1.自由への旅
草の匂いが、朝の光とともに広がった。
かつての戦場の緊張感は、ここにはもうない。
遂に国境近くの廃村まで到達した将一、勇馬、ミオ――そして黒影、鯨、紀虎。
二百頭もの馬たちは広い草地で思い思いに駆け回り、長かった束縛から解放されていた。
廃墟だった集落の瓦屋根に光が差し込み、煙突からは久しぶりに煙が上る。
それは鍋を煮る匂いであり、火を囲む家族の温もりだった。
いつの間にか村人たちは戻り、壊れた小屋を建て直し、倒れた木を積み上げ、子どもたちの笑い声が再び谷を満たしていく。
将一は斧を振るい、勇馬は杭を打ち、ミオは新しい柵に縄を結ぶ。
馬たちと人々の営みが一つに溶け合い、廃墟だった村は再び生命を取り戻していた。
老夫婦は馬の背に荷物を載せ、畑から野菜を運び、村の小さな市場へ通う。
子どもたちは仔馬の手綱を持って、冒険ごっこをして遊ぶ。
風が木々の間を抜け、焼け跡の土の匂いに草の香りが混じる。
朝駆けを終えた将一は、村の人々へ向かって言った。
「この馬たちはみんなの力になる。大切に育ててくれ」
村人たちは深く頭を下げ、感謝の言葉を返した。
夜、焚き火の明かりが風に揺れていた。
村人たちは一日の労をねぎらい、焚き火を囲んで歌をうたっていた。
子どもたちの笑い声、草の上を渡る風、そして馬たちの静かな息づかい――
それは、かつての戦場では決して聞けなかった平和の音だった。
将一は少し離れた丘の上で、一人、夜空を見上げていた。
月光が黒影の鬣を白く照らし出し、その影が彼の足元で揺れていた。
――この地で、人も馬も、もう二度と奪われぬことはないやろう……
ぽつりとつぶやく声が、夜気に溶けた。
目を閉じれば、遠い故郷の白砂の浜を黒影と共に駆けた、あの時の潮風の匂い、あの景色が浮かんでは消える。
そして、妻・ユリの笑顔、幼い娘・サチの小さな手――。
その記憶は優しくもあり、胸を締めつけた。
――約束した。
「必ず帰る」と。
その言葉が、今も胸の奥で湧き上がる。
けれど今のわしには、その前に見つけねばならんものがある。
この地で、人がどう生き、どう助け合えば、もう二度と争わずに済むのか。
黒影たちのように、自由の中で、何を信じて生きていけるのか。
それを見つけん限り、わしの旅は終わらん…
―ユリ、待たせてすまん。いつか必ず帰る…
風が頬を撫で、遠くの谷で馬がいななく。
将一は、黒影の鬣を指で梳きながら、しばらく無言で立っていた。
その傍らには、焚き火を囲んだミオと勇馬がいた。
「……ほんとうに、行くの?」
ミオの声はかすかに震えていた。
将一は、少し笑ってうなずいた。
ミオは将一を見つめながら言った。
「……将一さん、私たち、またどこかで会える気がするの。たとえ違う時代でも……」
将一は、黒影の頸筋をポンと叩いた。
「わしらも、ようここまで来たもんや!大したもんやで!」
将一は懐から小刀を取り出し、黒影の鬣を一束切り取った。
黒影がわずかに鼻を鳴らした。
「ミオ、これを持っとけ」
将一は切り取った鬣を小さな麻布に包み、ミオの手のひらにそっと載せた。
「……忘れません。きっと、また会えますよね、岡田伍長!」
勇馬が直立して敬礼をした。
「そらそうと、お前、苗字は何と言うた?」
勇馬は一瞬、戸惑いながらも答えた。
「はい、僕は、いや、自分は桜井……いや、岡田勇馬上等兵であります!」
大きく見栄を切ったつもりの勇馬だったが、
「ほほぉ……わしと同じ苗字かぁ。ほなご先祖様は同じかもしれへんな……」
将一は笑い飛ばして、黒影の鬣に手を添え静かに呟く。
「人も馬も、どこまでも自由に生きられる――そんな世界を見に行くんや……さぁ、行くで、相棒!」
将一は黒影の手綱を握り締め、軍刀を抜いて高々と掲げた。
「達者でな!」
黒影が嘶き、前肢で地を蹴り上げる。
その瞬間、青白く輝く月の光が刃に反射し、天からの閃光が走った。
