第六話 涙の所有者
“書かない”と決めた夜にかぎって、眠りは緋真に親切だった。親切というのは、甘やかすことではない。寝返りを打つたび現実の縫い目に指先が引っかかり、そこから音なくほどけ落ちるみたいに夢へ渡される。渡された先にあったのは、よく知る道場の板間で、いつものように風が畳の目をなでる音、竹刀が立てかけられた壁の控えめな影、そして、耳が拒んでいても身体が先に覚えてしまう鋭い色――赤。
板間の真ん中に、封筒が置かれている。縁取りの赤が、蛍光灯の白さを吸って、乾いた血のように艶を失っている。誰かがそれを「おめでたい色だ」と言いたげに笑いの形を作り、別の誰かがその笑いの形に自分の笑いを合わせる。万歳を唱える声は、練習で合わせる掛け声と同じ調子なのに、まったく違う意味を背負っている。矢野が、その真ん中に立っていた。いつもの凛とした眉が、今日はいつも通りに見えない。踏み込みの強さを隠すみたいに、肩がほんのすこしだけ丸い。
封筒を差し出す男の影が矢野の影に重なる。矢野はそれを受け取って、笑う。歯が覗くほどでも、声が漏れるほどでもない。笑顔のフォームだけが正確に整っている。静は笑えない。面を持つ手が震え、目の焦点がどこにも合わないまま、合いそうな一点を必死に探している。矢野が近づいて、囁いた。
「俺が戻らなかったら、面を片づけとけ」
静の首が、早すぎず、遅すぎず、確実に横へ動く。
「戻ってくる前提で言って。それに――僕も戻ってこられるかわからない」
互いの強がりは、相手のために作られている。矢野の目は、いつもより少しだけ幼い。静の唇は、いつもより少しだけ固い。師範代が遠くで「よくやった」と誰かに向けて言っている。その「誰か」は二人ではない。誰でもない「少年」という複数に向けて言っている。
矢野の出征の日。門前の空気が、色を持つ前の薄明るさで満ちている。町内の人々が旗を振り、紙の旗が風で乱れ、垂木に当たってかすかな音を立てる。静は列の端で矢野を見送る。笑顔は作れるのに、声が出ない。喉の奥が空っぽになり、肺がうまく動かない。矢野は静の視線を見つけると、ほんの一瞬だけ肩を竦める。唇だけが「大丈夫」の形に動く。音にならない「大丈夫」は、音がないまま静の体に入る。列が動き出す。足音が揃う。不揃いに揃うのが、出発の足音だ。静は手を上げることもできず、拳を握りしめた。手の甲が白くなるほど力を入れて、拳は指の形を忘れようとしている。
緋真は夢の中の隅で、息を止めた。止めた息が破裂するかのように、現実で目が開く。天井の白がにわかに遠くなり、枕の冷たさが頬の片側に張りついている。濡れている。濡れていると気づいた瞬間、身体全体が“泣いている”事実に追いついた。喉が細く震え、鼻の奥が脈打つ。枕カバーの綿が吸った水分が、ゆっくりと頬に戻ってくる気配すらある。
洗面所の鏡に、目が赤い凡庸な高校生が映っている。額に寝癖、Tシャツは洗いざらし、唇の端にうっすら乾いた線。緋真は鏡越しに、その少年に尋ねた。
「これは、誰の涙なんだ」
静の涙か、矢野の涙か、緋真の失恋の涙か。判別不能の混合物。混ぜた覚えのない色水みたいに、勝手に色を決められて、勝手に胸へ染みていく。所有者不明の液体が、彼の生活の端々を濡らしはじめている。
ティッシュで頬を拭き、丸めた紙片に一瞬だけ迷う。ゴミ箱に落とせば、ほんとうに「自分の涙」になってしまう気がした。緋真は机の引き出しから小さなジップ袋を取り出し、そこへそっと入れた。実験器具みたいに封をして、ペンで〈8/× 夜〉とだけ書く。日付の数字の横に、自分の呼吸がひとつ短くなる音がした。やっていることは愚かしい。愚かしさの自覚はある。だが、愚かしさを引き受けないと守れない境界がある。今夜だけは、それを信じる。
朝、階段を降りると母がいつも通り「夜更かしは肌に悪いよ」と半笑いで言う。緋真は麦茶を一口飲んで、曖昧に頷く。母は続ける。「泣いてた?」。緋真の眉が思わず上がる。「花粉?」。母はテレビのリモコンを探しながら、空気のように心配する。空気のような心配は、刺さらないけれど、無くなると窒息する。緋真は「多分、寝不足」と答えて、食パンを齧った。味が薄い。薄いのは小麦のせいではない。
