ジェルの店というのは、アシオスにある賑やかな酒場宿のことだ。
国内外から多くの者が訪れ、客層も豊かで気軽に楽しめる。
多少怪しげな見た目でも、明らかに胡散臭そうな連中でも、この店では皆に交じり普通に食事することが許された。
髪を全員同じに黒く染め、ディオスとパブロの三人で一つのテーブルを囲う。
店の店員に注文は任せ、出されたつまみで酒をあおった。
この店に集まる連中は、誰もが陽気で活気に満ちている。
今夜は特に俺自身の気分がいいせいか、店内が一層賑わって見えた。
異国風の一座を見かけ、金貨を見せながらそちらのテーブルに移動する。
金を渡せば、いくらでも面白い話を聞かせてくれた。
会議室で聞く子守歌のような国政より、こっちの方がずっといい。
城で大勢の着飾った貴族たちに囲まれ、心にもないお世辞を並べられながら食う豪華な食事より、ここで飲む安いビールの方が美味い時だってある。
次は誰に相手をしてもらおうか。
広い店内は酔いのまわった客ばかりで、どこも賑わっていた。
樽のように大きな木製ジョッキに入れられたビールを一息に飲み干すと、泡だらけになった口元を拭った。
「おい。セリオ、あれを見ろ」
ディオスが俺の肘をつついた。
城外で俺を呼ぶ時は、必ず「セリオ」という偽名で呼ぶように固く命じてある。
敬語もいらない。
彼の碧い視線の先に目を滑らすと、人混み紛れ揺れ動く見知った顔にすぐに気がついた。
「ペドリじゃないか」
「間違いないな」
パブロまで驚いている。
俺たちはこそこそと身を寄せ合い背を丸めると、ペドリから顔を見られないよう互いに鼻を寄せ合った。
「ヤバいな」
「まさかこの店で俺たちの顔を知ってる奴に出会うとは」
「ないな」
「ないね」
思わぬところで、面白いものを見つけた。
グレーの真っ直ぐな髪に同じ色をした目。
尖った鼻と鋭い目つきがギンギツネのような印象を与える、何を考えているのか表情の読めないずる賢い男だ。
城ではいつもガルシア家のヘスス公爵の後ろにくっついているが、本来は俺のいる白のエリアに入れる身分ではない。
ペドリはいつも、ヘススからの指示を受けてのことか、それともヤツの後ろをただついて歩くだけでは満足していないのか、やたらとディオスとパブロに突っかかっては、王子である俺に近づこうと画策してくる。
と言っても、この二人のように王子の側近として特別待遇を与えられたわけでもない身では、向こうから俺に話しかけることは許されない。
白のエリアにいても、せいぜい頭を下げひれ伏しじっとしているか、侍女の代わりに靴を揃える程度のものだ。
「なぜペドリがこんなところに?」
「さぁ。他にガルシア繋がりの連中はいるか?」
慎重に店内を見渡す。
ペドリはガルシア公爵家の血縁だったか?
他に宮殿に出入りするような見知った顔は、彼の周囲に見当たらない。
「単独行動か」
「あのビビりの男が、一人でこんな店に?」
「いつも城では真面目腐って、ムッツリお高くとまってんのにな」
三人の碧い目が合わさる。
全員が同時にプッと吹き出した。
「似合わねぇー!」
「自分こそ上流階級の人間だと、勝手に思い込んでるような奴だぞ?」
「どうあがいても、なれないものはなれないのにな」
ペドリはチラチラと周囲を確認するような素振りを見せてから、ひっそりと席を立った。
どうやら店の外へ出て行くようだ。
パブロが皿の上に乗ったナッツをピンと指で弾く。
イタズラにニヤリと笑ったその顔に、俺も釣られた。
「そうだな。ちょっとからかいにでも行ってみるか」
誰かと待ち合わせしているとしても、奴もいちおうは貴族の端くれ。
しかも性格的に、こんなところに出入りするようなタイプじゃない。
結婚はまだのはずだが、もしかして隠した恋人でもいるのか?
だとしても、どうしてこんなところで?
なにをどう考えても、顔がニヤけて止まらない。
こんな場末の酒場宿で逢瀬を重ねるような相手なら、それがどんなものか顔くらいは拝んでおきたい。
壁際に身を寄せ、ペドリの様子を窺う。
彼は騒がしい店を出ると、涼しげな夜の裏庭に出た。
芝生の庭には建物に沿って塗り固められた小さな通路があり、そこに酒樽や木箱が積み上げられている。
客のものか店のものか、積まれた木箱の前に馬のいない荷台も放置されていた。
ペドリがそこに姿を見せると、彼より一回り大きな色黒の男を伴った、赤い巻き毛の男が壁の奥から現れた。
コイツらがペドリの密会相手?