森の闇が裂け、白い奔流となって渦を巻き大地が溶けていく。
轟きの中、将一と黒影の姿は、光の中へと溶けていった。
――世界が音もなく反転し、勇馬の視界が霧のように白く弾けた。
2.帰還―森の要塞―
まぶたの裏を光が貫き、世界がゆっくりと反転した。
目を開けると、濃い緑の壁が迫る密林の小道を、車は揺れながら進んでいた。
助手席のアンが振り向いて、心配そうに勇馬を覗き込む。
反射的にこぼれた声――「ミオ!」
その名を呼んだ瞬間、勇馬ははっとして言葉を飲み込んだ。
目の前にいるのは、夢の中のミオではない――今を生きるアンだ。
車が大きな凸凹を越えるたび、左右に揺れ、窓ガラスに頭を打ち付け、勇馬は眉をしかめた。
「勇馬さん、……夢、見てたのね。頭大丈夫?」
アンが少しからかうように言いながらも、声には優しさが滲んでいた。
勇馬はぼんやりと頷く。
「……夢、夢だったのか。いてて……」
アンは少し心配そうに勇馬を見ながら、話を続けた。
「この森を越えた谷の奥に、私の生まれた村があるの。昔から“森の要塞”って呼ばれてね。戦いから人や馬を守るために造られた集落なのよ、今では平和な小さな村だけど…」
車は鬱蒼とした谷を下り、小川を渡る。
枝葉が窓をかすめ、湿った風が車内に流れ込む。
「馬?……森の要塞?」
勇馬の胸がざわめいた。
「家々は谷の斜面に沿って建てられて、谷を見下ろす広場もあるの。放牧場もあってね、人も馬もみんなそこで暮らしてる。時間がゆっくり流れる村なの……」
――夢の中で見た光景が、目の前の現実と重なっていく。
やがて道は細くなり、木々の切れ間から光が差し込む。
谷がぱっと開け、放牧場に馬たちの影が見えた。
勇馬の心臓が高鳴る。
――夢の中のあの世界。馬たち、家並み、谷を囲む木立。
「ここは……」草の匂いに懐かしさが蘇る。
「もうすぐよ、勇馬さん」
そう言って微笑むアンの胸元で、小さな麻の布のペンダントが静かに揺れていた。
――アン、そのペンダントの中身は……?
言いかけて、勇馬は口をつぐむ。
胸の奥にひとつの疑念が灯る。
――もしかしてアンも、あの夢を見ていたのではないか。
あの時代を、ミオとして生きていたのではないか。
確かめたい――けれど、確かめてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
勇馬は窓の外へ目線を変えた。
「雨季もそろそろ終わりね」
アンは前に向き直り、ぽつりと言った。
過去も夢も、そして今も――すべてがひとつに溶けていくようだった。
*
車が谷を抜け、小さな広場の前でアンがハンドルを切り、古びた木門の前に車を止めた。
「着いたわ。ここが私の実家」
エンジンを切ると、森のざわめきが一斉に戻ってきた。
遠くで鳥の声がこだまし、ひんやりと乾いた風が頬をかすめる。
勇馬が車から降りると、土と馬草の匂いが胸いっぱいに広がった。
家の前には古い井戸と馬が数頭繋がれた小さな馬房。
どこかで見た風景――“あの世界”の村と、まるで同じだった。
馬房の馬たちが耳をぴんと立て、興味深げにこちらを見ている。
「アンの家、馬を飼ってるんだ……」
勇馬は独り言のように呟いた。
「そうよ、祖父が若い頃からずっと馬を飼っているのよ……」
アンはそう言って馬たちに手を振った。
ふと、風が止み、鳥の声が途切れ、空気がぴんと張り詰める。
勇馬が顔を上げると、軒下の影から一人の老爺がゆっくりと姿を現した。
杖をつきながら、静かな足取りでこちらへ歩み寄る。
その顔を見た瞬間、勇馬の心臓が止まりそうになった。
深い皺の奥に、見覚えのある面影――額の古い傷、口元に浮かぶ穏やかな笑み。
「……岡田伍長?」
そう口にした瞬間、勇馬は我に返る。
老爺は小さく目を細め、かすかにうなずいた。
「やっと来てくれたか……勇馬、いや、岡田上等兵」
将一の声の響きが、遠い時代から風に乗って届いたようだった。
