4話
「…よし。こんなもんか」
文化祭を明日に控えた金曜日の放課後。一般公開に向けて校内は装飾され、何もかもがいつもとは違う景色だ。
特別教室を借りた美術部の展示コーナーの最終確認をしていた俺は、誰もいない教室で椅子を引く。
「ほんとに上手いな…」
頬杖をついてつい見入ってしまうのは、千紘の描いた作品だ。
準備期間中、千紘は部展用とコンクール用の絵を描くのに勤しんでいた。
隣に並ぶ俺の絵は、うん、普通である。
…結局、ライオン描いちゃったんだよなぁ。
それも、赤いライオン。
はあ、陽斗に見られたらなんて言われるか…。本人にはバレていないので、そこは救いだけど。
しばらく絵を眺めていると廊下から足音が聞こえて、体を起こす。
見回りの先生かもしれない。電気消して、さっさと出るか。
立ち上がり、机の整頓をしていたらガララと戸が開いた。先生が下校を促しに来たのだと思い込んでいた俺は、次いで耳に届いた聞きなれた声に驚く。
「やっぱ、まだいた」
「…あ、え、千紘じゃん。どうしたの、保育園のお迎えは?」
「行くけど、京くんに言い忘れたことあったから戻ってきたんだよ」
「えー、なになに。なんかあったっけ」
思案顔をする俺に、千紘は口角を上げる。
「文化祭、一緒に回ってくんねぇ?」
命令口調じゃなく、お願い、みたいな。そんな千紘の誘いに、俺は内心ドギマギした。
だって、いつもみたいに問答無用で回るぞって言ってくれれば、俺は断らない。
「空き時間に、ちょっとでいいから。…ダメか?」
だから、なんでだよ。なんで今日に限って、そんな控えめなの。
これじゃあ、いつものとは違う理由で断れないじゃないか。…まあ、そもそも断る理由もないのだけれど。
「…いいよ」
「ほんとか!」
「俺はクラスのシフト入ってるの午前だけだけど、千紘は?」
「俺も、12時まで」
「じゃあ、俺のが終わるの早いから、そっち行く」
「ああ。待ってる」
千紘は顔を綻ばせる。
文化祭。後夜祭でカップル量産されるんだよな、そういえば。
うちの高校はわりと自由な校風で、飲食店をやるクラスもあれば出店も多い。だから一般公開は保護者だけじゃなくて、他校の学生やOB、OGとか、結構幅広く来校するのだ。後夜祭は外部の人は参加出来ないので、昼間クラスや部活でおもてなしに徹する在校生が、有志を集ってライブをしたりフォークダンスがあったり…とにかく賑わう。そういう非日常な雰囲気にかまけて、告白とかイチャイチャとか、増えるんだよな。
まあ、千紘と後夜祭でイチャつくなんて、そんなことは起こらないと思うんだけど。そもそも約束したのは昼間の健全な時間帯なのだし。
俺が余計な思考をめぐらせている間、千紘はじっと壁面を眺めていた。
「これ、京くんのだよな。ライオン」
「え!? そ、そうだけど?」
唐突な話題に声を裏返させて返事をする。動揺するな、俺!
「俺のに似てる。ほら、髪」
「う、まぁ、言われてみれば、そうかもね?」
そりゃ、そうだろ。おまえの髪色イメージしてんだから。だあああ、恥ずい。改めて考えるとマジで恥ずい!
「俺、このライオン好きだわ。 強そうで、かっこいい」
…おまえなんだよ、バカ。こんなことで嬉しそうにするなっての。
きゅうと疼いた胸に気付かないふりをして、「そりゃよかったよ」と素っ気なく返す。
千紘はそこで時間を思い出したのか急ぎ足で教室を出ていく。
俺は力なく机にもたれかかり、鼓動が収まるまで動けなかった。
日常から少し離れたイベントが、始まろうとしていた。
俺が千紘の教室に行くのは初めてかもしれない。いつもは千紘が来るから。
一般客の列の邪魔にならないところで出てくるのを待つ。
それにしても、めっちゃ人気だな、このクラス。
気になった俺はほんの出来心で教室を覗いてみた。
フォトブースがいくつかあって、1番奥のコーナーに一際目立つ人だかり。
何がそんなに人を集めるんだろう。比較的暇だったうちのクラスの参考にでもしようと目を凝らしてみて、その中心にいる人物に俺は目を見開いた。
千紘だ。輪の中でひとつだけ飛び出た頭。その表情は、困惑しきった様子だけど。
よく見たら、周りにいるのはほとんど女の子だ。色んな色のクラスTシャツから他校の制服まで、たくさんの女の子に千紘は囲まれている。たぶんルックスのせいだろう。
それを千紘と同じクラスTシャツの子たちが、少し離れたところで見守っていた。
――男子も女子も、千紘を怖がっている様子は微塵もない。なんだ、あいつ、クラスでこんな感じなんだ。結構、上手くやってるんじゃん。
色んな噂が絶えない赤間千紘。だけど彼を知れば、人を殴ったりできる人じゃないと分かる。
お母さんに、千紘の普及活動を頑張るなんて言ったけど…俺が居なくても、あいつはちゃんとやってるんだ。
学年が違うから、知らなかっただけで。
良い事のはずなのに、少しだけモヤっとしたのはどうしてだろう。…千紘が人気者なのが気に食わないって、俺って性格悪いのかな。
「…一緒に回るの、俺じゃなくてもいいんじゃないの」
今の千紘なら、一緒に回りたいと思っている子は多いはずだ。誘われたりもしたんじゃないのか。あの感じだと、普通に友達もいそうだし。
――ああ、俺、心狭すぎだろ。
一緒に回ってと言ってきた時の千紘の顔が浮かぶ。あんなに喜んでいたのに。俺は必要ないんじゃないかって、彼の笑顔すら信じられなくなっている。
「京くん?」
視線が足元を向いていたから、千紘が出てきたことに気づかなかった。
声をかけられて顔を上げる。
「千紘…」
「待たせて悪い。 …顔色悪いけど、人酔いか?」
「…ううん。なんでもない。行こ」
ダメだ。落ち込んでる場合じゃない。せっかく千紘と約束したんだから、俺のせいで雰囲気を下げるのは嫌だ。怪訝そうな千紘に、俺はなんともないように笑いかけた。
チョコバナナ、かき氷、焼き鳥、唐揚げ…ラインナップがまるでお祭りだ。
お昼時だったので混雑する中、それらを調達した俺たちは仮設のテント下に腰を下ろす。
