2話



「見てはいけないものを見た時って、どうする?」
「…はあ?」

体育の授業中、グラウンドでペアと準備運動をしながら俺は言う。
問いかけられた陽斗は怪訝な顔で、俺の背中を容赦なくグイグイと押し込んだ。

「なに、ライオンくんの話?」
「え、!?」
「違うの?」
「いや、そうだけど……って、いった! さっきから力強すぎね!?」
「京が回りくどい言い方するからだろ。で、何を見たの」
「ぐっ、ち、千紘が、子育て、してるかもしれん…」
「…京ってさー、頭いいくせにほんとバカだよね」
「え、悪口? うあっ、陽斗っ、ギブギブ!いだい…」

俺が何か言う度に押しが強くなる地獄の柔軟に必死で陽斗の腕を叩くと、なんとか解放される。
マジで痛い。運動不足の文化部にこの仕打ち、陽斗って涼しい顔して厳しいよな……。

「子育てって、赤間は高一だろ? 現実的に考えてあるわけないじゃん。てか、そんな気になるなら本人に聞けば?」
「聞きずらいから陽斗に聞いてんのに!」
「だから俺に聞いてどうすんの。俺は赤間じゃないし、分かるわけないでしょ。 ほら、交代。ちゃんとやれよ、ストレッチ」
「ごもっともです……って、いってぇ!なんで補助側なのに俺のが痛がってんの!?」
「軟弱だなあ、京は」

ダメだ、陽斗は。俺で遊ぶのを楽しんでやがる…。
くっそー、せめて一般論を聞いてから本人に挑もうと思ってたのに。
だって、もし千紘が話したくないことだったら? 見かけほど怖いやつじゃないって思ってるけど、あの顔で睨まれるとまだ心臓ひゅってなるんだよ…。

「あれ、今日って1年と被ってるんだ、体育」
「ほんとだ。体育館使えなかったんかな」
「3組か。そういや、赤間って1年3組じゃなかったっけ」
「あー、そうかも」
「チャンスじゃん。頑張れウサぴょーん」
「おまっえは、もー、他人事だと思って!」

陽斗はすっかりライオンとウサギって設定を気に入ったらしく、ちょいちょいいじりを挟んでくる。ウサギ呼びは恥ずかしいからやめてほしい。

校舎から出てきた集団は1年3組。その中に、千紘を見つける。
相変わらず目立つなあ、あの髪色。
ぼんやりと千紘の方を見ていたら、集合がかかった。俺は慌てて走り出し、四列横隊に収まる。

部活帰りに千紘のことを見かけてから数日。朝はふたりで登校するし、部活にも一緒に行くのが日常になりつつあるなか、千紘個人についての話は全くと言っていいほど聞いたことがない。

仮にも付き合ってるんだし、お互いのことを知るのって必要じゃないのって思ったりもするけど、俺も自分の話をぺらぺらするタイプではないのでどうにも分からないんだよなあ、距離感が。

ていうか、付き合ってるって言うのか、これ。恋人らしいことなんてしてないし、…キスだって告られた時のあれだけ。
いや別に、したいとかそういう意味ではないんだけど、全く。断じて。

「――ということで、今日の体育は1年3組と合同で行うことになった。野球の予定だったが、人数も増えたしサッカーに変更だ。まずは2人1組になってボールを――」

ふと頭に入ってきた教師の言葉に俺は驚く。

「えっ、合同?」
「話聞いてなかったのか? あっちのクラスの体育教師が体調不良とかで、オニセンがまとめて面倒見るんだってさ」
「へえ、全然聞いてなかった」

オニセンとはうちのクラスの体育教師のあだ名だ。その名の通り鬼のように厳しいのでオニセン。誰だ、そんな安直なネーミングをしたのは。
隣のクラスメイトが教えてくれて納得はしたけれど、そうか、合同…

「ペアはクラスを問わないから好きに組め。せっかくの機会だから、他学年と交流を持つのも良いだろう」

なんということか。あー、この流れは、絶対、くるよな。

「京くん」

ほら来た!
正直今は、聞きたいことがあるけど聞けない気まずさとでも気になるからつい聞いてしまうんじゃないかって俺の好奇心が喧嘩してるから、ボールをパスしながら語り合える時間なんてほしくなかった…

