沈黙の血脈

第四話 罅の予言

 国語の小テストが返却され、緋真は点数の赤を一瞥しただけで、裏面の空白に目を落とした。教科書の要約欄は半分ほど埋めている。残りの白は、吸い込まれるように彼を招く。ペン先が余白に触れると、指は迷いなく走った。
 ――関係の罅。
 まず二本の平行線を引く。静と矢野。線の間に、細い三角の楔を差し込む。楔には黒く塗った「嫉妬」と書く。楔の先端はわずかに二本の線を押し広げ、その先に「沈黙」の線を重ねる。罅は広がる。罅の周囲に感情の破片――誤解、言葉の刃、沈黙の悪意――を点描で散らす。点の間に矢印を描き、「効果的」と小さくメモした。
 常套手段。物語を強くするテクニック。教室の窓の外では、体育館の前でバレーボールが落ち、ゴムの鈍い音が繰り返される。緋真はそれを音として受け取り、手を止めない。「刺激は、拙速と親友だ」と誰かのエッセイにあった。拙速でもいい。読者は衝撃でページをめくる。ページがめくられるなら、それは勝ちだ。勝ちでいい。いまはそれでいい。彼はそう思いたかった。
 チャイムが鳴り、返却された答案がざわめきの中へ沈む。担任が次の連絡事項を読み上げる。「進研模試の申し込みは今週中。推薦希望者はフォーム提出を忘れずに」。机の上に置いたスマホが、小さく震えた。グループチャットに「体育祭の係、拡散ヨロ」が流れる。緋真は既読をつける親指の軽さに、わずかに罪悪感を覚え、すぐ忘れた。
 放課後、体育館での稽古を早めに切り上げた。主将が「今日は地稽古少なめ。大会前は疲れ残すなよ」と言ってくれたのを言い訳に、緋真は早歩きで校門を出る。夕方の光はまだ熱があり、横断歩道の白線がじっとりと汗をかいている。コンビニの自動ドアが開くと、冷気が顔を洗ったみたいにすべり込んできた。棚には新しいエナジードリンクの缶。SNSで流行っている味だ。買わない。棚の向こうの文具コーナーで、罫線の細かいノートを一冊手に取る。家にまだあるけれど、「夢専用」は増やしておきたい。会える可能性の数を増やすみたいに。
 帰宅。玄関で靴を脱ぎながら、「ただいま」と声を出す。返事はテレビの音でかき消される。母はキッチンで、玉ねぎを薄く切っている音を出していた。夕飯は親子丼らしい。緋真は「後で食べる」とだけ言って階段を上がる。自室のドアを閉め、椅子に沈み、ノートパソコンを開く。画面の中に、昼間の余白から移植した“罅の筋”が待っている。筋は、簡単だ。矢野が静の才能を妬み、言葉の刃で静を傷つける。二人の間に裂け目が生まれる。安易で効果的な線。効果的であることは、悪ではない。悪ではないが、容易い。容易さは、書き手の血を薄くする。薄くなる血の中で、彼はタイピングを始めた。
 画面の中の矢野は、緋真の都合のよい方へ動く。「おまえ、最近、礼が形だけだぞ」。そう言って静の胸に小さな棘を刺す。静が眉を下げた、その隙を読者は見逃さない。コメント欄に「矢野が最低」「友情崩壊の予感」と短い叫びが並ぶだろう。並ぶ叫びの列を、緋真は想像できる。想像できるものは、だいたい、手早く書ける。手早さは、緋真の救いでもあった。救いに寄りかかるのは、やめた方がいいかもしれない。そう、思いながらも、彼は書いた。書き切るまでは自分を疑わない、と朝に決めていたから。
 その夜は、すぐに来た。いつもよりも濃く、窓の外は早くから黒く、家の中の音が輪郭を増した。父が浴室で咳払いをする。食洗機の低い唸り。妹の部屋から漏れるショート動画の笑い声。緋真はイヤホンを耳から外し、机の上のコップに水を汲む。水面に指先を浸し、冷たさで眠気を確かめる。十分にある。十分にある眠気は、夢への切符になる。彼は布団に滑り込み、スマホのアラームを切った。朝は、起こされたくない。夢は、途中下車に向かない。
