1.青紙と黒影

 南海の春は足が早い。裏山の中腹には、もう桜の薄紅が点々とほころんでいた。凪いだ海から吹く潮風が黒影の鬣をさらりと揺らし、将一の頬をくすぐる。 白砂の浜へ続く畦道には朝露がまだ光っていた。

 「黒影よ、朝駆けと行くかぁ!」 

 将一は黒影の頸をポンポンと叩き声を弾ませた。黒影は将一の“朝駆け”という言葉に反応し、浜に降りるや否や、勢い後肢を蹴って引き潮の砂浜を駆けだした。

 こうして黒影と駆ける朝は、将一にとって何よりの喜びであり、変わることのない日々が続くように思われた。

 しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。

 ある日、岡田組に軍部からの使いの役人、村井がやって来た。村井は将一の従妹の息子で、毎年の盆と正月には律儀に挨拶にきてくれる若い役人だった。幼いころは一緒に馬に乗って、小川に泳ぎに行ったりしたものだ。

 彼は、申し訳なさそうに俯きながら、玄関先に立ち将一の名を呼んだ。彼の手には、一枚の手紙が握られている。

 「……将一兄さん、すんまへん。岡田組にもとうとう順番が回ってきてしもうたんです。馬を、軍に供出せなあきません……」

 村井の声は震えていた。

 将一はその紙を受け取り、文字を目で追った。

 “馬匹徴発告知書《ばひつちょうはつこくちしょ》” 軍馬の”召集令状”のことである。

 「……これって、わしらの馬が軍に連れて行かれてしまうんか?」

 村井は黙って下を向いたまま、小さく“はい”と答えるのが精いっぱいだった。

 「私の実家の馬も……つい先日、連れて行かれてしもたんです」

 その声には、軍の命令に抗えぬ村井の苦悩が滲んでいた。

 「お前んとこの馬もか…そら、えらいことやったのぅ…」

 将一の胸に重苦しい沈黙が広がる。脳裏に見たこともない風景が広がった。

 灼けつくような陽射しの下、黒影が泥濘に足を取られながら進む。鬣は汗に濡れ、瞳には怯えとも闘志ともつかぬ光が宿っていた。見渡す限りの密林と山岳地帯の細い獣道。そこは南の果て、熱気と緑に覆われた東南アジアの密林の戦場。

 「黒影たちが……」

 将一は空を見上げて溜息をついた。

 まるで迫り来る危機を察したかのように、厩舎の馬たちが一頭、また一頭、低く嘶きコンクリートの地面を蹴り鉄の蹄を響かせた。その響きは軍靴の行進と重なって聞こえ、将一の胸を締めつけた。

 昭和十八年の春、日本陸軍は英領インドのインパールへ進軍を開始した。その悪名高き作戦の噂は、すでに兵舎の隅々にまで広がっていた。

「鉄道も橋も壊され、物資は馬や牛で運ぶしかないらしい」

「密林のジャングルでは象まで使うそうや…」

 断片的な声を耳にする度、将一の胸は重く沈んだ。岡田組の馬たちも、その運命から逃れられぬことはないだろう。

 「黒影たちも、あの密林を越えていくのか……」

 将一は熱帯の過酷な戦場を思い浮かべて身震いした。

 「……生きて帰れる馬なんて、ほとんどおらんやろう……」

 将一は震える指で、手紙の文字を何度もなぞった。

 「これはえらいこっちゃ……ワシらの大事な馬が取られてしもうたら、商売もできんようになってまう…」

 将一はこの“徴発”を免除してもらおうと、村井や彼の役人仲間を頼って奔走した。だが軍の監視は厳しく、岡田組の馬は仔馬のみを残しすべて名簿に記され、逃れる術などなかった。

