1. 渡河
激流を越えた兵たちは、岸辺にへたり込み、泥と水にまみれた身体を投げ出した。
浅瀬では葦が行く手を塞ぎ、筏は進めず兵たちは這うようにして岸へと上がる。
誰もが口を開けば息が切れ、肩で荒く呼吸するばかりだった。
「渡り切ったぞ!」
誰かの叫びにどっと安堵の笑いが河原に広がる。
黒影は岸辺の草を踏み鳴らし、水滴を振り払うように鬣を揺らす。
鯨、梅、紀虎の三頭も傍らに集まり、無言でその偉業を称えるようだった。
森の象たちは、何事もなかったかのように鼻を振り、穏やかな目を向けていた。
その光景に、兵たちの胸にも束の間の静けさが訪れた。
勇馬はまるで力が抜けたようにその場に尻を落とした。
——生きて渡れた。それだけで奇跡だ。
しかし森の友軍は緊張を解かず、ミオを囲んで険しい顔で言葉を交わしている。
彼女は兵を数人ずつに分け、斥候を四方へ走らせた。
やがてミオは勇馬に近づき低く告げる。
「お前たちの仲間はこの辺りの洞窟や壕に身を隠しているはずだ。重病人も多く、武器弾薬も尽きている。急いで探し出し、敵の攻撃に備えねばならない……明日にも攻撃が始まる」
傍らの将一が眉をひそめる。
「おい、若造。この女狐は何ちゅうとるんや?」
ミオは構わず続ける。
「首都はすでに敵に奪還された…このまま南下して鉄道を使うことはできない。再び河を渡り、タイ国境を目指すしかない。だが傷病兵を運ぶには危険すぎる…奴らだけでは無理だ…」
顎で示した先には、二頭の巨象がゆっくりと瞬きをしながらその巨体を休めていた。
黒影、鯨、梅、紀虎の岡田組の馬は、宮田が集めてきた「ナツカゼ」と呼ばれる草を食んでいる。
将一の指示で、動ける兵士たちは、上空から見えぬ大木の下に臨時の野戦病院を設け、砲兵は獣道の坂に二門の山砲を据え付けた。
その時、斥候に出ていた兵が数人の日本兵を伴って戻ってきた。
彼らは皆傷だらけで、血に濡れた包帯や膿んだ裂傷に顔を歪めていた。
竹で作った粗末な担架で運ばれる者、痩せ衰えて仲間に支えられる者もいる。
佐藤軍医は野戦病院とは名ばかりの救護所に詰めて、血と消毒薬の匂いの中で手当を始めた。
「動ける者からだ……薬は足りん」
一人一人の瞳孔を確かめ、助かる見込みのある者を優先する。
半数は栄養失調とマラリアに蝕まれ、亡霊のような顔で虚ろに天を仰ぐ。
佐藤も非情にならざるを得なかった。
食糧班がわずかばかりの握り飯や乾パンを配る。
自力で歩ける兵たちは、飢えた獣のように手を伸ばし、泥だらけの指でそのまま口へ押し込んだ。
勇馬も背嚢から湿った乾パンを取り出し、ゆっくりと齧った。
「これは戦争ではなく……ただ生き残るための地獄の試練なのか…?」
胸を押し潰す現実の重みの中で、勇馬は深い空虚に包まれていった。
2.月下の灯
その夜、ジャングルはいつになく明るかった。
雲一つない夜空に青白い満月が昇り、密林の梢の隙間から幾筋もの光が差し込む。
湿った葉は銀色に濡れ、靄は淡い光をまとって漂い、森全体が異国の祭りに迷い込んだようだった。
兵士たちは野営地の片隅に集まり、ひそやかな宴を始めた。
飯盒に小さな行軍ローソクを立て、蓋をずらして被せる。
炎は外に漏れず、内側だけを赤く揺らめかせ、即席の灯籠が彼らの顔を照らした。
「おい、今日は月が味方だな…」
