3話



9月も半ばになると、校内では文化祭の話題が出るようになった。
それに伴い、美術部はその準備で少し忙しい。10月末にある文化祭の少しあとにコンクールも控えているため、部展に出すのと並行で進めなくてはならないのだ。文化祭で出したものをそのままコンクールに出すという部員もいるけれど、俺は新しく文化祭用に描くことにした。
夏休み前から描いていたものが完成したからだ。コンクールにはそれを出すことにして、問題はその新しい絵だった。

描きたいものが見つからない。

休み時間で賑わう教室の中、うーんと唸る俺に、次の授業の小テストに備えて教科書を読んでいた陽斗が「なに?」と顔を上げる。

「絵、何描こうか全然決まんない」
「ああ、文化祭か。そういうのって好きな物描くんじゃないの? 俺は絵描いたことないから知らないけど」

描いたことないは嘘だろ。と突っ込むのはやめて、机に突っ伏しながら目線だけ陽斗を見上げる。

「好きな物なぁ」
「最近ハマってるもんは?新しい趣味とかないの」
「…陽斗、珍しく協力的?」
「俺の貴重な勉強時間に横でいつまでも唸られてたらうるさくて仕方ないからね」
「…それはごめんじゃん」

しゅんとして口を噤むと、陽斗は再び教科書を眺め出す。

「ライオンでしょ」
「え?」
「京のハマってるもの。最近はライオンだろ」

それは…もしかしなくても、千紘のことを言っておられる?
ハマってるって、千紘はものじゃないし、それになんか語弊があるな?
好きな物、ハマってるもの…ここで千紘が出てくるのはおかしな話だろ……

…とりあえず、俺も勉強しようかな。

絵の題材を決めるのは一旦諦めて、教科書を探すべく机の中に手を突っ込んだ。
と、ふいに教室のざわつきが色を変えた。

皆が一斉に教室の入口を見るのでつられて俺も視線が向く。

「京くん、今いいか」

廊下から俺を真っ直ぐに見つめるざわめきの正体、千紘は俺を呼んでいるらしい。
ただの休み時間に顔を出すなんて珍しいな。なんて思いながら俺は席を立つ。
一挙手一投足を追うように視線を感じるが、何も面白いことは起きないのにと内心でため息をついた。

「どうしたの。珍しいな、この時間に」
「俺今日部活行けなくなったから、それ言いに来た」
「そうなの? また急だね、なんかあった?」
「あー、いや…」
「いや、ごめん、無理に話さなくていいから」

つい突っ込みすぎて、言い淀む千紘に慌てて付け足す。千紘は少し迷う素振りを見せ、それから声を潜めた。

「母親が、体調崩したから早めに帰ってこれるかって連絡きて」
「え、お母さん? 大丈夫なの?」
「大したことないって言ってるけど、チビの迎えとか飯は無理っぽいから」
「そっか、分かった。山根先生には俺から言っとくよ。てか、メッセージくれればよかったのに」

貴重な休み時間をこんなところに来るのに使うなんて、もったいなくない?
そう思ったけど、千紘はあっけらかんとして言う。

「顔、見たかったから。部活がないと、京くんに会えんの朝と昼だけだろ」
「そ、そう、だね…はは」

かあっと顔が熱くなる。聞くんじゃなかった。この子、俺のことめっちゃ好きなんだった…。

「じゃ、じゃあ、わざわざありがとな! お母さん、お大事に!」

千紘のストレートな物言いにむず痒くなった俺は会話を締め、若干強引に彼を帰した。

最近、いちいち千紘の言葉に反応してしまう。なんか前より、こう、ダイレクトに響くんだよな……

「ライオンくん帰った? ……顔赤くね?」
「赤くないから!」

席に着くなり陽斗に突っ込まれ、俺は全力で首を振るのだった。必死すぎて逆効果な気がしたけど。




「じゃあ、皆お疲れ様。文化祭にコンクールもあってしばらく忙しいと思うけど、無理はしないように、何かあったらいつでも言って。――はい、解散〜」

にこっと笑顔を添えて、部長として締めの挨拶を終える。
千紘はそんな俺の様子を見ていつもちょっと不機嫌そうにする。
別に悪いことじゃないだろ?にこにこ朗らかに笑ってる方がやりやすいじゃん。…千紘に言わせたら、にこにこじゃなくて『ヘラヘラ』なんだろうけど。