 灯りを消す。暗闇が、彼の頬に触れてくる。触れられた分だけ、現実が遠ざかる。遠ざかった現実の代わりに、別の白が近づいてくる。白は畳の白ではなかった。もっと、硬い。
     ※
 最初に聞こえたのは、サイレンだった。空が低く唸り、窓の桟がわずかに揺れる。音は真っ直ぐに降りてきて、地面に吸い込まれる途中で街をなでる。なでられた家々は、一斉に呼吸を止める。道場は閉ざされ、縁側の猫はどこにもいない。代わりにあるのは、配給所だ。長い列。紙袋を持つ手の甲の筋。薄い夏の着物の合わせ。汗の匂いと、配給用の米の匂いが混ざって、すこし金属の味がした。
 静は、列の中にいた。背中が見える。いつもより小さく見えたのは、周りの空気が重いからかもしれない。面を外しているときの彼の姿勢は、礼のあとの余韻みたいに柔らかい。けれど、今は背中の真ん中に硬い芯が通っていた。列の前にいた誰かが振り返る。誰かが「あ」と息を呑む。音の質でわかる。「来た」のだ。
 郵便配達が人の列の間をすり抜けてくる。手に、封筒が見える。赤い縁取り――赤紙。炎のように目に刺さる縁取り。誰もが見ないふりをする。見ないふりに、礼はない。礼のない世界が、外から押し寄せてきたのだ。静の場所の前で配達人が立ち止まった。息を一度、整える。整え方に、職業の長さがあった。「沖田静殿」。名を言う。その瞬間、空気が一段低く鳴った気がした。
 静は、封を切らなかった。両手で受け取り、目線を下げ、深く礼をした。礼を終えても、封には触れない。手の中で紙の角が汗で湿る。紙は水を吸う。吸うたびに、角が丸くなる。静の指は、その丸みをひとつずつ受け取っていた。周囲はざわめかない。ざわめかないことの方が、残酷だ。誰かが「おめでたい」と言いかけて、言わないまま口を閉じた。「おめでたい」はこの場所での正しい言い方かもしれない。けれど、正しい言い方は、正しい呼吸を奪うことがある。
 緋真は夢の中で叫んだ。声は出なかった。かわりに、身体が跳ねた。現実で跳ね起きた。汗が背中を濡らし、シーツが肌に張り付く。呼吸が浅くなる。浅くなった呼吸は、部屋の空気を熱くする。暗い天井をにらみつけるように見た。目に馴染んだ暗さの中で、机の上のパソコンだけが四角く存在を主張している。緋真は布団を蹴って床に足を投げ出し、椅子を引いた。画面に、自分の書いた“罅の筋”が開いたまま残っている。
 矢野が静を言葉で傷つける。安直で、効果的。ページがめくられる。めくる手の速さの代わりに、何かが欠ける。今夜の夢は、それを見せつけるように質を変えた。自分が捏造した罅は、現実の残酷さに比べてあまりに貧しい。静と矢野の間に罅を入れるのは簡単だ。あまりに簡単だ。だけど、夢の中の二人は、外側の暴力で引き裂かれていく。矢野の悪意ではなく、時代の手のひらで。
 胸の中で、何かが嫌悪の形になった。嫌悪は、たいてい自分に向かう。緋真はファイルを閉じる前に、画面の中の行の上にゆっくりとカーソルを滑らせた。消すために。すべてを選択して、Delete。画面は白くなり、白の真ん中に小さな点滅だけが残った。点滅は鼓動みたいだ。鼓動は生きている証拠だ。生きている証拠は、時々、書き手をおそれさせる。
 洗面所に行き、水を飲む。蛇口から流れる水の音が、夢の配給所の列のざわめきに一瞬だけ重なる。緋真は鏡に映る顔に、思いがけず話しかけた。
「俺が壊したんじゃない。時代が壊した」
 言った瞬間、言葉が乾いた音を立てて崩れた。壊したいと願った時点で、同罪に近い。自分の手で罅を描き入れた。それで引き立つのは、誰だ。主人公の孤独か。読者の快感か。書き手の自己憐憫か。鏡の中の自分は、答えない。鏡は、答えを返すための面ではない。映すだけだ。
