第八話 慟哭

 夜の風は、乾いた金属を指で弾いたときのような音を運んでいた。薄い月が、空のどこにも居場所がないみたいに頼りなく張りついている。土は焦げて、匂いは鼻の奥の柔らかいところを焼く。遠くの爆音は、途切れながらも規則を持っていて、規則を持つものほど人を疲れさせた。塹壕の壁は湿っていて、濡れた土嚢に背中を預けると、体温が吸われる。
 静は小隊と共に伏せていた。顔に泥の筋がある。目だけがよく動く。暗さの中でも、隣の人間の肩の上下を数えることができる。数を数えるあいだは、恐怖が番をする。恐怖は番をしているときがいちばんおとなしい。
 周囲の兵士たちは、煙草に火をつけるとき、火口を胸で覆った。親指と人差し指で風を作り、弱い火を守る。守っているものが火であることに、静はときどき呆然とする。火は敵で、火は神で、火は家だ。三つの火が順番に胸の中を通り抜けるあいだ、兵士たちは笑い話をしようと努力していた。笑いの努力は、ひとの礼儀である。誰かが馴染みの女の噂を持ち出し、別の誰かが「俺は漬物の方が恋しい」と真顔で言う。笑いが生まれ、すぐに死ぬ。生まれて死ぬ笑いは、戦地の正しい笑い方だった。
 静は黙って地面を見ていた。地面は、見ているだけで呼吸を奪う。土の粒の間に溜まった水が、夜の光をわずかに飲み込んで、喉の奥で砂を転がすみたいな気分を作る。耳は勝手に、遠くの足音と近くの鼓動を混ぜ合わせる。混ざる音の中に、低い声が入ってきた。
「■■の第三部隊が……壊滅したらしい」
 隣の兵が告げた。声は土嚢の影で砕け、砕けた音の破片が静の耳に刺さった。瞬間、静の呼吸が止まる。■■の第三部隊――矢野蓮の所属する部隊だ。胸が潰れ、視界が狭まり、音が遠のく。息を吸おうとすると、肺の奥に古い紙が貼りついているような乾いた痛みがある。名前を呼ばれたわけではないのに、名前の形だけが喉に集まる。
 周囲の男たちは言う。「仕方ない」「どこも同じだ」「運だ」。言葉は正しい。正しい言葉ほど、届かない。静には届かない。届かないことを、言った本人たちも知っているから、言い終えた顔はみな、少しずつ疲れている。静は立ち上がらない。立ち上がらない代わりに、土嚢と土嚢の間に身体をすべり込ませた。影が濃いところ。ひとの視線がそもそも生まれないところ。そこで、彼は口を手のひらで覆った。
 声は出ない。出さない。けれど、喉は音を作る準備をやめない。叫びの直前に作られる、あの深い空洞が、喉の奥で震える。肩が、勝手に震える。震えは体温を奪い、奪われると、記憶が出てくる。矢野の額に汗。ラムネ瓶の泡。同時に面を打った日。道場の板間の埃。師範代の「引き分け」。矢野の「おまえは真っ直ぐ過ぎる」。静の「あなたは曲がらなさすぎる」。軽口は、今になって刃の鈍い先端で胸を撫でた。
 静は泣いた。泣くことを、誰にも見られない場所でだけ許す。許すというのは、礼の最低限だ。手のひらで口を覆い、歯で皮膚の内側を噛み、声の軌道をそこで折る。喉を引き裂くような慟哭は、声にならないまま、身体の内部を何度も往復した。涙は土に落ち、土の色をほんの少しだけ暗くする。暗くなった場所は、すぐに乾く。乾いた土は、泣いたことを忘れる。忘れてもらわないと困る。忘れてもらうために、人は礼を守る。
 どれくらい、そうしていたか。時間の単位は、戦場でこわれやすい。横で煙草を吸っていた男が、火の粉を落として手の甲を払う音で、静は現在に戻った。目の奥が熱い。胸はまだ潰れている。潰れた胸の上から、軍服の布が重い。重さは役割の重さだ。役割は礼だ。静は手のひらを外し、呼吸を整える。整える動作のひとつひとつに、矢野の指が重なった。矢野がいたら、何と言うだろう。何も言わないかもしれない。肩を、ただ軽く叩くだけかもしれない。「大丈夫」の形を唇にだけ作って、行け、と目で命じるのかもしれない。
 夜が明ける。夜明けは、ここでは助けにならない。光は、狙いを正確にする。号令が飛ぶ。「持ち場へ」。短く、硬い命令。静は立ち上がる。立ち上がると、涙はすぐに乾く。乾いた涙の跡は、砂の筋と混ざって見えない。見えないことは、救いになる。救いを、静は選ぶ。選んだ救いは、誰かから見れば卑怯だ。卑怯でいい。卑怯の礼儀を彼は知っている。