…そういえば千紘、大丈夫なのか?
家のことや兄弟の世話はいつもしていることなんだろうけど、普段はお母さんと分担なんだろ。ワンオペって言うの? 1人でも平気なのか、あいつ。

まあ、俺が気にしてもできることはないもんな。
せめて後でメッセージでも入れてみるか、と1人で決めて美術準備室に道具を片付ける。
所狭しと画材やら何やらが並ぶ中、これまた窮屈そうに設置された椅子に、我らが美術部顧問が座っていた。
物音に気づいた顧問の山根先生が俺を見て「あ」と口の形を作る。

「相良くん、ちょっといいかな」
「はい。どうしたんですか、先生」
「赤間くんのことなんだけどね。彼、今度のコンクールはどうするかって聞いてる?」
「…どうでしょう、本人の意思はまだ聞いてないです」
「そっかぁ。僕個人としては応募してほしいけど、赤間くん、お家のこともあるしあまり負担はかけさせられないからねぇ」

山根先生はうーんと唸って困ったように眉を下げる。
俺個人としても、同感です、先生。

「…どっちにしても、明日には決めて詳細提出しなきゃなんだけど、聞きそびれちゃってて。それで相良くん、彼に応募の意思を確認してほしいんだ」
「ああ、いいですよ。連絡取ってみますね」
「本当? ありがとう!助かるよ。あ、じゃあ、ついでにこれも渡しておいてもらえる?」
「応募要項ですね。分かりました、任せてください」

安心したように頬を緩める山根先生に、俺は柔らかく笑んで準備室を後にした。
まあ、これは千紘にお使いだし、全然苦ではない。いつものように二つ返事で請け負った俺は考える。

明日までに返事もらわないとだよな。千紘にも考える時間が必要だろうし、プリントは写真撮って送るか……
いや、今日届けた方がいいのか?
でもさすがに家に押しかけるのはまずいだろ。
…心配、なんじゃないの?

脳内で2人の俺が悩んだ末、スマホを取りだしてメッセージを送ることにした。

『千紘の家って丸々町だったよな? たしか駅南?』

送信ボタンを押してから、スマホ見る余裕なんてないかもしれないと思いつく。
返信がなかったら、普通にメールだけしておいて明日の朝話そう。

スマホをしまい帰り支度を始めようとして、すぐにズボンのポケットが震えた。

『そうだけど。何』

千紘らしい淡白な返信。俺は続ける。

『部活のことで、ちょっと急ぎ聞きたいことがある』

今から家行っても……って、なに訪問前提になってんだ。
やめよ。謎に自宅の確認しちゃったけど、やっぱ家まで行くのは変、だよな。

打ちかけた文章を消して、山根先生から預かったプリントの写真を撮ろうとカメラを起動させた時。
突然バイブと同時にスマホの画面が切り替わり、着信画面に『赤間千紘』と表示される。

「電話!? なんで、」

慌ててスマホを取り落としそうになりながら、画面をスライドさせて耳に当てた。

「も、もしもし、千紘?」
『――京くん。悪い、電話の方が話しやすいんだよ、大丈夫だったか?』
「俺は全然。…そっちは?急ぎとは言ったけど、忙しいなら後でも…」
『ああ、いや。声聞けんの嬉しいし平気』

また、この子は…!

