第三話 矢野の影
夢は三夜目に、もう一人を連れてきた。
道場の空気は、昨夜よりもさらに輪郭を持っていた。樟脳の匂いと湿り気のあいだに、金属のような冷たさが混じる。竹刀と竹刀がすれ違う時にだけ鳴る、薄い鈴のような音。畳の目の一本一本までが、誰かの足裏を待っている。
静の隣に立つ少年は、静より少し背が高い。眉が凛として、目尻はわずかに下がっているのに、視線がまっすぐに届く。矢野蓮――十六。名乗りはない。けれど、名前は姿勢でわかる。そういう種類の人間がいる。
構えの高さが違う。静は相手の中心を笛の音でなぞるみたいに、柔らかく差し、矢野は中心に針を突き立ててから、そこへ自分の体を連れてくる。踏み込みの力が強く、躊躇がない。竹刀の軌道に迷いが付着しない。打突の直前、矢野の足の親指が、畳の目ひと筋をわずかに噛む。噛んだ分だけ、音が深くなる。
「面!」
矢野の声は低い。静の「めん」は細くてまっすぐだったが、矢野のは地面から空へ突き上げる。対峙すると、静の間が広がり、矢野の間が縮む。広がる間と縮む間がぶつかると、そこで、なぜか余裕が生まれる。余裕の上に、二人は同時に立った。
面。
面。
ほとんど同時。見学の子どもが思わず拍手をする。師範代が笑い、「引き分け」と手を挙げる。二人は面を外し、汗で張りついた前髪を手ぬぐいで押さえ、目が合うと同時に笑う。敵でも味方でもない、長い稽古の中間点にだけ居場所を作る笑いだった。
道場の外に出ると、湿った風が二人の体温を剥がしていく。縁側に腰を下ろし、ラムネ瓶を分け合う。ガラスの口に押し込まれたビー玉が、コトン、と軽い音を立てて落ちる。静が少しだけ眉尻を下げ、「炭酸は、喉の背中を撫でますね」。矢野が鼻で笑い、「言い方、真っ直ぐ過ぎる」。静が「あなたは曲がらなさすぎる」と返す。二人の言葉は軽口に見えるけれど、観察が骨に達している。互いの性質が、冗談の衣をまとって運ばれてくる。
緋真は、夢の中の縁で息を殺した。視界の端に自分の指がある――ノートをめくる感覚は、夢の中でも消えない。面布団の布目の粗さ。矢野の額からこめかみへ流れる汗の筋、ビー玉に写る逆さの縁側、瓶底にできた小さな水の渦。書くべき細部が、押し寄せる。けれど今夜に限って、緋真の視線は矢野の指に何度も戻る。竹刀を握るときの、第二関節の角度。ラムネ瓶の首を、強くは持たないのに落とさない持ち方。人にものを渡す時の、手の平の見せ方が素直だ。素直だが、無防備ではない。
「おまえは真っ直ぐ過ぎる」
「あなたは曲がらなさすぎる」
言葉の入れ子みたいなやり取りが、緋真の胸のどこかを、冷たく空洞にする。目配せだけで意味が通じる相手――自分には、いない。教室では“話題を共有する相手”はいる。ゲームの攻略、動画の話題、テストの平均点。グループチャットで流れるスタンプ。けれど、目線だけで笑って、笑いの意味を共有できる場所はない。SNSでの称賛や連投の“いいね”は、ラムネの泡ほどの寿命しか持たない。弾ける音はたのしいが、喉を潤さない。
夢が薄くなる。二人の笑い声の輪郭が溶け、縁側の木目だけが残って、猫が影の中で伸びをしたところで、緋真は目を開けた。
※
目を覚ました緋真は、胸の中心に冷たい空洞を見つけた。穴は丸ではなく、細長い楕円だ。呼吸をすると、その楕円の縁だけが擦れて音を立てる。枕元のノートにペンを走らせる。静の動きはすぐに書ける。礼の角度、踏み込みの深さ――緋真の中に、もう定位置がある。矢野の印象は、文字になる手が鈍る。「矢野は……」。そこまで書いて、ペン先が止まる。嫉妬という単語は、簡単に出る。けれど、嫉妬の実像は書けない。嫉妬の形は、書こうとした瞬間、読点のように小さく逃げる。
登校。ヘッドホンを耳に押し込み、再生ボタンを適当に押す。ショート動画のアルゴリズムは、緋真が最近「剣道」「ラムネ」「古い道場」と検索しそうになってやめたことを見透かしたように、瞬間的な映像を投げ込んでくる。白い道着、打突のスロー。タグには「神反応」「バケモン」「令和最強」。言葉の強さは、だいたい意味の弱さと相殺し合う。緋真は音量を少し下げる。窓の外で、保育園の散歩の列が横断歩道を渡っている。先生が黄色い旗を持ち、子どもが列を乱して怒られている。怒られ方が羨ましい。怒られる相手がいることは、立派な資産だ。