「万歳」
 朝の空に向かって、声が揃う。不揃いに揃う。口が「万」を作り、「歳」で閉じる。静の喉は、言葉を出した。出した声は、胸の奥に重く落ちる。重さは、悲しみと同じ形だ。行軍が始まる。足音がひとつの音になる前に、ひとつひとつの足音が、地面の凸凹に意味を求める。静は足裏で地図を作る。風向き、地形、敵の視界。読み慣れたものを読み続けることで、読み慣れない現実をなんとか持ちこたえる。
 負傷者が担架で運ばれてくる。静はその脇に寄り、水を渡す。水を渡すとき、視線を合わせる。「すみません」。謝る言葉は、ここでは「ありがとう」だ。礼を言うべき側が謝り、謝るべき側が礼を言う。ことばの位置は、戦場でしょっちゅう入れ替わる。入れ替わるたび、静はそれを元の位置へ戻したくなる。戻す手を、彼は持たない。持たないことを知るだけが、今のところの礼だった。
 小さな陰で、静は竹の守りを取り出した。結び目がほどけかけている。いつもほどけかけている。ほどけは、兆しだ。兆しは、災いの前で意味を持つようにできている。指先で結び直す。結ぶとき、ふと、矢野の手を思い出す。矢野は結ぶのが下手だ。不器用な結び目は、ほどけない。ほどけないのは、結び目が意地を持っているからだ、と静は昔、笑いながら言った。矢野は鼻で笑って、「それ、褒めてねえだろ」と返した。返す言葉の速さと、足の踏み込みの速さは同じだった。速さは正義ではない。けれど、速さを持たないと生き残れない夜がある。
「沖田」
 背後で伍長の声がした。静はすぐ振り向く。「前線へ短距離。伝令だ」。短い命令。短い命令は、余計なことを考えさせない。静は頷いた。頷きは返事の最小単位で、礼の最大限になり得る。駆けだす。身体が知っている動作が先に出る。足音は低い。低い音は、地面に吸われる。吸われた音が地面の奥で反響し、その反響が静の脚へ戻ってくる。循環。彼は、その循環が途切れないようにだけ気をつける。
 塹壕の曲がり角で、担架に乗せられた若い兵とすれ違った。包帯の隙間から、瞳が静の方を見た。焦点は合っていないけれど、見ている。見ている人間にだけ、静は礼を持っている。「すみません」。言って、走る。走りながら、胸の奥で何かが崩れる音がした。崩れる音は、骨の鳴る音に似ている。崩れても、立つ。立つための儀式を、彼は身体に仕込んでいる。腰。肩。足の裏。中心を思い出す。中心を思い出すたび、矢野の声が「背中」と言って笑う。「おまえの背中は、板だな」。静は走りながら、目だけで笑った。
     ※
 緋真は、夢から自分を引き剥がすのにほんの少し時間を要した。机に突っ伏したまま息を荒げている。喉の奥が焼け、涙の通った道に塩が残ってひりひりした。枕元のノートを開く。ペン先が紙を探して、勝手に線を走らせる。書くというより、なぞる。夢の上を鉛筆でなぞるみたいに、彼は言葉を置いた。
《土嚢の間。口を覆う。肩。震える。声、出ない。出さない。土に暗い斑点。乾く。》
《矢野の言葉の残像。ラムネ。引き分け。真っ直ぐ/曲がらなすぎる。軽さの遺書。》
《万歳。不揃い。礼=返事。頷き。中心。》
《すみません=ありがとう。》
《守り。結び目。ほどけかけ。結び直す指。矢野の不器用。意地の結び目。》
 書きながら、緋真は手の甲に爪を立てて自分の意識を現実に引き止めた。爪の痛みは、比喩ではない。指先の白さが戻るまでの数秒で、彼は呼吸の深さを調整する。深さは、文章の長さと連動する。短く書くと息は浅くなり、長く書くと息が苦しい。苦しさをわざと選ぶ夜もある。今は短く刻む。刻む文字が、慟哭の断片に似るまで。
 ペンが止まった。止まった隙間に、緋真は自分の喉の奥から漏れ出した音を初めて正面から聞いた。嗚咽だ。嗚咽は、空気を噛みちぎる音だ。噛みちぎっても、空気はなくならない。なくならないものを噛むのは滑稽だけれど、人間はそういう滑稽さで保たれている。緋真はティッシュを取り、頬を押し当てる。紙に吸われた水分がすぐ冷える。その冷たさに所有感が芽生える。――この冷たさは、誰のものだ。