「……岡田伍長? 将一爺ちゃん……?」
アンが驚いたように振り返る。
「勇馬さん……え?」
アンは言葉を失い、勇馬を見つめた。
老爺――アンの祖父、ウー・ガンは、静かに勇馬の前に立った。
「黒影を探しに来たんやろう……?」
勇馬の喉が鳴った。
「なぜ……僕がここに来るって……」
老爺はふっと微笑み、ゆっくりと秣を食んでいる馬の方を見やった。
「そろそろ来る頃やないかと思てたんや。でも黒影はもうおらん。あいつの子らは、今もこの谷で息づいとるんや」
馬房の黒鹿毛の牡馬が、小さく鼻を鳴らした。
その漆黒の鬣が揺れ、勇馬の脳裏に“あの世界”の光景がよみがえる。
アンは戸惑いを隠せない様子で、それでも無理に微笑もうとした。
「ゆ、勇馬さん……ええと、紹介するわ。私の祖父よ、ウー・ガン。……細かいことは、また後でね…」
アンの声が少し震え、どこか焦るように言葉を継いだ。
「さあ、中に入りましょう。家族のみんなを紹介するわ」
しかし勇馬の目はまだ老爺の顔から離れなかった。
――あの穏やかな眼差し、静かな笑み。
まぎれもなく“将一”だった。
勇馬の胸の奥で、過去と現在が静かに重なり合っていく。
3.風の記憶
飛行機が雲を抜けて上昇していく。
眼下には、あの谷と森の稜線が雲の切れ目に見えては消え、見えては消えて行った。
出発の朝…
アンとウー・ガン――かつての将一が、木門の前で見送ってくれた。
「もう行くんかい……」
老爺の声は穏やかだったが、瞳の奥にはどこか寂しさがにじんでいた。
「ええ……でも、またいつかきっと来ます」
勇馬は深く頭を下げた。
ウー・ガンはうなずき、杖をついた手でそっと勇馬の肩を叩いた。
「黒影の魂は、おまえの中にも流れとる。……忘れたらあかん」
その言葉に、勇馬は静かにうなずいた。
ふと見ると、アンが門の陰に立っていた。
風に髪を揺らしながら、何かを言いかけて言葉を飲み込んだようだった。
勇馬は微笑み、ただ一言だけ残した。
「ありがとう、アン」
アンは明るく笑って言った。
「またどこかで会えるよ、きっと」
その声が森の風に溶け、どこか遠い時の記憶を呼び覚ました。
――まるで、彼女もあの世界を知っているかのように。
その声が、時間を越えてミオの笑顔と重なった。
ウー・ガンの杖が静かに地を打ち、その音がまるで別れの合図のように響いた。
飛行機の降下音が、勇馬を現実へと引き戻した。
窓の外に広がる雲海が、遠い記憶の波のように見えた。
「……忘れないさ」
勇馬は小さくつぶやいた。
飛行機は羽田の滑走路に静かに降り立った。
東京の秋は乾いた冷気を帯びている。
勇馬はタラップを降りながら、胸の奥にまだ残る土と草の匂いを既に懐かしく思った。
自宅に戻る前に、勇馬は実家の母・サチを訪ねた。
「おかえりなさい。お爺ちゃんのこと、何かわかった?」
懐かしい畳の部屋に上がると、母の声が旅の疲れを癒すように胸に沁みた。
勇馬は押し入れの奥から、“あの”木箱を取り出した。
「あら、まだその木箱にこだわってるの?」
母は少し呆れたように言った。
「それは戦死した将一爺さんの遺品なのよ。もう目新しいものはないんじゃないの?」
勇馬は埃をかぶった蓋をそっと開けた。
中には、祖父の日記帳のような紙片に挟まれていた、もう一枚の古びた写真と、小さな御守りのような色褪せた布袋が現れた。
写真には、笑顔の将一、鯨に乗る少年・勇馬、紀虎にまたがる少女・ミオ、
そして梅の枝の下に立つ宮田の姿があった。
写真の裏には、かすれた文字――撮影:従軍カメラマン・井上
「あら、こんな写真、見たことないわ……。将一爺さんの横にいる若い人、なんだかあなたそっくりね」
母が不思議そうに写真を見つめる。
「案外、僕だったりしてね……ははは」
勇馬が真顔で言うと、母は声を出して笑った。
そして、母はその色褪せた布袋を懐かしむように手に取って言った。