電話越しに聞こえる千紘の少し低い声。やっぱり迷惑だったんじゃという緊張もあって、どくんと心臓が鳴った。

『聞きたいことってなに』
「あ、うん、あの、コンクールのことなんだけど。千紘に参加の意思があるか確認してほしいって山根先生に頼まれてさ」
『あー、それなら――アァ!? ちょ、待てコラ! そんなもんどっから持ってき…うわ! だから俺のスマホその手で触っ――』

突然千紘が素っ頓狂な声を上げ、電話の向こうは一気に騒がしくなった。奥ではきゃあきゃあと楽しそうな幼い声も。

「え、千紘? だ、大丈夫? おい、…マジか、切れた」

ツー、ツーと通話終了の音が流れ、俺は唖然とする。
全然大丈夫じゃなさそうだったんだけど。

…あーもう。俺ってこんなお節介だったっけ。

音沙汰のなくなったスマホで『家、行くな』とだけメッセージを送って、俺は急いで荷物をまとめた。



千紘の家の明確な場所は聞いたこと無かったけれど、駅から南に歩いてすぐで、赤間という苗字と一軒家という情報を元に住宅街を歩いた。

ここまで来ておいてなんだが、自分がしていることに自問自答が止まらない。
家突き止めようとしてるとかこれ、ストーカーみたいになってないか。
プリントなんて写真送ればよかったんじゃないのか。…でも、やっぱ心配だし……

「…赤間。ほんとに見つかっちゃったじゃん」

ほのかな灯りに照らされる小さな庭には、子ども用の砂場セットみたいなものが転がっている。白基調のおしゃれな家だ。
いや、まだ確信はできないけど――

「いやだあ! なんでダメなの! にいにのばかあ!」
千夏(ちなつ)にはまだ早いって言ってるだろ。ワガママばっか言ってねぇで早く風呂入れって」

…絶対ここじゃん。
中から聞こえるのが幼い子と千紘の声だと分かってしまい、俺はふぅと息を吐く。
もういい。こうなったら突撃だ。もしかしたら、なにか手伝えることもあるかもしれないし!買い出しとか、そういうの?
いけ、俺!

階段を進み、意を決してインターホンを鳴らす。

ドタバタと慌ただしい足音の後、ガチャりと玄関が開いた。

「え、京くん…? なんで……」
「よ、よお、千紘。いかにも京くんです」
「あ、俺、通話切れちまってそのまんま、」
「おー、それは全然いんだけど。なんつーかその、大丈夫かなーって気になって、来ちゃった」

って、違うだろ俺!あくまで本題はコンクールの話なわけで、ついでに何かできることあったらって、それはついでだから!

「よく分かったな、ここ」
「うん、我ながら自分の分析力とストーカー並の行動力に驚いてる」

俺が真顔で言うと、千紘はふっと吹き出した。

「ストーカーって。京くんにストーカーされんなら喜んで受け入れるわ」
「いや、受け入れるなよ。 じゃなくて、これ、コンクールの応募要項。明日中に返事ほしいって。時間ある時見といてな」
「…ん、分かった。でもこれ、メッセージでよくねーか? 京くんも俺によく言うやつ」
「あー、いや、迷惑だよなって思ったんだけど…でも」

自然と視線が落ちる。
やっぱり間違えたかも。そう思うと千紘の反応を見るのが怖い。

「…千紘は、いつも直接会いに来るから」

ぼそりと呟いた声は千紘に聞こえたか分からない。家まで来ておいて、こんなことを言っておいて、俺は怖くて目を瞑った。

余計なお世話。本人に言われてしまったら、俺はもう立ち直れないんじゃないか。
お前の行動は間違っていると言われたら――

「そうか。それで会いに来たんだな」
「ごめ、俺…っ――」
「ありがとな」
「え、」
「来てくれてありがと。京くんが俺のためにここまでしてくれんの、正直予想外すぎて、すげー嬉しい」