「人、すごいな。去年もこんなだったのかよ」
「うちの文化祭、出店多いし人気らしいよ。他校の生徒も結構いるね」
「ふーん。 京くんのクラスは? お化け屋敷だったよな」
「ああ、うん。俺がいた時は全然。隣のクラスのクオリティ高すぎて、大ダメージ受けてるの。教室の割り振りミスってるよなー、さすがに」
ははっと笑いながら言って、いちごシロップのかき氷を口に入れる。
甘い。そういえば俺、かき氷ってそんなに好きじゃなかったかも。なんで買っちゃったんだ。
たぶん、ぼーっとしてたせいなんだけど。
「…千紘のクラスは盛り上がってたな。さっきちょっと見えた」
「クラスの女子がやたら張り切ってたからな。よく分かんねぇけど、被写体がいいから燃える?とかなんとか言って」
それ、絶対千紘のことじゃん。
自分で振っておいてさっきの場面が蘇り、またモヤモヤしたものが顔を出した。
そのまま、余計な言葉が飛び出す。
「良かったの? 俺と約束しちゃって」
ああ、馬鹿。なに卑屈になってんだよ。やめろ。これ以上は。
「…ほら、千紘と回りたいって言う子もいたんじゃない? 千紘、優しいしさ。クラスの中でも近づきにくいとか怖いとか、そういうのもうなさそうだったし」
「…何? さっきから曖昧な言い方ばっかで、何が言いたいのか分かんねぇ」
――失敗した。
千紘の鋭い声で、今更そう思った。
表情も固くて、千紘のこの雰囲気は久しぶりだったから、ずきりと胸に痛みが走った。
それなのに、引くに引けなくなった俺の口は止まらない。
「っ、だから、俺じゃなくて、他の人と回ればよかったんじゃないのって、言ってる」
「は?」
千紘の声があまりに低くて、冗談抜きで心臓が震えた。ドクドクと嫌な音を立てて、謝れ、今ならまだギリ間に合うかもしれない、謝れ、と頭では思うのに、それを口にするほど感情が追いついていなかった。
「俺は他の誰でもねぇ、京くんと一緒にいたかったから誘った。…けど、京くんは違ったってことかよ」
「お、れは、」
そうじゃない。俺だって、おまえに誘われて嬉しかった。馬鹿みたいにドキドキしたし、楽しみだった。
分かってる。俺が悪い。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、なんでこう、上手くいかないんだ――
「あの、」
そのとき、頭上から華奢な声がした。
「あの、もしかして、あの時のお兄さん、ですか?」
あの時…?
何の話だと思いながら顔を上げたら、小柄で可愛らしい感じの女子が千紘をじっと見つめていた。
「…誰、っすか」
「あ、ごめんなさい、突然。 以前、怖い人たちに絡まれていたのを助けてくれた方に似ていたので、つい…。でも、やっぱりあなたですよね。何ヶ月も前ですけど、丸々町のお花屋さんの前で」
「花屋……ああ、そんなこともあった、か?」
俺の知らないところで、話が進んでいく。女の子は、千紘が曖昧ながらも思い出したのを見て笑顔を見せ、深々と頭を下げた。
「あの時は、急いでいたようなのでお礼も言えず、また会えたら伝えたかったんです。助けてくれて、本当にありがとうございました!」
「え、いや、俺は別に何も、」
「いいえ。…私、大きい男の人に囲まれて怖くて動けなくて。あなたが割って入ってくれたとき、心の底から安心できました。こう言ってはなんですけど、正直見た目はあの人たちと変わらないのに、お兄さんは全然怖くなかったんですよ」
女の子からひしひしと感謝の気持ちが伝わってくる。それを一身に受ける千紘は、どうしたらいいのか分からないというようにおろおろしていた。
近くにいた人たちが、何事かとこちらを気にしている。会話はしっかり聞こえているだろう。
喧嘩は負け知らずのヤンキーのはずの赤間千紘が、人助けしたことを感謝されている図。
これで本当に、千紘の誤解は無くなるかもしれないなと俺は思った。
「お礼が言えて良かったです」
そう言って、女の子は去っていった。
優しくて頼りになる千紘。それが本当の彼だ。知っているのは、この学校で俺だけだという事実は、思った以上に、俺にとって特別なことだったらしい。
千紘が誤解されたままなのも嫌なのに。皆と仲良くなれた方がお母さんも安心するだろうし、千紘だって居やすいだろう。
俺は自分勝手な自分に心底嫌気が差していた。
「…なんか、無理」
気づいたらそう呟いていて、ハッとして口元を抑える。
今のは、駄目だ。千紘に聞こえていたら、絶対駄目なやつ。
「京く――」
「ごめん。俺戻るわ」
「京くん、待っ、」
立ち上がった俺の腕を掴んで引き留めようとするのを、俺は振り払った。
はっきりとした拒絶に、千紘は分かりやすく傷ついた顔をした。
それを見て、俺は泣きそうになって必死で口を引き結ぶ。
最悪だ、俺。
何も上手くできない自分が嫌いだ。素直でかっこよくて、いつでも真っ直ぐな千紘が、どうしようもなく眩しくて、苦しい。
こんな俺、千紘の隣にいる資格も、泣く資格もないっていうのに。
俺は自分が嫌いだ。
*
中学の時、クラスでいじめがあった。授業態度も素行も悪く、普段から問題を起こしてばかりの男子数人が、影でこそこそやる陰湿なもの。
俺は元々、クラスの中心にいるような、いわゆる陽キャグループにいて、その中でも特に元気でうるさかったと思う。毎日友人たちとしょうもないことで盛り上がって、俺たちがクラスの雰囲気を作って楽しませていると自負があった。だから、教室の隅で大人しく過ごすタイプのクラスメイトがいじめに合っているなんて知らずに、呑気に笑っていたのだ。
だけどある日、たまたま下校後に忘れ物を取りに学校に戻ったことがあった。そこで見たのは、問題の生徒たちが校舎裏の焼却炉に誰かの私物を投げ入れているという決定的すぎる瞬間。
俺は最初何が起きているのか分からなくて、その私物がクラスの大人しい女子のものだと気づいた時、考えるよりも先に体は動いていた。