誰かの呟きに皆が声を押し殺して笑う。
ある兵は袖に忍ばせていた娘の手紙を読み上げる。
幼い字で綴られた「とうちゃん、はやくかえってきてね」の一文に場が一瞬静まった。
別の兵は小声で子守歌を口ずさみ、仲間が鼻歌を重ねる。
やがて誰かが叫んだ。
「よぉし、“ひそひそ”のど自慢大会だ!」
演歌も軍歌も調子外れ、声を抑えねばならず、余計に滑稽だった。
森の友軍から乾燥トウモロコシの差し入れが届き、静かな歓声が上がった。
将一が十八番の「愛馬進軍歌」を歌い始め、宮田と肩を組んで合唱する。
二人の眼には故郷の馬と、ここへ連れて来られた岡田組の馬たちの影が重なり涙が二人の頬を伝う。
「おい、若造!お前も歌えや!」
突然の指名に、勇馬は困惑した。
彼らの口ずさむ歌は一つもわからなかった。
みんなの冷やかす笑い声に、ただ俯くばかりの勇馬だった。
――束の間の安らぎ。
そこへ従軍カメラマンの井上が現れた。
首から提げたドイツ製のライカを掲げて微笑んでいる。
「お前ら、いい顔してるじゃないか! 今のうちに一枚撮っておこう」
薄明かりの中、一人ひとりの笑顔や横顔がフィルムに焼き付けられていく。
井上は、黒影のたてがみを撫でながら勇馬に訊いた。
「お前とこの馬、ええ面顔してるな。明日の朝、走ってみせてくれ」
勇馬は苦笑しながら頷いた。
やがて夜は更け、兵士たちは束の間の平穏を満喫し、静かに眠りへ落ちていく。
翌朝、まだ朝靄が森を包む頃、森の友軍が近くの集落から数頭の象を連れてやって来た。
森で切り出した材木を引き摺り、簡易の病床や雨除けの梁に加工する。
動ける兵士たちが手分けして作業に加わり、井上は象と一緒に働く彼らの姿をフィルムに収めていった。
兵士の中には、象の背に乗って銃を掲げ万歳をする者、わざと落ちそうに身を傾け仲間の笑いを誘う者…まるで生れてはじめて象を見る子どものように楽しそうに騒いでいた。
「勇馬と言ったな? お前と黒影の写真も撮らせてくれよ」
井上から唐突に訊かれたので、将一が顎で“いいぞ”と合図するのを確かめて、勇馬は黒影に跨ってレンズに顔を向けた。
黒影は静かに嘶き、勇馬を背に乗せたまま、しかし遠い森を鋭く睨み据えていた。
3.黒影の嘶き
その時、空を裂く轟音が響いた。
西の空から銀色の偵察機が現れ、大きく旋回する。
やがて峠の敵陣上空に、いくつもの落下傘が白い花のように開き、ゆるやかに降りていった。
束ねられた木箱には “Ration” の文字。
日本兵たちは悔しげに空を仰ぎ、数人が駆け出したが、すぐさま制止の怒声が飛ぶ。
「馬鹿者! 敵に居場所を知らせる気か!」
物資も食料も尽きかけた今、なんとしても敵の物資を盗む意気込みだった。
木陰に繋がれた黒影が鼻を鳴らし、前脚で泥を叩いた。
勇馬はサッと黒影の背に飛び乗り、制止を振り切って落下傘めがけて突進する。
黒影が跳ね上がり、鼻先で傘を受け止めると、勇馬は素早く縄を切った。
「糧秣だ!」
「敵さんからの差し入れだ!」
歓声が上がったが、木箱の中身は缶詰と少しの弾薬、衣料品、消毒液、煙草、英字新聞……食糧はわずかだった。
ため息が湿った空気に溶け、二十日間続いた無補給の行軍を思えば、喜びはすぐに霧散した。
勇馬は木箱に残されていた一丁の“拳銃”を掴み、腰のベルトに差し込んだ。
