1. ゲリラ討伐戦
夜明け前の河岸へ続く森は、不気味なほど静まり返っていた。
濃い靄が水面を覆い、雨期の豪雨で膨れ上がった大河は轟々と渦を巻いている。その流れは、いかなる者も一歩踏み入れば瞬く間に呑み込むだろう。
黒影は鼻を鳴らし、遠くに流れる大河の、その生臭い匂いを嗅ぐように頸を上げた。周囲の馬たちもそわそわと落ち着かない。
兵たちの表情には、これから始まる戦いへの緊張が昂っていた。
「渡る前に河岸の森に潜んどるゲリラ兵を叩くそうや、わしらが先にやられたら、対岸にいる友軍の救出どころやないで…」
将一の低い声にうなずき、補給部隊はそれぞれ馬の背に結んだ革紐の点検をする。
僅かに残った二機の山砲と、残り僅かな弾薬を丁寧にばらして、鯨と梅に装備する。そして紀虎にも尽きかけた糧秣を荷負わせた。
宮田は馬たちの脇に立ち、緊張した面持ちで一頭ずつ肢を上げて、念入りに蹄鉄を確認しながら額の汗をぬぐい、
「将一はん、こっちは準備万端でっせ!」
宮田の声が少し震えているの感じた将一は、落ち着いた声で言った。
「宮田はん、あんたは無理すんなよ、馬たちをしっかり守ってくれ…わしらの馬やからな…死なせたらあかんで」
「任しときなはれ、将一はん!」と白い歯を見せた。
三田村の小隊は、もはや往時の精鋭の影もなかった。飢えと病、絶え間ないゲリラの襲撃により、大部分の兵士はすでに土に還っていた。残るは十指に満たぬ歩兵とわずかな馬たちだけ。
かつて誇らしげに進軍していた軍馬の列は、いまや鯨、梅、紀虎の三頭と、雑役に徴したロバ一頭を残すのみ。彼らが抱えるものは、もはや戦力というより重く鈍い苦役の象徴のようでもあった。
三田村曹長の小隊は、森の獣道で息を殺して合図を待っていた。兵たちの握る銃剣には汗が滴り、引き金にかけた指が小刻みに震えている。
馬たちも異様な気配を察したのか、耳を伏せ鼻を荒く鳴らし、土を掻くように蹄を打ち鳴らした。
「……来るぞ」
将一の低い声が張り詰めた空気をさらに硬くした。
やがて、遠雷のような重低音が曇天に響く。敵軍の爆撃機の編隊が、靄を切り裂き頭上を旋回し始めた。
「小隊! 進軍開始! 前方のゲリラを叩け! その後に全軍渡河する!」
号令と同時に、兵たちは泥濘を踏みしめて森へ歩を進めた。
茂みから銃声が轟き静寂を切り裂いた。湿った土が弾け、叫びと怒号が交錯する。
小隊の先頭で黒影に騎乗する三田村は、怒声を上げて敵陣へ突進した。黒影が先陣を切り倒木を飛び越え逃げる影を蹴り倒す。
そして鉛色の空を割って降って来る爆弾——
敵軍の爆撃機が低空を旋回し、機銃の弾が雨のように降り注いだ。
土砂が跳ね、火花が散り、そして数発の機銃掃射が弾丸が三田村の胸を撃ち抜き、三田村は黒影から落ち河岸の土手に倒れた。
2. 濁流の傍らで
主人を失った黒影は、迫りくるゲリラ兵に対峙し鬣を逆立て、仁王立ちになって前脚を振り上げる。
ゲリラ兵が怯んだ隙を突いて勇馬が駆け込んだ。
「黒影!」
濡れた掌が手綱を掴んだ瞬間、黒影は待っていたかのように身を低くし、勇馬を背に迎え入れる。
轟音の渦の中で、二つの心臓が重なる。
炎と煙の向こうに、勇馬は一人取り残された小さな影を見つけた。
まだあどけなさの残る少年は、身の丈ほどもある銃も捨て恐怖に凍りつき、敵弾の雨の中に立ち尽くしていた。
「まだ、子供じゃないか!」
勇馬は躊躇うことなく駆け出した。
「黒影、行くぞ!」
勇馬の叫びと同時に黒影は力強く地を蹴り、勇馬は身を沈め馬と一体となった。
銃弾を縫って駆け抜け、少年を片腕で抱き上げると、少年は驚きと怯えのまま勇馬の胸に縋りついた。
黒影の背は二つの命を軽々と受け止める。
——敵も味方もない。
その思いが勇馬の胸を熱く灼いた。
その光景を茂みの陰から一人の女兵が見ていた。
ミオだった。
銃口は勇馬に向けられている。
だが——彼女の指は動かない。
日本兵が、敵であるはずの男が、少年の命を救ってくれた。
それは本来自分が守ろうとしてきたものだった。
ミオの心臓の鼓動が激しく響き視界が揺らぐ。
——撃てない。どうしても……。
その瞬間、泥に塗れながら起き上がった三田村の弾丸がミオの肩に命中した。
衝撃に身体が仰け反り、構えた小銃がはじき飛んだ。
「ミオ!」
勇馬は叫び声を上げるが、その声は届かない。
ミオは河岸へと滑り落ちていく。
「掴まれっ!」
黒影の背から咄嗟に手を伸ばすが、敵機の銃弾が水面を穿ち黒影の嘶きが彼を押しとどめる。
——ミオ……!