どうやら面白いだけの話では、済まなさそうだ。
そう思った瞬間、不意に大男がうつむいた。
ペドリと赤毛の男に音を立てぬよう指先で合図を出すと、狙いを定め素早く地面に腕を伸ばす。
男が捕らえたのは、オレンジ色の髪をした少女だった。
ここからその顛末を見ている限り、どうも色恋沙汰のような艶っぽい話ではないらしい。
少女は必死で抵抗しているようにも見えるが、彼女を掴んでいるのは、その三倍もあるような大男だ。
あっさり子犬のようにつまみ上げられ、大声で何かを訴えているようだが店内の喧騒がそれに勝っているせいで、何を言っているのかここまで声が聞こえない。
「どうします?」
見るに見かねたディオスが首をひねる。
「いや、どうするって……」
そんなことを聞かれても困る。
男は女の両腕を無理矢理背に回し完全に動きを封じると、ペドリの指示でどこかに連れ去ろうとしている。
どうしたものかと判断に迷っている俺に、動くペドリの口元が見えた。
「こんな奴の話を、信じる者がいるのか? いるわけないだろ。放っておけ」
頭より先に、体が動いた。
腰の短剣を抜くと、首に巻いた布を引き上げ顔を隠す。
「行くぞ」
飛び出した俺に、ディオスとパブロも続いた。
「誰だ!」
大男は少女を手放すと、斬りかかった俺をサッと避けた。
「お前ら、この女の連れか?」
そう言った男に、俺は短剣を真横に構える。
男は一瞬で両手を上に挙げると、無抵抗の意志を示した。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。そんなに大事なモンなら、ちゃんと肌身離さず見張ってろ。俺たちだって、こんなところで騒ぎを起こす気なんか、さらさらねぇんだからよ」
ペドリは俺たちが飛び出した瞬間パッと顔を隠すと、待ち合わせていた二人の男を残し素早く通路の奥に消えた。
ペドリの逃げ足の速さに、残された男たちも呆れ果てている。
「チッ。冗談じゃねぇぞ」
「もういい。俺たちも出よう」
赤髪の小男に言われ、二人まで逃げるように店を出て行く。
オレンジの髪をした少女は、その場にぐったりと座り込んだ。
「後を追え。俺はここで待つ」
二人は首に巻いた布で顔を隠すと、屋根の上に飛びのった。
夜の闇へ消えて行く二つの背を見送ると、俺はうずくまったままの少女を見下ろす。
よほど怖い思いをしたのか、小さく縮こまりガタガタと震えていた。
面倒なことになってしまったが、仕方がない。
俺は彼女の前にしゃがみ込むと、頭を覆っていた頭巾を払った。
柔らかな髪にわずかに手が触れ、夜の庭の薄明かりの中で波打つオレンジ色の髪が顕わになる。
少女が俺を見上げた。
髪と同じ鮮やかなオレンジの瞳に、思わず息をのむ。
「あ、ありがとうございました」
彼女は自分の姿を見られることを恥じらったのか、それとも頭巾を取られたことが気に入らなかったのか、すぐにそれをかぶり直すと目をそらした。
「……。いや、別に。礼には及ばない」
賑やかな店内から漏れる薄明かりの中、彼女はもう一度俺をじっと見上げた。
「あー……。どうしてこんなところに?」
そう尋ねたのに、女はモジモジと身をよじるばかりで、ロクに返事を返さない。
服装から見ても旅芸人や遊女などではなく明らかに平民の娘であり、こんなむさ苦しい酒場宿に普段から出入りしているようにも到底見えなかった。
いつまでもはっきりとした返事を返さない態度に若干イラつきはしたものの、このまま放っておくわけにもいかない。
「よかったら、店の中に入らないか? 俺もここで仲間を待つと言った以上、キミを家まで送っていくわけにはいかないんでね」
彼女も少しは考えたようで、わずかな間を置いてからコクリと小さくうなずいた。
裏庭に面したすぐ壁際の席が空いたのを見つけ、そこに腰を下ろすと、彼女も大人しく向かい側に座った。
テーブルに残された皿やジョッキを片付けさせるため銅貨一枚を片手に持ち上げると、すぐに給仕係が飛んで来る。
チップを渡しお任せで料理と飲み物を頼んだところで、ようやく一息ついた。
国内外から多くの者が訪れ、客層も豊かで気軽に楽しめる。
多少怪しげな見た目でも、明らかに胡散臭そうな連中でも、この店では皆に交じり普通に食事することが許された。