『そんなダサいことやめろよ。あの子に謝れ』なんて、今思うと無鉄砲で考え無しすぎる。
次の日学校に行くと、俺の机の中の教科書が落書きやら破れるやらで悲惨なことになっていた。十中八九そいつらの仕業だと分かったし、標的が自分になったのだと理解するのは簡単だった。
典型的なそれは続いたけれど、別に気にしていなかった。特定の数人に嫌がらせをされているだけで他の人に無視されたりはしなかったし、仲の良い友人とは変わらず笑っていられたから。
単純で馬鹿で、幸せなやつなんだよな、俺。
ただ、自分は正しい行いをしたと思っていた。
それが間違いだったと思い知らされたのは、そのしばらく後のこと。助けたはずの女子が俺を呼び出し、泣きながら言うのだ。
『相良くんのせいで私の友達が嫌がらせをされるようになった。あの人たちに、私をいじめるのはやめろって言ったんでしょう。助けてくれなんて頼んでない。あなたが余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった!』
叫ぶようなその子の声を、俺は忘れられない。いや、忘れちゃいけない。
結局、あの生徒たちは学校外で問題を起こしたことでいじめも露呈し、そのまま退学していったから表面上は平和になったわけだけど、渦中にいた女子は俺を敬遠し、友人は『首突っ込むなよ、お人好しなやつだな』と悪気なく笑いながら言った。正しいと思ったことが正しいとは限らない。正義のヒーローぶってただけで、俺のしたことはただの自己満足でしかなかったと突きつけられたのがショックで、正義ぶってた自分が恥ずかしくて、上手く笑えていたか分からない。
それから俺は、間違うことが怖くなった。
頼み事をされて引き受けた時、ありがとうと笑う人を見て、これが正しいんだと思うようになった。それに安心してなんでもなかんでも引き受けるから、部長に指名されるくらいには教師からの覚えが良く、部員からの評価は『聖母みたいでなんでもやってくれる』ってところなんだろう。
いつでも正義を振りかざしていれば上手くいくわけじゃない。
断ることに抵抗を感じるようになったし、周りの言うところの〝温厚で優しい〟俺ができあがった。
そんな情けない俺を、千紘はいつも本物の優しさで救ってくれた。拗らせてままならなくなっている俺を、大丈夫だというように。
それなのに俺は、千紘にあんな顔をさせてしまった。また、間違えたのだ、俺は。
千紘の優しさが自分にだけ向いていると勝手に勘違いをし、勘違いに気づいて落ち込んで。
…皆に囲まれる千紘を見て、昔の自分を思い出した。馬鹿みたいに笑っていればよかったあの時を懐かしく感じて、どこか羨ましかったのかもしれない。
千紘は、楽しそうっていうよりまだ困惑が勝っていたみたいだけれど。それも、〝まだ〟ってだけで、いずれ彼にとってもあれが普通になって、自分の居場所にしていくんだろう。俺のくだらない嫉妬心なんかで、それを邪魔しちゃいけない。
…今は、無理だ。さらっと人助けができてかっこいい千紘と、上手くいかない自分。一緒にいたら、惨めで恥ずかしい俺の過去、余計なことまで話してしまいそうだったから。さっきの『なんか、無理』はそういう意味だった。
…けど、千紘は俺が拒絶したと思っただろう。実際、手を振り払って来ちゃったんだし。全部俺が悪い。千紘が呆れて俺のことなんてどうでも良くなってるかもしれなくても、傷つけたことは謝らないきゃいけない。
*
とぼとぼと廊下を歩く。
かき氷も、チョコバナナもフランクフルトも置いてきてしまった。焼き鳥と唐揚げも。…鶏肉多すぎだし。
千紘、あれひとりで食べれんのかな。それとも、誰かにあげるだろうか。
はあ。何やってんだ俺。
「あれ、京じゃん」
廊下のざわめきの中、俺を呼ぶ声に視線を動かす。
「…ああ、陽斗か」
「なんだその反応、失礼だな。てか、おまえ1人? ライオンくんと回るって言ってなかった?」
「あー、いや、うん。そうなんだけど…」
言い淀む俺に、陽斗が面白いものを見たと言わんばかりに声を弾ませる。
「喧嘩か? とうとう食われたんか、ウサちゃん」
「…ウサギは、寂しいと死んじゃうんだっけ」
「何言ってんのおまえ、やばいよ、すでに顔死んでる」
今度は全力で引いた顔をされた。
いや、陽斗がライオンとウサギの設定気に入ってるんじゃん。乗っかった俺が恥ずいだけなのやめろっての。
「ま、よく分からんけど、暇ならこっち手伝え。来てみ、大行列だから」
そこの角を曲がればうちのクラスのお化け屋敷がある。ぼーっと歩いていたらいつの間にかこんなところまで来ていたらしい。
陽斗はガシリと肩を組み、そのまま引っ張るように俺を連行する。
「行列? 午前中はガラガラだったのに?」
「ちょうど京が抜けた後から、ずっとこんな調子。予定してた当番だけじゃ正直きついんだよ。 おーい、暇人捕まえたぜ!」
陽斗が大声で言いながら教室に入っていく。たしかに廊下には、隣のクラスとの境目が分からないくらいに列が伸びていた。
今は小休止、といったところだろうか。暗闇の中、懐中電灯を掲げて「助かった!救世主だ!さすが相良!」とお化け役の男子がはしゃぐ。文化祭テンションだ。
クラスメイトが口々にお礼を言うので教室は賑やかになったけれど、俺はいつものようにヘラりと笑って言えない。
千紘を置いてきた。気まずいまま、逃げるようにクラスの期待に答えようとしている。
『任せて』の一言が、こんなにも重いのは初めてだった。
一般公開が終わるまで、俺はクラスで助っ人として働いた。
これから後夜祭が始まる。
忙しすぎて気にしている暇がなかったけど、ものすごく腹が減っている。そういえば昼はあのまま何も食べていなかったっけ。
開放感からかどっと疲れが押し寄せ、お化け屋敷仕様で血まみれのシーツに覆われた机に突っ伏す。
教室の戸が開いて、陽斗がペットボトルを片手に入ってくる。
「おつー。うわ、京、マジの死体みたいだな」
「過労だわ……。 ありがと、喉乾いてたんだった」