 彼は机の引き出しから小さなガラス瓶を取り出した。昨夜、買ったばかりのセットのひとつ。コルク栓を抜く音が、やけに大きい。何も入れないまま蓋を閉じる。閉じて、ラベルを貼る。《慟哭の空》。空のまま名付ける行為は、愚かで救いだ。愚かさに自分の名前をそっと重ねて、緋真はうなずいた。うなずきは、自分に向ける礼だ。
 スマホをとり、メモアプリを開く。片手で打つのは早い。――《声を殺すという言い方がある。殺しても、死体が残らない。残らない死体を抱くのが、夜だ》。送信はしない。SNSのタイムラインは、軽い拍手で出来ている。軽い拍手が悪いわけではない。だが、今夜の拍手は、静の泣き方を削ぐ。削がれてはいけない泣き方が世の中にはある。
 ベッドの端に腰を下ろし、緋真は鏡を見た。凡庸な高校生がこちらを見ている。前髪に寝癖。Tシャツは皺。頬は赤い。目はうるんで、しかし「泣いた?」と訊かれたら否定できる程度の湿度に落ち着いている。彼は鏡の少年に言う。「これは、誰の涙なんだ」。少年は答えない。答えないのが、正解だ。所有者を決めることは、奪うことだ。奪いたくないと願うとき、人は「預かり人」という言葉に逃げる。逃げながら、責任を負うふりをする。ふりでもいい。ふりがなければ、責任は最初の一歩を持たない。
 朝が来る。学校は遅刻しない人間に優しく、遅刻寸前の人間にも意外と優しい。緋真はパンを口に突っ込み、水で流し込み、靴を片方だけ履いたまま廊下を走って母に「行ってきます」と言う。母が「顔色」と言う。緋真は「大丈夫」と言う。言葉は意味を持たない朝もある。意味よりも、手順が救う。
 バスの窓に、眠そうな自分が映る。スマホの通知が震え、友人のケンタからメッセージが届く。《今日の小テスト、やばい》《カンニングペーパー必要?》緋真は笑って《ノート貸す》と返す。返してから、胸の中が少し軽くなった。軽さは薄情と同じ形をしているが、配り方を間違えなければ、両親切だ。教室でケンタにノートを渡すと、彼は「神」と言って拝む真似をした。「やめろ」と緋真は笑う。笑っている間だけ、夢は遠い。
 国語の授業で、先生が中原中也の詩を読む。「汚れつちまつた悲しみに」。語尾が黒板に残り、黒板の粉が朝日で目に見えた。悲しみは汚れやすい。汚れを洗うのが詩なら、汚れごと抱えるのが記録だ。緋真はノートに小さく書いた。《抱える》。三文字の間に、空白を置く。空白は、呼吸だ。呼吸があるかぎり、彼は書ける。
 昼休み。購買の列に出遅れて、パンが売り切れ、緋真は素うどんを選ぶ。つゆが薄い。薄さは優しさだ。器の底に残った葱を箸で集めながら、夢の中の静の嗚咽をまた思い出す。喉の奥で再現される音を、緋真は一度だけ、わざと飲み込んだ。飲み込むと、胸の中がざわつく。ざわつきは、午後の眠気と混ざって、体温を半度だけ上げる。
 放課後、図書室に寄った。戦時中の資料の棚の前で、立ち尽くす。手を伸ばせば、何かが取れる。何かを取ってしまえば、何かが確定する。確定は、祖母が嫌ったものだ。緋真は棚のラベルをゆっくり読み、結局、何も取らなかった。代わりに、地元の郷土誌の古い号を一冊、手に取った。紙は乾いていて、指先に同じ乾きを移す。ページをめくると、戦後すぐの町の写真が並んでいる。絵馬に結ばれた小さな紙片。名前は読めない。読めなくていい。緋真は本を閉じる。閉じる行為もまた、記録の一部だ。
 帰宅すると、リビングでは妹がタブレットで短い動画を繰り返し流していた。犬が寝ぼけて階段を滑り落ち、最後にしっぽを振る。母が笑う。父は新聞の経済面で眉をひそめる。世界の悲喜は、画面毎にサイズを変える。緋真は自室に入って鍵をかけた。鍵をかける音が、心臓のすぐ近くで鳴る。
