1話



けたたましいアラームの音で目が覚める。
――ああ、なんだ、やっぱり夢だったんだ。
ヤンキーに告白されるなんてどんなセンスの夢かと思うが、あんなこと現実に起こるわけない。

寝ぼけたまま頭上でスマホを探り、アラームを止める。そのまま手に取り時間を確認しようと画面を見た。

表示されたのは『赤間千紘』からのメッセージが3件。

『おはよう』
『駅つくの何時?』
『学校の最寄りで待ってて』

夢じゃ、ない……そうだ、あの後連絡先を交換したんだった。
俺は赤間千紘の恋人になったんだ。

「…どうしよ」

受け止められない現実に、目を瞑ってもう一度寝てしまいたかった。


待ってて、と言われたのに、俺が学校の最寄り駅に着く頃には赤髪が見えた。
行き交う人は振り返り、少し避けて通る人もいた。それは派手な見た目のせいか、整った容姿故か…
あいつ、ほんとに俺を待ってるんだよな…?

声、かけずれー……

「京くん」
「ハイッ!?」

反射的に返事をすると、目の前に赤間がいた。
俺が声をかけるのを躊躇っている間にこちらに気づいたらしい。
…てか、京くんて……タメ口だし口悪いし強引だし、呼び捨てされるものだと思っていた。このナリで、くん付け。友達にもそうなのか?ずいぶん可愛らしいギャップだな、こりゃ。

「はよ。行くぞ」
「お、おー…はよ」

こいつめっちゃ普通だな。

俺たち昨日、付き合ったんだよな。赤間は本当に俺のことが好きなのか?
気圧されて断れず恋人になったわけだけど、赤間は両思いだと思ってるってことで……
うわーこれ、バレたらヤバくない?怖くて断れなくて勢いで返事したなんて知れたら――

「――い、おい、聞いてるか」

低い声に呼ばれ、ハッとする。

「うおっ!? 近っ」
「わ、悪い」

存外至近距離にあった赤間の顔に驚き仰け反ると、以外にも彼はすぐに離れた。

「えーと、赤間? なんだった?」
「俺のことも名前で呼べ、って言った」
「へ?」
「つか俺の下の名前知ってんの?」
「ち、ひろ…さんですよね」
「…知ってんのかよ」

赤間はふいと顔を逸らしぶっきらぼうに言う。

「嫌、か?」
「え、」
「名前で呼ぶのは嫌なのかって聞いてんだ!」
「や、やじゃ…ないよ」
「…ならいい」

いや、耳あっか!まさか照れてんの?嘘だろ、ええええーー、もうほんとに、なんなのこの子!まじで俺のこと好きじゃん………

猛獣に懐かれた気分……。

初めて一緒に登校した日、俺たちは朝から学校中の注目の的となった。



「なあ、京。おまえ今朝赤間と一緒に来たってほんとか?」

昼休み、購買に向かう道すがら陽斗(はると)が言う。1年の頃からの付き合いで気心のしれたいいやつだが、お付き合いすることになったからですとは言えない。まだ俺もよく分かってないんだ、この状況。