「だな。アホみたいに動き回ってたもん。何にそんな必死だったわけ」
必死…に見えてたのか。
キャップをひねり、スポーツドリンクを1口煽る。
うま……疲れた体に染みる……
そのまま一気に半分くらい飲んでふぅと息を吐くと、陽斗は苦笑した。
「なあ、やっぱ赤間となんかあったんだろ」
真剣な声音に、俺は少しドキリとした。ライオンライオンと茶化す雰囲気じゃなくて、己の失態を見透かされているようで。
「さっきそこで、会ったよ。赤間に」
「え、千紘? な、なんで、」
さらりと告げられた事実に驚く。
こっちは2、3年の教室がメインで、1年の千紘は反対側が拠点のはずだ。
「どうせ京だと思って居場所教えてやったんだけど、なんか微妙な顔して、伝言頼まれたわ」
「なに、微妙な顔って…」
「自分が怒らせたせいで、たぶん飯食ってないだろうからってさ。捨てられた子犬みたいな顔でこれ渡された」
陽斗はポケットから雑に取り出した何かを、こちらに投げて寄越す。
キャッチしたのはおにぎりだった。鮭のおにぎり。そういえば、昼間売店に出ているのを見かけた。
「…千紘、なんか言ってた?」
「後夜祭は出ないらしいよ。なんか、お迎え?行くとかで。『嫌な言い方してごめん。飯はちゃんと全部食ったから』って、それだけ伝えといてくれって、帰ってった」
捨てられた子犬…。しっぽが下がって耳も垂れて、瞳をうるうるさせてしおらしいことを言う千紘を想像して、ズキズキと胸が痛い。両手で顔を覆って項垂れる。
もう、今日は会えないんだ。千紘に嫌な思いをさせたまま、帰らせてしまった。
「俺って本当、最悪……」
「ほんとだよ。大好きな子にあんな顔させてさ。罪な男だよ、おまえ」
「分かってる…千紘は笑った顔が1番…――え? ちょ、と、陽斗、今なんて…」
「なに、罪な男?」
「ちが、その前、…だ、だだ大好きってなに!?」
素っ頓狂な声を上げる俺に、陽斗は1ミリも動じずに淡々と言う。
「ああ、そっち? だっておまえ、好きだろ、赤間のこと」
す、好きって、それは…
「ど、どういう? どういう好き!?」
「はぁ? なんで俺が言わされんの。ふつーに恋でしょ」
「こ、…い、」
「え、まさか自分で気づいてなかったとか言う…? あんな絵まで描いといて…?」
「いや……」
気づいてないも何も、…いや、本当は、分かってた。
俺の中の千紘への感情が、確実に変化していること。
言語化されると、どうにも慣れなくて、改まって考えている余裕がなくて、思考の端に追いやっていた。
ていうか、俺の絵、見たんだな……。恥ずすぎるから、陽斗には見られたくなかった…。
「なんならもう付き合ってたりして」
なんてな、と冗談めかして笑う陽斗に、俺は口ごもる。
その様子に、陽斗は「…マジ?」と表情を変えた。
「じゃあ、京って…」
男同士で?
って、引かれる、かも……
陽斗は最初から千紘を必要以上に怖がってもいなかったし、基本何事にもクールだ。バカにされるなんてことはないと、思っていても次の言葉を待つのに鼓動が早まった。
しかし、そんな俺の動揺は杞憂に終わる。
「彼氏泣かせる最低クソ野郎じゃん……あ、彼氏はライオンの方? どっちでもいーのか」
変なところを気にして、陽斗はあっけらかんとしている。
まあ、俺に対してはドン引きしてくれたみたいだけど。
「え、待って、千紘泣い…」
「てないけど。抱きしめてやろうかと思ったくらいには、負のオーラ背負ってたな」
「抱き…!? しめたの…?」
「いや、未遂。おまえの顔がちらついたから、やめといた」
あからさまに狼狽する俺に、陽斗はははっとおかしそうに笑った。
「あれは相当京に惚れ込んでるなー。終始、俺への警戒を肌で感じたわ」
警戒?なんで陽斗を…?
こいつは人をおちょくって楽しんでるやつだけど、根はいいやつだと思う。
「嫉妬してんだろ。俺が京とよく一緒にいるから。あと、普通に緊張してたんかな。京と喋ってる時の顔と全然違ったし」
「そうなの? 千紘は結構真顔が多いと思うんだけど…」
「今度隠し撮りしてやろうか? 俺には見えるね。ライオンの鬣が、好きな男を前にして真っ赤に染まるのが…」
「だからマジで何言ってんの…変な例えやめろ」
次は俺が引いて見せて、陽斗は肩を竦めた。
「まあ、とりあえずさっさと仲直りしとけよ。百獣の王が小動物にやられるとこなんて見たくないから」
「もしかしなくても陽斗ってアホなの?」
「この前の日本史の小テストの点数知りたい?」
「いや、やめとく……」
震える手でテストを握りしめ、撃沈していたのを知っているからな。満遍なくそつなくこなすタイプなのに、日本史だけはダメらしい。
期末テストの時は助けてやろうか、と言いかけて、窓の外から聞こえた賑やかな歓声に言葉を飲み込む。
「後夜祭、始まったみたいだな」
陽斗がそう言って、黒い垂れ幕を避けながら窓を開けた。
外はすっかり暗くなっていて、グラウンドを囲うように灯る提灯がよく映えていた。
「俺外出るけど、京は?」
「俺は、いいよ。こっから見てる。陽斗、行ってこいよ」
「りょー。俺のダンス見とけよ?」
「相手いるの?」
「これから探す」
軽い調子で言って教室を出ていく陽斗に、ははっと笑う。
軽快な音楽が流れ出して、皆が思い思いに踊り始めた。
テンポもリズムもめちゃくちゃなのに、すごく楽しそうだ。
千紘は、ああいうのも無駄に上手そうだよな。あいつが踊ったら、それこそ王子様さながらなんじゃないか。
かっこいい、よな、きっと。
「好き…か」
窓枠にもたれかかり、独りごちる。
吐き出したため息は浮かれた声たちに掻き消され、俺の周りだけ静かなことを思い出す。
カップル量産の夜。イチャイチャどころか、俺は1人だ。
「謝んなきゃ…」
あと、おにぎりありがとうって。直接言いたい。
ちゃんと顔を見て、千紘と話さなきゃ。
――もう逃げるのは、やめにしたい。
鮭おにぎりの封を切る音が、誰もいない教室にやけに響いて聞こえた。