白波が砕け、彼女の姿は一瞬で飲み込まれて消えた。
黒影が悲痛な嘶きを上げ、勇馬は悔しさとともに
「くそっ!」と叫び、
ミオが流された水面を睨みつけた。
勇馬は黒影の手綱を引き馬体を反転させ、泥に崩れ落ちた三田村のもとへ駆け寄った。
血に濡れた顔で空を仰ぐ三田村は、すでに息も絶え絶えだった。
握りしめた銃が泥に沈み込み、わずかな声が漏れる。
「……結局、俺も……兵器のひとつにすぎなかったのか」
そのとき、黒影が低く嘶いた。
まるで答えるようなその響きに、三田村の口元がかすかに緩む。
「……馬に、慰められるとはな……」
黒影が低く嘶く。その声にわずかに微笑みを返すと彼は静かに息絶えた。
3.三田村の死と佐藤軍医
その少し下流。将一は河岸を駆け降り、迷うことなく川縁に膝をつき、腕を伸ばしてその細い身体を引き上げた。
冷えきった肌、かすかに震える指先、彼女はかすかに息をしている。
「まだ生きとるんか……!」
やがてミオの唇が震え、濁った川水を吐き出す。
瞳が薄く開き将一の顔を映した。
「……お前は……」
掠れた声が漏れたが、その先は言葉にならなかった。
将一は周囲を見回し低く囁いた。
「声出すなよ、仲間に見つかったらお前も俺も殺されてまうがなぁ…」
将一の馴れ馴れしくも優しい言葉が、ミオの心に言いようのない迷いを滲ませた。
勇馬が少年ゲリラを助けた時の光景が、彼女の脳裏をかすめているのかもしれない。
「……なぜ、助けた?」
かすかな問いに将一は答えず、ゆっくりとただ森の奥を指し示した。
「もう行け、ここに居たらあかん…」
ミオは濡れた体を震わせながら立ち上がり、森の闇に吸い込まれるように消えていった。
一瞬振り返った瞳に、戦うべき相手への戸惑いと、命を繋がれた者の複雑な情が交錯していた。
河面は鉛色に沈み、夕暮れの光をかすかに映していた。
小隊長の三田村を失くした部隊はわずかな歩兵と、将一の率いる輜重隊のみとなった。
鯨と梅が運んでいた山砲も、すでに弾薬が尽き無用の長物となり、紀虎の背に結んだ僅かな食糧を残すのみとなった。
宮田が将一に歩み寄り、
「将一はん、馬動かせるん、もうあんたしかおりまへん、このまま河渡りましょうや」
宮田の眼が将一の決断を待っている。
将一は濡れた手のひらを衣で拭い、溜息をつきながら黒影の鼻面を撫でながら、
「そやけど… もう弾薬も糧秣もあらへんがな…」
かすかな囁きに応えるように、黒影が低く嘶く。
勇馬は二人の会話を聴きながら、胸の奥で自問の声が囁いていた。
―なぜ自分はこの時代にいるのか。
―弾薬も食料もなく、もしかしてここで死ぬのか?