 その夜、将一は厩舎にこもった。黒影は何かを察したのか、静かに主を見つめている。

 「……すまんなぁ、黒影……ほんまにすまん……」

 将一は黒影の頸に額を押し当てた。黒影の体温は確かにそこにあり、力強く脈打つ鼓動が伝わってきた。だがその一拍ごとに、別れの時が迫っているようで胸が重くなる。

 その時、黒影がふっと鼻を鳴らし、将一の頬をそっと撫でるように鼻先を寄せた。まるで“気にするな”と告げるかのように。

 ——黒影を、このまま戦場へ送るわけにはいかない。

 ——ならば、俺がお前と一緒に行こう。

 将一の心にひとつの覚悟が静かに沸き上がった。


2.将一の決心

 馬匹徴発令は将一の村だけでなく、近隣の畜産農家にも下りた。

 どの家でも家族のように可愛がられてきた農耕馬が、次々と村の役人に引かれていく。

 農夫たちは黙って縄を手放した。その目には、愛する者を戦場へ送り出す覚悟と諦めの色が浮かんでいた。

 検査場にあてられたのは、かつて夏には海水浴客で賑わった「海の家」。潮の匂いが残る砂浜に、白いテントがいくつも張られ、そこに連れて来られた馬を役人たちが淡々と調べていった。
 
 脚を持ち上げ、歯を覗き、首筋を叩き、記録簿に印をつける——その一つひとつの動作は、まるで生死を選別する裁きのようであった。

 岡田組の馬たちも例外ではなかった。

 黒影の番が来る。

 係官は一瞥しただけで「合格、乗馬」と短く告げた。

 村井は終始うつむいたまま、軍馬補充部の役人の声を黙って台帳に書き入れているだけだった。 漆黒の毛並み、強靭な脚、無駄のない体躯——軍馬として完璧過ぎたのだ。

 名前もそのまま「黒影」と記録簿に残された。

 かつて子どもたちの笑い声が絶えなかった浜辺は、今や戦場への玄関口となり、愛された馬たちを一頭残らず連れ去っていく。

 検査場には、かつて川で溺れ黒影に救われた少女が、母に手を引かれて駆けつけていた。少女は母に抱かれると、小さな掌で幾度も黒影の頸を撫で涙で濡れた頬を寄せる。母親は何度も黒影にお辞儀をしながら囁くような声で言った。

 「どうか、生きて帰ってきてください、武運をお祈りいたします」

 黒影はその小さな肩にそっと鼻面を寄せ、別れを告げるように低く鼻を鳴らした。

 