 机に向かう。ノートの最初の空白ページを開く。ページは新しい朝みたいに白い。彼は鉛筆を握り、二行目にこう書いた。《憧れではない。愛だ》。書いてから、顔が熱くなる。直視する言葉は、いつも滑稽だ。滑稽であることは、誤りではない。彼は線を一本引き、《責任》と書いた。愛は距離を許さない。距離が縮まると、息苦しさが生まれる。息苦しい愛は、破壊へ向かいやすい。向かわないために、緋真は責任という重しを載せる。重しは軽く、しかし、劇的な動きを抑える。
 夜。眠る前、緋真は古いビー玉を掌に転がす。中心に浮かぶ気泡が、夜の光をわずかに捕まえる。気泡は、涙に似ている。涙が固まって、捕まえられる形になったら、どれだけ楽だろう。捕まらないから、世界は続く。捕まえないために、彼は瓶に「空」を入れる。空のまま、ラベルを増やしていく。愚かさの棚が一本、机の隅に立つ。愚かさの並べ方は、上手になっていく。上手になっていく自分に戦慄する。戦慄は、快感に変換しない。
     ※
 夢は、再び戦場を連れてきた。夜の色は前の夜より一段濃く、月は今夜の役割を忘れたみたいに薄かった。静は塹壕の縁で、膝を抱えて座っていた。周囲の男たちの寝息は不規則で、規則になりたがらない音だった。眠れない夜は、不規則を好む。静は竹の守りをまた出して、紐の結び目を指でなぞる。ほどける兆しは、相変わらずそこにあった。ほどけたら、結び直す。結び直せなくなるその日まで。指の腹の皮が荒れていて、竹のささくれにひっかかる。痛みは小さい。小さい痛みは、心を落ち着ける。大きな痛みは、心を破る。小さな痛みに集中することで、大きな痛みの方角を見る。礼の稽古で覚えた集中の仕方が、ここで役に立つ。
 静は顔を上げ、夜の向こうに矢野の影を探した。影はない。影がないことは、救いではない。ないことは、ないこととしてそこにある。彼は唇の内側を噛んだ。血の味は、鉄の味とすぐ混ざる。混ざる味は、戦場の味だ。目を閉じる。閉じた瞼の裏に、矢野の目尻の笑い皺がゆっくり現れ、ゆっくり消える。消えたあとに、静はまた泣いた。土嚢の影で泣いたときよりも、今夜の涙は静かだ。静かな涙は、喉を通って胸の奥へ沈む。沈んだところに、石の代わりに竹の守りを置く。置かれた守りは、沈黙する。沈黙は、保存食だ。祖母の言葉を、緋真は夢の中でも思い出した。
 ――名を呼ぶな、声が泣く。
 石碑の言葉のように、短い文が夢の縁に浮かぶ。静は名を呼ばない。呼べば、確定が訪れる。確定は、誰かを殺す。呼ばない祈りだけが、ここでは礼になる。彼は、額を膝に押し当てた。呼吸が浅い。浅い呼吸でも、人は生きられる。生きることの形式は、多様だ。形式を守ることで、内容を保つ。内容は、矢野だった。矢野は、いない。いない内容を抱えて、人は次へ進めるか。静は、進むと決める。決め方に、涙が混ざる。涙は決意を薄める。薄くなった決意の方が、長く持つ。
 夜明け前、空襲の音が遠くで生まれ、近づいては逸れていった。逸れていく音に、ひとは安堵を学ぶ。静は頬を拭き、顔を上げた。塹壕の縁に、猫の影が見えた気がした。猫ではない。鼬か、ただの影か。影はすぐに、別の影になった。矢野の影は、どこにもいない。いないことを、静は礼で包む。礼で包むと、手の中に熱が残る。熱は、希望の最小単位だ。
     ※
 緋真は、その夜の夢から戻ったあと、机の上に頬をつけて、しばらく動けなかった。世界の角が、すこし丸く見える。丸い角に指先を押し当てると、泣いたあとの頭痛がそこに集まる。彼はノートを開き、《慟哭》と大きく書いた。線を二本引いて、下に段落を作る。段落は、祈りの器だ。
《慟哭は、音ではなく形だ。肩の震え。手のひらの歯形。土の暗い斑点。乾く前と後の色の違い。》
《慟哭は、所有されない。誰かの胸に入り、出ていく。預かる。返す。返す前提で受け取る。》
《憧れではない。愛だ。愛は、重さの単位を持っている。重さがあるから、運べる。運ぶあいだ、責任という帯で括る。》
 緋真はペンを止め、自分の手首に短い線を一本引いた。《預》。朝には消える線だ。消えることが前提の線を身体に入れると、今夜だけの規則ができる。規則は、彼を真っ直ぐにした。真っ直ぐさは、しばしば躊躇と一緒に置かれる。躊躇は礼だ。礼を忘れない。忘れないうちに、彼は布団に潜った。