本当に元の世界へ戻れるのか、考えるほどに答えは遠のき、勇馬の心は揺らぐばかりだった。
それでも腕の中には、自分が救った少年の身体の温もりが残っている。
勇馬は迷いを抱えたまま、前へ進む覚悟を固めた。
帰り道を探すことも、生き抜くことも、すべてはこの一歩から始まるのだ。
程なくして、遅れて数名の工兵たちが追いついてきた。
それぞれ持てるだけの工具を背負っている。
つるはしやショベル、測量器具など、しかし渡河に必要な筏を組めるほどの充分な装備ではないことは一目でわかった。
それでも、三田村を失った小隊にとっては願ってもない援軍だった。
そして、その中に見覚えのある男がいた。
「……佐藤軍医殿!」
将一の声が弾む。
驚きと安堵が入り混じった笑顔で彼を迎えると、佐藤軍医少尉は疲れをにじませながらもきびすを正し、敬礼を返した。
「おおお、佐藤軍医やないですか!よくぞ御無事で!まさか、こんな所で再会できるとは夢にも思いませんでしたわ!」
将一は興奮して声を上げた。振り返った軍医の佐藤少佐は、やせ細った顔に微笑を浮かべる。
「岡田曹長こそ、お達者で安心しました!」
二人の記憶が一瞬で蘇る。戦況が激化するその年の正月、タイの日本軍駐屯地の庭でついた餅つきの思い出。杵を交代で振り下ろし、白くふくらんだ餅を前に今は亡き若い兵士たちと笑顔で過ごした日。そして、馬好きの二人が意気投合し、早朝に駐屯所の裏山を駆け上がったこと。
あの短い温もりの時間が、将一と佐藤に束の間の穏やかな光景を思い起こさせていた。
佐藤軍医は、乗馬の両脇に結わえた荷の中から布袋を大事そうに取り出した。
「薬だけじゃないですよ、ほら……これ」
佐藤軍医は静かに微笑み布袋を開いて見せた。
「後方の衛生部隊から少しだけですが……持ってきました、腹の足しになれば」
布紐を解き、中から現れたのは緑豆を漉して餅に詰めた大福餅だった。
その姿は決して贅沢なものではなかったが、疲弊した兵たちの目が一斉に吸い寄せられた。
「……大福餅だ、懐かしいなぁ」
誰かが小さくつぶやいた。
貴重な糧秣を手にした兵士たちは、その素朴な甘みに思わず胸を熱くした。
佐藤軍医の大福餅は疲労困憊の兵士たちにわずかな望みを与えた。
その時、森影から人の気配が現れた。
粗末な装束に古びた銃を抱えたゲリラ兵たちが、枝葉を押し分けて進んでくる。
そして大きなニッパヤシの葉を揺らしながら現れたのは、ゲリラ兵を乗せた二頭の大きな象だった。
その巨体は森の緑を背にして、まるで古代の石像が歩き出したかのようであった。
その場にいた兵士全員が殺気立ち、銃を構えた。
森の切れ間から差し込む月明かりが、両手を上げたゲリラ兵たちを薄く照らしていた。全員が銃を高く上げて、攻撃してくる気配もない。
その中から肩から包帯を巻いたミオが現れ、勇馬の目を見つめる。
小さな声で絞り出すように言った。
「信じて、我々は、あなたの敵じゃない」
勇馬は目を凝らし彼女を見つめ、思わず声を漏らした。
「……お前、生きてたのか……」
ミオは小さくうなずき、喉の奥でつかえた声を押し出した。
「日本兵、お前は、あの子を……助けた」
「急いで河を渡れ…夜が明ければ、対岸の日本兵は全滅する」
森のざわめきが二人の間を満たす。