 翌朝、まだ暗いうちから、靄の残る村の畔道を将一は歩いた。

 向かう先は村に設けられた軍馬補充部の詰所。
      
 その背中には、もう迷いの影はなかった。

 「馬の世話には長けております。黒影と共に戦わせてください」

 詰所の机に向かい、将一は背筋を伸ばし、固く結んだ唇から言葉を絞り出した。

 「……あの馬、いや、岡田組の黒影を活かせるのは、馬主である自分しかおりまへん」

 兵舎の一角に静かな余韻が落ちた。将一の眼差しには揺るぎない光が宿っている。

 師団の士官はしばし彼を見つめ、やがて深くうなずいた。

 詰所で将一が名簿に署名するその場には、岡田組の古株の社員たちも居並んでいた。

 誰もが複雑な面持ちで彼の背を見つめている。

 「将一はん、親方だけにわしらの馬たちを託していけるかいな!」

 声を上げたのは宮田だった。
 
 岡田組の調教師であり獣医師でもある彼は、装蹄や馬具の手入れから調教に至るまで長年将一を支えてきた、右腕のような存在だった。

 「馬の蹄を打つ音を聞いただけで体調がわかるんがワシの仕事ですわ、将一はん一人で行かせられまっかい! 岡田組の名にかけて、わしも馬たちと一緒に戦います!」

 黒影を守りたいのは自分だけではない。
 
 宮田の熱い決意に将一は胸を打たれた。

 士官は腕を組み、しばし黙考したのち、低い声で告げる。

 「……獣医部、装蹄手。確かに必要な人材だ。よかろう。志願を認める」

 その言葉に、居合わせた者たちは互いに視線を交わした。

 「大将!宮田はんも行きはるって、わしらはどないしたらええんや?」

 不安げな年配の社員たちに、将一は低く太い声で応えた。

 「心配せんでええ。わしらは必ず一緒に帰ってくる。せやから残りの馬は、お前らがしっかり守ってくれや!」

 一瞬の静寂の後、老齢の一人が顔を上げ力強く言った。

 「そうやな、親方らが行くんなら、わしらもここで必死にやらんと!」

 続いてまた一人、拳を握りしめ声を張り上げる。

 「残った馬たちも立派な働き手に育てるんや、岡田組の馬も商いもわしらが守るんや!」

 心配より誇りが勝った瞬間だった。居合わせた者は互いに頷き合い、目に涙を浮かべながら将一と宮田の手を硬く握り頭を下げた。

 こうして将一は決意を新たにしたのだった。


 だが将一には、もう一つ、果たさねばならぬ大切な別れが残っていた。
家に戻れば、幼い娘サチと妻ユリが待っている――。

 自宅では、ユリはすでに身支度を整え、穏やかな笑みで迎えた。
その目はむしろ凛とした覚悟が宿り、涙を見せまいとする覚悟に支えられていた。  

 「しっかり務めてきなされ。あんたの仕事は、うちらの馬を無事に連れて帰ることや。家のことは、私がちゃんと守る、心配しなさんな!」

 頑固で強気な口調は、まるで将一自身を映したかのようだった。

 けれど次の瞬間、ユリはふっと目を伏せ、わずかに声を震わせて言葉を継いだ。

 「……せやけど、無茶はせんといてな。サチも、わたしも……あんたが帰ってくるのを、ずっと待っとるんやから」

 その一言に返す言葉がなかった。胸の奥をぎゅっと掴まれるような思いがした。彼女は、ただの伴侶ではない。自分と同じように頑固で、不器用で、それでも誰よりも温かい女。

 ――その強さと優しさが自分を支えてくれている。

 将一はただ黙ってユリを見つめ、心の中で固く誓った。

 ――必ず、戻る。


3.サチとの別れ

 出発の朝。

 蒸気機関車が不規則に吐く、黒と白の煙がプラットホームに広がる。

 村から徴発された馬たちは、駅の貨物ホームに設けられた積込場で、木製の斜路を登り、一頭ずつ軍馬輸送用に改造された貨車へと押し込まれていった。 馬たちは港の軍馬補充部に送られ、出征前の訓練を受けなければならない。

 いつもなら、荷下ろしの掛け声や笑い声で賑わう場所も、この日は涙で馬と別れる舞台に変わっていた。 岡田組の馬たちも一角に集められ、順番を待ちながら落ち着かぬ様子で蹄を掻いている。