 タオルで顔を押さえ、指先で顎の骨をなぞる。その骨の形に、夜の硬さが残る。部屋へ戻る途中、廊下の突き当たりの小さな窓から、外の暗さが見えた。暗さは均一ではない。遠くの街灯が薄く布を掛けられたようにぼやけ、手前の植木の影だけが無駄にはっきりしている。緋真は、暗さの濃淡の中で、自分の心の濃淡を思った。濃いところに、嘘が溜まる。
 机に戻り、椅子に座っても、眠れないことはわかっていた。指が無駄に落ち着かず、スマホをつかむ。画面を上へ滑らせる。家族のグループLINEを遡る。いとこの結婚写真。母の自慢の料理。祖母の庭の紫陽花。アルバムの中に一枚、古い写真が指を止めた。親族の集まりのとき、祖母が仏間で見せてくれた古い紙束の写真。そこに、小さく、墨の文字。緋真は画面を拡大する。薄く、でも確かに読めた。
 ――沖田。
 祖母の旧姓。これまで何度も耳に入っていた音が、今夜に限って鋭く突き刺さる。「沖田」という二文字が、夢と現実の間に橋を渡す。指先が冷たくなる。同時に熱も帯びる。熱と冷たさは、罪悪感と興奮の配合だ。夢と現実が、指先で接続されてしまった。やってはいけないことをしてしまったみたいに、緋真はスマホを伏せた。伏せた画面の黒が、体温を吸う。
 布団には戻らない。戻ると、またあの配給所に立たされる。立たされるだけなら、まだいい。今夜は、立っている誰かから目を逸らすことができない。彼は机に戻り、椅子に深く座った。ノートを新しい一冊に替える。表紙の裏に、日付を書く。令和六年八月。指先が汗ばむ。汗が紙にしみ込む。そのしみこみを、許す。
 東の空が薄青くほどける頃、彼はひとつの決意を固めた。小説家を気取る仮面の下から、記録者の顔を引っ張り出す。仮面は必要だ。仮面は人前に立つための礼だ。けれど、いまは礼よりも先に、呼吸がいる。“捏造ではなく、記録として書く”。緋真は、最初のページに大きな字で書いた。
《これは誰かの息の記録である。改竄をしない》
 書き終えた瞬間、肩の辺りで風が変わった。夜の固さがほどけ、部屋の空気に隙間が生まれる。震えは止まらない。けれど、震えの質は変わった。恐怖の震えから、覚悟の震えへ。覚悟は、誰にも見えない。見えないものを、紙に置いておく。それだけで、少し生き延びられる。
     ※
 朝。母が台所で味噌汁を温める音。緋真は食卓に座り、いつもより遅い箸の動きで米を口に運んだ。父は新聞を広げる代わりに、ニュースアプリを親指で滑らせる。世代が変わっても、朝の情報摂取は左右に動く運動なのだとぼんやり思う。妹は眠そうにトーストを齧っている。ピーナッツクリームが唇についた。緋真はテレビの天気予報を横目で見て、学校へ向かう支度をした。
 バス。車内の掲示板に、中古スマホ買取の広告。画面が割れていても高価買取。罅があっても価値はある、と太い字。緋真は思わず笑い、すぐ反省した。罅があるからこそ価値がある、と言い換えることもできる。そうやって慰めて、済む傷と済まない傷がある。済まないのに済んだふりをしてしまうのが、いちばんたちが悪い。窓の外で、道路のアスファルトの継ぎ目に草が生えていた。草は罅から伸びる。罅は、いつも二つの意味を持つ。
 教室に入ると、ケンタが手を振った。「昨日の続き、読んだぞ」。緋真はとっさに身を固くする。消したはずの「続き」。ケンタの目は、からかう光を持ち、悪意はない。「あのさ、矢野とかいうやつ、さすがに悪役過ぎない? いや、面白かったけど」。緋真は笑う。笑うしかない。「それ、消した」。ケンタが目を丸くする。「え、もったいなくね?」。昨日も言われた言葉。もったいないは、いつも二方向から吹く。緋真は「もったいないけど」と言いかけてやめ、「別の書き方にする」とだけ言った。ケンタは「へえ」と言って、すぐに他の話題へ飛んだ。人は、他人の決意に長く興味を持てない。それは、それで救いだ。
