沈黙の血脈

第五話 家系図の沈黙

 六限のチャイムが鳴り切る前に、緋真は筆箱を鞄へ押し込み、机の端に滑ったプリントを片手でたぐり寄せた。ホームルームの連絡はだいたいLINEでも来るし、先生の締めの「体調管理」は百回聞いた言葉だ。教卓の前を素早くすり抜けると、廊下の窓は既に夕方の色を少し孕んでいて、体育館から漏れるバスケ部のドリブル音が、足音のリズムを勝手に決めた。
 昇降口で上履きを脱ぎながら、母へメッセージを送る。《今日、祖母ちゃんの家行く。晩ごはんいらないかも》。送信のブルーが走るのと同時に、Suicaをかざす。改札のタッチ音は、いつもより乾いて聞こえた。急行ホームに出ると、汗の残る風がトンネルの口から逆流してきて、髪の分け目を少しだけずらした。
 電車は、夏の終わりの人を満たしていた。制服の群れ、スーツの背中、ベビーカーの小さな手。緋真はドア横に身体をあずけ、窓に映る自分の顔を見ないように視線を落とした。スマホの画面に親指が並べるのは、些末な検索語だ。「祖母 旧姓」「家系図 見方」「和紙 保存」――打ち込みかけて、消す。今さらの予習は、礼儀に聞こえるふりをして、実は臆病の小道具かもしれない。
 急行は五駅目で小さな停車をした。ここで各駅に乗り換える。ホームに降りると、花屋の冷気が階段口から漏れてきて、淵に浮いたような蘭の花弁が二、三枚だけ鮮烈だった。各駅の車内は座席の端がわずかに空いている。座らずに立つ。立っている方が、祖母の家に着いたとき、その距離の重みを身体が覚えていてくれる気がする。
 電車を降り、商店街を抜ける。アーケードの骨組みが古い格子の影を落としている。魚屋の氷が道路の端で痩せ、小さな水たまりが夕方の光を集めて、ぎらりと笑った。和菓子屋の前で足が止まる。「青梅大福 本日あり」という手書きの札。祖母の家に行くときは、なにかひとつ持っていきたい。青梅――酸味のある甘さは、祖母の笑い方と同じだ。二つ買って、紙袋を下げる。紙袋の持ち手が汗ばむ掌の湿りを吸って、じわりと重さが変わる。
 瓦の屋根が連なる一角は、日差しをまとめて吸っている。石畳の目地から草が伸び、その緑は、都会の緑と違って、誰に見られなくてもまっすぐだ。玄関の引き戸に手をかけると、金具が低く鳴いた。開けるよりも「開いてしまう」くらいの軽さだ。戸を引く途中、内側の影がずれて、祖母の声が先に出てきた。
「どうしたんだい、急に」
 土間に立つ祖母はエプロンをしていて、手にはふきん。髪を少しだけ後ろで束ね、耳たぶの下に小さなパールが揺れている。彼女の周りの空気だけ、少し明るい。緋真は靴を脱ぎ、青梅大福の紙袋を差し出した。
「お土産。青梅のやつ、まだあるかと思って」
「まあ。あんた、私の好みを忘れないねえ」
 祖母は台所に向かいがてら、湯呑を二つ用意する。湯沸かしポットの音が早口で話し始め、やがていいところで止まる。畳の居間に上がると、扇風機がゆっくり回っていて、壁のカレンダーは町のクリーニング屋の広告。机の上の小皿には砂糖が盛ってあり、その白さが畳の緑と喧嘩せずに並んでいる。
 湯呑を受け取り、緋真は膝を揃えた。遠回しをやめた。
「家系図、見せてください」
 祖母の笑い目が、すっと細くなり、すぐには言葉が降りてこない。それでも、拒む色はなかった。小さく頷いてから、祖母は立ち上がる。
「こっちへおいで」
 廊下の先、仏間は昼でも薄暗い。格子の障子が柔らかな光を切り分け、小さな位牌の金色が遠目に沈み、美しく冷たい。祖母は桐箪笥の前に膝を折り、最下段の引き出しを両手でゆっくり引いた。中から、桐箱。箱の上に薄い布をかけ、手のひらで一度撫でる。蓋を外すと、さらに布包み。手順は、誰かから受け継いだ「やり方」だとすぐわかる動きだ。布包みの端を持ち上げると、古い紙束が現れた。紙は薄く、わずかに黄味が強い。持ち上げた瞬間、乾いた音が鳴り、紙の端が緋真の指をかすめた。紙で切ったところにじわりと赤がにじむ。祖母がそっとハンカチを貸してくれる。
