俺は断らないから。便利屋のような存在。
いつの間にか誰もいなくなった教室でひとり壁に背を預け、ずるずると座り込む。
結局、俺は何も変わっていない。
千紘のことになれば、衝動的に家に押しかけることだってできるのにな。
駄目だなぁ、俺は。傷つくのが怖い。間違えたくない。ずっと、正しくいたい。そんなの無理だって、分かってるのに。

大きく息を吐き出して時計を見上げる。もう、バスは間に合わない。
掃除をして、真っ直ぐ帰ればいい。
重たい腰を上げて、ロッカーからほうきを取り出した。
べつに、あのクラスメイトは悪くない。俺が断っても、他の人に頼むかどうにかしていたんだろう。俺が弱いだけ。ただ、それだけなんだ。

「京くん? なんでまだいんの? バスは?」

視線を上げると、目を見開いて驚いた表情をする千紘と目が合った。
矢継ぎ早に質問されて、俺は曖昧に笑う。
おまえの方こそ、なんでこんなところにいるんだ。

「あー、もう、間に合わないな」
「美術展、今日までなんだろ。テスト終わってやっと行けるからって楽しみにしてただろ。掃除、変われって言われたのかよ」
「そう、だけど…引き受けたのは俺だから。いいって、俺のことは」

それ以上、言わないで。千紘の真っ直ぐさに当てられて、自分の情けなさが浮き彫りになりすぎるから。

「京くんっていつもそう。なんでも笑って引き受けて、それが正しいって自分に言い聞かせてるみたい。俺は京くんのそういうの、優しくて好きだって思うけど、だけど、自分を犠牲にしてまですることなのかよ」

黙ったままの俺に、千紘は喋るのをやめない。耳を塞いでしまいたかったけど、手を離したら、ほうきが倒れるからしなかった。

「何がそんなに怖いんだよ。なんで我慢すんの?全部自分がやればいいって、そんなのただの自己満――」

自己満――その言葉に、プツンと何かが切れる音がした。

「分かってる! そうだよ、全部俺の自己満だ。頼まれたことを引き受けて、相手が笑ったら、ああこれで良かった、正しかったって思えるから」

自分の行動の正当化。俺はいつも、誰かに正しいと認められたい。自分で選んだことの評価に傷ついたから。誰かに託されたことなら、こなせばそれは正しいこと。感謝されれば、間違っていないと証明になる。そうやって自分を保ってきたんだ。

「…何が正解で何が間違ってるのか、分からないのが怖いんだよ」

ああ、情けない。ダサい。こんな泣き言、誰にも言うつもりなかったのに。呆れられただろうか。千紘には、こんなところ見せたくなかった。
千紘は何も言わない。

「ダサいだろ、俺。もういいから、千紘は早く帰りな。変なとこ見せてごめん。もうちょっと掃除したら、俺も帰るし。な?」
「…そーやって、俺にまで愛想笑いするんだな」
「愛想笑いって、」

千紘の口調が強くなる。怒ってるみたいで、でも違うと分かる。
真っ赤な髪と同じくらい燃えているような、そんな意志の強い瞳。

「京くんが言えないなら、俺が代わりに言ってやる。京くんがやりたいこと、本当はどうしたいか」
「や、だから、俺は」
「美術展に行きたい。掃除なんて毎日しなくてもいいし、今から走れば最終入館に間に合う」

真剣に、真っ直ぐに俺を見つめる。こんな顔、他のやつが見たらきっと大蛇に睨まれたような気になるんじゃないか。
惚けたことを考えていたら、千紘がちらりと時計を見やって言う。

「行くぞ。荷物もってこい」
「え、ま、待って、ほうき、これ、」
「んなもんとっととロッカーに突っ込め馬鹿野郎!!」
「ひゃ、ハイッ…!!」

こ、こわ、こわい、怖すぎる。やっぱ怒ってるかも、!
俺は怒気にせっつかれるように動き出し、ほうきをロッカーに収め、集めたゴミを拾うこともせずに自分のカバンを引っ掴んだ。ずかずかと教室に入ってきた千紘は俺の腕をがしりと掴み、「文化部、気合い入れろよ」と恐ろしい一言。
俺が何か言う前に、千紘は走り出した。
ちらりと視界の端に写った時計は、16時45分を示していた。