「あー、まあ、そう…」

歯切れの悪い俺の返事を気にすることなく、陽斗は続ける。

「赤間ってあの赤間だろ? 校長締めたとか、毎日即帰宅で喧嘩しに行ってるとか。入学してきた時から2年の間でも噂すごかったよな」

陽斗は真面目に語る。学年を飛び越えて赤間が良くない方向に有名だということを。

「弱みでも握られた?」
「いやあ、そういうわけでもないんだけど。なんつーか、ライオンに捕まったウサギ?」

俺がウサギは可愛すぎたか。脳内でライオンとウサギが戯れる図を想像して顔を顰める。陽斗も同じ顔だ。

「なんだそれ。遊ばれてんのか。不良に目つけられるとか何したんだよお前」
「真面目に生きてきたはずなんですが…」
「心当たりとかないわけ」
「心当たりねぇ…」

陽斗に言われ思案する。
心当たり…赤間に好かれるような……?
いや、そもそも赤間とまともに会話したことなんてないはずだ。

「あ、噂をすれば…」
「え?」

陽斗が立ち止まり、廊下の先に視線をやる。俺は間抜けな声を上げてそれを追った。

遠くからでも分かる、あの赤髪は。

ど、どうする、隠れるか!?
いやでも、隠れたところで逃げられるとも思えない。

そこでばっちり目が合った。一瞬、赤間は驚いたような表情をした、気がする。すぐに眉間に皺を寄せ、彼は迷うことなく俺の方へ一直線に向かってきた。

「あ、ち、千紘、も購買?」

赤間はこくりと頷く。なぜ睨まれているのかは分からないが、咄嗟に名前呼びを思い出したのだから褒めてほしい。

「京くん、いつもその人と飯食ってんの?」
「そうだよ。な、陽斗」

笑顔で振ると、陽斗はあからさまに面倒そうな顔をした。
おまえ、そんな顔したら千紘に何されるか…!怖いもの知らずめ!

「はると…さん。京くん借りていっすか」
「は!?」

俺はぎょっとして千紘を見る。
何言ってんのこの子、あとなんでちょっとしおらしいんだよ!俺にはあんななのに!

「あー、いーよいーよ。どこにでも連れてってやって」
「は、ちょ、何勝手に…」

陽斗はぽんと俺の肩に手を置き、にやりと笑って囁く。

「よく分からんけど、頑張れ。ウサちゃん」
「バカっ、千紘の前でそれ言うな――」
「ああ…頑張るのはライオンくんか?」

だから余計なことを!

「ライオン?」
「あー、うん、なんでもないから!」

怪訝な顔をする千紘を宥めている間に、陽斗はさっさと行ってしまった。
あのやろう、後で覚えとけよ。

「弁当取ってくる。 旧校舎の西階段で待ってろよ」
「ハイ…」

だからなんで俺にだけ命令口調……




旧校舎は、今は特別科目で何部屋か使われるだけで滅多に人が寄り付かない。
さらに一番奥の西階段となれば、自分たちの話し声だけが木霊するほど静けさに包まれている。

そう、まるでこの世界に2人きりになったような――

気まずい。千紘と2人っきりとか、間が持たなすぎる。ずっと喋んないし、何考えてるか分からないんだよ、こいつーーー。

沈黙に耐えかねた俺は意を決して言葉を発する。

「べ、弁当も食って、パンも食うの?」

数秒時が止まって、それから千紘がぶっきらぼうに言う。

「余りもん詰めただけだから、足りない」
「余りもん…あ、たこさんウィンナー入ってんじゃん、かわいー――」

ちらりと見えた千紘の弁当箱、ちょこんと居座るたこさんウィンナーに思わず素直な感想を零してハッとする。

可愛いとか、さすがにまずかったか!?
千紘、怒ったんじゃないか、ヤンキー怒らせたらやば――

「み、見るな。ほしけりゃやる!」
「え、あ、んぐっ――」

身構えたものの、殴られるでも怒号が飛んでくるでもなく、口の中にたこさんが詰め込まれる。

千紘はそっぽを向いたまま。俺は驚きつつ、彼の後頭部を眺めながらウィンナーをしっかり飲み込んだ。

「う、美味いな、?」
「そうかよ」

声は不機嫌の極み。でもこれ、怒ってるっていうより――

「なあ、もしかして照れてる?」
「違う」
「たこさんウィンナーが恥ずかしくて?」
「だから違うって――!」
「お、やっとこっち見た。ふはっ、やっぱ顔真っ赤じゃん」

やばい、こいつ面白いかも。

本日二度目の赤面ともなれば、堪えようと思っても笑いが込み上げてくる。
顔怖いし、たこさんウィンナーとか世界一似合わないし、なのに恥ずかしくてすぐ赤くなっちゃうとか。

「千紘、もっと色んな顔すればいいのに」

ぼそりと呟いた言葉に、千紘がピクリと表情を固める。

「…京くんは、俺が怖いか?」
「そ、れは、ま、まあ、どちらかと言えば…?」

ほんとは昨日、怖すぎて怯えきって告白断れなかったくせに、何濁してんだ俺。

「なら、…強く見える?」
「つ、強…? うーん、そりゃあ、怒らせたら1発KOなんじゃないかとは思うけど……って、いや、違う、今のはその、あれだな、なんていうか――」

しまった。俺としたことがつい気が緩んでまた危険な発言を――!