「これはね、私がまだ幼い頃、将一爺さんが“守り神”だって渡してくれたの。大好きだった黒影の鬣よ」
――やはり、将一爺さんだったのか。
夢ではない。“あの世界”での記憶は、時を超えて確信に変わった。
その夜、勇馬が自宅に戻ると、玄関の灯の下に菜穂子が立っていた。
懐かしい微笑み――
「おかえりなさい。……どうだった? 楽しかった?」
菜穂子の声は穏やかで、まるで遠足から帰った子どもを迎える母のようだった。
勇馬は少し照れくさそうに笑う。
「ははは……なんというか、長い旅だったよ」
菜穂子はじっと彼を見つめ、ふと穏やかに微笑んだ。
久しぶりに二人で過ごす夜、都会の夜空に一筋の流れ星が走った。
「あなた……なんだか、以前より優しい顔になったわね」
妻の優しい声と笑みの奥に、どこかで見た面影が一瞬よぎる――
森の陽だまりで微笑んだアン、そして遠い記憶の中のミオ。
勇馬はただ、静かに微笑む菜穂子を抱きしめた。
4.エピローグ
翌朝、柔らかな朝日が部屋に差し込んでいた。
コーヒーを淹れる菜穂子の背中を見つめながら、勇馬は優しく声を掛けた。
「なあ、菜穂子……馬を見に行かないか?」
菜穂子は振り向き、少し首を傾げて笑った。
「馬? いきなり何よ……」
「ああ。風を感じに行こう――あの頃みたいに」
「え、あの頃……? あの頃って何よ? まぁ、どうでもいいけど」
いつもの菜穂子に、勇馬はほっとして歯を見せて笑った。
窓の外では、金木犀の花びらが風に舞っている。
勇馬はその香りを胸いっぱいに吸い込み、新しい旅立ちの予感に、そっと目を閉じた。
アンの微笑、ミオの声、そして時を超えて繋がったすべての記憶が、ひとつの光となって二人の未来を照らしていた。
――さあ、行こう。俺の、俺たちの新しい旅がはじまる…
その瞬間、遠い森の彼方から、黒影の蹄の音が風にまぎれて聞こえたような気がした…
(終)
草の匂いが、朝の光とともに広がった。
かつての戦場の緊張感は、ここにはもうない。
遂に国境近くの廃村まで到達した将一、勇馬、ミオ――そして黒影、鯨、紀虎。
二百頭もの馬たちは広い草地で思い思いに駆け回り、長かった束縛から解放されていた。
廃墟だった集落の瓦屋根に光が差し込み、煙突からは久しぶりに煙が上る。
それは鍋を煮る匂いであり、火を囲む家族の温もりだった。
いつの間にか村人たちは戻り、壊れた小屋を建て直し、倒れた木を積み上げ、子どもたちの笑い声が再び谷を満たしていく。
将一は斧を振るい、勇馬は杭を打ち、ミオは新しい柵に縄を結ぶ。
馬たちと人々の営みが一つに溶け合い、廃墟だった村は再び生命を取り戻していた。
老夫婦は馬の背に荷物を載せ、畑から野菜を運び、村の小さな市場へ通う。
子どもたちは仔馬の手綱を持って、冒険ごっこをして遊ぶ。
風が木々の間を抜け、焼け跡の土の匂いに草の香りが混じる。
朝駆けを終えた将一は、村の人々へ向かって言った。
「この馬たちはみんなの力になる。大切に育ててくれ」
村人たちは深く頭を下げ、感謝の言葉を返した。
夜、焚き火の明かりが風に揺れていた。
村人たちは一日の労をねぎらい、焚き火を囲んで歌をうたっていた。
子どもたちの笑い声、草の上を渡る風、そして馬たちの静かな息づかい――
それは、かつての戦場では決して聞けなかった平和の音だった。
将一は少し離れた丘の上で、一人、夜空を見上げていた。
月光が黒影の鬣を白く照らし出し、その影が彼の足元で揺れていた。
――この地で、人も馬も、もう二度と奪われぬことはないやろう……
ぽつりとつぶやく声が、夜気に溶けた。
目を閉じれば、遠い故郷の白砂の浜を黒影と共に駆けた、あの時の潮風の匂い、あの景色が浮かんでは消える。
そして、妻・ユリの笑顔、幼い娘・サチの小さな手――。
その記憶は優しくもあり、胸を締めつけた。
――約束した。
「必ず帰る」と。
その言葉が、今も胸の奥で湧き上がる。