学校は、いつも通りに自動で動く。英語の授業で例文が黒板に並び、先生が「簡単でしょう」と言う。簡単と断言されたものの方が、難しい時がある。I smiled, but no sound came out. 先生の発音はきれいで、笑顔の発音はもっときれいだ。ノートに書き写した文字が、夢の笑顔と重なって二重にぶれる。化学の授業で化学式の数字が現れては通り過ぎ、係数の前に置かれた小さな点の意味が頭の中でいつまでも定住しない。ホームルームで、体育祭の係の話題。グーグルフォームのURLがスクリーンに映り、係選びの公平性について短い討論。緋真は反射的に「物品管理」にチェックを入れ、送信ボタンを押す。押した指が、自分の意志よりも先に動いた気がする。手遅れの指は、便利だ。
放課後、顧問に呼び止められる。「最近、顔色が悪いぞ」。顧問は悪者にならない言い方を心得ている。緋真は「寝不足です」とだけ答えた。嘘ではないが、真実ではない。顧問は「まあ、無理するな」と肩を叩く。軽い。軽さの精度が高すぎると、余計に沈む。緋真は軽い叩打を背に貼ったまま、昇降口を出た。
駅のベンチで、数分だけ目を閉じる。瞼の裏に夢の残像が張り付き、矢野の横顔と静の握り拳が交互に現れる。〈書かない〉と決めた内側から、言葉が勝手に構文を組み始める。止めようとすると、逆に騒ぐ。緋真は慌ててスマホを取り出し、メモを開いた。言葉を止めるために、むしろ書く。――《笑顔は声ではない。声のない笑顔は、時に泣き顔よりも悲しい》。送信してしまいそうになり、やめる。SNSのタイムラインに流した瞬間、これは軽くなる。軽さに救われる夜もあるが、今夜は重さを保管したい。
家へ戻ると、リビングのテレビでタレントが大声で笑っている。妹が床に寝転び、短い丈のソックスの踵が裏返っている。母が「靴下、ひっくり返すな」と言う。その平和な日常を横目に、緋真は自室へ逃げ込む。「逃げ込む」という語は劇的だけど、実際はドアノブを静かに下げただけだ。机に突っ伏し、目を閉じる。眠りたくないのに、眠りが来る。夢を見るのが怖いのに、夢で会いたい。矛盾が身体を引き裂く。人間はやっかいだ。やっかいでなければ、祈らない。
それでも、夜は来る。呼吸が浅くなるころ、夢の入口の光はいつものように明るい。
※
列は、もう整っている。矢野は、仲間と肩を並べ、その肩と肩の間に、言葉にならない空気がたっぷり詰められている。静は列の外側、端の端にいる。道場の門の影に足の先をほんの少し隠し、日向と日陰の境で立っている。境に立つ姿は、礼に似る。人垣の中から、誰かが「万歳」を叫ぶ。声が揃う。揃っていないのに、揃うことが決定される奇妙な一致。静は、その一致の中で孤立する。孤立は敗北ではない。孤立は、礼のもう一つの形だ。
矢野が振り返る。静の方へ視線がまっすぐ通る。そのまっすぐさは、稽古で見せる突きの軌道と似ているのに、刺さらない。刺さらないように、矢野が全力で鈍らせているからだ。口が動く。「戻る」。音はない。静は唇の内側を噛んで、ようやく首を上下に小さく動かす。動かした首の角度が、礼の角度に近い。近いけれど、礼ではない。礼ができない。
誰かが静の肩に手を置いた。師範代だ。押すでもなく、支えるでもなく、ただ置く。「沖田」。呼んだのは名前だけ。指示も命令も祈りも含まない、名前だけ。静はその名前の重さを肩で受け、矢野から目を離す。離すことで、矢野を守る術が、この夜の静にはそれしかないと知っているみたいに。
列が、完全に動き出す。砂埃が低く舞い、足音が先へ先へと薄まっていく。静は拳を握ったまま、腕の力を抜けない。抜けない拳は、身体のどこか別の場所を硬くする。顎が硬い。目の周りが硬い。硬いまま、静は呼吸をしている。呼吸がある。呼吸があるなら、それでいい、と緋真は夢の隅で勝手に結論する。結論は、祈りと紙一重だ。
そこで夢が切れた。切れた、というより、誰かに穏やかに背中を押されて、浅い水に浮かび上がるように目が開いた。現実の暗がりの中で、緋真の身体はまだ泣いていた。涙の通り道を、涙の後続が同じようになぞる。枕はまた濡れる。嗚咽の瞬間、幾つかの名が喉の奥で衝突して、音の手前で砕ける。静。矢野。緋真。その順番はいちいち変わる。変わるたび、涙の所有者も入れ替わる。
緋真はベッドから降り、机の上で小さなノートを開いた。涙でペン先が滑る。――《所有者不明の涙/証拠品No.2》。自分にしかわからない冗談は、睡魔よりも性格が悪い。冗談を書いて、自嘲でふたをする。そのふたの下で、液体は熱を持つ。ふたはコンロの蓋に似ていて、爆ぜる予感を思い出させる。