束の間の青空は、みるみる鉛色に変わり、雷鳴とともに滝のような雨が森を叩きつける。
そこへミオが部下の兵を率いて駆け寄った。
「敵は河の対岸にも集結し始めている……このまま河を戻れば挟み撃ちにされて全滅だ!」
彼女の声は雨と砲声にかき消されながらも、低く鋭く響いた。
――南へ抜けるしかない、もはや退路はそれだけだ。
将一の眉間に深い皺が刻まれる。
兵たちも顔を曇らせ、誰もが事の重さを悟った。
その時、森を震わせる銃声が静寂を切り裂いた。
そして大地を揺るがす砲声。
煙幕の向こうから敵兵がなだらかな丘を下って、中戦車から砲弾を放ちながら、雪崩のように押し寄せてくる。
黒影が甲高く嘶き、馬上の勇馬は本能的に身を伏せる。
―敵の総攻撃が始まった。
すでにこちらの位置は探知されていたのだ。
対岸に布陣していた敵兵からも一斉に砲弾を浴びせてきたのだ。
「こりゃいかん! 挟撃されている!」
将一の怒声が飛ぶ。
兵たちは泥に伏せ、必死に銃を構えるが、火力の差は歴然だった。
その時、ミオが血走った目で叫んだ。
「森の獣道がある! だが敵も待ち伏せしている、突破するしかない!」
返事を待つまでもなく、将一が立ち上がり、怒鳴るように叫んだ。
「全員、突撃用意! ここで止まれば全滅や!」
―獣道。
鬱蒼と茂る竹林の奥に伸びる一本の細い道。
そこはすでに敵の銃座と地雷が仕掛けられた死地であった。
象の背に乗った森の友軍が、鬨の声を上げて勢い突入する。
長槍を振りかざし、 象は長い鼻で敵兵を叩きつけ、竹の幹ごと薙ぎ倒した。
日本兵も後に続き、竹林の中で白兵戦が始まった。
銃剣が閃き、泥にまみれた男たちが互いの影に組み付く。
だが、敵の機関銃座が火を噴くと、兵列はたちまち崩れ、誰もが死を覚悟した。
―その刹那。
漆黒の影が閃光を放った。
黒影だ。
勇馬を背に弾雨の中を疾走し、銃座に突っ込む。
目にも止まらぬ速さに、敵兵は銃を振り回すが影を捉えられない。
雨に濡れた獣道を稲妻のように突き抜け、闇を切り裂く嘶きが森に響き渡った。
爆炎と爆音の中で、その姿は幾重にも分かれて駆け抜けていく幻影のように見えた。
追いすがる敵の罵声も、木々を砕く弾雨も、黒影の疾走に吸い込まれていくようだった。
森の友軍の火線が樹々の合間から走り、敵の追撃を裂いた。
黒影はさらに加速する。
「悪魔の馬だ! ―Devil’s Horse!―」
敵兵の叫びが戦火の森を震わせた。
黒影は一気に敵の銃座を蹴散らし、勇馬の銃撃が火花を散らす。
退路を見失いかけていた兵士たちの耳に、黒影の嘶きが高らかに響き渡った。
「ついて来い!」
勇馬の声と黒影の嘶きが重なり、兵たちは一斉にその影を追った。
樹々の上方に照明弾が放たれ、幾筋もの光に黒影の鬣は銀に輝き、森の闇に一筋の道を切り拓く。
日本兵は次々と獣道へ雪崩れ込む。
道はぬかるみ、狭い山肌の斜面は崩れ落ちそうに脆かった。
だが黒影は一度も躓かず、まるで森そのものが道を開いているかのように敵陣を駆け抜けた。
黒影は最後の力を振り絞り、坂を駆け上がると、大地を打ち鳴らすように四蹄を叩きつけて止まった。
兵たちは次々とその背後に転がり込み、息を荒げて泥土に倒れ込む。
誰もが黒影を見上げた。
漆黒の馬体は蒸気を纏い、燃えるような眼光を放ち、前肢を高く掲げて仁王立ちになった。