 現代文の授業で、教師が板書した。「描写と記録」。先生は言った。「小説は嘘をつく自由がある。記録は嘘をつかない義務がある。どちらも真実に近づこうとする点では同じだが、方向が違う。方向の違いに自覚的でいられるかどうかが、書き手の倫理だ」。緋真は息を止めた。先生の声は、今朝の自分のノートを読み上げているように聞こえた。偶然なのに、必然みたいな瞬間がある。そういう瞬間に、人は信仰の端を掴みかける。
 昼休み、屋上への階段の踊り場に座り、コンビニの唐揚げ棒を齧る。油が紙袋に沁みて、指先がべたつく。スマホの画面は触らない。触ると、何かを壊しそうだ。代わりに、ポケットから昨日のビー玉を取り出し、光にかざす。ビー玉の中の空気が、朝よりも大きく見えた。光の角度が違うだけなのに、不安の大きさを測り直しているみたいだ。
 放課後の稽古は、身体の芯を疲れさせてくれた。面の中で呼吸を整え、打突の前に一拍置く。昨日までの自分よりも、少しだけ遅く、少しだけ深く。主将が頷く。「神田、今の間は良かった」。間は「良い」と言われると、急に消える。緋真は、褒め言葉を心に留めず、足の裏に留めた。足の裏なら、忘れない。身体が覚えることは、嘘をつかない。
 帰路、空は遠いところから灰色を連れてきて、商店街の灯りは少し早く灯った。八百屋のトマトが肌寒そうに並び、焼き鳥の煙が低く流れる。緋真はスマホを取り出し、祖母のトークを開いて、送ろうとしてやめた。「今度、家系図見せてください」。その一文が、どうしても打てない。打てないのは、礼が足りないからだ。礼は、文の前に置くものだ。彼はスマホをしまい、家に帰ってから電話しようと決めた。声で謝れないことは、文字でも謝れない。
 夜、夕食のあと、緋真は廊下の窓辺で祖母に電話をかけた。ワンコールで出る。「緋真かい」。声が柔らかくて、胸が痛い。「この前の写真、ありがとう。あの……祖母ちゃんの旧姓、沖田、だよね」。短い沈黙があり、「そうだよ」と笑われた。「変なこと、聞くね」。緋真は「ごめん」と言った。「ごめん」を言うたびに、誰に謝っているのかわからなくなる。祖母は「いつでもおいで」と言い、通話は短く切れた。短いやり取りの中に、長い歴史が混ざる。混ざるのは、血のせいだとしか言いようがない。
 机に戻り、ノートを再び開く。新しいページに、夢の配給所を描く。列の長さ、紙袋の紙の薄さ、封筒の縁の赤の濃さ。静の指の汗の量。書いていると、涙が出る。泣くほどの恋は、彼の生活にはまだない。なのに、誰の感情が身体に流れ込んだのか、判別できない液体が頬を伝う。緋真は袖で拭き、ペンを握り直した。
 夜更け、窓の外を小さな雨が通り過ぎる。雨は止む前の音の方が大きい。止んだ後の静けさに、耳の奥がしびれる。緋真は、心臓の音を数え、眠りの縁に足をかける。夢は、来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらでも、記録は続ける。続けることに、意味を貼る。貼った意味は、すぐには剥がれない。
     ※
 その夜、夢は、昨日の続きではなかった。道場と配給所のあいだにある、どこでもない路地を見せた。夏の終わりの蝉の声が、細く残っている。静が、自転車を押して歩いている。泥よけの鉄が、かすかに鳴る。袖をまくり、腕にうっすらと日焼けの跡。彼は、道端の小さな亀裂を避けて歩く。罅をまたぐとき、足の甲に力を入れる癖がある。罅は、彼にとって踏み越える対象であって、広げる対象ではない。そういう歩き方だった。