スマホをつかむ。連絡アプリを開きかけてやめる。誰かに「やばい」「無理」と送れば、朝までに何個かのスタンプが溜まって、救われた気がする救いが画面に並ぶ。受け取り方を間違えなければ、それは本当に救いだ。でも、今夜は“受け取りたくない救い”の方が多い。緋真は画面を伏せ、両手で顔を覆った。顔の熱が手のひらに移る。移った熱が、ようやく自分のものになる。
※
朝の光は、思っていたよりあっけなく、いつも通りだった。母がキッチンで卵焼きを巻いている。父が出勤のネクタイの色を迷っている。妹がストーリーを上げながらトーストにチョコスプレーを振っている。「朝からそれ?」と母が笑う。緋真は「いただきます」と言いながら立って飲むヨーグルトを一気に流し込む。胃が驚いて、少しだけ目が覚める。
学校では、緋真の“凡庸”が忠実に働く。提出物の期限にギリギリ間に合い、掃除の時間は黙々と机を運び、昼休みは購買のパンに出遅れてカップ焼きそばに並ぶ。カップに湯を注ぎ、待つ三分の間、スマホのメモをまた開く。フリック入力は、泣いた指でも正確だ。《涙の持ち主は誰だ? /持ち主などいない? /笑顔は声ではない、の続き》。続きは出ない。出ないことが、続きになる。
国語の時間、先生がふいに言った。「『所有』という語の由来を調べてみたら面白いぞ」。クラスの誰かが小声で「マジで」と笑う。先生は淡々と板書する。「所有=個人が支配できるもの、他者から排他的に区別する」。緋真は鉛筆を止める。“排他的”。その言葉は、涙には似合わない気がする。涙は排他ではなく共有だ。共有というより、侵入だ。侵入してきたものに、自分の名前を貼ることが「所有」だとしたら、それは傲慢だ。傲慢だけれど、人間は名前を貼らないと生きていけない。
帰り道、緋真は駅前の雑貨屋で小さなガラス瓶のセットを買った。コルク栓がついた、安っぽい透明。店員が「アロマ用ですか?」と笑う。「はい」と嘘をつく。嘘は、今回についてだけは許してほしい。レジ袋の中で、瓶がごとごとと触れ合う。触れ合う音が、不意に心地よい。壊れやすいもの同士が、壊れずにぶつかり合う音だ。
夜。家族がテレビを見て笑っている声が遠い。緋真は自室で、机に突っ伏す。瓶をひとつ取り出し、コルクを外す。馬鹿げている、と十回くらい思いながら、目の下を指で押してみる。涙は、押せば出るものではない。わかっている。わかっているけれど、指は勝手に動く。そうやって手に入れた液体は、自分のものでしかない。自分のものしか集められない無力を、緋真は笑うしかない。笑いはすぐ乾く。
電気を消す前に、ノートを開く。《涙の所有者》という見出しを大きく書く。下に箇条書き。《1.静/2.矢野/3.緋真/4.誰でもない/5.誰でもある》。リストだけが増える。答えはどれでもあり、どれでもない。こういうとき、人は神社へ行く。緋真は明日、神社に行こうと決める。決めただけで、今夜の眠りは少しだけ柔らかくなる。
眠りの手前、緋真は、静の名ではなく矢野の名を呼んだ。声に出さない。唇が、音のない形をつくる。嫉妬と敬意の境界が、ぼやけ始めている。ぼやけてくれたほうが、都合がいい夜がある。ぼやけたままの輪郭は、ひとの優しさに似ている。
※
翌日の放課後、神社の境内は薄く湿っていた。昨夜の雨が石畳の間に残る。鳥居の朱は退色していて、指先で触れると粉がつきそうだ。拝殿の前で立ち止まり、鈴緒に手を伸ばして、触れずに引っ込める。賽銭箱に十円玉を二枚落とす。音がして、音の余韻が、木の暗い内側に吸い込まれる。
絵馬の棚には、「合格」「健康」「恋愛」の整然とした願いが並ぶ。緋真は何も書かない。書いてしまうと、自分の願いに所有権が生まれてしまう。所有権のある願いは、案外脆い。代わりに、ポケットの中のガラス瓶に指を当てる。瓶は空っぽだ。空っぽは、傲慢さを中和する。
境内の隅に腰かけて、緋真はスマホのメモをもう一度開いた。――《笑顔は声ではない。声のない笑顔は、時に泣き顔よりも悲しい》。続きにこう足す。《涙は、器を選ばない。けれど、器は涙を選びたがる》。選びたがる自分の手を、緋真は見つめる。器を名乗る資格はない。預かり人でいい。預かり人は、所有者ではない。返す前提で受け取る。
家に戻り、祖母へ短いメッセージを送ろうとしてやめる。代わりに〈今度、そっちに行く〉だけ送る。「おいで」とすぐ返る。短い言葉の速さに、胸が少し痛くて、少しうれしい。