まるで死地を裂き、命を運んだ神軍馬そのものだった。
この光景は、のちに兵たちの間で語り継がれることになる。
——黒影の嘶きが、彼らを地獄の淵から救ったのだと。
4.白骨の森
激戦を潜り抜け、勇馬たちの小隊は辛うじて敵の追撃を振り切った。
雨はなお森を叩きつけ、ぬかるみに足を取られながら進む。
やがて鬱蒼とした林を抜けたところで、彼らは小さな窪地に出た。
そこには爆撃で半壊した小さなお堂があり、屋根は落ち、柱は炭のように焦げ付いている。
だが、その背後の苔むした古い仏塔が静かに無傷で佇んでいた。
戦火にさらされながらも崩れず、長い時を越えて人々を見守ってきたその姿は、今まさに死地を逃れた兵士たちの目に、ひと時の不可思議な安らぎを与えた。
兵たちは次々とお堂の陰に転がり込み、肩で息をつきながら床に伏す。
周囲には日本兵の白骨や焼け焦げた軍帽が散乱しており、つい数日前、この場所で仲間が敵の猛攻を受け、ほぼ全滅したことを物語っていた。
骸骨の腕に絡まった錆びた銃。
泥に沈みかけた頭蓋。
ミイラ化した馬や牛の背骨の間からは、草が伸びていた。
「……ここで、何があったんや」
将一が低く呟くと、誰もが息をのんだ。
佐藤軍医が、骨の間に残された古びた飯盒を拾い上げる。
「同じ日本兵だ……補給を絶たれ、ここで餓え死にしたのだろう」
湿った風に乗って、どこからか腐臭が漂う。
勇馬の喉は焼けるように渇いたが、胃の底からこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
白骨の森――。
それは、彼らの行く末を示す冷酷な未来図のように思えた。
将一は後に残してきた傷病兵たちのことが脳裏に浮かんだ。
勇馬は荒い呼吸のまま、ふと仏塔を仰いだ。
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
——見覚えがある。
あの古びた写真。
若かりし将一が黒影に跨り、凛々しく笑っていた背景の仏塔。
間違いない、ここだ。
そして焼け落ちた馬車の傍らに転がる、黒ずんだ鉄片に目を留めた。
ぬかるみから引き上げると、それは一枚の蹄鉄だった。
泥を拭い落とすと、刻まれた文字が雨粒に濡れて銀色に浮かび上がる。
――R.O 1944 (*)
勇馬の心臓がどくんと跳ねた。
見覚えがある、いや、確かに知っている。
——実家の将一爺さんの木箱に入っていた蹄鉄だ。
胸の奥で説明のつかない感覚が広がっていく。
誰も言葉を発せず、雨と風が木立を揺らす音だけが続く。
すると窪地の奥に青白い光がひとつ浮かんだ。
湿った空気に灯球が揺らめき、白骨の上をかすめて森の陰に消えていく。
「……見たか」
小さな声に、数人が蒼ざめて頷く。
それが何であったのか、誰も確かめようとはしなかった。
「……行こう」
将一の声に、兵たちは黙って歩を進めた。
雨の飛沫と時間の流れが捩れ、過去と未来の境が曖昧になる感覚。
勇馬はしばし立ち尽くした。
「勇馬……急げ!」
将一の“勇馬”と呼ぶ声に我に返り、蹄鉄を懐に押し込むと将一の背を追った。
再び雨の森に、銃声が遠く木霊する。
逃避行はなお続く‥‥‥
(第7話へ続く)
(*) Royal Ordnance(1944年イギリス軍兵器工廠製の意)