 眠りに落ちる直前、緋真ははっきりと自分に言った。これは恋の形ではない。けれど、恋の仕方を教えるものだ。恋は、憧憬から責任へ、そして愛へと変わっていく。憧れは距離を許す。責任は距離を詰める。愛は距離を消す。距離が消えると、呼吸が苦しい。苦しい呼吸で、彼は初めて、誰かの絶望を自分の体に通す覚悟を持った。通すことに意味はないかもしれない。ないかもしれないものを通す行為が、人を保つ。保つことが、いまの彼にできる唯一の礼だ。
     ※
 翌朝、祖母からメッセージが来ていた。《今度、来なさい》。短い。短い言葉は、心臓に近いところへまっすぐ落ちる。「行く」と打とうとして、緋真はやめた。代わりに、《今夜、電話でも》と送る。祖母からはすぐに《いいよ》と返る。返ってきた二字に、緋真は顔を洗いながら泣きそうになった。泣かないまま、学校へ行く。
 鞄のポケットに入れていたガラス瓶が、歩くたびに小さく音を立てる。透明な音だ。透明な音は、罪を軽くする。軽くなった罪は、持ち運びがしやすい。持ち運びがしやすい罪を、緋真は机の引き出しのいちばん奥にしまった。しまうと、ある。あると、救われる。救いは、取り出しやすい場所に置く。
 数学で二次関数。黒板に放物線が描かれ、先生のチョークが頂点を示す。頂点の座標は、完成の作法で決まる。作法に従えば、正しく美しい。緋真はそれを、羨ましいと本気で思った。物語は、完成の作法を持たない。持たないから、作法を自分で作らねばならない。作るたび、誰かを傷つける危険が生まれる。危険を自覚しながら、緋真はノートの余白にまた書く。《わからないまま》。祖母の言葉を借りたと自覚する。借り物の言葉で防波堤をつくる。防波堤のおかげで、彼はまだ沈まない。
 放課後、空は低く、海の匂いが町の奥まで入り込んできた。緋真は防波堤へ回り道する。波頭は小さく、岸壁に当たる音が控えめだ。控えめな音は、心に長く残る。ポケットから竹の守りを出す。祖母の家から託されたものではない。緋真が自分で削って作った、幼稚な守りだ。紐はすぐほどける。ほどけるたびに結び直す。その手つきだけが、静とつながる唯一の具体だった。
「俺は、何をしている」
 海に向かって言う。風が口の形を通り抜ける。返事はない。ない返事は、期待しない。期待しない祈りを足元の石に叩きつけるように、緋真は小石をひとつ海へ投げた。小石はすぐ沈む。沈むことの潔さに嫉妬する。嫉妬したことを、すぐに恥じる。恥じを忘れないうちに、彼は帰った。
     ※
 夜、祖母に電話をした。受話器の向こうの息づかいが、台所の涼しい匂いを連れてくる気がする。
「祖母ちゃん」
「緋真かい」
 声を聞くだけで、体の緊張がほぐれる。祖母は余計なことを訊かない。緋真も余計なことを言わない。やがて、祖母が言った。
「泣くときは、誰の前で泣く?」
「誰の前でも」
「それは勇敢だねえ。でも、夜は、夜の泣き方があるよ。夜の泣き方は、あんた、もう知ってるね」
 緋真はうなずいた。うなずきは、電話の向こうには届かない。それでも、うなずく。祖母の沈黙は、言葉よりずっと多くを渡す。「ありがとう」と緋真は言った。礼の言葉が、今夜は正しく「ありがとう」の形をしていた。
 布団に入り、緋真は目を閉じる。今日の夢が、もしまた戦地へ連れていくなら、彼は覚悟を持って行く。覚悟は、武器ではない。覚悟は、空の瓶だ。空の瓶でしか、涙は預かれない。預かったものは、朝には紙に移す。紙に移すことが、返すことだ。返す先は、誰でもない。誰でもない先に、静の嗚咽が薄く混ざる。混ざったまま、世界は続く。
 ――愛だ。
 ――愛は、黙って記録する。
 緋真はそう書いた紙を胸に置くようにして眠りに落ちた。薄い月の下で、遠い戦場の土嚢の影に、もう一度、誰にも見られない慟哭の形が生まれる。形は音より長く残る。残った形を、明日の朝、彼はまた丁寧に写すだろう。自分の筆圧で歪めないように。自分の涙で薄めないように。筆の重さを測りながら。測ることそれ自体が、今の彼に許された、ただひとつの愛し方だ。