その夜、眠りはやはりやって来る。やって来るとわかっているのに、怖い。怖いまま目を閉じる。目を閉じた先に、また道場の木の匂いが立ち上る。矢野はもう列にいない。空気の中に、彼の踏み込みの残像だけが漂っている。静は縁側で面を抱いている。面金の曇りに、弱い光が揺れている。静は誰にも見えないように、ほんの少しだけ泣く。泣き方にも礼があるのだと知っているみたいに、声を殺す。殺した声は、生きたまま内側に残る。
その涙の音が、緋真の胸の奥に直接落ちて、現実の枕にまた湿りを増やす。緋真は、泣いている自分を、もう“驚き”だけでは受け止めない。受け止めながら、同時に計る。これは誰の涙か。計ることは、無礼かもしれない。それでも、いまは計りたい。計ることでしか、繋がれない夜がある。
机の引き出しから新しいティッシュを取り出し、頬に当てる。小さな瓶のコルクを外す。液体はほんの少しだ。入れても、何の意味もないとわかっている。それでも、入れる。入れてから、紙に書く。《涙No.3 匂い:なし 色:透明 温度:37前後(推定) 所有者:未決定》。理科の実験ノートのふりをして、祈りの手順をつくる。手順があると、人は壊れにくい。壊れにくいと、誰かを壊さない。
次の瞬間、緋真は気づいた。涙を集めることに夢中になって、肝心のことを忘れるところだった。――記録。緋真はノートを開き、夢の場面を走り書きする。矢野の肩の竦め方、静の拳の白さ、万歳の声の揃わなさ、面金の曇りに移った縁側の木目。言葉が自動記述のように流れ出す。書くことで、涙は収まる。収まった涙は、瓶の中ではなく、行間に吸い込まれる。吸い込まれた涙は、誰のものでも、誰のものでもない。
緋真はペンを置き、長く息を吐いた。天井が、いつもより近く感じられる。近いのは、眠気ではなく、決意のせいだ。彼は小さく声に出すでもなく、心の中でだけ呟く。
――僕は、所有者にならない。預かり人でいる。君の涙を、君のまま持っておく。
「君」は誰だ。静か。矢野か。あるいは、自分か。判別不能の混合物。その混合のまま、緋真は目を閉じた。
※
翌朝、校門をくぐると、ケンタが寄ってきた。「おまえ、最近、文章うまくなってね? メモのやつ、なんか、刺さる」。緋真は肩を竦める。「投稿してないけど」。ケンタは「いや、その……授業中の端っこに書いてるやつ」と笑う。どうやら、緋真が机に伏せていたノートの端を、ケンタは盗み見ていたらしい。「『笑顔は声ではない』って、わかるわーって思って」。緋真は笑ってごまかす。「授業中に見るな」。ケンタは「すまん」と言いながら、「なんか、痩せた?」と首を傾げた。緋真は「あー……寝不足」。それで話は終わる。終わらせてくれる友人がいるのは、贅沢だ。
放課後、保健室の前を通りかかったとき、養護教諭がドアから顔を出した。「神田くん、顔色」。緋真は反射的に笑顔を作る。「大丈夫です」。声が出た。声のある笑顔は、いくらかましだ。「寝なさいよ」と先生が言う。「はい」。短い返事の中に、夜への恐怖と期待が等量で混ぜ込まれていることを、緋真は自覚する。自覚は、罪悪感を少しだけ軽くする。
帰り道、海の方から低い風が来た。防波堤の上に、猫が一匹。名をつけられていない。名をつけられないまま、夕暮れの色に溶けていく。緋真は立ち止まり、ポケットからガラス瓶を取り出して、蓋を開けた。風が瓶の口を通り抜けて、何も入れないまま通り過ぎる。何も入らない。それでいい。空の瓶は、空のまま、彼の掌で温まる。温もりだけが、彼のものだ。中身の所有者は、神様のほうで決めればいい。神様がいなければ、風が決めればいい。
家に着き、机に座る。ノートの一番最後のページに、小さく書く。《預かり人宣言》。その下に、今日の一行。《涙は運ばれる。血で、風で、夢で》。書いた瞬間、胸の中で固いものが少しだけほどけた。ほどけた分だけ、眠りが近づいてくる。
布団の中で、緋真は最後の抵抗をやめた。目を閉じ、暗闇と仲直りする。暗闇の向こうで、道場の板間がまた光を集めるだろう。静と矢野がどこかで、互いの礼を忘れずに立っているだろう。彼は今夜も、名前を呼ばない祈りを投げる。投げた祈りは、誰のものにもならず、どこかで誰かの涙に混ざる。
眠り落ちる直前、緋真は確かに、ひとつの言葉を胸の中で結んだ。
――所有ではなく、継承。
その言葉は、今はまだ彼の手に余る。余るけれど、握っている形だけは覚えておく。覚えておけば、いつか、誰かに返せる。涙ごと、そっくり。その時、瓶は空でいい。空の器こそが、いちばん信頼できると、今夜の緋真は信じている。