激流を越えた兵たちは、岸辺にへたり込み、泥と水にまみれた身体を投げ出した。
浅瀬では葦が行く手を塞ぎ、筏は進めず兵たちは這うようにして岸へと上がる。
誰もが口を開けば息が切れ、肩で荒く呼吸するばかりだった。
「渡り切ったぞ!」
誰かの叫びにどっと安堵の笑いが河原に広がる。
黒影は岸辺の草を踏み鳴らし、水滴を振り払うように鬣を揺らす。
鯨、梅、紀虎の三頭も傍らに集まり、無言でその偉業を称えるようだった。
森の象たちは、何事もなかったかのように鼻を振り、穏やかな目を向けていた。
その光景に、兵たちの胸にも束の間の静けさが訪れた。
勇馬はまるで力が抜けたようにその場に尻を落とした。
——生きて渡れた。それだけで奇跡だ。
しかし森の友軍は緊張を解かず、ミオを囲んで険しい顔で言葉を交わしている。
彼女は兵を数人ずつに分け、斥候を四方へ走らせた。
やがてミオは勇馬に近づき低く告げる。
「お前たちの仲間はこの辺りの洞窟や壕に身を隠しているはずだ。重病人も多く、武器弾薬も尽きている。急いで探し出し、敵の攻撃に備えねばならない……明日にも攻撃が始まる」
傍らの将一が眉をひそめる。
「おい、若造。この女狐は何ちゅうとるんや?」
ミオは構わず続ける。
「首都はすでに敵に奪還された…このまま南下して鉄道を使うことはできない。再び河を渡り、タイ国境を目指すしかない。だが傷病兵を運ぶには危険すぎる…奴らだけでは無理だ…」
顎で示した先には、二頭の巨象がゆっくりと瞬きをしながらその巨体を休めていた。
黒影、鯨、梅、紀虎の岡田組の馬は、宮田が集めてきた「ナツカゼ」と呼ばれる草を食んでいる。
将一の指示で、動ける兵士たちは、上空から見えぬ大木の下に臨時の野戦病院を設け、砲兵は獣道の坂に二門の山砲を据え付けた。
その時、斥候に出ていた兵が数人の日本兵を伴って戻ってきた。
彼らは皆傷だらけで、血に濡れた包帯や膿んだ裂傷に顔を歪めていた。
竹で作った粗末な担架で運ばれる者、痩せ衰えて仲間に支えられる者もいる。
佐藤軍医は野戦病院とは名ばかりの救護所に詰めて、血と消毒薬の匂いの中で手当を始めた。
「動ける者からだ……薬は足りん」
一人一人の瞳孔を確かめ、助かる見込みのある者を優先する。
半数は栄養失調とマラリアに蝕まれ、亡霊のような顔で虚ろに天を仰ぐ。
佐藤も非情にならざるを得なかった。
食糧班がわずかばかりの握り飯や乾パンを配る。
自力で歩ける兵たちは、飢えた獣のように手を伸ばし、泥だらけの指でそのまま口へ押し込んだ。
勇馬も背嚢から湿った乾パンを取り出し、ゆっくりと齧った。
「これは戦争ではなく……ただ生き残るための地獄の試練なのか…?」
胸を押し潰す現実の重みの中で、勇馬は深い空虚に包まれていった。
2.月下の灯
その夜、ジャングルはいつになく明るかった。
雲一つない夜空に青白い満月が昇り、密林の梢の隙間から幾筋もの光が差し込む。
湿った葉は銀色に濡れ、靄は淡い光をまとって漂い、森全体が異国の祭りに迷い込んだようだった。
兵士たちは野営地の片隅に集まり、ひそやかな宴を始めた。
飯盒に小さな行軍ローソクを立て、蓋をずらして被せる。
炎は外に漏れず、内側だけを赤く揺らめかせ、即席の灯籠が彼らの顔を照らした。
「おい、今日は月が味方だな…」