「強く見えてんなら、いい」
「え、いいの?」
「…これもやる」
「ありがと…うぐっ、千紘、その問答無用で突っ込むのやめて!詰まる…」

俺が騒ぐのを見てる千紘の表情が、少しだけ柔らかくなった気がした。いや、気のせいかもしれないけど。千紘がくれた卵焼きは甘いやつで、焦げがほんのり苦い。案外こいつもそんな感じなんじゃないかと…俺は密かに思った。



「京くん」

帰りのHRが終わり、それぞれが部活やら帰り支度をする時間。
教室の入口からかかった声に、クラス中の視線が一気にそちらに向く。

「え、あれって、」
「1年の赤間くんじゃない? ほら、入学早々いろいろ噂になった…」
「ああ、うちの校長泣かしたんだっけ?」
「えー、怪我させたんじゃないの? 中学でも暴力沙汰起こしたことあるって…」

言われ放題だな……
ヒソヒソ交わされる散々な内容に俺はため息が出そうになる。
相手は1年。いくら派手な見た目してるからって、ホントかどうかも分からない噂話を本人の前ですることないのに。…まあ、俺も人のこと言えないけど。
噂については、嘘か本当か、俺も知らない。本人に聞けば済むのかもしれないけど、校長絞めたとか喧嘩強いとか本当?なんて軽々しく聞けないし。

ともかく、そんな噂の的の千紘は、俺を呼んでるわけで。たぶん、部活に一緒に行こう、ということだろう。昨日渡された入部届けは今朝、顧問に提出してある。意外にもすんなり受理されて驚いた。勝手に、教師からの覚えも良くないものだと思っていたから。

陽斗が視界の端でウサギのジェスチャーをする。俺はそれにじとりとした視線を送り、それから荷物を持って千紘のもとに駆け寄った。

「ごめん、お待たせ。でも、わざわざ来なくても良かったのに。美術室、千紘の教室からの方が近いでしょ」
「京くんと一緒に行きたかっただけ。…迷惑だったか?」

横目で教室を見て。千紘は言う。俺が千紘と話しているのを、クラスのやつらがちらちら見ているからだろう。…こんなこと気にするやつが、ほんとに喧嘩に明け暮れてるんだろうか。

「いいよ。気にしなくて。行こ」

俺たちは三者三様の容赦のない視線を背に、美術室に向かって歩き出す。

千紘は背が高い。歩いているだけで振り返る人が多いのは、目立つ赤髪とピアスと、この身長もだろう。横に並ぶ俺は当然平均並みなので、なかなか身長差がある。
これ、俺絡まれてるように見えてんのかな。

「あ、俺、部活は出るけど三十分早く帰るから。顧問には言ってある。部長の京くんにも、許可もらった方がいいだろ」
「え、そうなの? 全然大丈夫だけど…何かあるの?あ、バイトか?」
「まあ、そんなとこ。やることあるから」

やること…とは。言わないってことは言いたくないってことだよな?
まさか本当に喧嘩…? いや、もう噂に振り回されるのはやめたい。ただでさえ、告白を断れなくて付き合っているという責任があるのだから……

「ふーん。ま、今日は適当に自己紹介して、軽くデッサンでもやってみる? いきなり人はムズいだろうから、あー、りんごの模型あったっけな。夏休み入る前に倉庫に仕舞った気が…」
「部活のことになるとよく喋るんだな」
「うわ、ごめん、つい…」
「べつに。絵、好きなんだろ」
「絵は、描くのも観るのも好きだよ。自由だからさ」
「自由?」
「うん。人の気持ちとか考えてることとか、自分の感じたままに捉えられるでしょ。昔の絵なんかは特に、自分の価値観で作者の感性とか想像できるから。ひとりで楽しむ分にはその解釈は自分だけのもので、正解でも不正解でも誰にも文句を言われないし、喧嘩にもならない」

対人関係と違って。気に入った絵があったとして、その絵を描いた人と会うことはそうないだろうし、ましてや語り合う機会なんて。だから作者の気持ちを想像して広げて、勝手に会話した気になれる。こういう思いが込められてるのかな、こうだったらいいな、なんて、誰かの気持ちを想像して自分の中に落とし込んで、そんな一方通行でも許されるのがいいんだ。