 やがて黒影の番がきた。

 兵に手綱を引かれ、黒影は首を振りながら斜路を一歩ずつ上っていく。

 蹄が板を踏むたびに鈍い音が響き、サチは思わず母の手を握りしめた。

 「……くろかげ!」

 サチはポケットから一本のニンジンを取り出し黒影に差し出した。

 「さぁ、あんたの好きなニンジンやで、食べて…」

 差し出された手に黒影は鼻面を寄せ、サチの震える手からかじり取ると、黒影は大きな瞳で別れを惜しむかのように、その小さな瞳を見つめ返した。

 やがて兵が再び手綱を引き、黒影は貨車の方へと導かれていく。 斜路の上で黒影は頸を大きく曲げ、サチを見つめ続けた。

 将一は深く息を吸い込み、妻と娘に向き直った。

 「……ユリ、サチ。そろそろわしも黒影と一緒に行かんといかん」

 鉄の扉が重々しく閉じられる音が響き、サチの肩がびくりと震えた。

 「いやや! おとんも行ったらあかん!」

 涙でにじむ小さな瞳に見つめられ、将一は膝をついて娘の手をぎゅっと握る。懐から取り出したお守り袋を差し出すと、その中には黒影の鬣が収められていた。

 「おとんはすぐに帰る。これ、黒影のお守りや。サチ、お母ちゃんの手伝い、しっかりやるんやで」

 サチは声にならない嗚咽をもらしながら、両手でその袋を胸に抱きしめた。

 ユリは必死に涙をこらえて夫を見つめていたが、唇がわななき、ついに言葉がこぼれた。

 「……あんた、絶対に帰ってきて。どんな姿でもええ、必ず……」

 将一は小さく、しかし力強く頷いた。その手で娘の頭を優しく撫でると、振り返らずに貨車へと足を踏み入れた。

 そして最後に世話役の馬丁兵が乗り込み、出発の汽笛が甲高く鳴り響く。
同時に貨車の奥から黒影の悲しく響く、別れの嘶きが響いた。

 「くろかげ―っ!」

 サチは叫び、両手を伸ばした。

 汽笛と嘶きと娘の声が白い蒸気とともに空へ溶けていく。
列車はゆっくりと動き出し、やがて視界の彼方へ消えていった。

 ユリはその姿を見送るしかなかった。 胸を締めつける不安に耐えながらも、泣き崩れはしなかった。

 彼女はそう祈りながら、幼い娘の肩を強く抱きしめた。

 
4.波乱の旅立ち

 軍馬補充部での訓練の日々は、戦の匂いよりもまず「馬の匂い」に満ちていた。岡田組の馬、黒影は上官用の乗馬に、鯨、梅、紀虎たちは、がっしりした体格を買われ、輓馬・駄馬として輜重隊へ振り分けられた。

 夜明けと同時にラッパが鳴り、将一たちは厩舎に駆け込む。兵士よりも先に、馬が餌と水を求めるからだ。桶に張られた水を馬たちが勢いよくすすり、乾草をむしゃむしゃとかじる音が一斉に響く。

 干草に混じった大麦を器用により分ける癖のある馬もいて、兵士たちは苦笑しながら桶を入れ替える。蹄鉄の緩みを確かめる装蹄手たちの金槌の音が、まるで合図のようにあちこちで響いた。

 午前中は馴致の訓練だ。銃声に似せた爆竹の音が轟き、何頭かの若い馬が飛び退く。将一は黒影の首を撫でながら、低く声を掛けて落ち着かせる。黒影は耳を伏せたが、すぐに動きを止め、静かに呼吸を整えた。その賢さに、将一の胸はひそかに誇らしくなった。

 午後には行軍訓練。荷駄を背負わせた列が、土埃を上げて坂を上る。兵士の膝は笑い、足取りも乱れていくが、馬たちは汗に濡れた肩を光らせながら、ただひたむきに歩を刻んだ。

 鯨は名のとおり、ずんぐりとした巨体を揺らしながらのっそり歩く。重荷を背負っても滅多に弱音を吐かないが、行軍の途中で立ち止まり、道端の草をむしゃむしゃ食べ始める癖があり、兵士たちを何度も慌てさせた。

 梅は雌馬らしく気立てが優しく、誰にでも鼻先を寄せて甘える。だがその愛嬌のせいで、兵たちが油断するとすぐに荷駄袋を噛んでいたずらをし、干し芋を盗み食いしてしまう。

 「こら梅! またやっとる!」と叱られ、耳を垂らしてしょんぼりする姿が、兵舎の笑いを誘った。

 紀虎は見た目こそ精悍な青毛だが、実際は臆病で、爆竹の音に一番最初に飛び退く。だが不思議なことに、仲間が怪我をすると真っ先に寄り添い、鼻で突いて励ますような仕草を見せる。

