1.灰の中の白い紙
終戦間際
雨上がりの森を勇馬たちは息を切らせて行軍していた。
ある者は担架で運ばれ、ある者は両肩を抱えられ、最後の力を振り絞って南のタイ国境へと続く高い峰を目指している。
背後では、遠く迫撃砲の音が尾を引く。
敵の包囲をどうにか突破したものの、弾も食糧も尽きかけていた。
森を抜けた先には、最近まで人が住んでいた村があった。
今はただ瓦礫と化した家屋の跡、崩れた塀、黒く焼け残った竹の柵が風に鳴るだけだった。
勇馬は、焼け跡の中央にぽっかりと口を開けた井戸の前に腰を下ろし、瓦礫で埋まった井戸の内側を覗き込んでため息をついた。
灰色の雲が重たく垂れ込め、陽の光すら色を失っている。
「どこへ行けばいいんだ……」
思わず漏れたその言葉に、誰も応えるものはいなかった。
ミオは焼けた地面に跪き、焦げた木片を拾い上げた。
それは、木彫りの小さな仏像の欠片だった。
「この村には仏の慈悲はあったのだろうか…」
彼女はそれを両手で胸に抱きしめるように包み込んだ。
──その時、空が低く唸った。
みな、反射的に銃を構える。
頭上をかすめるように、一機の銀色の機体が滑るように通過した。
爆撃の気配はない。
代わりに風の中を無数の紙片が舞っていた。
「……なんだ、あれは?」
白いビラが焼け跡の灰と混ざり、まるで雪のように地面を覆っていく。
将一が一枚を拾い上げ、指で泥を払い落とす。
そこには英語と日本語でこう書かれていた。
『日本は降伏した。武器を捨て投降せよ』
誰も声を発しなかった。
一人の兵士が鼻で笑い、紙を握り潰す。
「敵の罠だ。こんなもの、信じられるか!」
勇馬は無言で空を見上げた。
風に乗って舞う白い紙片は、平和の白い鳩のように広がっていく。
これは罠ではないことは、誰もが内心わかっていた。
「戦争が……終わったのか……」
勇馬はゆっくりと立ち上がり、鉛色の空を見上げた。
遠くに微かに響く雷鳴が、終戦を告げる祝砲のように思えた。
「……あの峰を越えて国境を目指そう、まだ終わりじゃない、みんな生きて祖国に帰ろう…」
2.ぬかるみの果てに
林の向こうから、エンジン音が近づいてくる。
泥を噛むキャタピラの唸りが、森の空気を押し潰すように響いた。
やがて、木々の間から鉄の塊が姿を現した。
連合軍の戦車だ。
続いて、兵を満載したトラックが泥に車輪を取られながら、車列を成して進んでくる。
「まずい! 連合軍だ!」
将一が叫び、散開を指示するが既に遅かった。
銃口が、雨に濡れた銃身の光を放ちながら、一斉に取り囲まれてしまった。
英語の怒声が飛び交う。
将一は皆に銃を捨てるよう、勇馬に目で合図をした。
将一は肩に掛けた騎銃を降ろし、泥溜まりの地面に放り投げ両手を挙げた。
背後の黒影が低く嘶き、前肢で土を掻いた。
その蹄音を聞いた将一が、掠れた低い声で言った。
「……黒影、逃げろ!」
だが、馬は一歩も動かなかった。
熱い風がすり抜け、黒影の鬣を揺らす。
将一の横で、勇馬は唇を噛みしめた。
「行け……! お前は生きろ!」
しかし、黒影はただその場に立ち尽くし、じっと将一と勇馬を見つめていた。
その瞳は、まるで主人と自らの運命を共にしようと訴えるかのようだった…
湿気を帯びた空気の中、竹林の向こうからかすかにエンジン音が近づき、一台の米国製ジープが現れる。
ジープから降りた将校は、トーマス少佐(Major Thomas Hargreaves) と名乗った。
淡いカーキの長袖シャツをきちんと着こなし、開襟の下には細い黒いネクタイを結んでいる。
胸には“S.E.A.C.(South East Asia Command)”の徽章──白星の上に赤いライオン。
