1. 破れた軍旗
 
 黒影、鯨、紀虎… 三つの影

 霧に包まれた夜明け前の密林を、人を背に乗せぬまま、弾痕の残る戦場の跡を駆け抜けていく。

 まだ敗戦を知らぬ日本軍の小隊が、性根尽き果て彷徨っていた。

 道端には力尽きた仲間の亡骸が散り、白骨の間を蛍火が淡く流れている。

 その霧の奥から、黒い影が姿を現した。

 兵たちは幻でも見るように立ち尽くす。
 
 黒影の鞍には、破れた軍旗が巻き付けられている。

 片腕を失くした一人の兵が、片方の手で泥に塗れた布切れを掴み息を呑んだ。

 「……これは、三田村小隊の、いや岡田組の馬じゃないか……」

 黒影が低く嘶きぬかるんだ地を前肢で叩く。

 ―まるで「ついて来い」と促すように。

 背後では敵の残党狩りが迫り、砲弾が木々を砕き炎が夜を裂いた。

 三頭の馬は身を翻し、閃光の中を薄暗い獣道へと兵を導き歩き出す。

 火の粉を掻い潜り、炎風の如く燃え盛る枝をすり抜けて進む。

 兵たちは無我夢中でその後を追った。

 泥に刻まれた蹄の跡が北へ――国境の村へと続いていた。
 
 「ここまで来れば、もうタイの国だ……助かった……」
 
 夜明けが森を照らすころ、彼らは小さな集落に辿り着いた。

 村人は彼らを迎え入れ、仏塔の中へ匿い、寺の僧たちが粥を振る舞った。

 馬たちにも干し草と水が用意されたが、馬たちは動かず、ただ荒い息を吐くだけだった。
 
 黒影は仲間に鼻先を寄せ短く嘶く。

 三頭の馬の脚は擦り傷で血に染まっている。

 輜重兵の一人が黒影の後肢を優しく触りながら、

 「この脚では、長くはもたぬ……ここで暫く休ませよう」

 だが黒影は「触るな!」と言わんばかりに兵士を遠ざけた。
 
 「そうか…主人のもとへ戻るのか……お前たちにも帰るところがあるんだな」

 一人の兵が呟いたとき、黒影が荒い鼻息を上げた。

 黒影の心には、戦場を共にした主、盾となって倒れた主・将一の姿が浮かんだ。
 
 そして勇馬、ミオ、仲間たちのもとへ帰ろう―

 僧たちは祈りの言葉を唱え、馬の脇腹に白墨で経文を描き、兵たちは敬礼し、頭を垂れた。
 
  
 後躯をうねらせ三頭は、小さく嘶き駆け出した。

 三頭は走り続ける…

 草に埋もれた鉄兜、倒れた標柱、風に翻る破れた軍旗、そして屍を超えていく……

 その蹄音は、朝の光を裂くように響き渡った。  

 
2.兵士の誇り
 
 雨季が明け、乾季の風が吹き始めた。
 
 空はどこまでも高く、地面は焼けたように硬い。

 その大地の裂け目のような乾いた場所に、日本軍の捕虜収容所があった。

 竹と椰子の葉でしつらえた粗末なバラック群の中に、何百という男たちが詰め込まれている。  

 敗戦国の兵士たちは“JSP(Japanese Surrendered Personnel)”として扱われ、過酷な肉体労働を強いられていた。

 炎天下での道路建設、資材運搬、川の堤防工事――骨が軋むほどの労働の中で、飢えと疲労が日々を蝕んでいった。

 収容所での暮らしは、決して穏やかなものではなかった。

 それでも、トーマス少佐の管理する収容所には、他よりいくらか人間らしい空気があった。

 彼は捕虜を敗者ではなく、同じ戦場を戦った“兵士”として見ていた。

 過酷な労働命令が下るたびに司令部へ異議を唱え、日本兵をかばった。

 そのため、この収容所では暴行や理不尽な懲罰はほとんどなかった。

 将一たちの部隊は、黒影を庇って重傷を負った将一の治療をきっかけに、トーマス少佐と信頼を築いていった。

 片腕に包帯を巻いたまま、将一は勇馬や宮田と並び、二百頭を超える日本の軍馬の世話を任されていた。
 
 戦火をくぐり抜けた馬たち――だが、その運命もまた、静かに終わりへと向かっていた。

 ある日、作業を見回りに来たトーマス少佐が、将一の手際をしばらく見つめていた。

 サングラスの奥の瞳は何を考えているのか読めなかったが、やがて少佐はポケットから一本の煙草を取り出し、火を点けて将一に差し出した。

 少佐が手にしていたのは、日本軍から没収した「興亜」という銘柄の煙草だった。
 
 将一は一瞬ためらったが、片手で拝むように受け取り、深く煙を吸い込む。