「…よし。こんなもんか」
文化祭を明日に控えた金曜日の放課後。一般公開に向けて校内は装飾され、何もかもがいつもとは違う景色だ。
特別教室を借りた美術部の展示コーナーの最終確認をしていた俺は、誰もいない教室で椅子を引く。
「ほんとに上手いな…」
頬杖をついてつい見入ってしまうのは、千紘の描いた作品だ。
準備期間中、千紘は部展用とコンクール用の絵を描くのに勤しんでいた。
隣に並ぶ俺の絵は、うん、普通である。
…結局、ライオン描いちゃったんだよなぁ。
それも、赤いライオン。
はあ、陽斗に見られたらなんて言われるか…。本人にはバレていないので、そこは救いだけど。
しばらく絵を眺めていると廊下から足音が聞こえて、体を起こす。
見回りの先生かもしれない。電気消して、さっさと出るか。
立ち上がり、机の整頓をしていたらガララと戸が開いた。先生が下校を促しに来たのだと思い込んでいた俺は、次いで耳に届いた聞きなれた声に驚く。
「やっぱ、まだいた」
「…あ、え、千紘じゃん。どうしたの、保育園のお迎えは?」
「行くけど、京くんに言い忘れたことあったから戻ってきたんだよ」
「えー、なになに。なんかあったっけ」
思案顔をする俺に、千紘は口角を上げる。
「文化祭、一緒に回ってくんねぇ?」
命令口調じゃなく、お願い、みたいな。そんな千紘の誘いに、俺は内心ドギマギした。
だって、いつもみたいに問答無用で回るぞって言ってくれれば、俺は断らない。
「空き時間に、ちょっとでいいから。…ダメか?」
だから、なんでだよ。なんで今日に限って、そんな控えめなの。
これじゃあ、いつものとは違う理由で断れないじゃないか。…まあ、そもそも断る理由もないのだけれど。
「…いいよ」
「ほんとか!」
「俺はクラスのシフト入ってるの午前だけだけど、千紘は?」
「俺も、12時まで」
「じゃあ、俺のが終わるの早いから、そっち行く」
「ああ。待ってる」
千紘は顔を綻ばせる。
文化祭。後夜祭でカップル量産されるんだよな、そういえば。
うちの高校はわりと自由な校風で、飲食店をやるクラスもあれば出店も多い。だから一般公開は保護者だけじゃなくて、他校の学生やOB、OGとか、結構幅広く来校するのだ。後夜祭は外部の人は参加出来ないので、昼間クラスや部活でおもてなしに徹する在校生が、有志を集ってライブをしたりフォークダンスがあったり…とにかく賑わう。そういう非日常な雰囲気にかまけて、告白とかイチャイチャとか、増えるんだよな。
まあ、千紘と後夜祭でイチャつくなんて、そんなことは起こらないと思うんだけど。そもそも約束したのは昼間の健全な時間帯なのだし。
俺が余計な思考をめぐらせている間、千紘はじっと壁面を眺めていた。
「これ、京くんのだよな。ライオン」
「え!? そ、そうだけど?」
唐突な話題に声を裏返させて返事をする。動揺するな、俺!
「俺のに似てる。ほら、髪」
「う、まぁ、言われてみれば、そうかもね?」
そりゃ、そうだろ。おまえの髪色イメージしてんだから。だあああ、恥ずい。改めて考えるとマジで恥ずい!
「俺、このライオン好きだわ。 強そうで、かっこいい」
…おまえなんだよ、バカ。こんなことで嬉しそうにするなっての。
きゅうと疼いた胸に気付かないふりをして、「そりゃよかったよ」と素っ気なく返す。
千紘はそこで時間を思い出したのか急ぎ足で教室を出ていく。
俺は力なく机にもたれかかり、鼓動が収まるまで動けなかった。
日常から少し離れたイベントが、始まろうとしていた。
俺が千紘の教室に行くのは初めてかもしれない。いつもは千紘が来るから。
一般客の列の邪魔にならないところで出てくるのを待つ。
それにしても、めっちゃ人気だな、このクラス。
気になった俺はほんの出来心で教室を覗いてみた。
フォトブースがいくつかあって、1番奥のコーナーに一際目立つ人だかり。
何がそんなに人を集めるんだろう。比較的暇だったうちのクラスの参考にでもしようと目を凝らしてみて、その中心にいる人物に俺は目を見開いた。
千紘だ。輪の中でひとつだけ飛び出た頭。その表情は、困惑しきった様子だけど。
よく見たら、周りにいるのはほとんど女の子だ。色んな色のクラスTシャツから他校の制服まで、たくさんの女の子に千紘は囲まれている。たぶんルックスのせいだろう。
それを千紘と同じクラスTシャツの子たちが、少し離れたところで見守っていた。
――男子も女子も、千紘を怖がっている様子は微塵もない。なんだ、あいつ、クラスでこんな感じなんだ。結構、上手くやってるんじゃん。
色んな噂が絶えない赤間千紘。だけど彼を知れば、人を殴ったりできる人じゃないと分かる。
お母さんに、千紘の普及活動を頑張るなんて言ったけど…俺が居なくても、あいつはちゃんとやってるんだ。
学年が違うから、知らなかっただけで。
良い事のはずなのに、少しだけモヤっとしたのはどうしてだろう。…千紘が人気者なのが気に食わないって、俺って性格悪いのかな。
「…一緒に回るの、俺じゃなくてもいいんじゃないの」
今の千紘なら、一緒に回りたいと思っている子は多いはずだ。誘われたりもしたんじゃないのか。あの感じだと、普通に友達もいそうだし。
――ああ、俺、心狭すぎだろ。
一緒に回ってと言ってきた時の千紘の顔が浮かぶ。あんなに喜んでいたのに。俺は必要ないんじゃないかって、彼の笑顔すら信じられなくなっている。
「京くん?」
視線が足元を向いていたから、千紘が出てきたことに気づかなかった。
声をかけられて顔を上げる。
「千紘…」
「待たせて悪い。 …顔色悪いけど、人酔いか?」
「…ううん。なんでもない。行こ」
ダメだ。落ち込んでる場合じゃない。せっかく千紘と約束したんだから、俺のせいで雰囲気を下げるのは嫌だ。怪訝そうな千紘に、俺はなんともないように笑いかけた。
チョコバナナ、かき氷、焼き鳥、唐揚げ…ラインナップがまるでお祭りだ。
お昼時だったので混雑する中、それらを調達した俺たちは仮設のテント下に腰を下ろす。