 「紀州の虎や言うけど、こら虎やのうて猫やなあ!」と冷やかした。

 兵士の一人が茶化すと周りに笑いが広がった。紀虎はむっと鼻を鳴らし、いじけたように耳を伏せる。

 将一は黒影のそばで、黙々と蹄を確かめている男に近寄った。

 「……宮田はんか?」

 顔を上げたのは、岡田組で装蹄を担ってきた調教師であり獣医師である宮田だった。
膝をつき、蹄鉄の具合を点検していた彼は、将一に軽く頭を下げる。

 そう言って、紙巻煙草とマッチをポケットから出して将一に差し出した。

 「将一はん、煙草にマッチ、もろてきました、一服どないです?」

 宮田は煙草は吸わないが、将一の為に配給の煙草とマッチを代わりにもらっておいた。

 「遅うなりました。わしも装蹄手として輜重隊に配属になると思います、可愛い馬を守るのがわしの役目なんで、最後まで付き添わせてもらいますわ」

 職人気質らしい簡潔な言葉に、将一は煙草に火を点けながらふーっと息をもらした。

 「お前と一緒なら心強い。黒影も、ほかの馬たちも救われるわ」

 宮田は無骨に頷き、再び馬の脚へと手を伸ばした。

 「戦場じゃ鉄砲より、この蹄鉄がものを言いますよってね」

 宮田の家は代々の鍛冶屋で、幼いころから火と鉄に囲まれて育った。将一とは一つ違いの幼馴染みで、岡田組の馬に混じって遊ぶうちに装蹄を手伝うようになり、そのまま農学校の蹄鉄専科に進んだ。

 軍隊では落蹄した馬の世話役が、上官に殴られて交代させられる――そんな過酷な現場でも、宮田だけは自分の馬の蹄鉄の緩みを耳で聞き分け、その勘と技で何頭もの命を支えてきた。

 軍部の中では「テッチン工」と揶揄され蔑まれることもあるが、誰よりも馬の肢を知り尽くしている。今も金槌を振るうその横顔には迷いがない。

 将一は煙草をふかしながら、心の奥底でつぶやいた。

 「……お前と一緒なら、黒影も、鯨も梅も紀虎も、最後まで走り抜けられる」


5.出征

 出征の日の朝。

 厩舎の静けさから一転、目の前に広がるのは港の喧騒と輸送船の重々しい影だった。

 輸送船への積み込みを待つ軍馬たちは、岸壁脇に設けられた水飲み場へと順番に導かれていった。 それは半円形のコンクリート製の槽で、古びた金属の蛇口から冷たい水がかすかに音を立てて流れ落ちていた。

 黒影は鼻先を近づけ、躊躇うように水面を揺らし、やがて喉を鳴らして飲みはじめた。水が槽の縁を伝い、馬の口元から滴り落ちるたびに、石の床には小さな水溜りが広がる。

 “この水が、黒影にとって故郷で口にする最後の一滴になるかもしれない”

 将一の不安を増すかのように、冷たい海風が一層鋭く頬を刺した。

 港の岸壁沿いに停泊している、鈍く鉄錆びた船体の輸送船へと、 クレーンで吊るされ一頭また一頭と慎重に積み込まれていく。

 船の脇の広場の端からクレーン台まで続く斜路には、重い木製の板が敷かれ、両脇の兵士に導かれて歩かされていた。興奮した馬は蹄で板を叩き、首を振り暴れる。馬がクレーン台に到達すると、作業員たちは素早く吊り具を首や胴に掛け、慎重に吊り上げて船の甲板まで運ぶ。吊り上げ中、馬は空中でバランスを崩すこともあり、暴れれば縄が外れ、落水する危険がある。

 クレーンの鉄骨がきしむ音、馬の嘶き、作業員たちの怒号、港の空気は緊張で張り詰め、わずかな不注意が馬の命取りになることを示していた。

 馬たちは次々と桟橋を渡り、吊り具で持ち上げられ、船倉の暗がりへと消えていく。

 「おい、落ち着け! 前へ進め!」

 兵士が荒縄を引き、汗を飛ばして怒鳴る。

 「次、あの馬だ!」

 号令が飛び、兵士たちが手綱を取って黒影を列に加える。

 潮と鉄と煤の匂いに混じり、すでに収容された馬たちの嘶きや蹄の響きが船倉から響いてくる。黒影は鼻を鳴らし、一歩を躊躇う。

 「ようし、黒影……大丈夫だ」

 将一が頸筋を撫で、声を落として導く。宮田も横に回り込み、低い声で囁く。

 “ゆっくりじゃ、ゆっくりな…” 