浅黒い肌、緑色の瞳、深く刻まれた皺――。
彼の表情には、勝者としての高慢さよりも、長い戦を終えた者の疲労と静かな敬意が浮かんでいた。
彼は整った軍帽を被り直し、英国訛りの英語で静かに告げた。
“You are surrounded. Surrender, lay down your arms, and come with us”
下士官の通訳が日本語で話した。
「あなた方は包囲されました。降参して武器を捨て、我々と同行していただきます」
彼は英軍の制服に身を包んだ通訳の下士官で、ケン・マクリーンと名乗った。
金髪で彫りの深い顔だが、どこか日本人のような眼差しで流暢な日本語で話した。
3.処分命令
朝靄が薄く立ちこめる。
捕虜収容所の空気は、冷たく湿っていた。夜明けの光がまだ地を照らしきれない。
勇馬たちは鉄柵の内側に整列させられていた。
向こうの柵には、馬たちが一列に並べられている。
駄馬として、黒影を後方から支えてきた鯨、梅、紀虎が、 何も知らぬ子供のように首を振り、空気を嗅いでいた。
黒影もまた、じっとその様子を見つめている。
大きな瞳が、朝霧の中で微かに光った。
数名の日本兵が列をなし、黙して立つ。
トーマス少佐が、通訳のマクリーン下士官を連れて現れた。
“The war is over. No more fighting” ―戦争は終わった、もう戦う必要はない。
彼の声は低く、しかしどこか温かみがあった。
トーマス少佐は、帽子のつばにそっと手を当て、軽く会釈した。
その穏やかな仕草に呼応するように、日本軍の将校も深く頭を下げる。
互いの動作は、言葉を介さずとも敬意を交わすようだった。
トーマス少佐はそれだけを言うと踵を返し、ゆっくりと兵舎へ帰っていった。
***
その日の午後、トーマス少佐は英国本部から届いた命令書を手に、捕虜収容所を再び訪れた。
焦げつくような陽射しが、日本軍捕虜収容所と化した英軍の野営地を覆っている。
熱気は地面から立ち上り、湿った泥土を乾いた硬板へと変えていく。
宮田は黙々と草を束ね、痩せた軍馬の口元へ差し出していた。
額を流れる汗を拭う仕草は、疲弊を隠そうとするかのように淡々としている。
長い道のりを、黙して物資や兵器を運び続けてきた三頭の軍馬―梅、鯨、紀虎。
その脇腹には無数の擦り傷が走り、皮膚の下には赤黒い痣が沈んでいた。
宮田は小さな陶器の鉢に薬草をすり潰し、指先で静かに混ぜる。
鼻を衝く薬草の匂いが空気に溶け込んでいく。
「もう少しの辛抱だぞ……一緒に日本に帰ろうな」
囁くように呟きながら、宮田は牝馬の梅、痩せ細ってしまった鯨、紀虎の傷口にそっと薬を塗り込む。
馬は鼻を鳴らし、痛みに身を震わせながらも、逃げようとはしなかった。
三頭の馬は、黒影のように西洋種と釧路種を掛け合わせた大型の馬ではなく、道産子を基に改良された日本土着の馬であった。
黒影に比べれば小柄であるが、がっしりとした肢と深い胸を持ち、しなやかな強さを湛えている。
風に抗い、弾雨を浴びる濁流をも越えてきたその姿は、まさに野に鍛えられた強さそのものだった。
トーマス少佐はしばし足を止めた。
少佐の胸裏に故郷の光景が蘇る。
競馬の聖地と呼ばれるサフォーク州。
俊敏さを誇るサラブレッドが風を切って駆け抜ける草原。
国が違えば馬もまた違う。
その違いは単なる体格の差に留まらず、生まれた土地の息吹や、人々の営みをも映し出しているように思えた。
トーマス少佐には、兵役に就くまで故郷で、競馬の騎手を夢見ていた過去があった。