「人、すごいな。去年もこんなだったのかよ」
「うちの文化祭、出店多いし人気らしいよ。他校の生徒も結構いるね」
「ふーん。 京くんのクラスは? お化け屋敷だったよな」
「ああ、うん。俺がいた時は全然。隣のクラスのクオリティ高すぎて、大ダメージ受けてるの。教室の割り振りミスってるよなー、さすがに」
ははっと笑いながら言って、いちごシロップのかき氷を口に入れる。
甘い。そういえば俺、かき氷ってそんなに好きじゃなかったかも。なんで買っちゃったんだ。
たぶん、ぼーっとしてたせいなんだけど。
「…千紘のクラスは盛り上がってたな。さっきちょっと見えた」
「クラスの女子がやたら張り切ってたからな。よく分かんねぇけど、被写体がいいから燃える?とかなんとか言って」
それ、絶対千紘のことじゃん。
自分で振っておいてさっきの場面が蘇り、またモヤモヤしたものが顔を出した。
そのまま、余計な言葉が飛び出す。
「良かったの? 俺と約束しちゃって」
ああ、馬鹿。なに卑屈になってんだよ。やめろ。これ以上は。
「…ほら、千紘と回りたいって言う子もいたんじゃない? 千紘、優しいしさ。クラスの中でも近づきにくいとか怖いとか、そういうのもうなさそうだったし」
「…何? さっきから曖昧な言い方ばっかで、何が言いたいのか分かんねぇ」
――失敗した。
千紘の鋭い声で、今更そう思った。
表情も固くて、千紘のこの雰囲気は久しぶりだったから、ずきりと胸に痛みが走った。
それなのに、引くに引けなくなった俺の口は止まらない。
「っ、だから、俺じゃなくて、他の人と回ればよかったんじゃないのって、言ってる」
「は?」
千紘の声があまりに低くて、冗談抜きで心臓が震えた。ドクドクと嫌な音を立てて、謝れ、今ならまだギリ間に合うかもしれない、謝れ、と頭では思うのに、それを口にするほど感情が追いついていなかった。
「俺は他の誰でもねぇ、京くんと一緒にいたかったから誘った。…けど、京くんは違ったってことかよ」
「お、れは、」
そうじゃない。俺だって、おまえに誘われて嬉しかった。馬鹿みたいにドキドキしたし、楽しみだった。
分かってる。俺が悪い。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに、なんでこう、上手くいかないんだ――
「あの、」
そのとき、頭上から華奢な声がした。
「あの、もしかして、あの時のお兄さん、ですか?」
あの時…?
何の話だと思いながら顔を上げたら、小柄で可愛らしい感じの女子が千紘をじっと見つめていた。
「…誰、っすか」
「あ、ごめんなさい、突然。 以前、怖い人たちに絡まれていたのを助けてくれた方に似ていたので、つい…。でも、やっぱりあなたですよね。何ヶ月も前ですけど、丸々町のお花屋さんの前で」
「花屋……ああ、そんなこともあった、か?」
俺の知らないところで、話が進んでいく。女の子は、千紘が曖昧ながらも思い出したのを見て笑顔を見せ、深々と頭を下げた。
「あの時は、急いでいたようなのでお礼も言えず、また会えたら伝えたかったんです。助けてくれて、本当にありがとうございました!」
「え、いや、俺は別に何も、」
「いいえ。…私、大きい男の人に囲まれて怖くて動けなくて。あなたが割って入ってくれたとき、心の底から安心できました。こう言ってはなんですけど、正直見た目はあの人たちと変わらないのに、お兄さんは全然怖くなかったんですよ」
女の子からひしひしと感謝の気持ちが伝わってくる。それを一身に受ける千紘は、どうしたらいいのか分からないというようにおろおろしていた。
近くにいた人たちが、何事かとこちらを気にしている。会話はしっかり聞こえているだろう。
喧嘩は負け知らずのヤンキーのはずの赤間千紘が、人助けしたことを感謝されている図。
これで本当に、千紘の誤解は無くなるかもしれないなと俺は思った。
「お礼が言えて良かったです」
そう言って、女の子は去っていった。
優しくて頼りになる千紘。それが本当の彼だ。知っているのは、この学校で俺だけだという事実は、思った以上に、俺にとって特別なことだったらしい。
千紘が誤解されたままなのも嫌なのに。皆と仲良くなれた方がお母さんも安心するだろうし、千紘だって居やすいだろう。
俺は自分勝手な自分に心底嫌気が差していた。
「…なんか、無理」
気づいたらそう呟いていて、ハッとして口元を抑える。
今のは、駄目だ。千紘に聞こえていたら、絶対駄目なやつ。
「京く――」
「ごめん。俺戻るわ」
「京くん、待っ、」
立ち上がった俺の腕を掴んで引き留めようとするのを、俺は振り払った。
はっきりとした拒絶に、千紘は分かりやすく傷ついた顔をした。
それを見て、俺は泣きそうになって必死で口を引き結ぶ。
最悪だ、俺。
何も上手くできない自分が嫌いだ。素直でかっこよくて、いつでも真っ直ぐな千紘が、どうしようもなく眩しくて、苦しい。
こんな俺、千紘の隣にいる資格も、泣く資格もないっていうのに。
俺は自分が嫌いだ。
*
中学の時、クラスでいじめがあった。授業態度も素行も悪く、普段から問題を起こしてばかりの男子数人が、影でこそこそやる陰湿なもの。
俺は元々、クラスの中心にいるような、いわゆる陽キャグループにいて、その中でも特に元気でうるさかったと思う。毎日友人たちとしょうもないことで盛り上がって、俺たちがクラスの雰囲気を作って楽しませていると自負があった。だから、教室の隅で大人しく過ごすタイプのクラスメイトがいじめに合っているなんて知らずに、呑気に笑っていたのだ。
だけどある日、たまたま下校後に忘れ物を取りに学校に戻ったことがあった。そこで見たのは、問題の生徒たちが校舎裏の焼却炉に誰かの私物を投げ入れているという決定的すぎる瞬間。
俺は最初何が起きているのか分からなくて、その私物がクラスの大人しい女子のものだと気づいた時、考えるよりも先に体は動いていた。