はっとして顔を上げると、目の前の千紘は、本当に嬉しそうに、少し照れくさそうに笑っていた。
ドクドクと嫌に脈打っていた心臓が、ペースを落として呼吸を思い出す。

「っ…はーーーーー」
「きょ、京くん? なに、どうしたんだよ」

なんだか力が抜けてしゃがみこんだ俺に、千紘が慌てているのが分かる。
そっと気遣うように優しく肩に手を触れられ、俺は不覚にも涙腺が緩んだ。

「良かったぁ…」
「な、何がだよ、調子悪いんか? 水持ってくるから待って、ろ――」

だから俺、そんな軟弱じゃないってのに。まあ、ちょっと急ぎ足で来たからさっきまで若干疲れてたけど。緊張してたし。
立ち上がって家の中に入ろうとする千紘の腕を掴んで引き止めた俺は、顔だけ持ち上げて彼を見る。

「いい。いいからここにいて。千紘に拒否られなくて、安心しただけだから」
「…なんだ、それ。拒否るわけないだろ。俺が京くんを。どんだけ好きだと思ってんの」
「ははっ。それ。それねー。千紘はいつも優しいもんなぁ」
「別に俺は優しくない。京くんにだけだから」
「知ってる。学校で千紘の笑顔見たことあるの俺だけじゃない? そういうの、なんかちょっと嬉しかったり、――」

待て、何言ってんだ俺は。なんかめっちゃ恥ずいこと口走って…

「…だからそう言ってんだろ。京くんしか知らない俺のこと、すげーあんだよ。今更かよ、バーカ」
「バカって、俺一応先輩…」
「家来ただけでビビってへろへろになってるやつが何言ってんだ」
「うう、返す言葉もありません…」

項垂れると、千紘は不意に俺の両頬を挟んでぐいと顔を近づける。

「…けどまあ、怖かったのに、ちゃんと来れたのは偉いですね。…京先輩?」
「…調子乗るな、あほ」

目を細めてぺしんと千紘の手をはたく。
どうか、この手から頬の熱さが伝わっていませんように。そんな願いを込めて。
すると彼はにやりと口角を上げ、ぎゅっと俺の身体を抱き寄せた。

「これはなんのハグ…?」
「ご褒美のハグです。頑張った先輩に。 …どう? 結構効くっしょ」

ああ、ダメだなぁ、俺。
耳元で紡がれる千紘の生意気な言葉が、じんわりと胸の蟠りを解していく。
自分からなにかするのが怖かったはずなのに、千紘の抱擁が、深いところまで効いてしまってしかたない。

千紘は俺のことが好きで、俺は同じ気持ちじゃない。そりゃあ、付き合ってから今まで千紘と過ごしてきて、彼という人を好ましく思うけれど。
それは人としてって意味で、千紘が俺を想うのとは違う。…はずなのにな。

「…うん。超、効いてる」

千紘の背に手を回し、じんわりと熱を持つ彼の抱擁にぎゅうと収まる。
安心を別の感情が上回って、次第に心拍数が上がっていく。千紘も同じくらいドキドキしてるのが伝わってしまうから、もはやどっちのものかは分からない。

千紘のことは好きだ。それはもちろん、人として。だから本当はこんなこと、間違ってる。優しくしてくれる千紘に甘えて、ちょっと心地よくなったからって抱きしめ返すなんて。…本当に?

分からない。自分の気持ちなんて分からない。本当はどうしたいとか、自分の感情で行動するのは苦手になった。

だけど千紘が、両手を広げて受け入れてくれるから。臆病な俺を、優しく包み込むから。
その甘さに、溺れてしまいたくなる。

…でもほんと、これ以上はまずいよな。

「ごめん、千紘。もう大丈夫だから。…ありがとう」
「ああ。…ほら」

先に立ち上がった千紘が手を差し出す。自分の諸々の言動が気恥ずかしくて遠慮がちにその手に触れたら、ぐいとすごい勢いで引っ張られた。

「…力、強いな」
「京くんが軽すぎんだろ。ちゃんと飯食ってんの?」
「食べてます。中学で部活引退したあと、運動量激減してむしろ筋肉が脂肪になったくらい」
「もっと食えよ。そんなんじゃ、俺いつでも押し倒せんじゃん」
「は、!? 千紘、自分の家の前でなんてことを!」
「俺の家の前で抱きついてきたのは誰だっけ」

くそ、こいつ! なにイキイキしてんだ!
玄関前で問答を繰り広げていたら、ふと、視線の下の方に小さな影が見える。

「だあれ?」

千紘の制服を握ってこてんと首を傾げる姿に、俺は俺の中の何かを刺激されるのが分かった。

かわっ、かわいすぎる…!
え、何この子、千紘にめっちゃ似てるじゃん。遺伝子強すぎ…!