“書かない”と決めた夜にかぎって、眠りは緋真に親切だった。親切というのは、甘やかすことではない。寝返りを打つたび現実の縫い目に指先が引っかかり、そこから音なくほどけ落ちるみたいに夢へ渡される。渡された先にあったのは、よく知る道場の板間で、いつものように風が畳の目をなでる音、竹刀が立てかけられた壁の控えめな影、そして、耳が拒んでいても身体が先に覚えてしまう鋭い色――赤。
板間の真ん中に、封筒が置かれている。縁取りの赤が、蛍光灯の白さを吸って、乾いた血のように艶を失っている。誰かがそれを「おめでたい色だ」と言いたげに笑いの形を作り、別の誰かがその笑いの形に自分の笑いを合わせる。万歳を唱える声は、練習で合わせる掛け声と同じ調子なのに、まったく違う意味を背負っている。矢野が、その真ん中に立っていた。いつもの凛とした眉が、今日はいつも通りに見えない。踏み込みの強さを隠すみたいに、肩がほんのすこしだけ丸い。
封筒を差し出す男の影が矢野の影に重なる。矢野はそれを受け取って、笑う。歯が覗くほどでも、声が漏れるほどでもない。笑顔のフォームだけが正確に整っている。静は笑えない。面を持つ手が震え、目の焦点がどこにも合わないまま、合いそうな一点を必死に探している。矢野が近づいて、囁いた。
「俺が戻らなかったら、面を片づけとけ」
静の首が、早すぎず、遅すぎず、確実に横へ動く。
「戻ってくる前提で言って。それに――僕も戻ってこられるかわからない」
互いの強がりは、相手のために作られている。矢野の目は、いつもより少しだけ幼い。静の唇は、いつもより少しだけ固い。師範代が遠くで「よくやった」と誰かに向けて言っている。その「誰か」は二人ではない。誰でもない「少年」という複数に向けて言っている。
矢野の出征の日。門前の空気が、色を持つ前の薄明るさで満ちている。町内の人々が旗を振り、紙の旗が風で乱れ、垂木に当たってかすかな音を立てる。静は列の端で矢野を見送る。笑顔は作れるのに、声が出ない。喉の奥が空っぽになり、肺がうまく動かない。矢野は静の視線を見つけると、ほんの一瞬だけ肩を竦める。唇だけが「大丈夫」の形に動く。音にならない「大丈夫」は、音がないまま静の体に入る。列が動き出す。足音が揃う。不揃いに揃うのが、出発の足音だ。静は手を上げることもできず、拳を握りしめた。手の甲が白くなるほど力を入れて、拳は指の形を忘れようとしている。
緋真は夢の中の隅で、息を止めた。止めた息が破裂するかのように、現実で目が開く。天井の白がにわかに遠くなり、枕の冷たさが頬の片側に張りついている。濡れている。濡れていると気づいた瞬間、身体全体が“泣いている”事実に追いついた。喉が細く震え、鼻の奥が脈打つ。枕カバーの綿が吸った水分が、ゆっくりと頬に戻ってくる気配すらある。
洗面所の鏡に、目が赤い凡庸な高校生が映っている。額に寝癖、Tシャツは洗いざらし、唇の端にうっすら乾いた線。緋真は鏡越しに、その少年に尋ねた。
「これは、誰の涙なんだ」
静の涙か、矢野の涙か、緋真の失恋の涙か。判別不能の混合物。混ぜた覚えのない色水みたいに、勝手に色を決められて、勝手に胸へ染みていく。所有者不明の液体が、彼の生活の端々を濡らしはじめている。
ティッシュで頬を拭き、丸めた紙片に一瞬だけ迷う。ゴミ箱に落とせば、ほんとうに「自分の涙」になってしまう気がした。緋真は机の引き出しから小さなジップ袋を取り出し、そこへそっと入れた。実験器具みたいに封をして、ペンで〈8/× 夜〉とだけ書く。日付の数字の横に、自分の呼吸がひとつ短くなる音がした。やっていることは愚かしい。愚かしさの自覚はある。だが、愚かしさを引き受けないと守れない境界がある。今夜だけは、それを信じる。
朝、階段を降りると母がいつも通り「夜更かしは肌に悪いよ」と半笑いで言う。緋真は麦茶を一口飲んで、曖昧に頷く。母は続ける。「泣いてた?」。緋真の眉が思わず上がる。「花粉?」。母はテレビのリモコンを探しながら、空気のように心配する。空気のような心配は、刺さらないけれど、無くなると窒息する。緋真は「多分、寝不足」と答えて、食パンを齧った。味が薄い。薄いのは小麦のせいではない。
学校は、いつも通りに自動で動く。英語の授業で例文が黒板に並び、先生が「簡単でしょう」と言う。簡単と断言されたものの方が、難しい時がある。I smiled, but no sound came out. 先生の発音はきれいで、笑顔の発音はもっときれいだ。ノートに書き写した文字が、夢の笑顔と重なって二重にぶれる。化学の授業で化学式の数字が現れては通り過ぎ、係数の前に置かれた小さな点の意味が頭の中でいつまでも定住しない。ホームルームで、体育祭の係の話題。グーグルフォームのURLがスクリーンに映り、係選びの公平性について短い討論。緋真は反射的に「物品管理」にチェックを入れ、送信ボタンを押す。押した指が、自分の意志よりも先に動いた気がする。手遅れの指は、便利だ。