けれど今のわしには、その前に見つけねばならんものがある。
この地で、人がどう生き、どう助け合えば、もう二度と争わずに済むのか。
黒影たちのように、自由の中で、何を信じて生きていけるのか。
それを見つけん限り、わしの旅は終わらん…
―ユリ、待たせてすまん。いつか必ず帰る…
風が頬を撫で、遠くの谷で馬がいななく。
将一は、黒影の鬣を指で梳きながら、しばらく無言で立っていた。
その傍らには、焚き火を囲んだミオと勇馬がいた。
「……ほんとうに、行くの?」
ミオの声はかすかに震えていた。
将一は、少し笑ってうなずいた。
ミオは将一を見つめながら言った。
「……将一さん、私たち、またどこかで会える気がするの。たとえ違う時代でも……」
将一は、黒影の頸筋をポンと叩いた。
「わしらも、ようここまで来たもんや!大したもんやで!」
将一は懐から小刀を取り出し、黒影の鬣を一束切り取った。
黒影がわずかに鼻を鳴らした。
「ミオ、これを持っとけ」
将一は切り取った鬣を小さな麻布に包み、ミオの手のひらにそっと載せた。
「……忘れません。きっと、また会えますよね、岡田伍長!」
勇馬が直立して敬礼をした。
「そらそうと、お前、苗字は何と言うた?」
勇馬は一瞬、戸惑いながらも答えた。
「はい、僕は、いや、自分は桜井……いや、岡田勇馬上等兵であります!」
大きく見栄を切ったつもりの勇馬だったが、
「ほほぉ……わしと同じ苗字かぁ。ほなご先祖様は同じかもしれへんな……」
将一は笑い飛ばして、黒影の鬣に手を添え静かに呟く。
「人も馬も、どこまでも自由に生きられる――そんな世界を見に行くんや……さぁ、行くで、相棒!」
将一は黒影の手綱を握り締め、軍刀を抜いて高々と掲げた。
「達者でな!」
黒影が嘶き、前肢で地を蹴り上げる。
その瞬間、青白く輝く月の光が刃に反射し、天からの閃光が走った。
森の闇が裂け、白い奔流となって渦を巻き大地が溶けていく。
轟きの中、将一と黒影の姿は、光の中へと溶けていった。
――世界が音もなく反転し、勇馬の視界が霧のように白く弾けた。
2.帰還―森の要塞―
まぶたの裏を光が貫き、世界がゆっくりと反転した。
目を開けると、濃い緑の壁が迫る密林の小道を、車は揺れながら進んでいた。
助手席のアンが振り向いて、心配そうに勇馬を覗き込む。
反射的にこぼれた声――「ミオ!」
その名を呼んだ瞬間、勇馬ははっとして言葉を飲み込んだ。
目の前にいるのは、夢の中のミオではない――今を生きるアンだ。
車が大きな凸凹を越えるたび、左右に揺れ、窓ガラスに頭を打ち付け、勇馬は眉をしかめた。
「勇馬さん、……夢、見てたのね。頭大丈夫?」
アンが少しからかうように言いながらも、声には優しさが滲んでいた。
勇馬はぼんやりと頷く。
「……夢、夢だったのか。いてて……」
アンは少し心配そうに勇馬を見ながら、話を続けた。
「この森を越えた谷の奥に、私の生まれた村があるの。昔から“森の要塞”って呼ばれてね。戦いから人や馬を守るために造られた集落なのよ、今では平和な小さな村だけど…」
車は鬱蒼とした谷を下り、小川を渡る。
枝葉が窓をかすめ、湿った風が車内に流れ込む。
「馬?……森の要塞?」
勇馬の胸がざわめいた。
「家々は谷の斜面に沿って建てられて、谷を見下ろす広場もあるの。放牧場もあってね、人も馬もみんなそこで暮らしてる。時間がゆっくり流れる村なの……」
――夢の中で見た光景が、目の前の現実と重なっていく。
やがて道は細くなり、木々の切れ間から光が差し込む。
谷がぱっと開け、放牧場に馬たちの影が見えた。
勇馬の心臓が高鳴る。
――夢の中のあの世界。馬たち、家並み、谷を囲む木立。
「ここは……」草の匂いに懐かしさが蘇る。
「もうすぐよ、勇馬さん」
そう言って微笑むアンの胸元で、小さな麻の布のペンダントが静かに揺れていた。
――アン、そのペンダントの中身は……?