「千夏。どうした、お絵描きは? 散々風呂嫌がって駄々こねてただろ」
「おえかき! あのね、かずとがちぃのクレヨンとったの!! にいにがとりかえして!」
「ちょ、待てって。兄ちゃん今…」
「あー、いーよいーよ、俺帰るから! 行ってやってよ」

ちょっと長居しすぎたなと反省し、軽く手を振る。ところが、思いがけず俺の足は止まった。

「…かえっちゃうの?」
「え?」
「そっちのにーにもいっしょにきて! かずとがいじわるするのとめて!」
「え、俺?」

言うなり、ちっちゃい千紘はパタパタと家の中に走っていってしまう。

「…まだ時間平気なら、上がってけよ。来てもらっといてタダで帰すのも、あれだろ」

千紘の援護射撃をするように、奥から「にーにたち! はやくきてーー!」と声がかかる。

いや、全然、タダで帰るつもりだったけどね。ああでも、ちっちゃい千紘くんには、抗えない、かも……

「…じゃあ、ちょっとだけ、お邪魔します」





思いがけず千紘の家にお邪魔することになり、俺はリビングのソファに座っていた。
両隣には千紘の妹、千夏ちゃんと、弟の千翔(かずと)くん。2人は年子で、5歳と4歳だそうだ。千紘はキッチンから顔をのぞかせて言う。

「悪い、飯作ってる途中で。チビの相手まで任せちまって」

千紘、おかんみたいだな。高校の制服着てるから違和感すごいけど。

「全然。このくらいの子なら慣れてるし。2人ともめっちゃ可愛いな」
「え! おにーちゃん、ちぃかわいい?」

無邪気に聞いてくる千夏ちゃんに、俺はでれでれに破顔した。

「おー、超かわいいよ。千夏ちゃんも千翔くんも、赤間家はみんな美形なんだなぁ」
「びけ…? ねえ、ちぃのことはちぃってよんで!」

千夏ちゃんはキラキラと目を輝かせ、ぎゅっと俺の腕にしがみつく。
いやあこの子、天然タラシだ。俺は喜んでお願いを聞いてあげることにする。

「え〜、いいの? よろしくなー、ちぃ! よし、じゃあ俺のことは京くんと…」
「京! おさかなかいてー!」
「コラちぃ! 京くん、だろ。兄ちゃんの先輩なんだから…」
「ははっ、いーよ、なんでも。それに、千紘にも先輩扱いされたことはないんだけど?」

おかんのように口を挟んだ千紘をじとりと見つめると、彼は眉間に皺を寄せて言う。

「いや、だって京くん、先輩っぽくない…」
「言ってくれるじゃないか、千紘くん」

まあ、いいんだ。俺も千紘の前で先輩っぽくいられてるかって言われたら、全くだし。

「京…」
「ん? 千翔くん、何か言った?」

そこまでほとんど喋らなかった千翔くんが、突然ぼそりと俺の名前を呼ぶ。

「かずとでいいよ」

俺を見上げた千翔くんは静かにそれだけ言って、おえかきを続ける。
こっちはツンデレか!