「俺と組むだろ」
「はい、是非」

うん、断れないよな、俺は。
なんか嬉しそうだし、千紘くん。

クラスの人たちが俺たちがペアになるのをまじまじと見ているのが分かる。怖がったり面白がったり、気に入らねーみたいな視線も。1年で良くも悪くも目立つ千紘のことを、生意気だと言ってる生徒がいることは最近知った。主に上の学年の男子に多いらしい。なんでも、見た目が不良っぽいのを除けばイケメンな千紘をかっこいいと騒ぐ女子も一定層いるのだとか。それも最近陽斗から聞いたことだけど、それが面白くないんだろう。
千紘、わりといいやつなのにな。俺と組めて嬉しそうにしてんのとか、ちょっと可愛いとか思ったり――

「京くん?」
「おお、今行くー」

まあ、本人は全然気にしていないらしい。
ボールを持ってスペースの広いところに移動する千紘を、俺は走って追いかけた。


パス練習が始まり、俺は千紘のスペックの高さに驚いていた。
俺が蹴ったノーコンのへなちょこボールを軽く受け止め、蹴り返されたボールは俺の足元に吸い付くように収まるのだ。

いや、上手いな、千紘。運動神経いいんだろうな。中学はバスケやってたんだっけ。

「京くんて、中学は部活何入ってたんだよ」

ちょうど考えていた話題に、頭の中を読まれたのかと思った。

「野球部だよ。これでも一応ね」
「ふーん。ま、根っからの文化部って体じゃねーしな、京くん」
「マジ、分かるの? 筋肉落ちきってんのに」
「この間、京くん襲ったとき触ったし」
「んなっ、ば、こんなとこで何言ってんの!?」

焦って周りを見渡して、視線は浴びていないのを確かめて胸を撫で下ろす。

「ボール行ったぞ、後ろ」
「うおっ、あーもう、千紘が変な事言うから…」

よそ見をしたせいで千紘の完璧なボールすら取りこぼし、ひたすら転がっていくのを追いかける始末。

ほんっとに、真昼間の学校で何を言い出すんだあの子は!
襲ったって、告白の時にちょっと壁に追い込まれただけだし。いやらしい言い方すんなっての!

「はー。こんなんで動揺してんなよ、俺も…」

人生で男に迫られるなんて体験、もちろんしたことなかった。恋愛経験だって豊富とは言えないし、元カノは中学の時に1人。…それも、あんまりいい思い出でもない。

相手は年下なんだから、もうちょっと余裕でいられないかな。
部活で図星つかれた時も大人げない対応したし、千紘を前にすると、こいつの真っ直ぐさに抗えなくなる。

やっとボールに追いついき、拾い上げた俺は考える。

もっとこう、先輩っぽく行きたいよな。千紘の顔に怖がってばっかいないで、こう、……

「ボールあった?」
「うわ!? びっくりした、なんで千紘まで追っかけてきてるの」

言ったそばから心臓止まりそうとか、ダサいな、俺。

「京くんがおせーから。体調悪くなった? 休憩するか?」
「ごめん、大丈夫だよ。体力ないだけだから」
「それなら、いいけど。戻るぞ。あの教師怒らすとこえーんだろ」

千紘はグラウンドの端に視線をやって言うと、俺からボールを取って走っていこうとする。

やっぱ、人のことよく見てるんだよな、千紘って。千紘は誰に何言われても気にしないタイプだろうし、俺が怒られるの苦手って思ってるんだろう。

「千紘!」
「…なんだよ、やっぱ体調悪いん――」
「この前、突き放すような言い方してごめん。千紘は心配してくれたんだろ?俺のこと」
「……急になに。 べつに、無理して笑ってんの見ててイラついただけ…」

そんなこと言って、今だって俺の体調気にしてくれてるくせに。
なんだかんだ優しいんでしょ、千紘。
イラついたのも本当なんだろうけど、素直じゃない後輩に俺は苦笑する。

やっぱ、俺はそんな千紘のことを何も知らないままなのは嫌なんだ。

「それでさ。千紘のこと、知りたいんだ、俺。だ、だから、その、昼休み! 聞きたいことあるから教えて!…ください」

いや、待ってこれ、こんな改まって言うことだったか?
違うな、ミスったよな。なんかすごい重たい話になって――
不安と恥ずかしさで目を合わせられない。やっぱ取り消すか、と弱気になりかけたとき。

「……分かった。ちゃんと、答える」

千紘から返ってきた言葉に、俺はぱっと顔を上げた。
彼は真剣な表情で、俺を見つめている。
怒ってないし、睨んでもない。
真面目ぶりすぎてなんだか余計にハードルが上がった気がするけど、応えてくれたことが嬉しかった。

「ありがと!」

にっと笑顔を見せると、千紘はわずかに目を見開いてふいとそっぽを向いてしまう。

「なんだよ、ふつーに笑えんじゃん」
「ははっ、いつもふつーに笑ってますー」
「あれはちげえ。偽モン。愛想笑い」
「え、めっちゃ言う…」

とにかく、これでもう、千紘が子持ちのパパでもなんでも、受け入れてみせるからな……!