 黒影は将一と宮田に誘導され、難なく船倉へと積み込まれていった。

 しかし、その後ろでは別の馬が斜路の途中で立ち上がり、兵士が必死に手綱を引き絞っていた。後ろから押す兵たちの罵声が飛び、鞭の音が響く。馬が後ずさりし、木の板がぎしぎしと軋んだ。

 「止めろ!落ちるぞ!」

 その時だった。

 一頭の栗毛の軍馬が突然身をのけぞらせ、繋がれた縄を振り切った。

 「危ない!」

 将一が声を上げた瞬間、馬は桟橋の端から海へと身を投げ出した。

 春先とはいえ、海水は氷のように冷たい。

 水柱が上がり、白波に黒い影が呑み込まれる。

 馬は方向性を失い、海水を掻きながら右へ左へ必死に足掻いている。

 「沈むぞ!」

 兵士たちの叫びが飛び交う。だが誰も助けようと飛び込む者はいない。

 将一はすかさず上着のまま桟橋の手すりを蹴った。

 「将一はん!」

 宮田も後を追い、二つの人影が海に消える。

 冷たい海水が新調された軍服を突き刺し、耳の奥で波が轟く。

 馬は必死にもがき、四肢で水をかき乱していた。

 「落ち着け……! 暴れるな!」

 宮田が声を張り上げ、馬の頸に冷静に縄を掛け直す。

 将一は沈みかける馬体を全身で支えた。

 「……重い、くそ……!」

 波に飲まれそうになりながら、二人は必死に綱を掴んだ。

 「引き上げろ! 早く!」

 桟橋の兵士たちが怒鳴り声を上げながら、岸の浅瀬めがけて数人がかりで縄を引き寄せた。

 やがて大きな水音とともに、馬の体が岸へと引き上げられた。

 砂地に崩れ落ちた馬は、しばらく息も絶えたかのように動かなかったが、 やがて鼻を鳴らし海水を勢いよく吹き出した。

 「……大丈夫や」

 将一は馬の頸筋を撫で安堵の息を漏らした。

 「ああ、よかった…ふぅ」

 びしょ濡れのまま宮田が隣に座り込み、肩で荒く息をつく。

 「馬にここまで命を張るなんてな……」

 見物していた兵士の一人が呆れたように吐き捨てた。

 将一は静かに立ち上がり、低くしかし鋭い声で兵士を睨みつけた。

 「戦場では、馬も人も同じ命や! それを軽く見るとは何事や! 貴様!」

 その兵士は将一の怒りを込めた声に息を飲み、帽子を取って首を垂れた。

 宮田はそっと将一の肩に手を置き、荒い呼吸を落ち着かせる。

 「……ほんま、将一はんらしいわ」

 助けられた馬も、かすかに鼻を鳴らして応えるように頭を押し付けた。


 ほとんどの馬たちの輸送船への積み込みが完了したかに見え、数頭の馬を残して、岸壁の上では兵士たちが汗を拭い声を掛け合っている。

 「さぁ、もう一息や、もうひと踏ん張り!」  

 「……ふぅ、なんとか終わりそうですね」

 甲板で、宮田が肩で荒い息をつきながら濡れた軍服を絞った。

 しかし、その安堵は長くは続かなかった。

 鋭いサイレンが港を震わせ、空に鋭く響き渡る。将一と宮田は同時に顔を上げ、雲間に浮かぶ銀色の機影を目にした。遠くの見張り台からは兵士たちの怒号が飛び交う。

 「空襲!空襲!」

 輸送船の甲板からの叫び声で、将一と宮田はとっさに甲板に飛び出した。

 「敵機接近! 全員退避!」

 港全体が一瞬にして混乱に飲み込まれた。岸壁では物資を抱える兵士が走り、馬を抑える者たちが必死に叫んでいる。輸送船のサイレンが鳴り響き、港全体が緊迫した震動に包まれた。広場では、まだ積み込まれていない馬を数人の兵士が引き連れて右往左往している。