夢を追いかけるはずだった自分が、今は戦場で馬たちに銃弾の雨を越えさせている。
兵器を運び、砲火を越え、ただ黙々と人の命令に従う馬たち。
―なぜ人は、これほど健気に尽くす生き物を戦に駆りたてるのか。
少佐は胸の奥でその皮肉を苦い思いで噛みしめた。
宮田は少佐の視線を感じながらも、顔を上げずただ手を動かし続けている。
二人の間に言葉はなかった。
馬の噛む音と草の匂いだけが、静かなリズムを刻んでいた。
トーマス少佐はゆっくりと梅に歩み寄った。
宮田は何も言わず、静かに梅の脇腹の傷に薬を塗りこんでいる。
梅は鼻面を少佐の掌に当て小さく鼻息を鳴らした。
少佐は静かに息を吐き、掌に残る梅のぬくもりを感じながら低く呟いた。
(……ああ、どうしても、この馬たちに銃を向けねばならぬのか……)
軍務として与えられた射殺命令が、いま自分の手の中にある。
梅がそっと少佐の掌をなめる。
その無垢な眼差しに、少佐の胸は重く揺れていた。
“Captured Japanese horses are to be destroyed” ― 捕獲された日本軍馬は、すべて射殺処分せよ。
“If any Japanese prisoners resist, shoot them as well” ―抵抗する日本兵捕虜がいたら銃殺せよ
トーマス少佐は息を詰め、紙をゆっくり折りたたんで胸にしまった。
4.旋律の蹄
―処分の日の朝。
どんよりとした空に、湿った生ぬるい空気が立ち込めていた。
“Sergeant, translate” (通訳しろ)
トーマス少佐は軍帽を直しながら、馬たちの方を見て低く言った。
通訳のマクリーンが一歩前に出て、日本兵の列に視線を移す。
「これらの馬は射殺処分とします」
ざわめきが走る。
その中から一歩前に出たのが将一だった。
軍帽の跡が残る額に泥がこびりついている。
「……処分とは、わしらの馬たちを殺せっちゅうことか?」
マクリーンが言葉を探す間に、トーマス少佐は短くうなずいた。
“They are too weak to work. Better end their suffering” ―これ以上苦しませるより、楽にしてやる方がいい。
将一は唇を噛み、拳を握りしめた。
「……わしらは、この馬たちと戦場を生き延びてきたんや、飢えも、弾雨も、共に潜って来たんや、それを殺せとはいったいどういうこっちゃ!」
勇馬が声を上げた。
「命令だろうと、馬を殺すことなんて馬鹿げてる!」
怒気が漂う中で、マクリーンは静かに二人の間に入った。
「……気持ちは分かります。でもこれは命令です」
トーマス少佐が静かに低い声で続けた。
“This is an order. One of you shoot them...” ―命令だ、お前たちの手で処分しろ。
勇馬は首を横に振った。
「できません!……この馬は、俺たちの仲間です。」
その言葉に、英兵の一人が咥えていた煙草を捨てて、舌打ちをした。
「命令を拒否するのか? なら、見ていろ!」
兵士は銃を構え、梅のこめかみに銃口を押し当てた。
ミオが叫んだ。「No!やめてっ!」
だが、乾いた銃声が響いた。
梅の頭が大きく垂れ、前膝を折るように地に崩れた。
血と土の匂いが一気に広がる。
勇馬は声にならぬ叫びを上げ、地面に拳を打ちつけた。
兵士は冷笑しながら、次に黒影へと銃口を向けた。
「次はこいつだ!」
その瞬間、将一が飛び出した。
「やめろっ!」
二度目の銃声が鈍く響く。
将一の身体が大きくのけぞり、右胸を押さえながら倒れ込む。
トーマス少佐が目を見開いた。
“Stop it! You idiot! Cease fire!!”