言いかけて、勇馬は口をつぐむ。
胸の奥にひとつの疑念が灯る。
――もしかしてアンも、あの夢を見ていたのではないか。
あの時代を、ミオとして生きていたのではないか。
確かめたい――けれど、確かめてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
勇馬は窓の外へ目線を変えた。
「雨季もそろそろ終わりね」
アンは前に向き直り、ぽつりと言った。
過去も夢も、そして今も――すべてがひとつに溶けていくようだった。
*
車が谷を抜け、小さな広場の前でアンがハンドルを切り、古びた木門の前に車を止めた。
「着いたわ。ここが私の実家」
エンジンを切ると、森のざわめきが一斉に戻ってきた。
遠くで鳥の声がこだまし、ひんやりと乾いた風が頬をかすめる。
勇馬が車から降りると、土と馬草の匂いが胸いっぱいに広がった。
家の前には古い井戸と馬が数頭繋がれた小さな馬房。
どこかで見た風景――“あの世界”の村と、まるで同じだった。
馬房の馬たちが耳をぴんと立て、興味深げにこちらを見ている。
「アンの家、馬を飼ってるんだ……」
勇馬は独り言のように呟いた。
「そうよ、祖父が若い頃からずっと馬を飼っているのよ……」
アンはそう言って馬たちに手を振った。
ふと、風が止み、鳥の声が途切れ、空気がぴんと張り詰める。
勇馬が顔を上げると、軒下の影から一人の老爺がゆっくりと姿を現した。
杖をつきながら、静かな足取りでこちらへ歩み寄る。
その顔を見た瞬間、勇馬の心臓が止まりそうになった。
深い皺の奥に、見覚えのある面影――額の古い傷、口元に浮かぶ穏やかな笑み。
「……岡田伍長?」
そう口にした瞬間、勇馬は我に返る。
老爺は小さく目を細め、かすかにうなずいた。
「やっと来てくれたか……勇馬、いや、岡田上等兵」
将一の声の響きが、遠い時代から風に乗って届いたようだった。
「……岡田伍長? 将一爺ちゃん……?」
アンが驚いたように振り返る。
「勇馬さん……え?」
アンは言葉を失い、勇馬を見つめた。
老爺――アンの祖父、ウー・ガンは、静かに勇馬の前に立った。
「黒影を探しに来たんやろう……?」
勇馬の喉が鳴った。
「なぜ……僕がここに来るって……」
老爺はふっと微笑み、ゆっくりと秣を食んでいる馬の方を見やった。
「そろそろ来る頃やないかと思てたんや。でも黒影はもうおらん。あいつの子らは、今もこの谷で息づいとるんや」
馬房の黒鹿毛の牡馬が、小さく鼻を鳴らした。
その漆黒の鬣が揺れ、勇馬の脳裏に“あの世界”の光景がよみがえる。
アンは戸惑いを隠せない様子で、それでも無理に微笑もうとした。
「ゆ、勇馬さん……ええと、紹介するわ。私の祖父よ、ウー・ガン。……細かいことは、また後でね…」
アンの声が少し震え、どこか焦るように言葉を継いだ。
「さあ、中に入りましょう。家族のみんなを紹介するわ」
しかし勇馬の目はまだ老爺の顔から離れなかった。
――あの穏やかな眼差し、静かな笑み。
まぎれもなく“将一”だった。
勇馬の胸の奥で、過去と現在が静かに重なり合っていく。
3.風の記憶
飛行機が雲を抜けて上昇していく。
眼下には、あの谷と森の稜線が雲の切れ目に見えては消え、見えては消えて行った。
出発の朝…
アンとウー・ガン――かつての将一が、木門の前で見送ってくれた。
「もう行くんかい……」
老爺の声は穏やかだったが、瞳の奥にはどこか寂しさがにじんでいた。
「ええ……でも、またいつかきっと来ます」
勇馬は深く頭を下げた。
ウー・ガンはうなずき、杖をついた手でそっと勇馬の肩を叩いた。
「黒影の魂は、おまえの中にも流れとる。……忘れたらあかん」
その言葉に、勇馬は静かにうなずいた。
ふと見ると、アンが門の陰に立っていた。
風に髪を揺らしながら、何かを言いかけて言葉を飲み込んだようだった。