 角を曲がると、矢野が立っていた。腕を組み、空を見ている。空は低い。矢野は視線を戻し、静に笑った。笑いは肩で起き、口元で終わる。「行列、長かったか」。静は頷き、「長かった」と答えた。矢野は静の指先に目をやる。封筒はない。静はそれを、どこかにしまったのだ。しまう場所を知っている手。矢野は何も聞かない。聞かないことが、最上の礼になる夜がある。二人はしばらく、同じ歩幅で歩いた。自転車の泥よけが鳴るたびに、矢野の指がその音に合わせて動く。動かす指は、いつでも、誰かの中心を割る準備ができている指だった。
 緋真は、その二人の背中を目で追い、目で追いながら、現実の自分の背中に目があることを初めて意識した。背中に目があると、礼が深くなる。見える範囲が広がるからだ。彼は夢の中で、姿勢を正した。正すことは、祈りの一種だ。
 目が覚めた。夜は、まだ濃かった。けれど、濃さの中に薄い線が走り始めている。東が、まだ東であることの証拠だ。緋真は、暗い部屋の中で、声に出さずに言った。
 ――これは誰かの息の記録である。改竄をしない。
 言葉は紙の上ですでに確定している。確定の上に、繰り返す。繰り返しは、信仰の訓練だ。訓練を重ねれば、偶然も技術の一部になる。技術になった偶然は、誰かを傷つけない。傷つけないために、緋真は、次のページを開いた。
     ※
 翌日の放課後、神社に寄った。風鈴が低く鳴り、拝殿の木が雨の名残りで湿っている。絵馬の棚の前に立ち、一本だけ筆を手に取る。迷い、やめる。紙に文字が乗ると、それは「こちらの世界」に降りてきてしまう。まだ上空に漂わせておきたいものがある。漂っているものは、いちばん自由だ。代わりに、財布の中から小さな十円玉を二枚出し、賽銭箱に落とす。軽い音が二度、板の向こうで跳ねる。音の跳ね返りの角度に、礼が反射する。
 帰りに本屋に寄り、郷土史の棚の前で立ち止まった。表紙の地味な冊子が並ぶ。戦時下の生活、空襲の記録、町内会の歴史。緋真は一冊だけ抜き取り、目次を見た。知らない人の名前が並ぶ。知らない人の毎日が、紙の上で静かに音を立てる。ページをめくる指が汗ばむ。「資料の請求は郵送で」と最後に書いてある。時代の記録は、時代の方法で守られている。彼は本を戻し、メモを取らなかった。メモを取らないことが、いまは礼だ。
 家に戻ると、祖母から短いメッセージが届いていた。「庭の紫蘇が伸びすぎてる。今度取りにおいで」。緋真は「行く」と返し、スマホを置いて、机に戻った。画面に向かわず、紙へ。紙は、嘘を薄くする。薄くなった嘘は、すぐに見抜ける。
 緋真はペン先で、昼間描いた二本の平行線の上に、別の線を重ねた。細い弧。弧は、寄り添う。楔の位置を消し、代わりに「外側」と書いた。線の外側に大きな円を描く。円の周囲に、風、時代、制度、戦争。書きながら、息が整う。整った息は、書いた線を支える。支えがある線は、曲がっても、折れない。
 夜更け、緋真は灯りを落とし、布団の中で、天井に問いかけた。
「矢野、あんたは彼の何だったんだ」
 答えはない。
 だが、答えのないことが、今夜も救いになっていた。
 答えのない隙間に、風が通る。風の通る音を、彼は眠りの中で聞いた。
 目を閉じる直前、彼は、もう一度だけ確かめるように胸の中で繰り返した。
 ――これは誰かの息の記録である。改竄をしない。
 その一行は、祈りにも、約束にも、呪いにもなり得る。どれであるかは、この先の彼の手つきにかかっている。手つきが礼を忘れない限り、呪いにはならないはずだ。緋真は手のひらを布団の上に上向けに置き、その上に何も載せずに、ゆっくりと眠りへ落ちた。