だが、兵士の指はまだ引き金の上にあった。
トーマス少佐は飛び出し、怒りに任せてその兵士を殴りつける。
切れた口から血を流しながらも、泥の中でまだ薄笑いを浮かべている。
その隙に、ミオが走り出し、隠していたナイフで黒影、鯨、紀虎の綱を切っていく。
「行け――! 走れっ!」
黒影が甲高く嘶き、鯨と紀虎を引き連れて柵を蹴り破った。
突如、雷鳴が轟き、まるで馬たちの逃走を助けるかのように、鉛の粒のような雨が地面を叩き始めた。
黒影に遅れまいと鯨、紀虎も全力の襲歩で森の奥へ消えていく。
英兵たちが慌てて銃を構えるが、トーマス少佐が手を上げた。
「撃つなっ!」
雨音だけが響く。
少佐は地に膝をつき、倒れた将一の身体を抱き上げた。
彼の軍服が、瞬く間に赤く染まっていく。
将一はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。
「……俺の代わりに……生かしてやってくれや……梅よ、すまんことしたなぁ…」
その手が黒影の走り去っていく方角を見つめ、やがて力なく落ちた。
竹林の向こうから、馬たちの嘶きがかすかに響いた。
それはまるで、将一と殺された梅のために祈る声のように、雨脚に溶けていく。
トーマス少佐は顔を伏せ自問するように呟いた。
(……本当の勇気とは、奪うことではなく守ることなのか……)
かすかに鼓動があった。
「……生きている……医療班を呼べ! 今すぐだ!」
兵士たちが慌てて駆け出していく。
勇馬は、雨粒が頬を伝い泥にまみれた手を額にあて、遠ざかる蹄の音に向かって敬礼をした。
濡れた大地に雲間から一筋の光が差し込んできた…
(第8話に続く)
終戦間際
雨上がりの森を勇馬たちは息を切らせて行軍していた。
ある者は担架で運ばれ、ある者は両肩を抱えられ、最後の力を振り絞って南のタイ国境へと続く高い峰を目指している。
背後では、遠く迫撃砲の音が尾を引く。
敵の包囲をどうにか突破したものの、弾も食糧も尽きかけていた。
森を抜けた先には、最近まで人が住んでいた村があった。
今はただ瓦礫と化した家屋の跡、崩れた塀、黒く焼け残った竹の柵が風に鳴るだけだった。
勇馬は、焼け跡の中央にぽっかりと口を開けた井戸の前に腰を下ろし、瓦礫で埋まった井戸の内側を覗き込んでため息をついた。
灰色の雲が重たく垂れ込め、陽の光すら色を失っている。
「どこへ行けばいいんだ……」
思わず漏れたその言葉に、誰も応えるものはいなかった。
ミオは焼けた地面に跪き、焦げた木片を拾い上げた。
それは、木彫りの小さな仏像の欠片だった。
「この村には仏の慈悲はあったのだろうか…」
彼女はそれを両手で胸に抱きしめるように包み込んだ。
──その時、空が低く唸った。
みな、反射的に銃を構える。
頭上をかすめるように、一機の銀色の機体が滑るように通過した。
爆撃の気配はない。
代わりに風の中を無数の紙片が舞っていた。
「……なんだ、あれは?」
白いビラが焼け跡の灰と混ざり、まるで雪のように地面を覆っていく。
将一が一枚を拾い上げ、指で泥を払い落とす。
そこには英語と日本語でこう書かれていた。
『日本は降伏した。武器を捨て投降せよ』
誰も声を発しなかった。
一人の兵士が鼻で笑い、紙を握り潰す。
「敵の罠だ。こんなもの、信じられるか!」
勇馬は無言で空を見上げた。
風に乗って舞う白い紙片は、平和の白い鳩のように広がっていく。
これは罠ではないことは、誰もが内心わかっていた。
「戦争が……終わったのか……」
勇馬はゆっくりと立ち上がり、鉛色の空を見上げた。