 焦げた煙の香りが、遠い故郷の土の匂いと重なった。

 「なぜ君は、そんなに落ち着いていられるのか」

 トーマス少佐の問いに、将一はわずかに笑い、空を仰いだ。

 「……戦が終わったからですよ。あとは、“あの馬たち”と生きて帰るだけです」

 少佐は何も言わなかった。いや、言えなかった。

 二人の煙草の煙が暫しの沈黙を生み、少佐は傍らの通訳マクリーンに目をやる。

 マクリーンはうなずき、両腕に抱えていた一振りの軍刀を差し出した。

 鞘は焦げ、鍔には泥がこびりついている。
 
 「これは……君のものだろう、岡田伍長」

 少佐は静かに言った。

 「私は、あなたを誇り高き侍のように思う。お互い、もう使うことはないだろう」

 将一は言葉を失い、目の前の金髪の男を見つめた。
 
 やがて震える手で刀を受け取り、鞘を撫で、深く頭を下げる。

 「……ありがとうございます、少佐」

 少佐は小さくうなずき、静かに背を向けた。

 
3.風に鳴る柵

 乾いた風が竹の柵の隙間に流れ、かすかに「キィキィ」と鳴った。

 静かな収容所に、風の声だけが響き、砂埃が舞い上がる。

 勇馬は将一、宮田らと、椰子の葉を乗せただけの粗略な馬房の桶に水を注いでいた。

 そんな時だった。

 守衛が立つゲートから、カゴを抱えた一人の若い女性が歩いてきた。

 褐色の肌、目元にかかる黒髪。

 ミオ――収容所への出入りを許された、“森の友軍”の一人だった。

 捕虜への給仕を任され、ときおり果物や食料を運んでは、勇馬たちの作業を手伝った。

 勇馬はいつしか、その姿を目で追うようになっていた。

 「これ、森の集落から分けてもらったの」

 差し出された籠には、熟れたパパイヤやバナナが詰まっていた。

 勇馬は受け取りながら、そっと俯き笑みを向ける。

 「ありがとう。……ミオが来ると、少しだけ風が柔らかくなるよ」

 ミオはその言葉に、わずかに笑みを返した。

 かつて戦場の彼女は、銃を背負い、密林を駆ける女兵士だった。

 だが今、目の前にいるミオはまるで別人のようだった。

 濡れた黒曜石のような瞳。
 
 東洋的な顔立ちに、混血を思わせるやわらかさ。
 
 すっと通った鼻筋、小さく引き結ばれた口元。
 
 そこにあるのは戦士の鋭さではなく、静かな優しさの眼差しだった。

 馬房を掃き、馬の背を撫で、飢えた兵たちに食を分ける。
 
 「あなたたちも早く日本のおうちに帰れるといいね…」

 馬たちが鼻面を寄せて甘えると、ミオはにっこり微笑み、まるで母親のような手つきで毛並みを整える。

 貧しい村で育ちながらも、誰よりも他人を思いやる―

 そんな素顔のミオが、今ようやく姿を現したのだ。

 勇馬はふと、その笑顔に見覚えがあった。

 ―どこかで見たような…

 それは、“あの世界”で勇馬のガイド、アンが見せた微笑と重なっていた。

 勇馬の脳裏には二つの時空が、静かに溶け合うように浮かんでは消えた。

 思い浮かべようとしても、あの喧騒の都会の空も、街のざわめきも、駅のホームの匂いも、夢のようにぼやけていた。  

 ―過去でも未来でもない、今、俺はここに生きているんだ…

 今の世界は、馬たちの息づかいと、ミオの笑い声がそのすべてだった。

 

 ある日の夕暮れ時、彼女は勇馬にそっと尋ねた。

 「この子たち……もうすぐみんな、殺されるの?」

 勇馬は答えられなかった。

 ミオは既に知っていたのかもしれない……すべての馬たちが射殺処分されることを。

 代わりに将一が吐き捨てるように言った。

 「連合国の命令や、これは誰も止められへん…血も涙もない奴らや!くそっ!」

 ミオはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸い、勇馬に振り返った。

 「……もし、逃がせるとしたら?」

 勇馬は思わず顔を上げた。
 
 ミオの瞳は、夕陽を受けて深い琥珀色に光っていた。

 「山を二つ越えた国境の谷間に集落があるの、地図にも載っていないけど、湧き水があって草も生い茂ってる。岩壁と密林に囲まれていて、空からも見えない。森の要塞みたいな場所……」