「なんだよもう、かずとも可愛いなぁ!」
「や、やめろ、うざい…」

肩を抱いてわしゃわしゃと頭を撫でてやると、かずとはほんのり顔を赤くして抵抗する。
うざい、だって。今どきの園児は手厳しいな。
それすらも可愛いんだから、子どもってすごい。


それからしばらく3人でおえかきを楽しんで、千紘が夕飯の支度を終えた頃。
閉まっていた奥の襖が急に開いて、俺は一瞬驚いた。
霊的ななにかかと思ったわけだけど…

「千紘ー、ごめんねぇ、ご飯まで任せちゃって…」
「…母さん。起きてきて大丈夫なのかよ」

母さん!?

そう、千紘のお母さんが出てきたのだ。ていうか、すぐそこにいらっしゃったなんて! 寝ていたなら、年甲斐もなく2人と一緒にはしゃいでしまって申し訳なさすぎる。
俺は慌てて立ち上がり、申し訳程度ではあるが制服の皺を整えた。

「寝たらだいぶ楽になったわ。 …ん? うち子ども4人いたっけ……」
「あ、お、お邪魔してます! うるさくしてしまってすみません。千紘くんと同じ高校の相良といいます。千紘くんとは…」

お友達…じゃ、ないんだよな。いやでも、お友達でいいのか、ここは。

「友人として――」
「付き合ってる。母さん、俺の恋人の京くん」

俺の言葉を遮ってはっきりと告げた千紘の方を、俺は首が飛ぶ勢いで見やる。

言うの!?
俺男だぞ?顔も成績もオール普通のつまんない男だぞ! イケメンで家族思いで家事も子守りもできる千紘には釣り合わないって怒られるんじゃ…!

「あら、あらまあ、そうなの〜。いらっしゃい、京くん。ごめんなさいね、初対面が寝起きだなんて…」
「い、いえ! 俺の方こそ、こんな時にお邪魔してしまって…」
「千夏と千翔のこと見ててくれたんでしょう? 2人の楽しそうな声が聞こえてきたわ。子どもの扱いが上手なのね」
「いや、そんな、全然! 姉の子どもが小学生なんですけど、生まれた時からよく遊んでただけで。どちらかというと俺が遊んでもらっているような…あ、すみません、ペラペラと…」

あっさり受け入れられた状況に慌てたせいか、口が勝手に動くので困る。
千紘のお母さんはふふっと穏やかに笑った。

「面白い子ね。この子たちが懐くわけね」
「ちぃ、京のことすきだよ!」
「ははっ、ありがとう。俺もちぃのこと好きだぞ。千翔もな!」
「ぼ、ぼくも…」

千翔はそっぽむきつつ、口ではデレだ。素直じゃないところ、千紘に似てるかもなあ。
奥で千紘が複雑そうな顔をする。〝ずるい〟って顔に書いてあるみたいで、俺はちょっとドキッとした。自惚れでは、ないと思う。

「京、こっちおいでー! ちぃのすきな人みせてあげる!」

好きな人?
保育園にいるのかな、なんて思いながら、千夏ちゃんに手を引かれるまま和室に入る。さっきまでお母さんが休んでいた部屋だ。

「ちょっと、待て。ちぃ、そっちは――」
「見て、これがちぃのパパだよ! かっこいいでしょー!」

千紘が制止する前に、千夏ちゃんは俺にそう言った。

千夏ちゃんがにこにこと紹介してくれたのは、優しい笑顔で写真に収まる男性。比較的新しいものに思えた。小さな花瓶と共に並んでいる。

その近くには、小さなお仏壇があった。

パパって、…そうか、お父さん、亡くなっていたんだな。

「悪い…。隠してたわけじゃ…ねーんだけど…。気使わせちまうよなって、思って、」
「ううん。謝ることないでしょ。 …お線香、あげさせてもらってもいい?」

千紘は暗い顔のまま、こくりと頷いた。

「そこ、下の段に入ってる」

さっきまではしゃいでいたのが一変、しんと静まり返った空気に、千夏ちゃんがくいと俺の手を引っ張る。

「ちぃ、だめなこと、しちゃった…?」

目に涙を溜めて言うので、俺は小さな手を握り、にこりと笑う。

「大丈夫、してないよ。俺がちぃのお父さんにご挨拶してなかったから、教えてくれたんでしょ?」
「うん…。ちぃのパパ、かっこいいの。だいすきなの」
「そっかぁ。じゃあ、やっぱりご挨拶しないとな。ちぃと友達になりましたって」
「うん! ちぃもする! これね、これでひをつけるんだよ、にいにとママがいつもやってる!」
「お、ありがとう。一緒にしような。 千翔もおいで?」

