第七話 戦地

 次の夢には、もう道場はなかった。畳の目は砂に置き換わり、縁側の猫のしっぽは、草むらの中の枯れ枝に変わっていた。匂いは真っ先に来る。焦げた土。油の焼ける甘ったるさ。遠くの断続的な爆音が空の低さを可視化し、空は耳で触れるものになった。風が吹くたび、乾いた粒が歯の裏にあたって、見てもいないのに口の中がきしむ。
 静は軍服を着ていた。竹刀のかわりに鉄の重み。銃床が肩に食い込み、革帯が脇の下の汗で固くなる。けれど、彼の背筋は道場のときのままだった。面をつけていないのに、面の内側で呼吸を整える姿勢に似ている。彼は“間合い”を探す癖を捨てていなかった。風向き、地形、敵の視界、そのすべてを読む。読むという行為は、礼の前提だからだ。
 命令は「前へ」。短い、乱暴な二音。静は従う。従いながら、礼を失わないことに固執する。足元の泥の水たまりを避けるとき、後ろの兵の足場が残るように踏む。負傷者に水を渡すとき、視線を合わせ、「すみません」と言う。相手が敵でも、味方でも。敵味方の区別は命令で決まるが、礼の有無は自分で決められる。
 掌を汚す泥は色を変え続け、手の甲の脈は戦場の鼓動に同期しはじめる。銃を構えてから下ろすまでのわずかな間合いに、静は道場でしみ込ませた所作をひとつだけ紛れ込ませる。腰を落としすぎない。足の裏で地面をつかむ。中心。身体の中心に自分を戻す。同じ動作を繰り返すと、人はそこに祈りを無意識に仕込む。静は、何かの名を呼ばない祈りを身体に住まわせる術を、もう覚えている。
 夜。行軍の合間、彼はポケットから小さな竹の守りを出し、掌で温める。結び目がほどけかけているのを見つけ、指先で結び直す。ほどける結び目は不吉だと誰かが言い、別の誰かが笑う。「そんなもん、役に立つのか」。静は笑うだけだ。「面紐を直すのと同じです」。返ってくるのは「わからん」という顔。わからないものを無視しない顔。静は守りをポケットに戻す前に、結び目の“端”をほんの少し長めに残した。解けたとき、結び直しやすいように。準備は、弱さの別名だ。
 昼。空がよく見える広場に出る。静の小隊は低く散開する。乾きは喉を襲う前に思考を鈍らせる。静は唇を湿らせ、ふり返って「水を」と言いかけ、やめる。配給された水は数口だけ。分け方に礼が必要だ。彼は自分の口を湿らせてから、負傷者の唇の端にほんの少し当ててやる。「すみません」。負傷者は眉をしかめ、「謝るな」と唇だけで返す。謝る言葉は、ここでは“ありがとう”の形をしてくる。言葉は場所で意味を変える。静は、その変わり方に居心地の悪さを覚え、それでも言葉を捨てない。
 野戦病院の白いテントの陰。静は負傷兵と数分だけ会話を交わす。包帯の下から体温が漏れ、蚊帳の目から光が破れて入る。「生きて帰れると思うか」。問われ、静は「わかりません」と答える。わからないことをわからないと言う勇気。それは戦地で最も傷つきやすい。けれど静は、その脆さに礼を与える。「わからない」を粗末にしない。「祈る」と口にしない。祈りは持つが、言葉にはしない。名を呼べば確定が訪れると、どこかで学んだかのように。
 夜間の移動。静は星の位置を確かめる。星は位置を変えない。変わらないものを基準にするのは、人が恐怖を飼うための古い方法だ。北を探し、足を運ぶ。闇の中の地形の気配。道場で覚えた“身体の中心”が役に立つ。腰の高さ。肩の線。足裏の接地。恐怖は消えない。消さない。恐怖を抱えたまま、次へ行く。恐怖の重量を測るように、彼は時折深く息を吐いた。吐く息が白くないのが、夏だと教える。