放課後、顧問に呼び止められる。「最近、顔色が悪いぞ」。顧問は悪者にならない言い方を心得ている。緋真は「寝不足です」とだけ答えた。嘘ではないが、真実ではない。顧問は「まあ、無理するな」と肩を叩く。軽い。軽さの精度が高すぎると、余計に沈む。緋真は軽い叩打を背に貼ったまま、昇降口を出た。
駅のベンチで、数分だけ目を閉じる。瞼の裏に夢の残像が張り付き、矢野の横顔と静の握り拳が交互に現れる。〈書かない〉と決めた内側から、言葉が勝手に構文を組み始める。止めようとすると、逆に騒ぐ。緋真は慌ててスマホを取り出し、メモを開いた。言葉を止めるために、むしろ書く。――《笑顔は声ではない。声のない笑顔は、時に泣き顔よりも悲しい》。送信してしまいそうになり、やめる。SNSのタイムラインに流した瞬間、これは軽くなる。軽さに救われる夜もあるが、今夜は重さを保管したい。
家へ戻ると、リビングのテレビでタレントが大声で笑っている。妹が床に寝転び、短い丈のソックスの踵が裏返っている。母が「靴下、ひっくり返すな」と言う。その平和な日常を横目に、緋真は自室へ逃げ込む。「逃げ込む」という語は劇的だけど、実際はドアノブを静かに下げただけだ。机に突っ伏し、目を閉じる。眠りたくないのに、眠りが来る。夢を見るのが怖いのに、夢で会いたい。矛盾が身体を引き裂く。人間はやっかいだ。やっかいでなければ、祈らない。
それでも、夜は来る。呼吸が浅くなるころ、夢の入口の光はいつものように明るい。
※
列は、もう整っている。矢野は、仲間と肩を並べ、その肩と肩の間に、言葉にならない空気がたっぷり詰められている。静は列の外側、端の端にいる。道場の門の影に足の先をほんの少し隠し、日向と日陰の境で立っている。境に立つ姿は、礼に似る。人垣の中から、誰かが「万歳」を叫ぶ。声が揃う。揃っていないのに、揃うことが決定される奇妙な一致。静は、その一致の中で孤立する。孤立は敗北ではない。孤立は、礼のもう一つの形だ。
矢野が振り返る。静の方へ視線がまっすぐ通る。そのまっすぐさは、稽古で見せる突きの軌道と似ているのに、刺さらない。刺さらないように、矢野が全力で鈍らせているからだ。口が動く。「戻る」。音はない。静は唇の内側を噛んで、ようやく首を上下に小さく動かす。動かした首の角度が、礼の角度に近い。近いけれど、礼ではない。礼ができない。
誰かが静の肩に手を置いた。師範代だ。押すでもなく、支えるでもなく、ただ置く。「沖田」。呼んだのは名前だけ。指示も命令も祈りも含まない、名前だけ。静はその名前の重さを肩で受け、矢野から目を離す。離すことで、矢野を守る術が、この夜の静にはそれしかないと知っているみたいに。
列が、完全に動き出す。砂埃が低く舞い、足音が先へ先へと薄まっていく。静は拳を握ったまま、腕の力を抜けない。抜けない拳は、身体のどこか別の場所を硬くする。顎が硬い。目の周りが硬い。硬いまま、静は呼吸をしている。呼吸がある。呼吸があるなら、それでいい、と緋真は夢の隅で勝手に結論する。結論は、祈りと紙一重だ。
そこで夢が切れた。切れた、というより、誰かに穏やかに背中を押されて、浅い水に浮かび上がるように目が開いた。現実の暗がりの中で、緋真の身体はまだ泣いていた。涙の通り道を、涙の後続が同じようになぞる。枕はまた濡れる。嗚咽の瞬間、幾つかの名が喉の奥で衝突して、音の手前で砕ける。静。矢野。緋真。その順番はいちいち変わる。変わるたび、涙の所有者も入れ替わる。
緋真はベッドから降り、机の上で小さなノートを開いた。涙でペン先が滑る。――《所有者不明の涙/証拠品No.2》。自分にしかわからない冗談は、睡魔よりも性格が悪い。冗談を書いて、自嘲でふたをする。そのふたの下で、液体は熱を持つ。ふたはコンロの蓋に似ていて、爆ぜる予感を思い出させる。
スマホをつかむ。連絡アプリを開きかけてやめる。誰かに「やばい」「無理」と送れば、朝までに何個かのスタンプが溜まって、救われた気がする救いが画面に並ぶ。受け取り方を間違えなければ、それは本当に救いだ。でも、今夜は“受け取りたくない救い”の方が多い。緋真は画面を伏せ、両手で顔を覆った。顔の熱が手のひらに移る。移った熱が、ようやく自分のものになる。