髪を全員同じに黒く染め、ディオスとパブロの三人で一つのテーブルを囲う。
店の店員に注文は任せ、出されたつまみで酒をあおった。
この店に集まる連中は、誰もが陽気で活気に満ちている。
今夜は特に俺自身の気分がいいせいか、店内が一層賑わって見えた。
異国風の一座を見かけ、金貨を見せながらそちらのテーブルに移動する。
金を渡せば、いくらでも面白い話を聞かせてくれた。
会議室で聞く子守歌のような国政より、こっちの方がずっといい。
城で大勢の着飾った貴族たちに囲まれ、心にもないお世辞を並べられながら食う豪華な食事より、ここで飲む安いビールの方が美味い時だってある。
次は誰に相手をしてもらおうか。
広い店内は酔いのまわった客ばかりで、どこも賑わっていた。
樽のように大きな木製ジョッキに入れられたビールを一息に飲み干すと、泡だらけになった口元を拭った。
「おい。セリオ、あれを見ろ」
ディオスが俺の肘をつついた。
城外で俺を呼ぶ時は、必ず「セリオ」という偽名で呼ぶように固く命じてある。
敬語もいらない。
彼の碧い視線の先に目を滑らすと、人混み紛れ揺れ動く見知った顔にすぐに気がついた。
「ペドリじゃないか」
「間違いないな」
パブロまで驚いている。
俺たちはこそこそと身を寄せ合い背を丸めると、ペドリから顔を見られないよう互いに鼻を寄せ合った。
「ヤバいな」
「まさかこの店で俺たちの顔を知ってる奴に出会うとは」
「ないな」
「ないね」
思わぬところで、面白いものを見つけた。
グレーの真っ直ぐな髪に同じ色をした目。
尖った鼻と鋭い目つきがギンギツネのような印象を与える、何を考えているのか表情の読めないずる賢い男だ。
城ではいつもガルシア家のヘスス公爵の後ろにくっついているが、本来は俺のいる白のエリアに入れる身分ではない。
ペドリはいつも、ヘススからの指示を受けてのことか、それともヤツの後ろをただついて歩くだけでは満足していないのか、やたらとディオスとパブロに突っかかっては、王子である俺に近づこうと画策してくる。
と言っても、この二人のように王子の側近として特別待遇を与えられたわけでもない身では、向こうから俺に話しかけることは許されない。
白のエリアにいても、せいぜい頭を下げひれ伏しじっとしているか、侍女の代わりに靴を揃える程度のものだ。
「なぜペドリがこんなところに?」
「さぁ。他にガルシア繋がりの連中はいるか?」
慎重に店内を見渡す。
ペドリはガルシア公爵家の血縁だったか?
他に宮殿に出入りするような見知った顔は、彼の周囲に見当たらない。
「単独行動か」
「あのビビりの男が、一人でこんな店に?」
「いつも城では真面目腐って、ムッツリお高くとまってんのにな」
三人の碧い目が合わさる。
全員が同時にプッと吹き出した。
「似合わねぇー!」
「自分こそ上流階級の人間だと、勝手に思い込んでるような奴だぞ?」
「どうあがいても、なれないものはなれないのにな」
ペドリはチラチラと周囲を確認するような素振りを見せてから、ひっそりと席を立った。
どうやら店の外へ出て行くようだ。
パブロが皿の上に乗ったナッツをピンと指で弾く。
イタズラにニヤリと笑ったその顔に、俺も釣られた。
「そうだな。ちょっとからかいにでも行ってみるか」
誰かと待ち合わせしているとしても、奴もいちおうは貴族の端くれ。
しかも性格的に、こんなところに出入りするようなタイプじゃない。
結婚はまだのはずだが、もしかして隠した恋人でもいるのか?
だとしても、どうしてこんなところで?
なにをどう考えても、顔がニヤけて止まらない。
こんな場末の酒場宿で逢瀬を重ねるような相手なら、それがどんなものか顔くらいは拝んでおきたい。
壁際に身を寄せ、ペドリの様子を窺う。
彼は騒がしい店を出ると、涼しげな夜の裏庭に出た。
芝生の庭には建物に沿って塗り固められた小さな通路があり、そこに酒樽や木箱が積み上げられている。
客のものか店のものか、積まれた木箱の前に馬のいない荷台も放置されていた。
ペドリがそこに姿を見せると、彼より一回り大きな色黒の男を伴った、赤い巻き毛の男が壁の奥から現れた。
コイツらがペドリの密会相手?