「われらはお前たち、日本人と一緒に戦う…」
彼女は肩を強ばらせるようにして言った。
4.渡河 ― 月下の神馬
河面は月明かりを反射し、銀色の筋となって荒々しくうねっていた。
先頭の象にはミオが跨がり、長い鼻で筏を導く。
二頭目の象が後ろから筏を押し出し、ぎしぎしと軋む。
今では “森の友軍” となったゲリラ兵はそれぞれに分かれ象の上に乗り指揮を執る。
そして筏の上には将一や工兵、佐藤軍医の姿。
誰もが息を詰め、弾薬や薬箱を必死に押さえていた。
黒影の手綱を将一が掴み、勇馬は鯨、梅、紀虎は筏に乗った輜重兵が手綱を持ち、筏に沿って慎重に泳がせることにした。
濁流を切り裂いて進む筏。その先頭には巨大な象が立ちはだかる水流を押し分けていた。
流れの中ほどに差しかかり、順調に渡河が成功するかに見えたその時―。
対岸近く、激しい流れに洗われた黒々とした岩が、牙のように突き出していた。
その瞬間、黒影が耳をぴんと立て、将一の手綱を振り切って前へ飛び出した。
「黒影! どうした、どこへ行くんや!」
驚きの声を背に、黒影は流れを蹴り、先頭を行く象の前へと泳ぎ出す。
黒影は後躯を踏ん張り、前方を塞ぐ岩の上に駆け上がった。
蹄は滑りながらも踏みとどまり、濡れた鬣を揺らして高々と頸を掲げる。
その姿は、月下に現れた幻の神馬が嘶くかの如く河面を震わせた。
「ヒィィィィン――!」
黒影の甲高い嘶きに兵の叫びが響く。
「岩だ! 左舷に岩!」
先頭の象に乗る兵士でさえ見抜けなかったその岩を、黒影は鋭い眼で射抜いていた。
工兵たちが必死に櫂を操り、象が縄を引き絞り、筏は大きく軋みを上げながらも岩をかすめて流れに戻った。
やがて対岸の闇をの中から、いくつもの灯が空気を揺らした。
それは友軍が掲げる居場所を知らせる松明の炎――待ち望んだ合図である。
岸辺に身を潜める兵たちは、やせ細った体を寄せ合い、渡河の成功を祈り続けていた。
―うっすらと東の空が白み始める。
それは希望の兆しであると同時に、夜の闇を越えた者たちに、敵の総攻撃が迫り来ることを告げる暁の光でもあった。
(第6話に続く)
夜明け前の河岸へ続く森は、不気味なほど静まり返っていた。
濃い靄が水面を覆い、雨期の豪雨で膨れ上がった大河は轟々と渦を巻いている。その流れは、いかなる者も一歩踏み入れば瞬く間に呑み込むだろう。
黒影は鼻を鳴らし、遠くに流れる大河の、その生臭い匂いを嗅ぐように頸を上げた。周囲の馬たちもそわそわと落ち着かない。
兵たちの表情には、これから始まる戦いへの緊張が昂っていた。
「渡る前に河岸の森に潜んどるゲリラ兵を叩くそうや、わしらが先にやられたら、対岸にいる友軍の救出どころやないで…」
将一の低い声にうなずき、補給部隊はそれぞれ馬の背に結んだ革紐の点検をする。
僅かに残った二機の山砲と、残り僅かな弾薬を丁寧にばらして、鯨と梅に装備する。そして紀虎にも尽きかけた糧秣を荷負わせた。
宮田は馬たちの脇に立ち、緊張した面持ちで一頭ずつ肢を上げて、念入りに蹄鉄を確認しながら額の汗をぬぐい、
「将一はん、こっちは準備万端でっせ!」
宮田の声が少し震えているの感じた将一は、落ち着いた声で言った。
「宮田はん、あんたは無理すんなよ、馬たちをしっかり守ってくれ…わしらの馬やからな…死なせたらあかんで」