「そこーーーー!! 駄弁ってる余裕あんなら外周倍だぞコラァァァ!」

「やば、オニセンが鬼だ…」
「だから言ったのに、京くんがノロノロしてっから」
「うるさいな! 体力なくてすみませんね!」

俺たちは走って芝生に戻り、オニセンには本当に外周を増やされた。







旧校舎の西階段。ここで昼休みを過ごすのがすっかり普通になってるな…。
弁当を抱えて、千紘が来るのを待つ。

ほんと、誰だよこんな無駄に緊張するシチュエーション考えたやつ!俺だわ!…俺ってバカなのかな。

はあ、と息をついて、俯く。

千紘のことを知りたい。聞くって決めたんだろ、俺。

緊張に打ち勝つべく質問の仕方を考え出したところに、トントンと階段を昇る音が響く。

「…わり、待たせたか?」
「全然。 …購買も行ってきたんでしょ?」
「ああ。混んでたけど、なんか譲られてすぐ買えたわ」
「怒ってると思われたんじゃ……あ、いや、怒ってないって分かってるけどね!」
「何慌ててんの。よくあるし、気にしてないから。若干罪悪感あるけどむしろ自分から……いや、いい」

え、やめるの?そこで。気になるじゃん。

千紘が階段を上がってきて、俺の隣に腰を下ろす。
お弁当と購買のビニール袋を置いてこちらに向き直った。

「……で、聞きたいことってなに」

すごくちゃんと聞いてくれる気らしい。食べながら軽くいけたら、なんて思っていたけど叶わなそうだ。まあ、そうしたのは俺だけど。

深呼吸をして、それから背筋を伸ばし、俺は一息に言った。

「千紘って子どもいるのか!?」

階段に俺の声が反響する。
しん、と静まり返ったところに、続いて「は?」と千紘が反応を示す。

え、何その、心の底から意味がわからないって顔。
こいつ何言ってんだみたいな顔。

「ちょっと待て、マジで意味わかんねぇんだけど。なんでそんなことになったわけ?」

千紘は困惑しきった様子で頭を抱える。

「俺、この前見たんだよ。千紘が部活休んだ日、おまえが幼稚園くらいの子と手繋いで歩いてるとこ!」
「ああ、なんだ、そういう…」
「千紘、俺は千紘がパパでも、受け入れるからな! しょ、将来のこととかは、考えたことねーけど、でも責任は持つから!」
「待てって。落ち着けよ。将来とか責任とか、なに、京くん俺と結婚してくれんの?俺はうれしーけど」
「けっ、そ、それは、今はまだ…!」

狼狽する俺に、千紘が真剣な顔で言うからさらに慌てる。
その様子をじっと見ていた千紘は次の瞬間、信じられないことに破顔して見せた。

堪えきれないというようにお腹を抱えて笑いだした千紘に、俺は戸惑いを隠さず口元に手をやる。

赤間千紘が、笑った……!?

なんかすごく、バカにされてる気しかしないけど!そんなことよりも千紘が笑ったのが衝撃…!

「ち、千紘、いくらなんでも笑いすぎ…」
「だって、京くんさー、神妙な顔で何言い出すかと思ったら、子どもって。そんなことある? 俺まだ15だけど、本気で俺がパパやってると思ったんだ?」

千紘はふっ、と目を細めて意地悪な笑みに変える。

「京くん、俺パパじゃねぇよ。京くんが見たのは、弟と妹。保育園に迎え行った帰りじゃねぇかな」
「ご、きょうだい……」
「そう。…うち、母親だけだから。家のこととかチビの面倒とか、分担してんの。その日は母親が飯作ってる間に、俺が迎え行く当番だったんだよ」