黙ってこちらを見ていた千翔にも声をかけると、おずおずとやってきてちょこんと座る。
俺たちは3人並んで、お父さんに手を合わせた。

千紘はたぶん、お父さんに似たんだな。
なんとなく、遺影の中のお父さんの笑顔が、千紘の笑顔を思い起こさせた。
にじみ出る優しさが、いつも俺に向けてくれるそれだったから。


お線香をあげ終えると、千夏ちゃんと千翔はお母さんとお風呂に行った。
今度はすんなり入ってくれたと、千紘はちょっと疲れた顔をする。

「…父さんさ」

久しぶりに腰を下ろして落ち着いた千紘は、背もたれに身体を預けてぽつりとこぼす。

「俺が中3の時に亡くなってるんだ。千夏と千翔は、しばらく夜になると寂しくて泣いてた。最近やっと落ち着いてきて、父さんのこと、誰かに話したかったんだと思う。家族の前だと、どうしても父さんの話しにくかったんだろうな」

子どもは結構、大人を見ていると言う。小さな体で、お父さんを亡くした悲しみと、家族が悲しむ様を一身に感じていたんだ。

「…千紘は?」
「え?」
「千紘もちゃんと泣いた?」

どうしたって、あの子たちの前じゃあ涙は見せないんだろう。
千紘だって、まだ高校生なんだ。同じ体験をしていない俺は完全に気持ちを汲むことができない。だけど、彼が何も気にせずに吐き出せる場所があったっていいだろ。

「千紘はお兄ちゃんだからさ。いっぱい我慢したんだろうし、弱いところを見せるのが苦手なんじゃない?」

俺が言うと、千紘は苦笑する。本当に、色んな顔を見せてくれるようになった。

「…最初は、涙なんて出なかった。俺は泣いちゃいけないと思ってた。泣きじゃくるチビたちを宥めるのが役目だったし、母さんも、気丈に振舞ってたから」

千紘は何かを思い出すように遠くを見つめた。

「でも、ちゃんと泣いた。泣かせてくれたんだ」

泣かせてくれた、か。
千紘の弱い所を、見逃さないで引っ張ってくれる人がいたのかな。

「そっか。千紘にそういう人がいて、よかった。頑張ってんだな、おまえも」

ぽんぽんと、少し伸びてきた赤髪を撫でる。千紘は頬を赤らめて、くすぐったそうに身を捩った。
おっきい体だけど、収まりきらないくらいでっかい責任とか重圧とか、いろいろ背負ってるんだろうな、千紘は。

彼の心を想像したら、なんだかすごく、胸がきゅうっとなった。

「京くんは…ずっと、変わんねぇな。京くんは京くんだな」
「…んー、それは褒めてる? 貶してる?」
「すげぇ褒めてる」
「じゃあ喜んどく」
「お姉さんいたの、知らなかった」
「ああ、俺この歳でもう叔父さんなんだよね」
「…なんか納得」
「さすがにそれは褒めてないよね」

ふはっ、と無邪気に笑う千紘。
千紘が笑ってくれるなら、俺もうおじさんでもなんでもいいや。
つられて笑っていると、ドタバタと廊下を走る元気な足音。
千紘は「うるさいのが来た」と眉をひそめて、それでいて楽しそうにしていた。




「お邪魔しました。遅くまですみません、夕飯までご馳走になってしまって」
「いいのよ。作ってくれたの千紘だけど。 なかなか美味しかったでしょう?この子の料理」
「はい! それはもう、すっごく美味しかったです」
「やめろよ、2人して。余りもん炒めただけだっつーの」
「やあねえ、この子ったら恥ずかしがり屋なんだから」