「指、貸してごらん。紙の方が年上だから、加減しないのよ」
 冗談めかす言い方で、手つきはまっすぐだ。緋真は小さく笑い、痛みで現在を確認する。痛む指先は、礼の位置を教え直す。
 仏間の座卓に紙束を広げる。古い文字は達筆ではない。けれど、饒舌だ。屋号、婚姻、転居、戦地――整然と並ぶ漢字の隙間に、暮らしの温度が湿っている。昔の人の字は、声を持っている。緋真は思った。声が紙から微かに立ち上る。
 紙の真ん中、ひとつの名前が止まった。沖田静。生年の横に赤い印。従軍。その先――白い空白。線が続くはずの場所に、何も書かれていない。周囲には、同世代の名前があり、そこには「戦地にて」「■年病没」「帰郷後婚」といった短い結びがある。静だけが、空白を抱えている。
「……ここ、なんで空いてるの」
 祖母は視線を落とし、しばらく紙の繊維を見ていた。やがて、喉の奥で小さく息を整えた。
「うちはね、“わからないままにする”ことを選んだ人が多いんだよ」
 わからないまま――祖母の声は、痛みではなく、選択の音だ。緋真はその響きに少し怯え、同時に救われる。
「静さんは、祖母ちゃんの……」
「叔父にあたる人。みんな、静ちゃんって呼んでた。写真は、ない。戦争で焼けたし、ね。もしかしたら、わざと残さなかったのかもしれない。残すと、待ち続けちゃうから」
「待ち続ける」
「戻る人もいれば、戻らない人もいる。戻らないのに、名前を呼び続けるのは、ね。生きてる方の呼吸を詰まらせることがあるのよ」
 祖母は一枚、別の紙をめくった。そこには、見知らぬ女の名前の横に「嫁ぎ先で病」とあった。短い。短い言葉に、長い日々が畳まれてしまう。緋真は喉が詰まり、唾を飲む音がやけに大きく響いた。
「知ることは時に人を救うけれど、確定させる言葉は、別の誰かを殺すことがある。あの時代を生きた人たちは、そういう線引きをしたんだろうね」
 祖母の言葉は、責めではない。説明でもない。ただ、自分たちが選んだ歩幅の話だ。紙の上に沈黙の場所を作ること。そこに手を触れないでいること。それもまた、礼の一つの方法だと、緋真はやっと気づいた。
 仏間の匂いは、古い線香と木の脂が混じったやさしい臭いだ。その匂いに、夢の中の道場の畳の匂いが薄く重なる。静の名前を目でなぞりながら、緋真は現実の紙のざらつきを指でなぞった。夢で見た少年の輪郭が、紙に負ける。紙の勝利を喜ぶべきか、悔しがるべきか、わからない。わからないままにすることを、祖母は教えている。
「静さん、どんな人だったんだろう」
 緋真の問いは、聞かずにいられない子どもの問いで、祖母の目尻が少しだけ下がった。
「私もね、直接は知らない。うちでは、静ちゃんの話は、不思議と誰も語らなかったの。語ると凍ることって、あるだろ? 言葉にした途端、その言葉で誰かが固まってしまう。そういうのを、年寄りたちは嫌ったのかもしれない」
「語らなかったから、こうして残ったのかな」
「かもしれないねえ。沈黙って、逃げ道にもなるし、保存食にもなる」
 祖母は淡く笑い、そっと紙束に布をかけた。緋真も手を添え、端を折り返す。しまう時の手順は、取り出す時の逆順を忠実になぞる。桐箱に収まったとき、仏間の空気が少し落ち着いた。
 居間へ戻ると、祖母は饅頭の皿を持ってきてくれた。真ん中が少し窪んだ、こしあんの薄皮饅頭。緋真はひと口齧る。甘さが胸に痛い。甘い痛みは、子どもの頃、風邪薬のシロップの後味にも似ていた。祖母が湯呑をこちらへ押しやる。湯気が、饅頭の甘さを薄めてくれる。