『そんなダサいことやめろよ。あの子に謝れ』なんて、今思うと無鉄砲で考え無しすぎる。
次の日学校に行くと、俺の机の中の教科書が落書きやら破れるやらで悲惨なことになっていた。十中八九そいつらの仕業だと分かったし、標的が自分になったのだと理解するのは簡単だった。
典型的なそれは続いたけれど、別に気にしていなかった。特定の数人に嫌がらせをされているだけで他の人に無視されたりはしなかったし、仲の良い友人とは変わらず笑っていられたから。
単純で馬鹿で、幸せなやつなんだよな、俺。
ただ、自分は正しい行いをしたと思っていた。
それが間違いだったと思い知らされたのは、そのしばらく後のこと。助けたはずの女子が俺を呼び出し、泣きながら言うのだ。
『相良くんのせいで私の友達が嫌がらせをされるようになった。あの人たちに、私をいじめるのはやめろって言ったんでしょう。助けてくれなんて頼んでない。あなたが余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった!』
叫ぶようなその子の声を、俺は忘れられない。いや、忘れちゃいけない。
結局、あの生徒たちは学校外で問題を起こしたことでいじめも露呈し、そのまま退学していったから表面上は平和になったわけだけど、渦中にいた女子は俺を敬遠し、友人は『首突っ込むなよ、お人好しなやつだな』と悪気なく笑いながら言った。正しいと思ったことが正しいとは限らない。正義のヒーローぶってただけで、俺のしたことはただの自己満足でしかなかったと突きつけられたのがショックで、正義ぶってた自分が恥ずかしくて、上手く笑えていたか分からない。
それから俺は、間違うことが怖くなった。
頼み事をされて引き受けた時、ありがとうと笑う人を見て、これが正しいんだと思うようになった。それに安心してなんでもなかんでも引き受けるから、部長に指名されるくらいには教師からの覚えが良く、部員からの評価は『聖母みたいでなんでもやってくれる』ってところなんだろう。
いつでも正義を振りかざしていれば上手くいくわけじゃない。
断ることに抵抗を感じるようになったし、周りの言うところの〝温厚で優しい〟俺ができあがった。
そんな情けない俺を、千紘はいつも本物の優しさで救ってくれた。拗らせてままならなくなっている俺を、大丈夫だというように。
それなのに俺は、千紘にあんな顔をさせてしまった。また、間違えたのだ、俺は。
千紘の優しさが自分にだけ向いていると勝手に勘違いをし、勘違いに気づいて落ち込んで。
…皆に囲まれる千紘を見て、昔の自分を思い出した。馬鹿みたいに笑っていればよかったあの時を懐かしく感じて、どこか羨ましかったのかもしれない。
千紘は、楽しそうっていうよりまだ困惑が勝っていたみたいだけれど。それも、〝まだ〟ってだけで、いずれ彼にとってもあれが普通になって、自分の居場所にしていくんだろう。俺のくだらない嫉妬心なんかで、それを邪魔しちゃいけない。
…今は、無理だ。さらっと人助けができてかっこいい千紘と、上手くいかない自分。一緒にいたら、惨めで恥ずかしい俺の過去、余計なことまで話してしまいそうだったから。さっきの『なんか、無理』はそういう意味だった。
…けど、千紘は俺が拒絶したと思っただろう。実際、手を振り払って来ちゃったんだし。全部俺が悪い。千紘が呆れて俺のことなんてどうでも良くなってるかもしれなくても、傷つけたことは謝らないきゃいけない。
*
とぼとぼと廊下を歩く。
かき氷も、チョコバナナもフランクフルトも置いてきてしまった。焼き鳥と唐揚げも。…鶏肉多すぎだし。
千紘、あれひとりで食べれんのかな。それとも、誰かにあげるだろうか。
はあ。何やってんだ俺。
「あれ、京じゃん」
廊下のざわめきの中、俺を呼ぶ声に視線を動かす。
「…ああ、陽斗か」
「なんだその反応、失礼だな。てか、おまえ1人? ライオンくんと回るって言ってなかった?」
「あー、いや、うん。そうなんだけど…」
言い淀む俺に、陽斗が面白いものを見たと言わんばかりに声を弾ませる。
「喧嘩か? とうとう食われたんか、ウサちゃん」
「…ウサギは、寂しいと死んじゃうんだっけ」
「何言ってんのおまえ、やばいよ、すでに顔死んでる」
今度は全力で引いた顔をされた。
いや、陽斗がライオンとウサギの設定気に入ってるんじゃん。乗っかった俺が恥ずいだけなのやめろっての。
「ま、よく分からんけど、暇ならこっち手伝え。来てみ、大行列だから」
そこの角を曲がればうちのクラスのお化け屋敷がある。ぼーっと歩いていたらいつの間にかこんなところまで来ていたらしい。
陽斗はガシリと肩を組み、そのまま引っ張るように俺を連行する。
「行列? 午前中はガラガラだったのに?」
「ちょうど京が抜けた後から、ずっとこんな調子。予定してた当番だけじゃ正直きついんだよ。 おーい、暇人捕まえたぜ!」
陽斗が大声で言いながら教室に入っていく。たしかに廊下には、隣のクラスとの境目が分からないくらいに列が伸びていた。
今は小休止、といったところだろうか。暗闇の中、懐中電灯を掲げて「助かった!救世主だ!さすが相良!」とお化け役の男子がはしゃぐ。文化祭テンションだ。
クラスメイトが口々にお礼を言うので教室は賑やかになったけれど、俺はいつものようにヘラりと笑って言えない。
千紘を置いてきた。気まずいまま、逃げるようにクラスの期待に答えようとしている。
『任せて』の一言が、こんなにも重いのは初めてだった。
一般公開が終わるまで、俺はクラスで助っ人として働いた。
これから後夜祭が始まる。
忙しすぎて気にしている暇がなかったけど、ものすごく腹が減っている。そういえば昼はあのまま何も食べていなかったっけ。
開放感からかどっと疲れが押し寄せ、お化け屋敷仕様で血まみれのシーツに覆われた机に突っ伏す。
教室の戸が開いて、陽斗がペットボトルを片手に入ってくる。
「おつー。うわ、京、マジの死体みたいだな」
「過労だわ……。 ありがと、喉乾いてたんだった」
