城に隣接している三つの地区の中でも、アシオスは一番ごちゃごちゃとした下町だった。
貴族たちの邸宅が建ち並ぶ整備の行き届いたエストメラの街とも、主要な政府機関が多くあるアダハラの官庁街特有の張り詰めたような気配もない。
通りの道は狭く建物は無秩序に密集し、歩く人の数は多いが、教育を受けたような質のよい人間はあまり見かけない。
粗暴な住民の言動がそのまま街の雰囲気を作り出していたが、俺はこの街が比較的気に入っていた。

 アシオスでは王宮の公式行事が行われることはなく、パレードで通ることもほとんどない。
俺は公式行事で表に姿を見せる時でも、常にベールに覆われ顔を知るものはほとんどいなかったが、それでも一部の上級貴族や役人たちの中には顔を知る者もいる。
そういった連中と出会う可能性が極めて低いというのも、気に入る条件の中に含まれていた。

「おい、あれは何だ」

 ふと見ると、荷馬車の荷台に屋根を付けた馬車が路上に立ち止まり、積んだ果物を売っている。
客の一人が売り子に話しかけると、選んだ果物が絞り器にかけられていた。

「飲んでみますか? あまりいいものではないですが」
「不味かったらお前が飲め」

 ディオスが売り子に交渉し、いくつかの具材が絞り器にかけられる。
金を払い渡されたのは、欠けた木の椀に入った果汁だった。
皮も砕けた種も、そのままの状態で浮いている。

「これを俺に飲めと?」
「だから言ったじゃないですか」

 ピンク色なのか茶色なのか判断の難しい液体に、ぐちゃぐちゃになった皮と大小の種の欠片がそのまま入ってる。
こんな乱暴な飲み物など見たことない。
俺は意を決すると、それを一口だけあおった。

「っんぐ。……」

 味は悪くない。
だがどうしても、口の中に皮と種が残る。

「こへは、とうすれはいいんた?」

 飲み込めと言われても、到底飲み込めるようなものではなかった。
口に種と皮を残したまま、開ききれない口ですしゃべる。

「吐き出せばいいんですよ」
「どこに?」
「ここに」

 ディオスはさも当然のように、そのまま足元を指さした。
元々表情の少ない男だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。

「ここにか?」
「そうです」

 迷っていても仕方がない。
俺は通りに背を向けると、壁に向かって吐き出した。
こんなものは飲めたもんじゃない。
まだ残っている椀をディオスに渡したら、彼はそれに口をつけることなく、パブロに渡した。
パブロは何のためらいもなく、それを丸ごと一気に飲み干す。
俺はまだ違和感の消えない口元を拭った。

「まだ細かい種とか皮が残ってる!」
「うがいをしますか? 水をもらってきましょう」

 ディオスは再び屋台に戻ると、同じ器に水を入れて戻ってきた。
それで口を注ぎ地面に吐き捨てると、ようやく口が解放される。

「パブロ。お前は平気なのか?」

 残った水をパブロに渡す。
パブロはその水すら全部飲み干すと、満足したように口元を拭った。
ディオスは馬の手綱を手に取る。

「さぁ、先を急ぎましょう。夕刻前には、城に戻らなければなりませんので」

 アシオスの鄙びた裏通りを進み、かつて宮廷の医師団に所属し、助手を勤めていたという者が始めた、診療所の近くまでやってきた。
練った土で固められた土塀に囲まれた小屋に、小さな看板がぶら下がっている。

「ここがそうなのか?」

 馬一頭分の厩舎より小さな店だ。
看板がなければ、普通の民家にしか見えない。
だからどれだけ探しても、すぐに見つからなかったのか。

 物陰から様子を窺う俺たちの前を、子供たちが大声をあげながら駆け抜けてゆく。
店の扉が開いて、頭巾を被ったお婆さんが出てきた。
それを見送る医師らしき男はまだ若かく、ディオスより少し年上なくらいだ。