 口の中の甘さが引いた頃、緋真は迷った。夢のことを言うべきか。言えば軽くなる。軽くなることが無礼になることは、彼ももう知っている。言えない代わりに、別の言葉が口を出た。
「ねえ、祖母ちゃん。もし、静さんのことを小説にしたら、怒りますか」
 祖母は驚いた顔をほんのすこしだけ見せ、湯呑の中に視線を落とした。湯の表面に、扇風機の風が小さな円を描く。祖母は湯を一口、飲んでから、言った。
「誰かを想うために書くのかい、それとも誰かを勝たせるために書くのかい」
 想うために、勝たせるために。言葉は並んでいるが、重さが違う。緋真は、答えられない。想うことは、きれいな言葉だ。けれど、人は、きれいな言葉で自分の都合を包む。勝たせることは、もっと危うい。誰を、何から、どうやって。
 祖母は、緋真が黙っているあいだ、表情を変えずに待った。待つことも、礼だ。やがて、柔らかく笑う。
「怒りはしないよ。けれど、誰かの痛みを“物語のための材料”にしちゃいけない。あんたは器用じゃないから、それはきっとわかるだろう」
 器用じゃない――祖母の言い方は、褒め言葉と注意が半々だ。器用な人は器用にやれる。器用じゃない人は、よく躓く。躓いた傷の跡を、誤魔化さずに持っていけるなら、それは強さにもなる。緋真は頷いた。頷きは、返事のうちでいちばん正直だ。
「……祖母ちゃんは、静さんのこと、祈った?」
 唐突な問いに、祖母は一瞬だけ目を上げた。目の奥に、遠い光が宿る。
「祈ったかどうかは、わからない。名前を呼んで祈ると、確定が降りてくるからね。うちは、“名前を呼ばない祈り”が多かったように思うよ」
 名前を呼ばない祈り。緋真の胸の奥で、夢の縁側の猫がしっぽを一度だけ振った気がした。名をつけない。それでも、そこにいるものは、いる。いることを認める代わりに、名前を置かない。そういう祈りが、血を遡って届いてきたのかもしれない。
 庭の方で、鈴の音がした。祖母が振り向く。「隣の猫だね」。障子を少し開けると、白い額に黒い斑の猫が、縁側の影を滑るように横切った。猫は一度だけこちらを見た。「名は?」と緋真が訊くと、祖母は肩をすくめた。
「つけてないよ。つけると、呼びたくなるからね」
 猫はそれでいい、と言ったように尻尾で畳の縁を一回叩き、去っていった。音が小さく、しかし妙に耳に残る。
 居間で一息ついている間、祖母は洗濯物を取り込むと言って、縁側に出た。緋真も立ち上がる。「手伝う」。祖母は「ありがと」と笑い、物干し竿からバスタオルを外しては緋真に渡す。タオルはまだ湿っていて、日没前の光を少しだけ吸ってあたたかい。タオルを畳む手元に、昔の祖父の作業服の色が一瞬重なった。緋真は、祖母の背中を見た。背中に、誰かの影がいくつも通り過ぎている。そのどれもが、今は名を呼ばれない。
「祖母ちゃん、昔の話を、いつかもう少し聞かせて」
「いつかね。『いつか』って便利な言葉で、腹が立つけど、あんたの『いつか』は急いでないから、許す」
 畳んだ洗濯物の山が低くなったところで、祖母は台所へ戻り、青梅大福を二人で分けて食べた。梅の酸味が今度はやさしく、喉の奥まで明るかった。緋真は湯呑を持ち上げ、深く頭を下げる。礼は誰に向けているのかわからない。けれど、礼を忘れない癖は、夢の少年からだけでなく、祖母からも継いだのだと気がつく。
 日が傾き、帰る時間になった。玄関で靴を履くとき、祖母が「今日は、よく来たね」と言った。その言い方は、「よく来られたね」と「よく来てくれたね」の間に置かれている。緋真は「また来る」と言い、戸を引いた。金具がもう一度、低く鳴った。
 商店街のアーケードに戻ると、夕焼けが天井に反射して、赤い川の底を歩いているようだった。焼き鳥の煙が低く流れ、枯れかけた向日葵が花屋の店先で小さな旗のように揺れる。自販機の缶コーヒーのボタンに灯りが点き、どの甘さを押すか迷うふりだけして、押さない。緋真はアーケードの端にある小さな神社の鳥居をくぐった。風鈴は片付けられたあとで、鈴緒だけが風に触れて、わずかに揺れた。賽銭箱に十円玉を二枚。小さな音が、拝殿の暗さに吸い込まれる。