 「夜のうちに連れていけば、追っ手も見つけられないはず」
 
 将一が息をのんだ。

 「……そんな遠くまで? 途中で見つかれば、全員終わりやがな…」

 ミオはかぶりを振った。
 
 「獣道をたどれば、二日のうちに着ける…もう道を知る者は少ないけど、私は知っている」

 勇馬は茜色に染まる空を見上げ、ミオに言った。
 
 「よし、今夜決行だ…」

 勇馬の言葉に、将一が息を呑む。

 「ほんならワシも行かなしゃぁないな…」
 
 ミオはその言葉に小さく頷き、意気込んだ。
 
 「決行は夜明け前、私の仲間が柵を開ける。その隙に馬たちを逃がすわよ」

 勇馬は深く息を吸い込んだ。

 「こんな時に黒影がいてくれたら…」
 
 
 
4.自由への嘶き

 夜明け前、青白い月の明かりが残る頃。

 頂には三つの影が鬣を揺らす――中央に黒影、左に青毛の鯨、右に栗毛の紀虎。

 彼らは幾多の戦いを共に越えてきた、絆で結ばれた戦友だった。

 見下ろす先には、狭い馬房の中に押し込められた仲間たちの群れ。

 何かを察したのか、馬房の馬たちは一斉に頚を上げ、丘の上を見つめた。

 黒影が低く嘶く―

 鯨が耳を立て、紀虎が鼻を鳴らすと、三頭は一斉に丘を蹴った。

 蹄が砂を裂き、乾いた地面が震え、三つの影が一直線に駆け降りる。

 黒影が先頭に立ち、竹の柵を勢いのままに蹴り倒す。

 竹が裂け、縄が弾け、乾いた音を立てて柵が崩れた。
 
 警鐘が鳴り響き、監視兵の怒号が交錯した。
 
 鯨と紀虎はその前に立ち塞がり、前肢を高く掲げて威嚇する。
 
 黒影がその隙に、将一の前へと駆けてきた。

 「……黒影!戻ってきたんか!なんちゅう奴やお前は!」

 黒影は荒い鼻息を吐き、地を踏み鳴らした。

 「わしらに乗れっちゅうんか?」

 勇馬が息を呑み、ミオと目を合わせる。
 
 ミオが小さく頷いた。
 
 「この子たち……私たちを迎えに来たのよ!」

 将一が素早く黒影の背に飛び乗り、勇馬が鯨の鬣を握って鞍に跨ると、ミオも紀虎の背へと軽やかに跳び乗った。

 「よし、行くぞ!」 

 将一の声が風を貫き、人馬一体となった三つの影は一斉に地を蹴った。

 ―黒影、鯨、紀虎、そして将一、勇馬、ミオ― 

 囚われていた二百頭の馬たちが、砂煙と蹄の響きを巻き上げながら、竹組みの柵を蹴り倒し、怒涛の如く走り出していく。

 ―その時、砂塵の向こう、兵舎の影から宮田が叫んだ。
 
 「将一はん!!どうかお達者で!」

 振り返った将一が軍刀を高く上げ叫び返した。
 
 「宮田はん!今まで、ほんまに世話になったなぁ!岡田組は、あんたに任せるで!」

 宮田は息を詰まらせ、ただまっすぐに将一を見つめる。
 
 唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。
 
 宮田は姿勢を正し、右手を額に上げて敬礼をする。

 黒影が嘶き、舞い上がる砂塵が二人を隔てた。

 まるで、その別れを包み込むように――。

 
 監視兵たちが将一、勇馬、ミオに照準を合わせ銃を向けている。
 
 監視塔の上から、トーマス少佐が叫んだ。

 "Don't Shoot!!! " ― 撃つな!  

 "Let'em go! This is an order!" ― 行かせてやれ!これは命令だ!

 監視兵たちは銃を下し、兵舎の前をまるで大河の奔流のように、流れ去る群れを茫然と眺めていた。

 その光景を見つめながら、トーマス少佐は静かに敬礼をした。

 それは、敗者への慈悲ではなく将一たちへの“自由への敬意” だった。

 彼は「興亜」を一本取り出し火を点け、踵を返しゆっくりと兵舎へ戻って行った……

(第9話に続く)