※
朝の光は、思っていたよりあっけなく、いつも通りだった。母がキッチンで卵焼きを巻いている。父が出勤のネクタイの色を迷っている。妹がストーリーを上げながらトーストにチョコスプレーを振っている。「朝からそれ?」と母が笑う。緋真は「いただきます」と言いながら立って飲むヨーグルトを一気に流し込む。胃が驚いて、少しだけ目が覚める。
学校では、緋真の“凡庸”が忠実に働く。提出物の期限にギリギリ間に合い、掃除の時間は黙々と机を運び、昼休みは購買のパンに出遅れてカップ焼きそばに並ぶ。カップに湯を注ぎ、待つ三分の間、スマホのメモをまた開く。フリック入力は、泣いた指でも正確だ。《涙の持ち主は誰だ? /持ち主などいない? /笑顔は声ではない、の続き》。続きは出ない。出ないことが、続きになる。
国語の時間、先生がふいに言った。「『所有』という語の由来を調べてみたら面白いぞ」。クラスの誰かが小声で「マジで」と笑う。先生は淡々と板書する。「所有=個人が支配できるもの、他者から排他的に区別する」。緋真は鉛筆を止める。“排他的”。その言葉は、涙には似合わない気がする。涙は排他ではなく共有だ。共有というより、侵入だ。侵入してきたものに、自分の名前を貼ることが「所有」だとしたら、それは傲慢だ。傲慢だけれど、人間は名前を貼らないと生きていけない。
帰り道、緋真は駅前の雑貨屋で小さなガラス瓶のセットを買った。コルク栓がついた、安っぽい透明。店員が「アロマ用ですか?」と笑う。「はい」と嘘をつく。嘘は、今回についてだけは許してほしい。レジ袋の中で、瓶がごとごとと触れ合う。触れ合う音が、不意に心地よい。壊れやすいもの同士が、壊れずにぶつかり合う音だ。
夜。家族がテレビを見て笑っている声が遠い。緋真は自室で、机に突っ伏す。瓶をひとつ取り出し、コルクを外す。馬鹿げている、と十回くらい思いながら、目の下を指で押してみる。涙は、押せば出るものではない。わかっている。わかっているけれど、指は勝手に動く。そうやって手に入れた液体は、自分のものでしかない。自分のものしか集められない無力を、緋真は笑うしかない。笑いはすぐ乾く。
電気を消す前に、ノートを開く。《涙の所有者》という見出しを大きく書く。下に箇条書き。《1.静/2.矢野/3.緋真/4.誰でもない/5.誰でもある》。リストだけが増える。答えはどれでもあり、どれでもない。こういうとき、人は神社へ行く。緋真は明日、神社に行こうと決める。決めただけで、今夜の眠りは少しだけ柔らかくなる。
眠りの手前、緋真は、静の名ではなく矢野の名を呼んだ。声に出さない。唇が、音のない形をつくる。嫉妬と敬意の境界が、ぼやけ始めている。ぼやけてくれたほうが、都合がいい夜がある。ぼやけたままの輪郭は、ひとの優しさに似ている。
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翌日の放課後、神社の境内は薄く湿っていた。昨夜の雨が石畳の間に残る。鳥居の朱は退色していて、指先で触れると粉がつきそうだ。拝殿の前で立ち止まり、鈴緒に手を伸ばして、触れずに引っ込める。賽銭箱に十円玉を二枚落とす。音がして、音の余韻が、木の暗い内側に吸い込まれる。
絵馬の棚には、「合格」「健康」「恋愛」の整然とした願いが並ぶ。緋真は何も書かない。書いてしまうと、自分の願いに所有権が生まれてしまう。所有権のある願いは、案外脆い。代わりに、ポケットの中のガラス瓶に指を当てる。瓶は空っぽだ。空っぽは、傲慢さを中和する。
境内の隅に腰かけて、緋真はスマホのメモをもう一度開いた。――《笑顔は声ではない。声のない笑顔は、時に泣き顔よりも悲しい》。続きにこう足す。《涙は、器を選ばない。けれど、器は涙を選びたがる》。選びたがる自分の手を、緋真は見つめる。器を名乗る資格はない。預かり人でいい。預かり人は、所有者ではない。返す前提で受け取る。
家に戻り、祖母へ短いメッセージを送ろうとしてやめる。代わりに〈今度、そっちに行く〉だけ送る。「おいで」とすぐ返る。短い言葉の速さに、胸が少し痛くて、少しうれしい。