 空襲の頻度は上がる。空が低く唸り、地面は爆ぜる前から震え、伏せている背中に砂が降る。静は最短の祈りを作る。――生きろ、生かせ。二語。どちらも自分に向けている。どちらも、相手に向けている。祈りを名で飾らない。祈りを命令に変えない。彼はその境を守ろうとする。守ることは難しく、難しいことは身体を疲れさせる。疲労は夜のかさぶたのように体中にでき、朝には剥がれずに増える。
 泥の溝の中で、年若い兵が震えている。名前を呼べば、すぐに少年らしい顔になるような年齢だ。静は彼の肩に手を置く。置くだけ。押さない。「こわいです」と少年は言う。「わかります」と静は言う。慰めの言葉ではない。説明でもない。共有の確認だった。少年は少しだけ呼吸を整える。整った呼吸は、戦場において最初の礼だ。
 朝。薄い曇天の下で、斥候が戻る。地図の上で指が走る。指は人命の行き先を決める形に似ている。好きではない形だ、と静は思う。命令が飛ぶ。命令は硬い。硬い音は、柔らかなものを割る。静は割られる側に自分がいることを確かめるように、竹の守りを一度だけ触った。触れるのは一瞬でいい。触りすぎると、祈りは所有になる。所有は重い。重いと、沈む。
     ※
 緋真は目覚め、しばらく天井の角に焦点を合わせたまま、身体を動かせなかった。起き上がるという行為にさえ、段取りが必要だった。枕の片側が汗で暗くなっている。時計は、朝の七時より少し前を示している。学校に遅れる心配はない。それでも緋真の中で鳴っているアラームは別だ。書け、と言う。書けないなら、せめて削れ、と。
 机に向かう。ノートを開く前に、パソコンの電源を入れてしまいそうになる自分を止める。昨夜、自分に課したルール――“記録”の前に“装飾”を置かない。カフェインの缶を開けない。音楽をかけない。SNSを見ない。見ない、の一個一個が小さな負荷で、その負荷の積算が「二番手の累積」の質量に似ている。彼はノートを開いた。ペンを握る。ペン先の球が紙の上でわずかに抵抗し、抵抗はすぐに出発になる。
 書く。比喩を捨てる。修飾を外す。短い文で記す。
《空が震える。土が跳ねる。喉が痛い。水がない。銃は重い。守りは軽い。軽いのに、重い。》
 書いているうちに、彼は自分が“書き手”ではなく“記録機”になっていく感覚に戦慄する。自動化される手は恐ろしい。恐ろしさは快感に変換しやすい。変換を拒む。拒むには、呼吸を同時に数えるのがいい。緋真は一行ごとに息を吐く。吐く音が、短文の句点の音に重なる。句点は空気孔だ。
《命令=前へ。足は前へ。心は立ち止まる。立ち止まった心を置いていく。置いていくのは裏切りではない。そう決めないと、進めない。》
《すみません。すみません。謝る言葉は、ここでは“ありがとう”の形をしている。》
《わからない。わからないままで置く。祈らないと言わない。祈ると言わない。祈る。》
 言葉は削られ、削られた断面が光る。光る断面に自分の顔が映る。映らないように、顔を上げない。上げないように、緋真は机の角に爪を当てる。爪に痛み。痛みは比喩にならない。痛みはただの報告だ。
 母の声が遠くで「起きてる?」と問う。「起きてる」と答える。声はいつも通りの自分で、夢の自分ではない。二つの自分の間には、朝食という柔らかな橋がかかっている。緋真は橋を渡って、パンを口に入れる。バターの塩気が舌の上で広がり、それが現実の証拠になる。証拠はお腹を落ち着かせる。
