正月3が日が明けたので、役所に行って転入届を出しました。転出時と同様、本人確認書類を求められたので、16歳の時に取った二輪の免許証を出しました。なんの問題もなく届け出が終わりましたが、これでわたしの住所が母親に知られてしまうだろうと思いました。その日は母がハワイから帰ってくる日でした。家にわたしがいないことを知ると、必死になって探し始めるはずです。それを考えると、気持ちがどんと重くなりました。

 重い心と体を引きずりながら駅前の銀行に行って、お金を下ろしました。色々な物を一気に買ったので、手持ちがほとんどなくなっていたからです。二つの通帳の内、一つは千円未満になっていました。1年分の家賃を前払いしたから当然です。もう一つの残高は100万円ほど減って、900万円になっていました。それを見ながら、あの世の父に頭を下げました。生命保険金がなかったら新しい生活ができなかったからです。医師と再婚した母に生命保険金は必要ないと勝手に持ち出しましたが、後ろめたさはまったくありませんでした。父を裏切った母に生命保険金を使う資格はないのだ、これはわたしが使って当然なのだ、と疑わなかったからです。

 銀行を出ると、駅前のロータリーを渡って駅の構内に入り、ぶらぶらと歩きました。それほど広くはありませんでしたが、それでも色々な店が通行人を待ち構えていました。
 ファンシーショップを覗いていると、どこからか音が聞こえてきました。ピアノの音でした。音のする方へ歩いていくと、『ふれあい広場』という表示が見えました。その正面の壁にアップライトピアノが置いてあり、白髪の男性が片手で弾いていました。童謡でした。『どんぐりころころ』。(かたわ)らに立つ小さな女の子がピアノに合わせて歌っていて、舌ったらずな歌声が可愛くて聴き惚れてしまいました。

 歌い終わった時、後方のベンチに座っていた女性が拍手をしました。お母さんのようでした。立ち上がって近づいて女の子の頭を撫でると、嬉しそうにぴょんと跳ねて、お母さんに抱きつきました。そして顔を見上げながら「おじいちゃん、ピアノ上手だね」と言って、またぴょんと跳ねました。お爺ちゃんは嬉しそうに頬を緩めて立ち上がりました。「さあ、行きましょ」と声をかけられた女の子は、右手を母親に、左手をお爺ちゃんに繋がれてスキップするように歩きだしました。その姿を見ていると、幼い頃の記憶が蘇ってきました。わたしの両手を持つ父と母の手の感触でした。それは家族3人の幸せな記憶でした。そして、世界一幸せな記憶でした。

 誰かが横を通り過ぎた時に現実に引き戻されましたが、ピアノを見ると、他に誰も弾く人がいないようなので、ちょっと躊躇いましたが、ピアノチェアに腰かけて、鍵盤に指を置きました。すると、何を弾こうかと考える間もなく指が動き出しました。『SHE』でした。譜面がなくても指が覚えていました。弾いていると歌詞が頭に浮かんできましたが、いつの間にか『SHE』が『DAD』に変わっていました。お父さん、と呟きながら、天国に向かってピアノを弾き続けました。