どうやら面白いだけの話では、済まなさそうだ。
そう思った瞬間、不意に大男がうつむいた。
ペドリと赤毛の男に音を立てぬよう指先で合図を出すと、狙いを定め素早く地面に腕を伸ばす。
男が捕らえたのは、オレンジ色の髪をした少女だった。
ここからその顛末を見ている限り、どうも色恋沙汰のような艶っぽい話ではないらしい。
少女は必死で抵抗しているようにも見えるが、彼女を掴んでいるのは、その三倍もあるような大男だ。
あっさり子犬のようにつまみ上げられ、大声で何かを訴えているようだが店内の喧騒がそれに勝っているせいで、何を言っているのかここまで声が聞こえない。
「どうします?」
見るに見かねたディオスが首をひねる。
「いや、どうするって……」
そんなことを聞かれても困る。
男は女の両腕を無理矢理背に回し完全に動きを封じると、ペドリの指示でどこかに連れ去ろうとしている。
どうしたものかと判断に迷っている俺に、動くペドリの口元が見えた。
「こんな奴の話を、信じる者がいるのか? いるわけないだろ。放っておけ」
頭より先に、体が動いた。
腰の短剣を抜くと、首に巻いた布を引き上げ顔を隠す。
「行くぞ」
飛び出した俺に、ディオスとパブロも続いた。
「誰だ!」
大男は少女を手放すと、斬りかかった俺をサッと避けた。
「お前ら、この女の連れか?」
そう言った男に、俺は短剣を真横に構える。
男は一瞬で両手を上に挙げると、無抵抗の意志を示した。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。そんなに大事なモンなら、ちゃんと肌身離さず見張ってろ。俺たちだって、こんなところで騒ぎを起こす気なんか、さらさらねぇんだからよ」
ペドリは俺たちが飛び出した瞬間パッと顔を隠すと、待ち合わせていた二人の男を残し素早く通路の奥に消えた。
ペドリの逃げ足の速さに、残された男たちも呆れ果てている。
「チッ。冗談じゃねぇぞ」
「もういい。俺たちも出よう」
赤髪の小男に言われ、二人まで逃げるように店を出て行く。
オレンジの髪をした少女は、その場にぐったりと座り込んだ。
「後を追え。俺はここで待つ」
二人は首に巻いた布で顔を隠すと、屋根の上に飛びのった。
夜の闇へ消えて行く二つの背を見送ると、俺はうずくまったままの少女を見下ろす。
よほど怖い思いをしたのか、小さく縮こまりガタガタと震えていた。
面倒なことになってしまったが、仕方がない。
俺は彼女の前にしゃがみ込むと、頭を覆っていた頭巾を払った。
柔らかな髪にわずかに手が触れ、夜の庭の薄明かりの中で波打つオレンジ色の髪が顕わになる。
少女が俺を見上げた。
髪と同じ鮮やかなオレンジの瞳に、思わず息をのむ。
「あ、ありがとうございました」
彼女は自分の姿を見られることを恥じらったのか、それとも頭巾を取られたことが気に入らなかったのか、すぐにそれをかぶり直すと目をそらした。
「……。いや、別に。礼には及ばない」
賑やかな店内から漏れる薄明かりの中、彼女はもう一度俺をじっと見上げた。
「あー……。どうしてこんなところに?」
そう尋ねたのに、女はモジモジと身をよじるばかりで、ロクに返事を返さない。
服装から見ても旅芸人や遊女などではなく明らかに平民の娘であり、こんなむさ苦しい酒場宿に普段から出入りしているようにも到底見えなかった。
いつまでもはっきりとした返事を返さない態度に若干イラつきはしたものの、このまま放っておくわけにもいかない。
「よかったら、店の中に入らないか? 俺もここで仲間を待つと言った以上、キミを家まで送っていくわけにはいかないんでね」
彼女も少しは考えたようで、わずかな間を置いてからコクリと小さくうなずいた。
裏庭に面したすぐ壁際の席が空いたのを見つけ、そこに腰を下ろすと、彼女も大人しく向かい側に座った。
テーブルに残された皿やジョッキを片付けさせるため銅貨一枚を片手に持ち上げると、すぐに給仕係が飛んで来る。
チップを渡しお任せで料理と飲み物を頼んだところで、ようやく一息ついた。