「任しときなはれ、将一はん!」と白い歯を見せた。
三田村の小隊は、もはや往時の精鋭の影もなかった。飢えと病、絶え間ないゲリラの襲撃により、大部分の兵士はすでに土に還っていた。残るは十指に満たぬ歩兵とわずかな馬たちだけ。
かつて誇らしげに進軍していた軍馬の列は、いまや鯨、梅、紀虎の三頭と、雑役に徴したロバ一頭を残すのみ。彼らが抱えるものは、もはや戦力というより重く鈍い苦役の象徴のようでもあった。
三田村曹長の小隊は、森の獣道で息を殺して合図を待っていた。兵たちの握る銃剣には汗が滴り、引き金にかけた指が小刻みに震えている。
馬たちも異様な気配を察したのか、耳を伏せ鼻を荒く鳴らし、土を掻くように蹄を打ち鳴らした。
「……来るぞ」
将一の低い声が張り詰めた空気をさらに硬くした。
やがて、遠雷のような重低音が曇天に響く。敵軍の爆撃機の編隊が、靄を切り裂き頭上を旋回し始めた。
「小隊! 進軍開始! 前方のゲリラを叩け! その後に全軍渡河する!」
号令と同時に、兵たちは泥濘を踏みしめて森へ歩を進めた。
茂みから銃声が轟き静寂を切り裂いた。湿った土が弾け、叫びと怒号が交錯する。
小隊の先頭で黒影に騎乗する三田村は、怒声を上げて敵陣へ突進した。黒影が先陣を切り倒木を飛び越え逃げる影を蹴り倒す。
そして鉛色の空を割って降って来る爆弾——
敵軍の爆撃機が低空を旋回し、機銃の弾が雨のように降り注いだ。
土砂が跳ね、火花が散り、そして数発の機銃掃射が弾丸が三田村の胸を撃ち抜き、三田村は黒影から落ち河岸の土手に倒れた。
2. 濁流の傍らで
主人を失った黒影は、迫りくるゲリラ兵に対峙し鬣を逆立て、仁王立ちになって前脚を振り上げる。
ゲリラ兵が怯んだ隙を突いて勇馬が駆け込んだ。
「黒影!」
濡れた掌が手綱を掴んだ瞬間、黒影は待っていたかのように身を低くし、勇馬を背に迎え入れる。
轟音の渦の中で、二つの心臓が重なる。
炎と煙の向こうに、勇馬は一人取り残された小さな影を見つけた。
まだあどけなさの残る少年は、身の丈ほどもある銃も捨て恐怖に凍りつき、敵弾の雨の中に立ち尽くしていた。
「まだ、子供じゃないか!」
勇馬は躊躇うことなく駆け出した。
「黒影、行くぞ!」
勇馬の叫びと同時に黒影は力強く地を蹴り、勇馬は身を沈め馬と一体となった。
銃弾を縫って駆け抜け、少年を片腕で抱き上げると、少年は驚きと怯えのまま勇馬の胸に縋りついた。
黒影の背は二つの命を軽々と受け止める。
——敵も味方もない。
その思いが勇馬の胸を熱く灼いた。
その光景を茂みの陰から一人の女兵が見ていた。
ミオだった。
銃口は勇馬に向けられている。
だが——彼女の指は動かない。
日本兵が、敵であるはずの男が、少年の命を救ってくれた。
それは本来自分が守ろうとしてきたものだった。
ミオの心臓の鼓動が激しく響き視界が揺らぐ。
——撃てない。どうしても……。
その瞬間、泥に塗れながら起き上がった三田村の弾丸がミオの肩に命中した。
衝撃に身体が仰け反り、構えた小銃がはじき飛んだ。
「ミオ!」
勇馬は叫び声を上げるが、その声は届かない。
ミオは河岸へと滑り落ちていく。
「掴まれっ!」
黒影の背から咄嗟に手を伸ばすが、敵機の銃弾が水面を穿ち黒影の嘶きが彼を押しとどめる。
——ミオ……!