 学校の帰り、川沿いを歩く。夕暮れの水面に吐息のような風が走り、橋の鉄骨が低く鳴る。世界の音が夢の音と重なる瞬間、緋真は足を止める。「俺は、ここで何をしている」。問いは、演技ではない。問いの形をしているのに、答えを要求していない。問いの重みだけを、足の裏で受け止めたいのだ。受け止めてわかったことがひとつある。自分が“二番手の累積”に身を置いていることが、今は苦痛ではない。静は恐怖を抱えたまま進む。ならば自分は劣等感を抱えたまま書く。抱えたままの姿勢は美しくない。美しくない姿勢を、今日は選ぶ。
 信号が変わり、歩き出す。コンビニに寄る。冷蔵ケースのガラスに自分の顔が映り、目の下の隈の濃さが商品名のフォントと競合する。エナジードリンクを手に取りかけ、棚に戻す。代わりに塩むすびを取る。塩は、現実を引き寄せる。レジの音。袋に入れるかどうかの質問。袋はいらない、と答える。手に持ったむすびの角が掌に当たって、四角は意外とやさしい形だと知る。
 帰宅後、机に戻る。ノートは朝の続きのまま、黒が立ち上がっている。スクロールできない紙は、逃げ場がなくてありがたい。緋真はまだ書ける。さっきまで削った文体の熱が冷めないうちに。
《誰かの背中。誰かの礼。礼は在る。ないのは言葉だ。言葉は後から来る。》
 書きながら、彼の中で別の声が出る。「もっと脚色しろよ」「英雄譚にしてしまえ」「帰還の伏線を置け」。声は甘い。甘さは、取らないと禁断症状が出る種類の甘さだ。緋真は声に「いらない」と答える。声は、すぐには消えない。消えない声と同居しながら、別のことを書く。――『預かり人』。彼は前夜に書いた二語を、改めてノートの見開きの真ん中に書いた。大きな字で。まるで、ここにいることの証明みたいに。
     ※
 夢は、緋真の覚悟を試すかのように、夜ごと形を変える。別の夜、静は泥の中で伏せている。僅かな稜線の向こうから銃声が糸のように飛んできて、糸は土に刺さって消える。静の頬に泥が跳ね、泥の中で自分の呼吸音が異様に大きく響く。隣にいる年上の伍長が「耳を借りろ」と言う。静は耳を澄ます。爆音の合間に聞こえるのは、虫の声、遠い犬の吠え声、誰かのすすり泣き。それらが戦地の音を戦地にし続ける。伍長は笑わない口で言う。「生き物の音がするうちは、ここはまだ地獄じゃない」。静は頷く。頷いた頸に汗が伝う。「はい」と言わない頷き。戦場で言葉を減らすのは、卑怯さではない。
 夕暮れ、静は自分の靴紐を直す。他人の靴紐も直す。面紐を直す手が、形だけ残っている。その手つきに救われる人がいる。靴紐はほどけ続ける。ほどけるたびに結び直す。結び直すたびに、戦場に礼の小さな点が打たれる。点は、やがて線になるだろうか。ならないかもしれない。ならないことを恐れ、ならないことを受け入れる。
 ある夜、空は星ではなく灯火で散らばっていた。敵地の闇に紛れ、静は星と灯火を見分ける。灯火は人の在り処。星はただの光。どちらに向かえばいいのか、わかっているのに、心はわからない方に向きたがる。静は心を連れ戻す方法を知っている。――腰、肩、足の裏。中心。身体の中心を思い出すたびに、矢野の声が聞こえる。「おまえは真っ直ぐ過ぎる」。静は笑う。「君は曲がらなさすぎる」。会話の、軽い皮肉。軽さが恋しくて、軽さに窒息しそうになる。息を吐く。吐いた息に、矢野の踏み込みの音が混ざる。混ざり方は夢の仕業で、現実が羨む種類の混ざり方だ。
 緋真は夜中に目を覚まし、手帳の隅に“矢野の音”と書く。文字はすぐに滲む。滲むのは汗のせいか、涙のせいか。彼は嗅ぎ分けようとしない。嗅ぎ分けると所有になる。それでも、ペン先は勝手に線を引く。《矢野=踏み込みの音/静=間合いの呼吸》。図式化は危険だ。危険だが、図式は夜を整理する。整理した書き手の良心を、明日の朝、もう一度疑えばいい。