なんだ、そっか、きょうだい。弟さんと妹さんだったのか!
陽斗にも言われたけど、俺ってバカなんだろうな…とんだ早とちりだったんだ。

初めて聞く、千紘の家族の話。俺は調子に乗ってずいと身を乗り出した。

「じゃあ、千紘が飯作ることもあるの?」
「休みの日はだいたい俺。あと、弁当とか」
「そう、だったんだな…」
「…でも俺、料理とかチビの世話とか全然苦じゃないし、母さんが働いた金で生活できてんだから負担かけたくなくて、好きでやって――」
「すげーな、千紘!」
「え、?」

だって、俺より年下なんだぞ、こいつ。ついこの前まで中学生だったはずなのに、すごいだろ、そんなの。
俺なんて家帰って上げ膳据え膳が当たり前で…感謝もろくにせずに呑気に生きてんだから。

「家族が大事なんだなぁ。赤間家は、千紘に守られてるんだな」
「京くん…」
「あ、ご、ごめん。なんも知らないのに、上から目線…」
「…同情、されんのが嫌だったんだ」

千紘はぽつりと言う。俯いて、ずっと内側にあったものが少しずつ流れ出すように。

「こういう話すると、可哀想とか大変だなとか、そんな反応ばっかで。俺は大変だと思ってないし、可哀想でもない。家族のためなんだから、むしろ当たり前のことしてるだけなのに」
「うん」
「京くんにもそんな風に言われたらって考えたら、あんま話したくねーな、って、思ってたんだけど」

彼は眉を下げて困ったような表情で俺を見上げる。

「予想外。変な勘違いから始まるし、すげえ純粋に目キラキラさせんだもん」
「うっ、恥ずいから、言わないで…」
「そういうとこ。京くんのそういうとこが好きなんだ、俺。…とか言って、ビビってたけどな」

好き…。千紘は俺のことが好き。分かっていたはずなのに、こんなに正面から言われて、チクリと胸が痛んだ。

付き合うことになって〝しまった〟なんて考えていた俺は、この子の恋人のままいていいんだろうか。
ダメに決まってる。そんなのは最初から分かってた。

だけど、告白を断れなかったあの時とは別な意味で。千紘の笑顔を俺だけが知っているんだとか思うと、手放したくないと、そんな自分勝手な気持ちが湧いてくる。

――ずるいだろ、そんな顔は。

「千紘は、笑った顔が可愛いのな」
「か、可愛いとか、嬉しくねぇんだけど」

ぶっきらぼうに言いながら、耳が赤く染まるのを見てははっと笑いがこぼれる。

「あ、そっか、それでたこさんウィンナー入ってるんだ、千紘の弁当。弟と妹の分の余りだったんだな」
「それは今すぐ忘れろ」
「今日も入ってる?」

嫌そうに顔をしかめる千紘に、俺はにやっと笑う。

「今日は……カニ」
「マジか、カニもできるの!?」
「別に、普通だろ…」

いやいやいや、高一男子がタコさんカニさんって、普通ではないけど。恥ずかしがってる千紘が面白くて、だけどあんまりからかうと二度と弁当を見せてくれなくなりそうなのでこの辺でやめておく。

「話してくれてありがとう。これで千紘のこと、ちょっとは知れたかなぁ」

ふわりと笑いかけると、千紘はキッと目力を強める。

え、え、なに、今の流れで険しい顔になる!?

内心ドキッとしたけれど、千紘の放った言葉に違う意味でドキドキすることになる。

「キスしていいか?」
「キ――い、今、?ここで?なんで…、!?」
「すっげえ好きだから。俺がどんだけ京くんのこと好きか、教えてやる」
「ち、ひろ、待っ――」

俺の待ったなんて一切聞く耳を持たないんだからこのヤンキーめ。

階段に座ったままだから不安定で、逃げようとする俺を千紘が捕まえる。

「待たねぇし、逃がさねぇよ?」
「千紘っ、…ん……っ」

誰も来ない旧校舎。この西階段には俺たちだけ。唇が優しく触れる。

「好きだよ、京くん」

なんだよ、そんな顔……

そんなに嬉しそうにされると、苦しくなるじゃないか。
千紘が好きだと嘘をついていること。好きだと、君に同じ気持ちを返せないこと。

「俺の話、聞いてくれてさんきゅー」

覆いかぶさったまま、こつんとおでこをくっつけはにかむように笑って千紘は言う。
甘い声。俺が階段から転がり落ちないように、逃げないようにしっかりと支える優しい手。頬なんて、赤い髪より真っ赤だ。
俺はただ、「うん」と頷いた。

千紘の話を聞くだけ聞いて、自分の話だって、できないでいるのに。

俺はいつまで、千紘に嘘をつき続けられるだろう。