あはは、と笑うと、千紘は不機嫌そうにそっぽを向く。

「千紘、送ってきなさいよ、京くんのこと」
「あ、いえ、大丈夫です。駅まで遠くないですし…」
「いや、送ってく」
「ええ、そうしなさい。上着持ってきたら? 夜は少し冷えるわよ」

お母さんに言われ、千紘は上着を取りに家の中へ。確かに、涼しいというには気温が低い気がする。

「…千紘ね、あの髪、ピアスも。お父さんの葬儀の翌日に、急にあれで帰ってきたのよ」

本人がいないのをいいことに、お母さんはコソコソと内緒話のように話し出す。

「びっくりして腰を抜かしていたら、『これから家族のことは俺が守るから』なんて言うのよ。あの子なりのケジメなんだと思うけど…それからずっと、家の事から千夏と千翔の面倒まで、頑張ってくれていてね。私も仕事を言い訳に任せっきりにしちゃってて、心配していたのよ。学校に友達はいるのか、勉強は大丈夫なのか。そしたら、しれっと恋人を連れてくるんだもの」

あの赤髪とピアス、怖そうな見た目は、千紘の鎧みたいなものなんだろうか。
お母さんの話に、ふと千紘の言葉を思い出す。
『強そうに見えるか』って。いつか聞いてきたよな、あいつ。

家族を守るために強い男になりたいってことだったんだろうけど…形から入るタイプか。しかもかなり、大胆だ。
俺はそんな千紘がおかしくて、なんだか可愛く思えて、ふっと笑みがこぼれた。

「ご存知かもしれませんが、千紘、絵が上手いんです。部活ではいつも、真剣な顔でいろいろ描いてます。勉強は…正直なんとも言えませんね。俺がちゃんと見ておきます。友達…は、どうだろう、あの見た目だし、誤解されやすいところあるからなぁ。ちゃんと知れば、全然怖くないんですけどね。普及活動、頑張ってみます」
「そうね。せめて金髪くらいにしておけばよかったのにね」

お母さんの正直な感想に、ふたりで笑い合う。俺は向き直って穏やかな気持ちで微笑んだ。

「千紘は、大丈夫です。優しくて頼りになる、器のでかい男です」
「…ありがとう。千紘が連れてきたのが、あなたで良かった。これからもどうか、あの子のことをよろしくね」
「…はい」

任せてくださいとは、言えなかった。
だけどいつか、胸を張って言えるようになりたい。そう思う。

千紘は上着を手に戻ってきて、俺とお母さんのほわほわしたあったかい雰囲気にぎょっとしていた。


最寄り駅の改札。俺は千紘を見上げる。時間の割にサラリーマンやら人の往来が多くて、駅の明かりは眩しいくらいだ。

「送ってくれてありがと。千紘も帰り、気をつけてな」
「ああ、家着いたら連絡しろよ」
「そんな心配しなくても大丈夫だって。男だし、俺」
「関係ないだろ。京くんが大事だから心配すんの、当たり前」

ほんと、真っ直ぐだなぁ、もう。
ドキッと鳴る正直な鼓動を隠すようにへらりと笑った。

「分かった分かった。ちゃんと連絡します」

じゃあな、と手を振って踵を返す。改札をくぐったその背に、低くて暖かい声がかかった。

「京くん。また明日」

俺は笑って、「おう」とだけ返して歩き出す。

またなー、と軽く言えなかったのは、たぶんこの、胸に芽生え始めた淡い感情のせい。嘘が嘘じゃなくなるような予感。

千紘のことを知れば知るほど大きくなっていく気がするそれは、やがて収拾がつかなくなるんじゃないかと思うと、少しだけ怖かった。

だけど千紘の顔を思い浮かべると少しだけ恐怖が和らいで、心が凪ぐのだから。
ほんと、器のでかい立派な男だよ、千紘は。