「どうなさいますか」
「あの男で間違いないのか」

 名はサムエルというらしい黒髪にスラリとした男は、ニコニコと婆さん相手に愛想を振りまいている。
彼女を見送ると、再び扉の奥に消えた。

「間違いございません」
「そうか」

 俺はシャツの袖をめくると、腰にあった短剣を抜いた。
鈍く光る鋭い刃先を肌に当てると、軽く斜めに引く。
その跡は赤い筋となって、すぐに血が滴り落ちた。

「お前たちはここで待て」

 店の中に他の患者がいないことは確認していた。
俺は路地を横切ると、診療所の扉を開ける。

「怪我をした。診てもらおう」

 中には医師のサムエルと、その助手と思われる男女が二人いて、一様に驚いた顔をこちらに向けた。
人一人がすれ違うことも出来ないような、細長い通路のような空間に机と椅子と、医薬品などの入った棚を置いている。
患者を寝かすベッドが入ってすぐの所に置かれていたが、それを避けるようにして歩かなければ、医師の前まで進めない。
俺がじっと立って相手の反応を待っていると、椅子に座る男はようやく口を開いた。

「怪我をしたんだって?」

 サムエルにそう聞かれ、証拠として血の流れた腕を見せる。
彼は軽くため息をついた。

「ならここに座って」

 言われた通り、彼の前に置かれた丸椅子に腰を下ろす。
俺の腕に触れると、傷ついた腕をじっと見つめた。

「なぁ、もしそうだとしても、ノックくらいしたらどうなんだ?」

 布巾を水で濡らし、流れた血を丁寧に拭き取る。
出血の止まった腕を持ち上げると、丹念にそれを調べているようだった。

「宮廷医の助手をしていたというのは、本当か」
「それが聞きたくて、自らこの腕を切ったのか?」
「……。なぜ分かる」

 彼は卓上に置いた棚から浅い小さな壺を取りだすと、それに入った軟膏を指にすくい俺の腕に塗る。

「向きと角度。そして何より、傷が浅いんだよね。出来たばかりの傷から流れた新しい血だ。固まってもない」
「ベルナト王の最期に立ち会ったというのは、本当か」
「それを聞き出すためだけに、こんなことを?」
「王の最期に疑問を持った人物を探している」

 サムエルは軟膏を塗りおえると、うんざりしたように笑った。

「ははは。疑問なんて持ってないよ。もう報告書に結論は出ている。君は何をしに来たんだ?」
「報告書通りというのなら、なぜ異を唱えた。お前はおかしいと思ったんじゃないのか?」

 彼は疲れたような息を吐くと、俺に向き直った。

「そうだよ。おかしいと思った。それで異を唱えた。そしたらお前の見解は間違っていると、大勢の前で罵倒され笑われて終わった。多くの名だたる医師やその子弟たちの前で、ずいぶん恥をかかされたよ。お前みたいな無能を助手として置いておくわけにはいかないと、師事していた先生から破門にもされたしね。おかげで医術者たちで作るギルドにも入れず、支援も受けられず、こうしてようやく小さな診療所を開いて、闇医者のようなことをやっている。俺にとっては忘れたい過去だ。黒歴史ってやつだね。それを説明すれば満足か?」
「王の死は本当に、結論が出ているのか?」
「それを今さら蒸し返してどうする? いつの話だ。もう二年も前だ。お前もベルナト王の死に絡んで、何か不利益を受けたのか?」
「ただ真実を知りたい。どうしても王の死に疑問が拭えない」
「あぁ、分かったぞ。お前はゴシップ屋だ。王室ネタはいつだって飯の種になるからなぁ。いくらもらった? どこの貴族にこの問題をネタにしろと頼まれた? 悪いことは言わない。そいつはただのクズだ。さっさと手を引いた方が……」

 ドン! と、拳をテーブルに叩きつける。
ここが城の外でなければ、こいつの首は間違いなくこの瞬間に跳ね飛んでいた。