遠くに微かに響く雷鳴が、終戦を告げる祝砲のように思えた。
「……あの峰を越えて国境を目指そう、まだ終わりじゃない、みんな生きて祖国に帰ろう…」
2.ぬかるみの果てに
林の向こうから、エンジン音が近づいてくる。
泥を噛むキャタピラの唸りが、森の空気を押し潰すように響いた。
やがて、木々の間から鉄の塊が姿を現した。
連合軍の戦車だ。
続いて、兵を満載したトラックが泥に車輪を取られながら、車列を成して進んでくる。
「まずい! 連合軍だ!」
将一が叫び、散開を指示するが既に遅かった。
銃口が、雨に濡れた銃身の光を放ちながら、一斉に取り囲まれてしまった。
英語の怒声が飛び交う。
将一は皆に銃を捨てるよう、勇馬に目で合図をした。
将一は肩に掛けた騎銃を降ろし、泥溜まりの地面に放り投げ両手を挙げた。
背後の黒影が低く嘶き、前肢で土を掻いた。
その蹄音を聞いた将一が、掠れた低い声で言った。
「……黒影、逃げろ!」
だが、馬は一歩も動かなかった。
熱い風がすり抜け、黒影の鬣を揺らす。
将一の横で、勇馬は唇を噛みしめた。
「行け……! お前は生きろ!」
しかし、黒影はただその場に立ち尽くし、じっと将一と勇馬を見つめていた。
その瞳は、まるで主人と自らの運命を共にしようと訴えるかのようだった…
湿気を帯びた空気の中、竹林の向こうからかすかにエンジン音が近づき、一台の米国製ジープが現れる。
ジープから降りた将校は、トーマス少佐(Major Thomas Hargreaves) と名乗った。
淡いカーキの長袖シャツをきちんと着こなし、開襟の下には細い黒いネクタイを結んでいる。
胸には“S.E.A.C.(South East Asia Command)”の徽章──白星の上に赤いライオン。
浅黒い肌、緑色の瞳、深く刻まれた皺――。
彼の表情には、勝者としての高慢さよりも、長い戦を終えた者の疲労と静かな敬意が浮かんでいた。
彼は整った軍帽を被り直し、英国訛りの英語で静かに告げた。
“You are surrounded. Surrender, lay down your arms, and come with us”
下士官の通訳が日本語で話した。
「あなた方は包囲されました。降参して武器を捨て、我々と同行していただきます」
彼は英軍の制服に身を包んだ通訳の下士官で、ケン・マクリーンと名乗った。
金髪で彫りの深い顔だが、どこか日本人のような眼差しで流暢な日本語で話した。
3.処分命令
朝靄が薄く立ちこめる。
捕虜収容所の空気は、冷たく湿っていた。夜明けの光がまだ地を照らしきれない。
勇馬たちは鉄柵の内側に整列させられていた。
向こうの柵には、馬たちが一列に並べられている。
駄馬として、黒影を後方から支えてきた鯨、梅、紀虎が、 何も知らぬ子供のように首を振り、空気を嗅いでいた。
黒影もまた、じっとその様子を見つめている。
大きな瞳が、朝霧の中で微かに光った。
数名の日本兵が列をなし、黙して立つ。
トーマス少佐が、通訳のマクリーン下士官を連れて現れた。
“The war is over. No more fighting” ―戦争は終わった、もう戦う必要はない。
彼の声は低く、しかしどこか温かみがあった。
トーマス少佐は、帽子のつばにそっと手を当て、軽く会釈した。
その穏やかな仕草に呼応するように、日本軍の将校も深く頭を下げる。
互いの動作は、言葉を介さずとも敬意を交わすようだった。
トーマス少佐はそれだけを言うと踵を返し、ゆっくりと兵舎へ帰っていった。