 高度約八千メートル――

 高い雲の切れ間から姿を現した爆撃機の編隊が、巨鯨のような銀色の機体を陽に光らせながら、港上空を悠然と進んできた。その腹部からは黒い塊が次々と切り離され、重力に引かれ矢のように落下してくる。

 「はよ防空壕へ馬連れて行かんかい!」

 将一は声を張り上げた。 宮田も腕を振り、大声で兵士たちを急がせる。

 誰かの叫びと同時に、轟音が大気を震わせた。

 爆弾が広場に落ち、砂煙と破片が舞い上がる。馬が嘶き、兵士たちが倒れ込む。逃げ遅れた数頭の馬と兵士が爆炎に呑まれ、地面に崩れ落ちた。

 「……くそっ!」

 将一は拳を握りしめ唇を噛んだ。宮田も息を荒げながら、黒影の耳元に手を添える。

  ――これ以上、馬たちを死なせられん!

 輸送船は混乱の隙を突き、タービン動力を全開させ桟橋を離れ始めていた。

 怒号を背に、輸送船は白波を蹴立てて逃げるように港を離れていった。

 将一は甲板の手すりに身を乗り出し、地平線に低く唸るエンジン音の響きを聞いた。

  ――その時だった。

 南方基地配備のため訓練飛行を行っていた、三式戦闘機「飛燕」の六機編隊が低空から鋭い矢のように、機首を天へと向け、まるで体当たりでもするかのように急上昇する。エンジンの咆哮が空を裂き、雲間の爆撃機群へ突き進む。  

 「行けっ……!」 将一は思わず叫んだ。

 飛燕は爆撃編隊に割り込み、曳光弾の軌跡で空を薙ぐ。数発が敵機の翼に命中し、銀色の巨体が大きく傾いた。白い雲を切り裂くように機銃の閃光が走り、敵機は次々と翻弄されて退散していった。

 「見てみぃ、宮田! あれ新型の“飛燕”や、わしの幼馴染の与四郎が設計したんや……!」

 将一は誇らしげに軍帽を高く上げ、機影が見えなくなるまで振り続けていた。

 港の煙が遠ざかり、海原の風が甲板を吹き抜けていく。だが将一の耳には、爆撃で命を落とした兵士と馬の嘶きが響いていた。失われた命を背負いながらも、船は南へ南へと進路を取っていく。


 陽は傾き、海は赤銅色に染まった。

 甲板では馬たちが落ち着きを取り戻そうと身じろぎし、馬丁兵たち黙って秣を与えている。爆撃で命を落とした仲間を思えば、誰も言葉を発する気になれなかった。

 宮田はびしょ濡れの軍服を乾かす間もなく、甲板に腰を下ろして大きく息を吐いた。

 「……ほんまに、波乱の旅立ちですわ」

 将一は黙って頷き煙草をふかした。

 「ほんまに…大事な馬を…こんなとこで死ぬことはなかったのにのぅ…」

 やがて夜が訪れ、船は月明かりの下を進んでいった。暗い波間に白い航跡が残り、どこまでも続く闇の海に吸い込まれていく。

 狭苦しい船室では兵士たちが肩を寄せ合い、不安を紛らわすように小さな声で故郷の話をしていた。笑い声もすぐに消え、代わりに沈黙と船の軋む音が支配する。

 将一は眠れぬまま甲板に立ち、遠い水平線を見つめた。

 ――この先に待つのは、どんな戦場やろか。

 胸の奥に重い影が広がる。月光に照らされた波が砕け、甲板にしぶきを散らす。

 「生きて帰る。わしらは必ず……」

 節くれだった指に挟んだ煙草が、強い海風に吹かれ、ひとすじの火花を散らして消えた。

 ――まるで、儚い命の灯火が一瞬にして漆黒の闇に消えていくかのようであった。
 
 (第4話に続く)