友達とかクラスメイトとだったら、そうはいかないし。

「って、ごめん、また喋りすぎたな」
「謝んなくていい。京くんの話はいくらでも聞く」
「そ、っか…ありがと。 あ、じゃあ、千紘の話も聞きたい」
「つまんねーよ、俺の話なんて。…美術室、ついた」
「お、おう」

ままならない。俺にしては踏み込んだんだけど、さらっと躱されたよな、これ。
千紘のこと何も知らないまま、噂してるだけのやつらと一緒なのは、嫌だと思ってるんだけど。
自分の話をするのは苦手そうだ。俺もそうだし、まあ、ゆっくりでいいか。



千紘の登場に一瞬ざわついた美術室は、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。
基本的に静かに過ごすのが好きな面々が集まっているので、赤髪が来ようが部活に支障がなければ必要以上に気にするやつも騒ぐやつもいないだろう。
仲が悪いわけでもないけど会話は少なく、体育会系のようなあからさまな上下関係もないし、みんな思い思いに自分の世界に入りこむから、俺はこの部活をありがたく思ってる。自分に合っているのだ。
今日も、部長の俺に軽く挨拶だけして千紘の自己紹介を聞くと、さっさと作業にとりかかる部員。

俺はりんごの模型を探しに倉庫に行って、画材をセッティングして千紘を呼ぶ。

「まずは、細かいこと気にせず描いてみて。俺は横にいるし、分かんないことは聞いてくれればいいから」
「分かった」

千紘が鉛筆を手に取り作業を始めたのを見て、俺も自分の絵の続きに取り掛かる。
夏休み前から描き始めて、休み中も少しずつ進めている作品。
毎度の如く、特別上手いわけでもない俺は、部の活動の一環でコンクールに出しても入賞止まり。俺より上手い部員は他にいるし、優秀賞とかもっとすごいのを貰う人もいる。
好きなものを好きなように描いているだけで、心が休まるこの時間も空間も、結構好きだ。

どれぐらい経ったか、集中しすぎて固まった体を解すついでにちらりと横を見る。
千紘はすごく真剣な顔で画用紙と向き合っていた。
いつもみたいに眉間に皺がよった怖い顔じゃない。

…そんな顔もできるんだ。

声をかけるのははばかられて横顔を盗み見る。と、視線を上げた千紘と目が合ってしまった。
ドキリとして、俺は慌てて言い訳を探す。

「いや、すげー集中してるから、見守ろうかと思ったんだけど。見すぎた、よな」
「まだだから。前向いてろ」
「はい、すみません」

ちょっとだけ険しい顔をする千紘。
ああ、失敗。もう千紘から声かけられるまで大人しくしてよう。
そう決めて、言われた通り前を向き自分の絵に意識を戻した。


「…京くん。終わった」
「おお、おつかれ。疲れたでしょ、休憩もせずに2時間座りっぱなしは。…見てもいい?」
「ん。下手だから、期待すんなよ」

雑に手渡された画用紙に、一体どんなりんごが描かれているのかと少しわくわくしながら視線を落とし、俺はピタリと固まる。

え、これ――

「…なんか言えよ、部長だろ。新入部員の初作品。アドバイスとかねーの」
「い、や、ご、ごめん、ちょっと、びっくりして――え、だって、」

りんごじゃない。
繊細なタッチで影やコントラストを上手く使いながら描かれたそれは、人物画だ。
しかもこれは。

「俺…じゃん、これ?」
「そーだけど。言うこと聞いてりんご描いた方が良かったか?」
「ううん。描きやすいかなって思って言っただけだから、何描いてもいいよ。いや、でも、上手すぎない!?」
「…急にうるさ」

堪えきれず飛び出した俺の声に、千紘が顔を顰めてぼそりと言う。

「経験者だったの?千紘」
「デッサン?は、中学ん時美術で2回ぐらい描いたけど。部活はバスケ入ってたし」
「うそだろ…普通に俺より上手いし、なんかすげえ美化されて、めっちゃイケメンになってない!? 俺の横顔こんなかっこよくないから、絶対!」
「だからうるせーって。京くん、声でかい。ていうか、京くんかっこいいし。そのまんまだっつーの。ずっと見てられるから、りんごより描きやすかったわ」
「う、そ、そうですかね…」