誰かの呟きに皆が声を押し殺して笑う。
ある兵は袖に忍ばせていた娘の手紙を読み上げる。
幼い字で綴られた「とうちゃん、はやくかえってきてね」の一文に場が一瞬静まった。
別の兵は小声で子守歌を口ずさみ、仲間が鼻歌を重ねる。
やがて誰かが叫んだ。
「よぉし、“ひそひそ”のど自慢大会だ!」
演歌も軍歌も調子外れ、声を抑えねばならず、余計に滑稽だった。
森の友軍から乾燥トウモロコシの差し入れが届き、静かな歓声が上がった。
将一が十八番の「愛馬進軍歌」を歌い始め、宮田と肩を組んで合唱する。
二人の眼には故郷の馬と、ここへ連れて来られた岡田組の馬たちの影が重なり涙が二人の頬を伝う。
「おい、若造!お前も歌えや!」
突然の指名に、勇馬は困惑した。
彼らの口ずさむ歌は一つもわからなかった。
みんなの冷やかす笑い声に、ただ俯くばかりの勇馬だった。
――束の間の安らぎ。
そこへ従軍カメラマンの井上が現れた。
首から提げたドイツ製のライカを掲げて微笑んでいる。
「お前ら、いい顔してるじゃないか! 今のうちに一枚撮っておこう」
薄明かりの中、一人ひとりの笑顔や横顔がフィルムに焼き付けられていく。
井上は、黒影のたてがみを撫でながら勇馬に訊いた。
「お前とこの馬、ええ面顔してるな。明日の朝、走ってみせてくれ」
勇馬は苦笑しながら頷いた。
やがて夜は更け、兵士たちは束の間の平穏を満喫し、静かに眠りへ落ちていく。
翌朝、まだ朝靄が森を包む頃、森の友軍が近くの集落から数頭の象を連れてやって来た。
森で切り出した材木を引き摺り、簡易の病床や雨除けの梁に加工する。
動ける兵士たちが手分けして作業に加わり、井上は象と一緒に働く彼らの姿をフィルムに収めていった。
兵士の中には、象の背に乗って銃を掲げ万歳をする者、わざと落ちそうに身を傾け仲間の笑いを誘う者…まるで生れてはじめて象を見る子どものように楽しそうに騒いでいた。
「勇馬と言ったな? お前と黒影の写真も撮らせてくれよ」
井上から唐突に訊かれたので、将一が顎で“いいぞ”と合図するのを確かめて、勇馬は黒影に跨ってレンズに顔を向けた。
黒影は静かに嘶き、勇馬を背に乗せたまま、しかし遠い森を鋭く睨み据えていた。
3.黒影の嘶き
その時、空を裂く轟音が響いた。
西の空から銀色の偵察機が現れ、大きく旋回する。
やがて峠の敵陣上空に、いくつもの落下傘が白い花のように開き、ゆるやかに降りていった。
束ねられた木箱には “Ration” の文字。
日本兵たちは悔しげに空を仰ぎ、数人が駆け出したが、すぐさま制止の怒声が飛ぶ。
「馬鹿者! 敵に居場所を知らせる気か!」
物資も食料も尽きかけた今、なんとしても敵の物資を盗む意気込みだった。
木陰に繋がれた黒影が鼻を鳴らし、前脚で泥を叩いた。
勇馬はサッと黒影の背に飛び乗り、制止を振り切って落下傘めがけて突進する。
黒影が跳ね上がり、鼻先で傘を受け止めると、勇馬は素早く縄を切った。
「糧秣だ!」
「敵さんからの差し入れだ!」
歓声が上がったが、木箱の中身は缶詰と少しの弾薬、衣料品、消毒液、煙草、英字新聞……食糧はわずかだった。
ため息が湿った空気に溶け、二十日間続いた無補給の行軍を思えば、喜びはすぐに霧散した。
勇馬は木箱に残されていた一丁の“拳銃”を掴み、腰のベルトに差し込んだ。