***
その日の午後、トーマス少佐は英国本部から届いた命令書を手に、捕虜収容所を再び訪れた。
焦げつくような陽射しが、日本軍捕虜収容所と化した英軍の野営地を覆っている。
熱気は地面から立ち上り、湿った泥土を乾いた硬板へと変えていく。
宮田は黙々と草を束ね、痩せた軍馬の口元へ差し出していた。
額を流れる汗を拭う仕草は、疲弊を隠そうとするかのように淡々としている。
長い道のりを、黙して物資や兵器を運び続けてきた三頭の軍馬―梅、鯨、紀虎。
その脇腹には無数の擦り傷が走り、皮膚の下には赤黒い痣が沈んでいた。
宮田は小さな陶器の鉢に薬草をすり潰し、指先で静かに混ぜる。
鼻を衝く薬草の匂いが空気に溶け込んでいく。
「もう少しの辛抱だぞ……一緒に日本に帰ろうな」
囁くように呟きながら、宮田は牝馬の梅、痩せ細ってしまった鯨、紀虎の傷口にそっと薬を塗り込む。
馬は鼻を鳴らし、痛みに身を震わせながらも、逃げようとはしなかった。
三頭の馬は、黒影のように西洋種と釧路種を掛け合わせた大型の馬ではなく、道産子を基に改良された日本土着の馬であった。
黒影に比べれば小柄であるが、がっしりとした肢と深い胸を持ち、しなやかな強さを湛えている。
風に抗い、弾雨を浴びる濁流をも越えてきたその姿は、まさに野に鍛えられた強さそのものだった。
トーマス少佐はしばし足を止めた。
少佐の胸裏に故郷の光景が蘇る。
競馬の聖地と呼ばれるサフォーク州。
俊敏さを誇るサラブレッドが風を切って駆け抜ける草原。
国が違えば馬もまた違う。
その違いは単なる体格の差に留まらず、生まれた土地の息吹や、人々の営みをも映し出しているように思えた。
トーマス少佐には、兵役に就くまで故郷で、競馬の騎手を夢見ていた過去があった。
夢を追いかけるはずだった自分が、今は戦場で馬たちに銃弾の雨を越えさせている。
兵器を運び、砲火を越え、ただ黙々と人の命令に従う馬たち。
―なぜ人は、これほど健気に尽くす生き物を戦に駆りたてるのか。
少佐は胸の奥でその皮肉を苦い思いで噛みしめた。
宮田は少佐の視線を感じながらも、顔を上げずただ手を動かし続けている。
二人の間に言葉はなかった。
馬の噛む音と草の匂いだけが、静かなリズムを刻んでいた。
トーマス少佐はゆっくりと梅に歩み寄った。
宮田は何も言わず、静かに梅の脇腹の傷に薬を塗りこんでいる。
梅は鼻面を少佐の掌に当て小さく鼻息を鳴らした。
少佐は静かに息を吐き、掌に残る梅のぬくもりを感じながら低く呟いた。
(……ああ、どうしても、この馬たちに銃を向けねばならぬのか……)
軍務として与えられた射殺命令が、いま自分の手の中にある。
梅がそっと少佐の掌をなめる。
その無垢な眼差しに、少佐の胸は重く揺れていた。
“Captured Japanese horses are to be destroyed” ― 捕獲された日本軍馬は、すべて射殺処分せよ。
“If any Japanese prisoners resist, shoot them as well” ―抵抗する日本兵捕虜がいたら銃殺せよ
トーマス少佐は息を詰め、紙をゆっくり折りたたんで胸にしまった。
4.旋律の蹄
―処分の日の朝。
どんよりとした空に、湿った生ぬるい空気が立ち込めていた。
“Sergeant, translate” (通訳しろ)
トーマス少佐は軍帽を直しながら、馬たちの方を見て低く言った。
通訳のマクリーンが一歩前に出て、日本兵の列に視線を移す。
「これらの馬は射殺処分とします」
ざわめきが走る。
その中から一歩前に出たのが将一だった。