     ※
 学校の空気は軽い。軽さの価値は、重さのあとで際立つ。体育でシャトルラン。緋真はまあまあ走る。トップに立たない。最後にも残らない。途中で膝に手をついて、息を整える。ケンタが「あと三回だぞ」と声をかける。緋真は親指を立てて、最後の三回を走る。終わってから、笑う。笑いは声だ。声のある笑いは、胸の痛みを少し散らす。国語の時間、先生が黒板に書く。「簡潔は暴力になり得る」。緋真は目を上げる。黒板のチョークの音が、夢の砂の音に混ざる。簡潔にすることで誰かを切っていないか。切る必要があるなら、切った断面に手当てをしているか。自問の数が増える。
 放課後、顧問が言う。「大会前だ。体調を崩すな。夜更かしするな」。緋真は「はい」と言う。夜更かしはする。夢を見るために。夢は夜更かしを必要としないのに、緋真の身体は儀式を欲しがる。儀式は都合のいい呪いだ。彼は呪いをかけ、呪いに責任を持たない。
 家で、母が「匿名の感想って、怖いねえ」とニュースに向かって言う。炎上の話題。緋真は聞き流す。匿名の感想より、匿名の祈りに興味がある。祈る人の名前を知らないまま救われることがある。緋真は救われたいのか、罰されたいのか、自分でもわからない。わからないまま、机に向かう。削った文体のために、音を消す。窓の外で車が通り過ぎる。遠くで猫が鳴く。猫の名は知らない。知らないから、祈りやすい。
     ※
 別の夜。静は斜面の上で伏せ、斜面の下に倒れた兵に目をやる。敵か味方か、見分けはもう意味を失いつつある。呻き。静は斜面を滑るように降り、男の口元に水を持っていく。男の瞳は曇り、焦点は合わない。口は、言葉の形を探すだけで音を出さない。静は「すみません」と言い、男の手首を一瞬握る。握った手に返力はない。ないままの手は、人の手の形を保っている。静は男の目の上に指を置く。閉じようとして、閉じない。閉じなければ、閉じない。彼は祈らないと言い、祈ると言わない。名を呼ばない祈りだけが、ここで礼を守る。
 戻る途中、銃声が近い地面を叩く。土の粒が耳の中へ入り、耳鳴りと会話を始める。静は低い姿勢のまま、星を探す。星は、まだそこにある。北は変わらない。変わらない方向に、自分を合わせる。合わせることだけが、命令に従う自分を救う。矢野の踏み込みの音が、また背中に乗る。「おまえは真っ直ぐ過ぎる」。真っ直ぐに進むことが、この場では最短距離で死ぬことだと知っていながら、静は真っ直ぐさの中に“躊躇”を必ず入れる。躊躇は、礼の一部。礼のある躊躇は、時に人を助け、時に人を殺す。決められないまま進むのが、正しい夜もある。
 緋真はその夜の夢から戻ると、喉が焼けるように乾いていた。冷蔵庫のペットボトルを一本空け、机へ戻る。ノートに書く。《真っ直ぐ+躊躇=静》。等式は不遜だと自分でわかっている。それでも書く。書くことで、過剰な愛情を数式のふりで薄める。薄め方を間違えると、薄め液で紙を破る。破らないように、彼はペン先の重さを軽くする。
 彼の愛は、異様で、屈折している。静が恐怖を抱えたまま進む姿に、緋真は興奮する。興奮を恥じる。恥じながら、また興奮する。誰かの痛みを美しく言い換える衝動。美しさの罠。彼は昨日、手の甲へ書いたルールを思い出す。《規則12:静を惨く美しく描かない》。描かないために、描写を削る。削ったあとに残る空白に、読者が勝手に美しさを補う。それもまた暴力だ。暴力と知りつつ、空白を置かざるを得ない。置くとき、名を呼ばない祈りを、同じ場所に置く。