 ――名を呼ばない祈り。
 緋真は合掌して、何も言わなかった。言わないまま、頭を下げ、静かに上げた。額に残る木の冷たさが、昼間の紙の冷たさと繋がる。
 帰りの電車では、スマホの画面を黒いまま膝に置いた。窓に流れる夜景は、昼間よりも優しい。優しさは偽物でもかまわない。偽物を経由しないと届かない場所がある。改札を抜け、少し遠回りして海に近い道を選ぶ。風の匂いがわずかに塩を運んでくる。塩は、現実を疑いなく現実にする。
 家に着くと、居間のテレビでバラエティが笑っていた。母が「夕飯どうするの」とドアの向こうから訊く。緋真は「食べてきた」と答え、部屋に入る。机にノートパソコン。ノート。今日のメモの断片――「白い空白」「名を呼ばない祈り」「沈黙=保存食」。ポストイットを一枚剥がし、壁に貼ろうとして、やめた。貼るという行為は、残すための手つきだ。今夜は、残し方を間違えたくない。
 小説ファイルを開く。カーソルが親しげに瞬く。手が動く前に、心が退いた。禁忌が絡み合う。同性への恋、虚像への恋、現在から過去への恋、そして先祖への恋。禁忌の数は指の数を超える。超えたものに手を伸ばすと、指の本数以上のことができるふりが身につく。それは危ない。ふりは、長くやると本物になる。その前に、やめる。
 机の上のビー玉を指で転がす。祖母の家から帰る道すがら、ポケットから取り出したままのそれは、昼間よりも内側の空気が広く見えた。光が足りないからだ。足りない光の中で、ビー玉は自分の全てを見せない。その不完全さが、今はちょうどいい。緋真はビー玉を掌に握って、目を閉じた。
 ――今夜は、書かない。
 心の中で、その言葉は驚くほど静かだった。書くことが暴力に傾く瞬間を、自分の手で作りたくない。書く手を止めることもまた、記録の一部にできるはずだ。紙に残るのは文字だけじゃない。空白の配置も、記録になる。空白は、礼の留白だ。
 電気を消す。暗がりが部屋の四隅から寄ってくる。暗さに目が慣れる前に、緋真はふと、昼間の祖母の手の甲の青い血管を思い出した。細い川が皮膚の下を静かに流れて、折れそうになりながらも角を曲がっていく。血の流れは、きっと祈りに似ている。名を呼ばなくても、届く先がある。
 布団に潜り、枕の冷たさに頬を預ける。天井の白は見えない。見えない方がいい夜もある。緋真は胸の中で、一度だけ、名前を呼んだ。声にはしない。呼びかけは、罰であり、慰めだ。
 ――静。
 返事は、ない。
 けれど、その無音が、祖母の仏間の沈黙に繋がった。沈黙は、逃げ道にも保存食にもなる。今夜は保存食として置いておく。明日、腹がすいたとき、ひとかじりすればいい。甘さが胸に痛いだろう。その痛みは、進むための塩分だ。
 目を閉じる。階下のテレビが、遠くへ行く。道路の向こう側で、猫が鳴いた。名をつけられない声。名前のない祈りに、耳を澄ます。やがて、眠りの縁に足がかかった。夢の入口の明るさがわずかに遠のき、今夜だけは、現実の暗さの方がやさしく思えた。暗さの中で、緋真は小さく頷いた。頷きは返事。誰に向けたのかわからない返事が、布団の中で静かにほどけていく。
 ――わからないままにする。
 祖母の選んだ言葉が、胸の底に置かれ、冷えた石のように、心臓の鼓動を落ち着かせた。明日の朝、その石は別の形に見えるのかもしれない。見え方が変わることを、今夜は許そう。許せるうちに、眠る。礼を忘れないように、目を閉じる前に、心の中で一度、深く頭を下げた。礼の角度は、夢に入らないための角度だ。今夜は、その角度で、眠る。