息も絶え絶えに会場に着いた。自分の体力のなさに絶望する。途中から千紘に荷物も持ってもらって、身一つで走ってるだけなのにへろへろで座り込みそうになる。
千紘は2人分の荷物を抱えてるのに涼しげで、額に滲んだ汗を拭って髪をかきあげ、あっつ、と呟くその姿すらかっこいい。
高校は帰宅部からの美術部と俺と大差ない生活のはずなのにこの違い……

「おい、ぼけっとしてねぇで息整えとけ。チケット買ってくるから」
「あ、え、じ、自分で買える、って」
「うるさい。これでも飲め!」
「うおっ、」

投げてきたのはペットボトルの水。すたすた行っちゃう背中を見て、ははっと笑いがこぼれる。ほんと、いっつも本当に優しいのはおまえの方だよ。

千紘がチケットを手に戻ってくる頃にはなんとか呼吸も落ち着き、汗も引いてきた。千紘は全力疾走を感じさせない爽やかさですっかり元通り。なんでなんだ。

黙って差し出された千紘の右手。控えめに触れたら、ぐいっと引っ張られた。そのまま手を繋いで、美術展に入った。

最終入館間際すぎて、ほぼ人がいない静かな空間を、ふたりで黙って観て回る。

少し前、好きな画家の美術展が地元で開催されると知って、ずっと楽しみにしていた。テスト期間に被ってるけど、最終日なら行ける、学校からここまでの距離も調べて、交通手段も考えて。
今目の前に、1番観たかった絵があって、俺は思う。
馬鹿だなぁ、こんなに見たかったのに、こんなに嬉しいのに、俺は自分のために掃除ひとつ断れない。なんて臆病になってしまったんだろう。前の俺なら、迷わず断っていたはずなのに。
どこかに引っ込んでしまった本来の俺を、千紘が無理やり引っ張ってくれたから、今、こんなにもこの絵が美しく見えるのだろうか。
千紘は真っ直ぐにその絵を見据えたまま、穏やかに話す。

「正しいとか、正しくないとかさ。そんなのどうでもいいだろ。今、京くんが観たかった絵が観れて、嬉しいって、それだけでいいじゃん。俺は、京くんを無理やり連れてきて良かったと思ってる。楽しそうな京くんが見れたから」

嬉しい、楽しい。そんな単純な感情だけで行動すること。俺はできなくなった。怖いから。間違うことが、正しくないと言われることが怖いから。

「ほんと、だな。俺、何に怖がってんだろ…」

「俺はどんな京くんも好きだ。京くんが怖くなくなるまで、俺が連れてく。どこにでも。なんでもやりたいこと、全部やろーぜ」

不覚にも泣きそうになったのをバレたくなくて、俺は「かっけーよ、千紘」と笑う。千紘はふっと満足気に口角を上げ、俺の左手をきゅっと握った。
大丈夫。俺がいる。そう言うように。
鼻の奥がツンとして、喉が苦しくて、ありがとう、と唇を動かした言葉が声になったかは分からなかったけれど、千紘の俺の手を握る力が強くなったから、たぶん、伝わったんだと思う。

それから俺たちは閉館ぎりぎりまで展示を観て、帰り道で、俺は中学時代のことを千紘に話した。俺がこうなった理由。千紘は最後まで黙って聞いていて、それから何を言うでもなく、ぎゅうっと俺を抱きしめた。すっぽり収まった俺は千紘の胸の中で、少しだけ泣いた。ぽんぽんとあやすように頭を撫でられて、俺が笑うまで、千紘はそれをやめなかった。
その後はずっと、絵の話をした。まあ、テンション上がってた俺が一方的に喋り続けてたんだけど。千紘は全部に返事や相槌をくれた。俺はそれが嬉しくて、喋るのをやめなかった。

繋いだ手はそのまま。別れるのが惜しかったから、「遠回りしよう」と提案したのはどちらが先だったか。

家に帰ってご飯を食べて風呂に入り、ベッドに寝転んで左手を掲げる。
もう離れているのに、手の温もりが忘れられない。

『どうでもいいだろ』――不思議と投げやりに聞こえなくて、そこには千紘の優しさだけが滲んでいた。
怖がらなくていい。間違えたっていい。正解じゃなくても、自分がそうしたいと思えることを。
もしも傷ついた時には、慰めてあげるから。
頑張ったな、と認めてあげるから。

好きだなぁ。千紘が、大好きだ。

そんな最強な彼氏がいて、恐れることなんてないんだ。思いのままに、ぶつかっていける。好きな人に好きだと、この溢れんばかりの愛情を伝えられる。
そう、強く思えた夜だった。