     ※
 ある夜、静は野戦病院の片隅で眠れず、テントの外に出て星を見上げた。星は、名前のない祈りたちの集合に見える。彼は竹の守りを取り出し、結び目をまたもや結び直す。指先の荒れた皮が竹の節にひっかかり、痛みが出る。痛みは、今ここの証拠だ。ポケットに戻そうとして、ふと、守りを胸のポケットではなく、下のポケットに移す。理由はない。理由のない仕草が、よく命を助ける。それを「迷信」と呼び捨てにできない夜がある。
「沖田」
 背後から声。伍長だ。「眠れないか」。静は「はい」とは言わないで、口角だけ少し上げる。「明日も前へだ」。伍長は短く言って、短く去る。静は空を見上げたまま、矢野の顔を思い出す。矢野はきっと、星よりも地図を見るやつだ。地図の直線に快感を覚えるやつだ。静は笑う。笑っているのに、胸は痛い。笑いと痛みは、一緒に発火する。
 緋真は、そんな場面を見せられるたび、嫉妬の形を探す。嫉妬は矢野に向かうのではない。戦争に向かう。戦争は静の全身を占有する。占有されることに興奮する静の姿に惹かれてしまう自分を、緋真は嫌う。嫌うこともまた、自分の所有感だ。所有を捨てると誓っても、身体のどこかで手が伸びる。伸びた手を、彼は“預かり人”の手つきで押さえ込む。押さえる力は優しくしないと、指が折れる。
     ※
 空襲の夜。静はテントの外で、地面に耳をつける。大地の奥で鳴っているものの音を聴く。耳の中に土の粒が入る。粒は体内で音になり、音は記憶の方向とつながる。道場の床板の撓む音。面の内側の湿気。矢野の踏み込み。師範代の「礼を忘れるな」。音が連なって、静の背骨を通って下へ抜ける。抜けた音が地面を震わせ、震えがまた彼に戻ってくる。循環。祈りに似た機構を、静は身体の内部で持っている。
 敵兵が倒れている。若い。血の匂いは鉄の匂いに混ざり、夜の中で甘くなる。静はその兵の胸の動きが微かにあるのを確かめ、手のひらをかざす。言葉はない。謝る言葉も、慰める言葉も。手のひらが持っている温度だけを置く。「礼」は、言葉の前でこうして成立する。敵対の関係を解かないまま、礼だけを渡す。静の手は蜂に刺されたように熱い。熱はすぐに引かない。引かない熱に、彼は慣れない。
 緋真はその熱を、言葉に置き換えず、記号にしたかった。ノートの余白に、小さな■をひとつだけ描く。塗りつぶす。黒が紙に沈む。沈んだ黒は、言葉よりも正確だと今夜の彼は信じる。信じることも暴力だ。暴力を自覚しながら、彼は■の横に小さく書く。《手の温度》。その四文字は、比喩ではない。
     ※
 朝、緋真はコンビニの前で立ち尽くした。見慣れた青い看板の下で、ツイートの通知がスマホの画面に浮かぶ。《最近の断章、刺さった》《こわいけど、好き》。好き、の軽さ。軽さを責める資格は緋真にはない。彼もまた、何かを軽くしていないとやっていけない側の人間だ。返信はしない。いいねも押さない。短いポストの下に、自分の昨夜の短文が無防備に並ぶ。《空が震える。土が跳ねる。喉が痛い。水がない》。簡潔は暴力。暴力を、彼は把握する指で持ち続ける。持った指が白くなりすぎないように、ときどき力を抜く。
 教室でケンタが笑う。「神田、最近、文章がカタいな。カタいけど、なんか……うまい」。誉め言葉の形をしたものを、緋真は受け取りかねる。受け取ると、どこかで自分の中の“書き手”が喜ぶ。喜びは敵ではないが、記録機には毒だ。緋真は「寝不足で」と笑い、席に着く。先生が小テストの説明をする間、彼はノートの端に小さく書いた。《礼は在る》。三字の間の間隔を広く取る。取った空白が呼吸になる。