束の間の青空は、みるみる鉛色に変わり、雷鳴とともに滝のような雨が森を叩きつける。
そこへミオが部下の兵を率いて駆け寄った。
「敵は河の対岸にも集結し始めている……このまま河を戻れば挟み撃ちにされて全滅だ!」
彼女の声は雨と砲声にかき消されながらも、低く鋭く響いた。
――南へ抜けるしかない、もはや退路はそれだけだ。
将一の眉間に深い皺が刻まれる。
兵たちも顔を曇らせ、誰もが事の重さを悟った。
その時、森を震わせる銃声が静寂を切り裂いた。
そして大地を揺るがす砲声。
煙幕の向こうから敵兵がなだらかな丘を下って、中戦車から砲弾を放ちながら、雪崩のように押し寄せてくる。
黒影が甲高く嘶き、馬上の勇馬は本能的に身を伏せる。
―敵の総攻撃が始まった。
すでにこちらの位置は探知されていたのだ。
対岸に布陣していた敵兵からも一斉に砲弾を浴びせてきたのだ。
「こりゃいかん! 挟撃されている!」
将一の怒声が飛ぶ。
兵たちは泥に伏せ、必死に銃を構えるが、火力の差は歴然だった。
その時、ミオが血走った目で叫んだ。
「森の獣道がある! だが敵も待ち伏せしている、突破するしかない!」
返事を待つまでもなく、将一が立ち上がり、怒鳴るように叫んだ。
「全員、突撃用意! ここで止まれば全滅や!」
―獣道。
鬱蒼と茂る竹林の奥に伸びる一本の細い道。
そこはすでに敵の銃座と地雷が仕掛けられた死地であった。
象の背に乗った森の友軍が、鬨の声を上げて勢い突入する。
長槍を振りかざし、 象は長い鼻で敵兵を叩きつけ、竹の幹ごと薙ぎ倒した。
日本兵も後に続き、竹林の中で白兵戦が始まった。
銃剣が閃き、泥にまみれた男たちが互いの影に組み付く。
だが、敵の機関銃座が火を噴くと、兵列はたちまち崩れ、誰もが死を覚悟した。
―その刹那。
漆黒の影が閃光を放った。
黒影だ。
勇馬を背に弾雨の中を疾走し、銃座に突っ込む。
目にも止まらぬ速さに、敵兵は銃を振り回すが影を捉えられない。
雨に濡れた獣道を稲妻のように突き抜け、闇を切り裂く嘶きが森に響き渡った。
爆炎と爆音の中で、その姿は幾重にも分かれて駆け抜けていく幻影のように見えた。
追いすがる敵の罵声も、木々を砕く弾雨も、黒影の疾走に吸い込まれていくようだった。
森の友軍の火線が樹々の合間から走り、敵の追撃を裂いた。
黒影はさらに加速する。
「悪魔の馬だ! ―Devil’s Horse!―」
敵兵の叫びが戦火の森を震わせた。
黒影は一気に敵の銃座を蹴散らし、勇馬の銃撃が火花を散らす。
退路を見失いかけていた兵士たちの耳に、黒影の嘶きが高らかに響き渡った。
「ついて来い!」
勇馬の声と黒影の嘶きが重なり、兵たちは一斉にその影を追った。
樹々の上方に照明弾が放たれ、幾筋もの光に黒影の鬣は銀に輝き、森の闇に一筋の道を切り拓く。
日本兵は次々と獣道へ雪崩れ込む。
道はぬかるみ、狭い山肌の斜面は崩れ落ちそうに脆かった。
だが黒影は一度も躓かず、まるで森そのものが道を開いているかのように敵陣を駆け抜けた。
黒影は最後の力を振り絞り、坂を駆け上がると、大地を打ち鳴らすように四蹄を叩きつけて止まった。
兵たちは次々とその背後に転がり込み、息を荒げて泥土に倒れ込む。
誰もが黒影を見上げた。
漆黒の馬体は蒸気を纏い、燃えるような眼光を放ち、前肢を高く掲げて仁王立ちになった。