軍帽の跡が残る額に泥がこびりついている。
「……処分とは、わしらの馬たちを殺せっちゅうことか?」
マクリーンが言葉を探す間に、トーマス少佐は短くうなずいた。
“They are too weak to work. Better end their suffering” ―これ以上苦しませるより、楽にしてやる方がいい。
将一は唇を噛み、拳を握りしめた。
「……わしらは、この馬たちと戦場を生き延びてきたんや、飢えも、弾雨も、共に潜って来たんや、それを殺せとはいったいどういうこっちゃ!」
勇馬が声を上げた。
「命令だろうと、馬を殺すことなんて馬鹿げてる!」
怒気が漂う中で、マクリーンは静かに二人の間に入った。
「……気持ちは分かります。でもこれは命令です」
トーマス少佐が静かに低い声で続けた。
“This is an order. One of you shoot them...” ―命令だ、お前たちの手で処分しろ。
勇馬は首を横に振った。
「できません!……この馬は、俺たちの仲間です。」
その言葉に、英兵の一人が咥えていた煙草を捨てて、舌打ちをした。
「命令を拒否するのか? なら、見ていろ!」
兵士は銃を構え、梅のこめかみに銃口を押し当てた。
ミオが叫んだ。「No!やめてっ!」
だが、乾いた銃声が響いた。
梅の頭が大きく垂れ、前膝を折るように地に崩れた。
血と土の匂いが一気に広がる。
勇馬は声にならぬ叫びを上げ、地面に拳を打ちつけた。
兵士は冷笑しながら、次に黒影へと銃口を向けた。
「次はこいつだ!」
その瞬間、将一が飛び出した。
「やめろっ!」
二度目の銃声が鈍く響く。
将一の身体が大きくのけぞり、右胸を押さえながら倒れ込む。
トーマス少佐が目を見開いた。
“Stop it! You idiot! Cease fire!!”
だが、兵士の指はまだ引き金の上にあった。
トーマス少佐は飛び出し、怒りに任せてその兵士を殴りつける。
切れた口から血を流しながらも、泥の中でまだ薄笑いを浮かべている。
その隙に、ミオが走り出し、隠していたナイフで黒影、鯨、紀虎の綱を切っていく。
「行け――! 走れっ!」
黒影が甲高く嘶き、鯨と紀虎を引き連れて柵を蹴り破った。
突如、雷鳴が轟き、まるで馬たちの逃走を助けるかのように、鉛の粒のような雨が地面を叩き始めた。
黒影に遅れまいと鯨、紀虎も全力の襲歩で森の奥へ消えていく。
英兵たちが慌てて銃を構えるが、トーマス少佐が手を上げた。
「撃つなっ!」
雨音だけが響く。
少佐は地に膝をつき、倒れた将一の身体を抱き上げた。
彼の軍服が、瞬く間に赤く染まっていく。
将一はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。
「……俺の代わりに……生かしてやってくれや……梅よ、すまんことしたなぁ…」
その手が黒影の走り去っていく方角を見つめ、やがて力なく落ちた。
竹林の向こうから、馬たちの嘶きがかすかに響いた。
それはまるで、将一と殺された梅のために祈る声のように、雨脚に溶けていく。
トーマス少佐は顔を伏せ自問するように呟いた。
(……本当の勇気とは、奪うことではなく守ることなのか……)
かすかに鼓動があった。
「……生きている……医療班を呼べ! 今すぐだ!」
兵士たちが慌てて駆け出していく。
勇馬は、雨粒が頬を伝い泥にまみれた手を額にあて、遠ざかる蹄の音に向かって敬礼をした。
濡れた大地に雲間から一筋の光が差し込んできた…
(第8話に続く)