 放課後、川を渡る風が、夏を一段落させる匂いを持っている。橋の鉄骨の低い鳴りを踏みしめるように、緋真は歩く。地面の継ぎ目のたびに、足裏の感覚が変わる。緋真は思う。――ここから先を、俺は見たいのか。見なければ、静に会えない。見れば、静が遠ざかるかもしれない。矛盾は整合の言い換えだ。両方を抱えることで、人は姿勢を失わない。抱える腕は疲れる。疲れた腕で、今夜も彼は眠る。
 布団に潜り、天井の暗さの濃度を測る。濃い。けれど、冷たくはない。どこかで波の音がするような気がした。気がする、で止める。確定の言葉は、別の誰かを殺すことがある。祖母の言葉が来て、去る。去ったあとに残るのは、静の背中だ。背中の真ん中に通っていた芯。戦地にあっても折れなかった芯。折れたかもしれない芯。わからないままにすることを、緋真は学び直す。
 夢は来るだろう。来ないかもしれない。どちらでも、彼は今夜、祈る。名を呼ばないまま。風の通り道に、言葉を立たせないまま。祈りは、記録の前に置く小さな水。口を湿らせる程度でいい。飲み過ぎると、酔う。酔うと、美しく書いてしまう。美しく書いてしまった行を、明日の朝には削ること。その未来だけ、今は確定させておいて、緋真は目を閉じた。
     ※
 さらに別の夜。静は小隊から切れて、ひとりで動いていた。伝令。道が爆撃で荒れて、低い壁の影ばかりが続く。風が止み、音が増える。遠くの爆発。近くの息。自分の心臓。壁に手をつく。手首に竹の守りが当たる。小さな痛みが場所を教える。曲がり角の先に、黒い影。静は身体を低くして、足の音を消す。消えない音がある。靴の中の汗の音。布が擦れる音。音に礼を与える。今のところ、ここに在る、と心の中で言う。祈りではない。報告だ。
 影はただの木杭だった。安堵の後で、静は少し笑う。笑い終える前に、空が閃く。腹に衝撃。世界が斜めになる。土が近い。匂いが近い。痛みは、遅れてやって来る。遅れてやって来る痛みは、よく躾けられている。静は歯を食いしばる。食いしばり方にも礼があると知っているみたいに。体を起こす。起こした体が言う。「生きろ」。別の声が言う。「生かせ」。二つの声が喉の奥でこすれて、音にならない。
 緋真はそこで、目を開けてしまった。自分で自分を引き剥がした。呼吸が浅くなり、脇の下に冷たい汗が溜まる。――ここから先を、見たいのか。自問は空虚な演説にならない。身体のどこかが答える。見たい。見たくない。両方。両方は卑怯か。卑怯でもいい。緋真はペンを掴み、あえて何も書かない。何も書かないことを記録する。《ここには書かない》。一行。太い線。太さが、今夜の礼。
 彼は横になり直し、暗さに耳を澄ます。暗さの中の物音が、彼の居場所を確かめてくれる。階下で冷蔵庫が息をしている。遠い道でバイクが小さく吠える。バイクの音は夢の遠雷に似ているが、違う。違うとわかることが、現実を守る。現実の防波堤に背中を預け、彼はもう一度目を閉じた。
 ――行く。恐怖を抱えたまま。
 ――書く。劣等感を抱えたまま。
 彼の“二番手の累積”は、今夜、罰ではなく姿勢になった。姿勢は、夢の中の静の背筋と遠くで呼応する。呼応がある。呼応の確信だけが、未来を薄く照らす。緋真は微かに頷いた。頷きは、礼の最小単位だ。礼を忘れずに、彼は眠りに落ちた。波の音は、たしかにどこかで、ほんの少しだけ、聞こえた気がした。