勇馬は微笑み、ただ一言だけ残した。
「ありがとう、アン」
アンは明るく笑って言った。
「またどこかで会えるよ、きっと」
その声が森の風に溶け、どこか遠い時の記憶を呼び覚ました。
――まるで、彼女もあの世界を知っているかのように。
その声が、時間を越えてミオの笑顔と重なった。
ウー・ガンの杖が静かに地を打ち、その音がまるで別れの合図のように響いた。
飛行機の降下音が、勇馬を現実へと引き戻した。
窓の外に広がる雲海が、遠い記憶の波のように見えた。
「……忘れないさ」
勇馬は小さくつぶやいた。
飛行機は羽田の滑走路に静かに降り立った。
東京の秋は乾いた冷気を帯びている。
勇馬はタラップを降りながら、胸の奥にまだ残る土と草の匂いを既に懐かしく思った。
自宅に戻る前に、勇馬は実家の母・サチを訪ねた。
「おかえりなさい。お爺ちゃんのこと、何かわかった?」
懐かしい畳の部屋に上がると、母の声が旅の疲れを癒すように胸に沁みた。
勇馬は押し入れの奥から、“あの”木箱を取り出した。
「あら、まだその木箱にこだわってるの?」
母は少し呆れたように言った。
「それは戦死した将一爺さんの遺品なのよ。もう目新しいものはないんじゃないの?」
勇馬は埃をかぶった蓋をそっと開けた。
中には、祖父の日記帳のような紙片に挟まれていた、もう一枚の古びた写真と、小さな御守りのような色褪せた布袋が現れた。
写真には、笑顔の将一、鯨に乗る少年・勇馬、紀虎にまたがる少女・ミオ、
そして梅の枝の下に立つ宮田の姿があった。
写真の裏には、かすれた文字――撮影:従軍カメラマン・井上
「あら、こんな写真、見たことないわ……。将一爺さんの横にいる若い人、なんだかあなたそっくりね」
母が不思議そうに写真を見つめる。
「案外、僕だったりしてね……ははは」
勇馬が真顔で言うと、母は声を出して笑った。
そして、母はその色褪せた布袋を懐かしむように手に取って言った。
「これはね、私がまだ幼い頃、将一爺さんが“守り神”だって渡してくれたの。大好きだった黒影の鬣よ」
――やはり、将一爺さんだったのか。
夢ではない。“あの世界”での記憶は、時を超えて確信に変わった。
その夜、勇馬が自宅に戻ると、玄関の灯の下に菜穂子が立っていた。
懐かしい微笑み――
「おかえりなさい。……どうだった? 楽しかった?」
菜穂子の声は穏やかで、まるで遠足から帰った子どもを迎える母のようだった。
勇馬は少し照れくさそうに笑う。
「ははは……なんというか、長い旅だったよ」
菜穂子はじっと彼を見つめ、ふと穏やかに微笑んだ。
久しぶりに二人で過ごす夜、都会の夜空に一筋の流れ星が走った。
「あなた……なんだか、以前より優しい顔になったわね」
妻の優しい声と笑みの奥に、どこかで見た面影が一瞬よぎる――
森の陽だまりで微笑んだアン、そして遠い記憶の中のミオ。
勇馬はただ、静かに微笑む菜穂子を抱きしめた。
4.エピローグ
翌朝、柔らかな朝日が部屋に差し込んでいた。
コーヒーを淹れる菜穂子の背中を見つめながら、勇馬は優しく声を掛けた。
「なあ、菜穂子……馬を見に行かないか?」
菜穂子は振り向き、少し首を傾げて笑った。
「馬? いきなり何よ……」
「ああ。風を感じに行こう――あの頃みたいに」
「え、あの頃……? あの頃って何よ? まぁ、どうでもいいけど」
いつもの菜穂子に、勇馬はほっとして歯を見せて笑った。
窓の外では、金木犀の花びらが風に舞っている。
勇馬はその香りを胸いっぱいに吸い込み、新しい旅立ちの予感に、そっと目を閉じた。
アンの微笑、ミオの声、そして時を超えて繋がったすべての記憶が、ひとつの光となって二人の未来を照らしていた。
――さあ、行こう。俺の、俺たちの新しい旅がはじまる…
その瞬間、遠い森の彼方から、黒影の蹄の音が風にまぎれて聞こえたような気がした…
(終)