まるで死地を裂き、命を運んだ神軍馬そのものだった。
この光景は、のちに兵たちの間で語り継がれることになる。
——黒影の嘶きが、彼らを地獄の淵から救ったのだと。
4.白骨の森
激戦を潜り抜け、勇馬たちの小隊は辛うじて敵の追撃を振り切った。
雨はなお森を叩きつけ、ぬかるみに足を取られながら進む。
やがて鬱蒼とした林を抜けたところで、彼らは小さな窪地に出た。
そこには爆撃で半壊した小さなお堂があり、屋根は落ち、柱は炭のように焦げ付いている。
だが、その背後の苔むした古い仏塔が静かに無傷で佇んでいた。
戦火にさらされながらも崩れず、長い時を越えて人々を見守ってきたその姿は、今まさに死地を逃れた兵士たちの目に、ひと時の不可思議な安らぎを与えた。
兵たちは次々とお堂の陰に転がり込み、肩で息をつきながら床に伏す。
周囲には日本兵の白骨や焼け焦げた軍帽が散乱しており、つい数日前、この場所で仲間が敵の猛攻を受け、ほぼ全滅したことを物語っていた。
骸骨の腕に絡まった錆びた銃。
泥に沈みかけた頭蓋。
ミイラ化した馬や牛の背骨の間からは、草が伸びていた。
「……ここで、何があったんや」
将一が低く呟くと、誰もが息をのんだ。
佐藤軍医が、骨の間に残された古びた飯盒を拾い上げる。
「同じ日本兵だ……補給を絶たれ、ここで餓え死にしたのだろう」
湿った風に乗って、どこからか腐臭が漂う。
勇馬の喉は焼けるように渇いたが、胃の底からこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
白骨の森――。
それは、彼らの行く末を示す冷酷な未来図のように思えた。
将一は後に残してきた傷病兵たちのことが脳裏に浮かんだ。
勇馬は荒い呼吸のまま、ふと仏塔を仰いだ。
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
——見覚えがある。
あの古びた写真。
若かりし将一が黒影に跨り、凛々しく笑っていた背景の仏塔。
間違いない、ここだ。
そして焼け落ちた馬車の傍らに転がる、黒ずんだ鉄片に目を留めた。
ぬかるみから引き上げると、それは一枚の蹄鉄だった。
泥を拭い落とすと、刻まれた文字が雨粒に濡れて銀色に浮かび上がる。
――R.O 1944 (*)
勇馬の心臓がどくんと跳ねた。
見覚えがある、いや、確かに知っている。
——実家の将一爺さんの木箱に入っていた蹄鉄だ。
胸の奥で説明のつかない感覚が広がっていく。
誰も言葉を発せず、雨と風が木立を揺らす音だけが続く。
すると窪地の奥に青白い光がひとつ浮かんだ。
湿った空気に灯球が揺らめき、白骨の上をかすめて森の陰に消えていく。
「……見たか」
小さな声に、数人が蒼ざめて頷く。
それが何であったのか、誰も確かめようとはしなかった。
「……行こう」
将一の声に、兵たちは黙って歩を進めた。
雨の飛沫と時間の流れが捩れ、過去と未来の境が曖昧になる感覚。
勇馬はしばし立ち尽くした。
「勇馬……急げ!」
将一の“勇馬”と呼ぶ声に我に返り、蹄鉄を懐に押し込むと将一の背を追った。
再び雨の森に、銃声が遠く木霊する。
逃避行はなお続く‥‥‥
(第7話へ続く)
(*) Royal Ordnance(1944年イギリス軍兵器工廠製の意)