恥ずかしい台詞をサラリと言うから頭を抱えそうになる。

「なあ、これみんなに見せていい?」
「は? 別にいいけど…初心者が描いたやつ見せてもつまんな――」
「いやこれやばいよ、才能だろ! 次のコンクール、絶対出させるからな、千紘!」

温度のない声で大したことないと言う千紘を遮り、ちらっと美術室を見渡す。
それを合図に、部員たちがバラバラと席を立ち俺と千紘を取り囲むように集まってきた。俺の抑えきれない反応に、部員たちも何事かとこちらを気にしていたのだ。

「珍しいですね、相良部長が騒ぐなんて」
「うるさくしてごめんね。 でも見てよ、これ。千紘が描いたんだけどさ」
「わ、上手い! え、これこの子が描いたの? 1年生だよね、赤間…くん」
「そうそう。赤間千紘。すごいよなー、びっくりだよ。千紘にこんな1面があったなんて」

それからしばらく、代わる代わる千紘の絵を見た部員は皆同じような反応をして、少し盛りあがった。
鉛筆を削る音やキャンバスをなぞる音がひびくだけの美術室が人の声で溢れるなんて、滅多にないレアな光景だ。

「びっくりなのは部長もですけどね。穏やかなとこしか見たこと無かったから、大きい声も楽しそうなのも新鮮でした」
「うんうん。相良はいつも誰よりも静かだもんね。聖母みたいな?」
「なんでも聞いてくれるし、皆が嫌がる仕事も全部引き受けて。優しくて頼りになって、部長の器すぎるっていつも言ってました」

いつの間にか話題は俺にすり変わって、俺はははっと苦笑いを浮かべる。

部長の器、ね。

「それで皆がやりやすいなら、なんでもするよ、俺は」

柔和な笑みを心がけ、自分で言いながら内心は違った。
モヤモヤ、ざわざわ、落ち着かない。部員の皆からの評価。そんな感じだろうとは思っていたけど、直接聞くのは初めてだ。

ああ、良かった。これで合っているんだ。今の俺は、間違ってない。

やりたくなくても、本当は時間が無くても、理不尽でも、おかしいと思ったことをおかしいと言うのがいつも正しいわけではないから。
なんでもしてくれる、都合のいいやつってことなのかもしれないけど、それでも、どんな形でも嫌な顔をされないならいい。

もうあんな思いは、したくない――

「よし、あと30分。みんな作業に戻って。手止めさせちゃってごめんな〜」

仕切り直すように笑って手を叩くと、はーい、とそれぞれ元の場所に戻っていく。
美術室にはいつもの静寂が戻った。

「ちょっと騒ぎすぎたかな。でもほんと、めっちゃ上手いから千紘、自信持てよ! あ、ていうか、千紘もう帰らなきゃなんじゃない?」
「…なんで?」
「ん? なんでって、もう17時半…」
「そうじゃなくて。 なんでそんなに笑ってんの?」
「え?」
「聖母みたいとか、なんでもやってくれるとか、本当に言われて嬉しかったのかよ」

千紘の射抜くような視線に、俺は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

嬉しかったのか…って、そんなの…

「なに、言ってんの。決まってるじゃん。皆が俺を部長に向いてるって思ってくれてるんだから」
「じゃあなんでそんな顔すんの。全然嬉しそうじゃないだろ」
「千紘には、分かんないでしょ。……なあ、もういいだろ、この話は。早く帰りな。用事あるんじゃないの」

見透かすような瞳から逃げたくて、俯いた。完全にシャッターを下ろした俺に、千紘はため息をついて立ち上がる。

「帰る。 明日は俺、部活来れねーから。よろしく、部長さん」

は、はああ!? なんだよ、その言い方!
かんっぜんにバカにしてるじゃん!