「だな。アホみたいに動き回ってたもん。何にそんな必死だったわけ」
必死…に見えてたのか。
キャップをひねり、スポーツドリンクを1口煽る。
うま……疲れた体に染みる……
そのまま一気に半分くらい飲んでふぅと息を吐くと、陽斗は苦笑した。
「なあ、やっぱ赤間となんかあったんだろ」
真剣な声音に、俺は少しドキリとした。ライオンライオンと茶化す雰囲気じゃなくて、己の失態を見透かされているようで。
「さっきそこで、会ったよ。赤間に」
「え、千紘? な、なんで、」
さらりと告げられた事実に驚く。
こっちは2、3年の教室がメインで、1年の千紘は反対側が拠点のはずだ。
「どうせ京だと思って居場所教えてやったんだけど、なんか微妙な顔して、伝言頼まれたわ」
「なに、微妙な顔って…」
「自分が怒らせたせいで、たぶん飯食ってないだろうからってさ。捨てられた子犬みたいな顔でこれ渡された」
陽斗はポケットから雑に取り出した何かを、こちらに投げて寄越す。
キャッチしたのはおにぎりだった。鮭のおにぎり。そういえば、昼間売店に出ているのを見かけた。
「…千紘、なんか言ってた?」
「後夜祭は出ないらしいよ。なんか、お迎え?行くとかで。『嫌な言い方してごめん。飯はちゃんと全部食ったから』って、それだけ伝えといてくれって、帰ってった」
捨てられた子犬…。しっぽが下がって耳も垂れて、瞳をうるうるさせてしおらしいことを言う千紘を想像して、ズキズキと胸が痛い。両手で顔を覆って項垂れる。
もう、今日は会えないんだ。千紘に嫌な思いをさせたまま、帰らせてしまった。
「俺って本当、最悪……」
「ほんとだよ。大好きな子にあんな顔させてさ。罪な男だよ、おまえ」
「分かってる…千紘は笑った顔が1番…――え? ちょ、と、陽斗、今なんて…」
「なに、罪な男?」
「ちが、その前、…だ、だだ大好きってなに!?」
素っ頓狂な声を上げる俺に、陽斗は1ミリも動じずに淡々と言う。
「ああ、そっち? だっておまえ、好きだろ、赤間のこと」
す、好きって、それは…
「ど、どういう? どういう好き!?」
「はぁ? なんで俺が言わされんの。ふつーに恋でしょ」
「こ、…い、」
「え、まさか自分で気づいてなかったとか言う…? あんな絵まで描いといて…?」
「いや……」
気づいてないも何も、…いや、本当は、分かってた。
俺の中の千紘への感情が、確実に変化していること。
言語化されると、どうにも慣れなくて、改まって考えている余裕がなくて、思考の端に追いやっていた。
ていうか、俺の絵、見たんだな……。恥ずすぎるから、陽斗には見られたくなかった…。
「なんならもう付き合ってたりして」
なんてな、と冗談めかして笑う陽斗に、俺は口ごもる。
その様子に、陽斗は「…マジ?」と表情を変えた。
「じゃあ、京って…」
男同士で?
って、引かれる、かも……
陽斗は最初から千紘を必要以上に怖がってもいなかったし、基本何事にもクールだ。バカにされるなんてことはないと、思っていても次の言葉を待つのに鼓動が早まった。
しかし、そんな俺の動揺は杞憂に終わる。
「彼氏泣かせる最低クソ野郎じゃん……あ、彼氏はライオンの方? どっちでもいーのか」
変なところを気にして、陽斗はあっけらかんとしている。
まあ、俺に対してはドン引きしてくれたみたいだけど。
「え、待って、千紘泣い…」
「てないけど。抱きしめてやろうかと思ったくらいには、負のオーラ背負ってたな」
「抱き…!? しめたの…?」
「いや、未遂。おまえの顔がちらついたから、やめといた」
あからさまに狼狽する俺に、陽斗はははっとおかしそうに笑った。
「あれは相当京に惚れ込んでるなー。終始、俺への警戒を肌で感じたわ」
警戒?なんで陽斗を…?
こいつは人をおちょくって楽しんでるやつだけど、根はいいやつだと思う。
「嫉妬してんだろ。俺が京とよく一緒にいるから。あと、普通に緊張してたんかな。京と喋ってる時の顔と全然違ったし」
「そうなの? 千紘は結構真顔が多いと思うんだけど…」
「今度隠し撮りしてやろうか? 俺には見えるね。ライオンの鬣が、好きな男を前にして真っ赤に染まるのが…」
「だからマジで何言ってんの…変な例えやめろ」
次は俺が引いて見せて、陽斗は肩を竦めた。
「まあ、とりあえずさっさと仲直りしとけよ。百獣の王が小動物にやられるとこなんて見たくないから」
「もしかしなくても陽斗ってアホなの?」
「この前の日本史の小テストの点数知りたい?」
「いや、やめとく……」
震える手でテストを握りしめ、撃沈していたのを知っているからな。満遍なくそつなくこなすタイプなのに、日本史だけはダメらしい。
期末テストの時は助けてやろうか、と言いかけて、窓の外から聞こえた賑やかな歓声に言葉を飲み込む。
「後夜祭、始まったみたいだな」
陽斗がそう言って、黒い垂れ幕を避けながら窓を開けた。
外はすっかり暗くなっていて、グラウンドを囲うように灯る提灯がよく映えていた。
「俺外出るけど、京は?」
「俺は、いいよ。こっから見てる。陽斗、行ってこいよ」
「りょー。俺のダンス見とけよ?」
「相手いるの?」
「これから探す」
軽い調子で言って教室を出ていく陽斗に、ははっと笑う。
軽快な音楽が流れ出して、皆が思い思いに踊り始めた。
テンポもリズムもめちゃくちゃなのに、すごく楽しそうだ。
千紘は、ああいうのも無駄に上手そうだよな。あいつが踊ったら、それこそ王子様さながらなんじゃないか。
かっこいい、よな、きっと。
「好き…か」
窓枠にもたれかかり、独りごちる。
吐き出したため息は浮かれた声たちに掻き消され、俺の周りだけ静かなことを思い出す。
カップル量産の夜。イチャイチャどころか、俺は1人だ。
「謝んなきゃ…」
あと、おにぎりありがとうって。直接言いたい。
ちゃんと顔を見て、千紘と話さなきゃ。
――もう逃げるのは、やめにしたい。
鮭おにぎりの封を切る音が、誰もいない教室にやけに響いて聞こえた。