その夜、眠りはやはりやって来る。やって来るとわかっているのに、怖い。怖いまま目を閉じる。目を閉じた先に、また道場の木の匂いが立ち上る。矢野はもう列にいない。空気の中に、彼の踏み込みの残像だけが漂っている。静は縁側で面を抱いている。面金の曇りに、弱い光が揺れている。静は誰にも見えないように、ほんの少しだけ泣く。泣き方にも礼があるのだと知っているみたいに、声を殺す。殺した声は、生きたまま内側に残る。
その涙の音が、緋真の胸の奥に直接落ちて、現実の枕にまた湿りを増やす。緋真は、泣いている自分を、もう“驚き”だけでは受け止めない。受け止めながら、同時に計る。これは誰の涙か。計ることは、無礼かもしれない。それでも、いまは計りたい。計ることでしか、繋がれない夜がある。
机の引き出しから新しいティッシュを取り出し、頬に当てる。小さな瓶のコルクを外す。液体はほんの少しだ。入れても、何の意味もないとわかっている。それでも、入れる。入れてから、紙に書く。《涙No.3 匂い:なし 色:透明 温度:37前後(推定) 所有者:未決定》。理科の実験ノートのふりをして、祈りの手順をつくる。手順があると、人は壊れにくい。壊れにくいと、誰かを壊さない。
次の瞬間、緋真は気づいた。涙を集めることに夢中になって、肝心のことを忘れるところだった。――記録。緋真はノートを開き、夢の場面を走り書きする。矢野の肩の竦め方、静の拳の白さ、万歳の声の揃わなさ、面金の曇りに移った縁側の木目。言葉が自動記述のように流れ出す。書くことで、涙は収まる。収まった涙は、瓶の中ではなく、行間に吸い込まれる。吸い込まれた涙は、誰のものでも、誰のものでもない。
緋真はペンを置き、長く息を吐いた。天井が、いつもより近く感じられる。近いのは、眠気ではなく、決意のせいだ。彼は小さく声に出すでもなく、心の中でだけ呟く。
――僕は、所有者にならない。預かり人でいる。君の涙を、君のまま持っておく。
「君」は誰だ。静か。矢野か。あるいは、自分か。判別不能の混合物。その混合のまま、緋真は目を閉じた。
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翌朝、校門をくぐると、ケンタが寄ってきた。「おまえ、最近、文章うまくなってね? メモのやつ、なんか、刺さる」。緋真は肩を竦める。「投稿してないけど」。ケンタは「いや、その……授業中の端っこに書いてるやつ」と笑う。どうやら、緋真が机に伏せていたノートの端を、ケンタは盗み見ていたらしい。「『笑顔は声ではない』って、わかるわーって思って」。緋真は笑ってごまかす。「授業中に見るな」。ケンタは「すまん」と言いながら、「なんか、痩せた?」と首を傾げた。緋真は「あー……寝不足」。それで話は終わる。終わらせてくれる友人がいるのは、贅沢だ。
放課後、保健室の前を通りかかったとき、養護教諭がドアから顔を出した。「神田くん、顔色」。緋真は反射的に笑顔を作る。「大丈夫です」。声が出た。声のある笑顔は、いくらかましだ。「寝なさいよ」と先生が言う。「はい」。短い返事の中に、夜への恐怖と期待が等量で混ぜ込まれていることを、緋真は自覚する。自覚は、罪悪感を少しだけ軽くする。
帰り道、海の方から低い風が来た。防波堤の上に、猫が一匹。名をつけられていない。名をつけられないまま、夕暮れの色に溶けていく。緋真は立ち止まり、ポケットからガラス瓶を取り出して、蓋を開けた。風が瓶の口を通り抜けて、何も入れないまま通り過ぎる。何も入らない。それでいい。空の瓶は、空のまま、彼の掌で温まる。温もりだけが、彼のものだ。中身の所有者は、神様のほうで決めればいい。神様がいなければ、風が決めればいい。
家に着き、机に座る。ノートの一番最後のページに、小さく書く。《預かり人宣言》。その下に、今日の一行。《涙は運ばれる。血で、風で、夢で》。書いた瞬間、胸の中で固いものが少しだけほどけた。ほどけた分だけ、眠りが近づいてくる。
布団の中で、緋真は最後の抵抗をやめた。目を閉じ、暗闇と仲直りする。暗闇の向こうで、道場の板間がまた光を集めるだろう。静と矢野がどこかで、互いの礼を忘れずに立っているだろう。彼は今夜も、名前を呼ばない祈りを投げる。投げた祈りは、誰のものにもならず、どこかで誰かの涙に混ざる。
眠り落ちる直前、緋真は確かに、ひとつの言葉を胸の中で結んだ。
――所有ではなく、継承。
その言葉は、今はまだ彼の手に余る。余るけれど、握っている形だけは覚えておく。覚えておけば、いつか、誰かに返せる。涙ごと、そっくり。その時、瓶は空でいい。空の器こそが、いちばん信頼できると、今夜の緋真は信じている。