白波が砕け、彼女の姿は一瞬で飲み込まれて消えた。
黒影が悲痛な嘶きを上げ、勇馬は悔しさとともに
「くそっ!」と叫び、
ミオが流された水面を睨みつけた。
勇馬は黒影の手綱を引き馬体を反転させ、泥に崩れ落ちた三田村のもとへ駆け寄った。
血に濡れた顔で空を仰ぐ三田村は、すでに息も絶え絶えだった。
握りしめた銃が泥に沈み込み、わずかな声が漏れる。
「……結局、俺も……兵器のひとつにすぎなかったのか」
そのとき、黒影が低く嘶いた。
まるで答えるようなその響きに、三田村の口元がかすかに緩む。
「……馬に、慰められるとはな……」
黒影が低く嘶く。その声にわずかに微笑みを返すと彼は静かに息絶えた。
3.三田村の死と佐藤軍医
その少し下流。将一は河岸を駆け降り、迷うことなく川縁に膝をつき、腕を伸ばしてその細い身体を引き上げた。
冷えきった肌、かすかに震える指先、彼女はかすかに息をしている。
「まだ生きとるんか……!」
やがてミオの唇が震え、濁った川水を吐き出す。
瞳が薄く開き将一の顔を映した。
「……お前は……」
掠れた声が漏れたが、その先は言葉にならなかった。
将一は周囲を見回し低く囁いた。
「声出すなよ、仲間に見つかったらお前も俺も殺されてまうがなぁ…」
将一の馴れ馴れしくも優しい言葉が、ミオの心に言いようのない迷いを滲ませた。
勇馬が少年ゲリラを助けた時の光景が、彼女の脳裏をかすめているのかもしれない。
「……なぜ、助けた?」
かすかな問いに将一は答えず、ゆっくりとただ森の奥を指し示した。
「もう行け、ここに居たらあかん…」
ミオは濡れた体を震わせながら立ち上がり、森の闇に吸い込まれるように消えていった。
一瞬振り返った瞳に、戦うべき相手への戸惑いと、命を繋がれた者の複雑な情が交錯していた。
河面は鉛色に沈み、夕暮れの光をかすかに映していた。
小隊長の三田村を失くした部隊はわずかな歩兵と、将一の率いる輜重隊のみとなった。
鯨と梅が運んでいた山砲も、すでに弾薬が尽き無用の長物となり、紀虎の背に結んだ僅かな食糧を残すのみとなった。
宮田が将一に歩み寄り、
「将一はん、馬動かせるん、もうあんたしかおりまへん、このまま河渡りましょうや」
宮田の眼が将一の決断を待っている。
将一は濡れた手のひらを衣で拭い、溜息をつきながら黒影の鼻面を撫でながら、
「そやけど… もう弾薬も糧秣もあらへんがな…」
かすかな囁きに応えるように、黒影が低く嘶く。
勇馬は二人の会話を聴きながら、胸の奥で自問の声が囁いていた。
―なぜ自分はこの時代にいるのか。
―弾薬も食料もなく、もしかしてここで死ぬのか?
本当に元の世界へ戻れるのか、考えるほどに答えは遠のき、勇馬の心は揺らぐばかりだった。
それでも腕の中には、自分が救った少年の身体の温もりが残っている。
勇馬は迷いを抱えたまま、前へ進む覚悟を固めた。
帰り道を探すことも、生き抜くことも、すべてはこの一歩から始まるのだ。
程なくして、遅れて数名の工兵たちが追いついてきた。
それぞれ持てるだけの工具を背負っている。
つるはしやショベル、測量器具など、しかし渡河に必要な筏を組めるほどの充分な装備ではないことは一目でわかった。
それでも、三田村を失った小隊にとっては願ってもない援軍だった。
そして、その中に見覚えのある男がいた。
「……佐藤軍医殿!」
将一の声が弾む。
驚きと安堵が入り混じった笑顔で彼を迎えると、佐藤軍医少尉は疲れをにじませながらもきびすを正し、敬礼を返した。
「おおお、佐藤軍医やないですか!よくぞ御無事で!まさか、こんな所で再会できるとは夢にも思いませんでしたわ!」
将一は興奮して声を上げた。振り返った軍医の佐藤少佐は、やせ細った顔に微笑を浮かべる。
「岡田曹長こそ、お達者で安心しました!」
二人の記憶が一瞬で蘇る。戦況が激化するその年の正月、タイの日本軍駐屯地の庭でついた餅つきの思い出。杵を交代で振り下ろし、白くふくらんだ餅を前に今は亡き若い兵士たちと笑顔で過ごした日。そして、馬好きの二人が意気投合し、早朝に駐屯所の裏山を駆け上がったこと。