と思ったものの、顔は上げられず、拳を握りしめて「分かりました。帰り、気をつけて」となけなしの部長根性で返す。

千紘が出ていって、俺はふぅと息を吐き出した。

心臓はまだドキドキとうるさい。
こんなに動揺するなんて、情けない。

『全然嬉しそうじゃない』…か。

「付き合って2日のあいつに言われてたら、まだまだだな、俺…」

ぽつりと独りごちたセリフは誰に拾われることもなく消える。
そのうち、1年生の子に呼ばれて俺はまたにこりと笑みを浮かべた。

引きつっていないかどうか、確かめるのも怖かった。
皆が思うような、心からの善意で動くような人間じゃない。部長に向いてるとか相応しいとか、散々言われてきた言葉。
俺は全然、優しくなんてない。

「…てかあいつ、ほんと何してんだ? 明日、なんかあるのかな…」

朝はまた一緒に登校するのだろうか。少しだけ、顔を合わせるのが気まずい。


翌朝、目が覚めるとスマホに通知が溜まっていた。

昨日と同じ、駅で待ってろという命令。俺はどこかほっとしたような、バツが悪いような気になる。
ついムキになったからって、あの会話の終わらせ方はないよなー……大人げない。

「はよ。…寝癖ついてんぞ」
「おはよ…」

昨日と同じ千紘だ。ガシガシと雑に髪を掻き回されて、直してくれたつもりなんだろうけど余計に酷くなったと思う。

その日は部活でのことなんてなかったみたいに、普通の1日を過ごした。
千紘は聞いていた通り部活に来なかった。

俺は穏やかな部活動を終え、美術部の同級生、真面目で勉強ができてメガネが良く似合う鈴木くんと途中まで帰り道を共にする。

「今日は赤間くん、来なかったね」
「うん、なんか用事があるんだって。来れても18時まではいれないみたい」
「そうなんだ。…あの噂って、本当なのかな」
「ああ、喧嘩とか、そういうの?」
「正直僕は、昨日本人と喋ってみて、信じられなかったなあ。最初は怖かったけど、みんなにべた褒めされてちょっと照れてたよね。素直でいい子なんじゃないかって思ったよ」

鈴木くんはクイッとメガネを押し上げて言う。

「…そうだね。俺も、悪いやつじゃないって思うよ。人のことよく見てて、鋭いとこあるけど」
「相良くんの絵、よく描けてたもんね」

絵、だけじゃないけれど。
俺は曖昧に笑って頷く。

「じゃあ、僕はこっちだから。また明日、部活で」
「またな〜」

ぺこりと頭を下げる鈴木くんに軽く手を振り、駅に向かって歩き出す。

今頃千紘は何してるんだろう。痛いところをつかれたからって嫌な言い方したこと、謝った方がいいよな。切り出し方が分からなくて今日は言えなかったけど……

…千紘のことばっか考えすぎだろ、俺。

帰ろ。腹が減ってるからだ、余計なことを考えてしまうのは。ああ、ほら、赤髪を見かけるだけで千紘を思い出――って、本人か?
前方に見かけた見慣れた制服と赤髪。うちの高校であの髪色なのは千紘だけだ。だからあれは、多分間違いなく千紘なわけで――

「……子ども、?」

千紘の左右の手には、それぞれ小さな手が繋がれている。
幼稚園ぐらいだろうか。園服に黄色い帽子、千紘の腰より下に頭のある小さな体。

「え、あいつ、子持ち!?」

思わず声が出て、慌てて口元を抑える。通行人が振り返って不思議そうに俺を見た。

え、待て待て待て。高一だろ、高一で子どもいたのかあいつ!見てはいけないものを見てしまったのでは……。
いや、落ち着け。年の離れた兄弟とかかもしれないだろ。

部活に来れない理由って、あれか……!

でも、高校生の千紘が面倒見なきゃいけないって、親は何して……って、なにか事情があるんだろう。人様の家庭をあれこれ詮索するもんじゃないよな。

それにしても……でっかい赤髪とちっこい園児ふたりか。

「すごい画だな……」

兄弟がいるとかいないとか、その目立つ見た目に理由はあるのかとか。突然告白されて付き合うことになったけど、なんで千紘は俺を知っていたのかとか。

赤間千紘には、まだまだ知らないことが多すぎる。
知らない人間のことを知りたいと思うのは、別に、普通のことだよな。