白で囲まれた逃げ場のない部屋で、侍女たちの焚く香が甘ったるく鼻先をくすぐる。
全身を包むシルクの柔らかな光沢が、朝の目覚めを余計にけだるくさせていた。
目を開けて最初に見るものは、いつもベッドの天蓋から霞のように垂れ下がる白い世界。

「ニロ王子の、お目覚めにございます」

 白で切り取られた空間に、自分だけ閉じ込められたみたいだ。
毎朝見ている風景なのに、慣れたことは一度もない。
起き上がろうとした体に、何も纏っていなかったことに気づいて、さらに動く気力を失う。
それを察した侍女の一人が、天蓋の向こうでカーテンを開いた。

「お着替え、お手伝いいたします」

 何かを考える必要などなく、自ら動くことすら不要だった。
やって来た侍女たちは俺の両腕を持ち上げ、袖を通し服を着せる。
きっとどんな人形ですら、これほど着替えさせやすいものは他にないだろうと思う。

「立てますか?」

 そうやって聞いてきた侍女の鼻先を、じっとのぞき込む。

「もちろん」
「かしこまりました」

 侍女たちは決して、俺と目を合わそうとはしない。
きっと目が合えば、殺されるとでも思っているのだろう。
実際そんな噂もあるなら、なおさらだ。

 差し出した手を、二人の侍女が丁寧に受け取る。
ようやく白で閉じられた世界から外に出た。
素足で降りた、毎日手入れのされているふかふかの絨毯は、どこまでも深く柔らかい。
自分の腕より細い女の腕に支えられ数歩歩くと、大きなソファへゆっくりと腰を下ろす。
そこへ座った瞬間、目の前のローテーブルにすかさずトレイが滑り込んでくる。
パンとビスケット。フルーツにヨーグルト。
新鮮なサラダボウルの隣には、焼いた肉と煮込んだ肉、魚のパイだけでも数種類及ぶ。
どれもやわらかく飲み込みやすいよう工夫された料理だ。
俺がわずかに口を開くと、すかさず侍女がティースプーンにすくった白湯を注ぎ込む。

「お目覚めの一口にございます」

 舌に乗せられた数滴の滴を飲み込む。
それが食事の始まる合図だった。
唇を開けば、選ばれた何かが口の中に入ってくる。
ほとんど噛む必要すらないそれを、ただ無心に飲み込み続けることが、朝の食事だった。
それに飽きれば、口を開くのを止めればいい。
五秒経っても開かなければ、次の何かがティースプーンに乗って運ばれる。
食べてもいいと思ったものが来れば、口を開ければいい。
三度連続で口を開くのをやめるか横を向けば、「終わりにいたしますか?」と尋ねられる。
そこでもう一度口を開かなければ、食事は終わりだ。
ほとんど量の減っていないトレイが下げられると同時に、部屋からも人の気配が消える。
侍女や侍従たちの姿は見えなくはなるが、決して退室してしまったわけではない。
見えない所に隠れたまま、常に複数の目が確実に俺を見張っていた。

 深い緑に金の螺旋模様が描かれた絨毯と、気品ある家具の一式。
ここに置かれる燭台や花瓶などの調度品すら、自分で選んだものは何一つ存在しない。
本棚に並んだ本も、一度だって読んだこともなければ、触れたことすらないものだ。
立ち上がろうとした瞬間、俺の手がテーブルの脇に置かれていた白磁の水差しに触れた。
ガシャンという大きな音を立て、高貴で美しい姿だったものが、儚い最期をとげる。
すかさず見張っていた侍女の一人が、奥の待機部屋から飛び出してきた。

「王子! お怪我はございませんか!」

 その言葉に、即座に控えていた侍従侍女の全てが飛び出してくる。

「怪我はない。ポットが壊れただけだ」
「申し訳ございません。今すぐ片付けます」
「念のため、手の具合を拝見いたします」

 彼らは総出で、割れた破片を集め濡れた絨毯を拭いて乾かした。
待機部屋に常駐している医師二人が、陶器のポットにわずかに触れただけの手を入念に観察し記録を取る。

「王子にお怪我はございません」
「ではそのように報告いたします」

 彼らは片付けを終えると、すぐに俺の視界に入らない待機部屋まで移動し、緊張を抱えたまま次の命令を待っている。
しんと静まりかえった部屋は朝の光をたっぷりと浴び、生ぬるい空気が漂っていた。
俺の指示がない限り、彼らは自らの意志で動くことを許されていない。
彼らの緊張と恐れからくる振動が、唯一この部屋の空気を震わせている。
いつもと変わらない、素晴らしい一日が始まった。

「ニロ王子。失礼いたします」

 ドアがノックされ、側近のディオスとパブロが入ってくる。
青みのある黒髪をピタリと撫でつけたディオスと、赤に近い黄色い髪をしたパブロだ。
二人とも俺と同じ碧い目をしているところを気に入り、身近に置いている。
すらりと背の高い長身のディオスがソファに座っていた俺の前に進み出ると、その場にひざまずく。
着替えさせやすいように上からかぶせるだけの真っ白な服の、はだけていた胸元を整えた。
パブロは教本のように姿勢を正したまま、起立したままの直立不動で虚空の一点を見つめている。

「王子。今日は祖父王陛下にご挨拶なさる日でございます」
「……。あぁ。そうか」

 俺が立ち上がるために、ディオスが肩を差し出す。
左腕をわずかに浮かせると、すぐにパブロもディオスと同じようにひざまずき、肩を出した。
そこに手を置くと、グッと力を込め立ち上がる。
パブロの手に引かれ素足のまま歩き出した俺に、ディオスが立ち塞がった。

「王子、マルク陛下と面会の前に、お着替えを」

 俺は改めて自分の姿を見下ろす。
だらしない格好と言われれば、そうなのかもしれない。

「あぁ。忘れてた」

 いつもベッドに座ったまま、侍女たちに上からかぶせられるものしか着ていない。
ディオスは黒い髪の下で、俺よりわずかに高い位置にある同じ碧い目を細める。

「陛下がお待ちです。お急ぎを」

 パブロの背格好は、俺とほとんど変わらない。
同じ目線に、同じ形をした碧い目がある。
そのパブロも静かにうなずいた。

「そうか。なら着替えるか」

 ディオスに手を引かれ、扉続きになっている着替え部屋に入る。
そこにもお付きの侍女侍従たちが十人は控えていた。
大きな姿見の置かれた前で立ち止まると、軽く両腕を広げる。
皮のベルトが解かれ、スルリと全裸になった。
ディオスが今日の予定をブツブツと呪文のように唱えている間に、シャツが着せられ髪をとかれる。
祖父である現国王との面会には、随分と支度に時間を取られる。
ため息を一つついたところで、ようやく着替えが終わった。
腕や肩にあれこれと飾りのついた、体型にぴたりと馴染む礼服に着替え終わると、胸から肩に繋がる金のロープを指に絡めた。