あの短い温もりの時間が、将一と佐藤に束の間の穏やかな光景を思い起こさせていた。
佐藤軍医は、乗馬の両脇に結わえた荷の中から布袋を大事そうに取り出した。
「薬だけじゃないですよ、ほら……これ」
佐藤軍医は静かに微笑み布袋を開いて見せた。
「後方の衛生部隊から少しだけですが……持ってきました、腹の足しになれば」
布紐を解き、中から現れたのは緑豆を漉して餅に詰めた大福餅だった。
その姿は決して贅沢なものではなかったが、疲弊した兵たちの目が一斉に吸い寄せられた。
「……大福餅だ、懐かしいなぁ」
誰かが小さくつぶやいた。
貴重な糧秣を手にした兵士たちは、その素朴な甘みに思わず胸を熱くした。
佐藤軍医の大福餅は疲労困憊の兵士たちにわずかな望みを与えた。
その時、森影から人の気配が現れた。
粗末な装束に古びた銃を抱えたゲリラ兵たちが、枝葉を押し分けて進んでくる。
そして大きなニッパヤシの葉を揺らしながら現れたのは、ゲリラ兵を乗せた二頭の大きな象だった。
その巨体は森の緑を背にして、まるで古代の石像が歩き出したかのようであった。
その場にいた兵士全員が殺気立ち、銃を構えた。
森の切れ間から差し込む月明かりが、両手を上げたゲリラ兵たちを薄く照らしていた。全員が銃を高く上げて、攻撃してくる気配もない。
その中から肩から包帯を巻いたミオが現れ、勇馬の目を見つめる。
小さな声で絞り出すように言った。
「信じて、我々は、あなたの敵じゃない」
勇馬は目を凝らし彼女を見つめ、思わず声を漏らした。
「……お前、生きてたのか……」
ミオは小さくうなずき、喉の奥でつかえた声を押し出した。
「日本兵、お前は、あの子を……助けた」
「急いで河を渡れ…夜が明ければ、対岸の日本兵は全滅する」
森のざわめきが二人の間を満たす。
「われらはお前たち、日本人と一緒に戦う…」
彼女は肩を強ばらせるようにして言った。
4.渡河 ― 月下の神馬
河面は月明かりを反射し、銀色の筋となって荒々しくうねっていた。
先頭の象にはミオが跨がり、長い鼻で筏を導く。
二頭目の象が後ろから筏を押し出し、ぎしぎしと軋む。
今では “森の友軍” となったゲリラ兵はそれぞれに分かれ象の上に乗り指揮を執る。
そして筏の上には将一や工兵、佐藤軍医の姿。
誰もが息を詰め、弾薬や薬箱を必死に押さえていた。
黒影の手綱を将一が掴み、勇馬は鯨、梅、紀虎は筏に乗った輜重兵が手綱を持ち、筏に沿って慎重に泳がせることにした。
濁流を切り裂いて進む筏。その先頭には巨大な象が立ちはだかる水流を押し分けていた。
流れの中ほどに差しかかり、順調に渡河が成功するかに見えたその時―。
対岸近く、激しい流れに洗われた黒々とした岩が、牙のように突き出していた。
その瞬間、黒影が耳をぴんと立て、将一の手綱を振り切って前へ飛び出した。
「黒影! どうした、どこへ行くんや!」
驚きの声を背に、黒影は流れを蹴り、先頭を行く象の前へと泳ぎ出す。
黒影は後躯を踏ん張り、前方を塞ぐ岩の上に駆け上がった。
蹄は滑りながらも踏みとどまり、濡れた鬣を揺らして高々と頸を掲げる。
その姿は、月下に現れた幻の神馬が嘶くかの如く河面を震わせた。
「ヒィィィィン――!」
黒影の甲高い嘶きに兵の叫びが響く。
「岩だ! 左舷に岩!」
先頭の象に乗る兵士でさえ見抜けなかったその岩を、黒影は鋭い眼で射抜いていた。
工兵たちが必死に櫂を操り、象が縄を引き絞り、筏は大きく軋みを上げながらも岩をかすめて流れに戻った。
やがて対岸の闇をの中から、いくつもの灯が空気を揺らした。
それは友軍が掲げる居場所を知らせる松明の炎――待ち望んだ合図である。
岸辺に身を潜める兵たちは、やせ細った体を寄せ合い、渡河の成功を祈り続けていた。
―うっすらと東の空が白み始める。
それは希望の兆しであると同時に、夜の闇を越えた者たちに、敵の総攻撃が迫り来ることを告げる暁の光でもあった。
(第6話に続く)