教室では、体育祭の係決めの話が続いている。運動会アプリにログインしろだの、当日の配信係が誰だの、令和の学校の段取りは、紙と画面のあいだを忙しく行き来する。隣の席の男子――ケンタが、無邪気に言う。「おまえの新作、新しく出てきたキャラ、えらい嫌なやつになってるな」。昨日の夜、緋真は夢の続きを起点に小説に手を入れていた。登場人物の名は改め、舞台も現代に寄せ、矢野に似た少年を“軽薄な競争相手”に改悪した。緋真は気づいていないふりをしながら、実際にはよく知っている。自分が“仮想の矢野”を小さくつくることで、静との距離を詰めようとしていることを。
「物語は刺激が必要だから」
笑ってごまかす。口にした瞬間、胃がねじれる。刺激という語で包んだのは、貧しい自尊心だった。ケンタは悪意がない。悪意のない指摘は、よけいに痛い。「刺激が」と軽く言った自分の声が、教室の天井で跳ね返って緋真の耳に落ちてくる。彼はノートパソコンの画面を閉じ、プリントに視線を落とした。プリントの白は、紙の白に見えない。夢の白と現実の白が混ざって、どちらの白も少しずつ灰色になる。
昼休み、購買のパンは売り切れていて、代わりにカップ焼きそばを買う。お湯を注ぎ、待つ三分間、緋真はスマホのメモを開いた。「矢野の手」「矢野の足」「矢野の声」。箇条書きにすれば具体になると思ったが、文字列は砂の山のように崩れる。「矢野は……」の続きを、言葉は拒む。拒まれているのは、緋真の側だ。彼は再生ボタンを押し、音楽アプリのランダムに逃げる。逃げた音の先に、救いはないが、空白は作れる。空白は、ときに神様の居場所になる。神様は、空白にしか降りてこない夜がある。
放課後、稽古。体育館の二階は、いつもと同じ匂い。汗と布と木の混合。主将の合図で準備運動、素振り、足さばき。緋真は、自分の面紐を結ぶ手の遅さを持て余す。結び目が美しく収まらない。昨日の夢の静の結び目を思い出し、指の位置を真似る。でも、真似は真似でしかない。緋真は、面を被る前に呼吸を整えた。出ばな面。狙いはわかる。出る瞬間に打つ。しかし、出ていない。出る瞬間は、いちばん短く、いちばん長い。緋真の足は、その長さを測れない。主将が笑って言う。「神田、悪くないよ。悪くないけど、相手の『次の呼吸』を先に吸え。自分の吸う空気ばっかり見てると、間に合わない」。言い方は優しい。優しさは、刃を鈍くする。鈍い刃は切れないが、当たると痛い。
稽古後、道具を片づけて校門を出る。夕方の風は湿り気を増して、街路樹の葉の裏に夏の疲れを貼り付ける。緋真はコンビニでノートをもう一冊増やし、「夢専用」と表紙に書き足した。家までの途中、信号待ちの横断歩道で、ベビーカーを押す父親と目が合う。父親が少し会釈する。緋真も会釈を返す。誰かと礼を交わすと、自分の骨が一本増えるような気がする。骨は身体を支える。支えが増えると、空洞が鳴らなくなる。
※
その夜、緋真は机に向かって、昨日の原稿を開いた。“矢野に似た少年”が卑小化されて、主人公の引き立て役に落とされている。読めば読むほど、心が縮む。縮んだ心は、画面の光の中で影を濃くする。緋真は、カーソルを動かした。卑小化した章を選択し、バックスペースを長押しする。消える音はしない。画面の文字が沈黙の中で消え、空白が残る。空白の中心に、一行だけ注記を書いた。
《嫉妬は誰にでもある。書かないことが誠実とは限らない。だが、誰かを貶めて自分を慰めることは、作品を貶める》。
指先の震えが止まる。言葉にしたことで、嫉妬は少しだけ形を持つ。形を持った嫉妬は、飼える。名前をつけない飼い犬のように、近くに置いておける。遠ざけないことが、距離になる。緋真はファイルを保存し、パソコンを閉じ、部屋の灯りを落とした。
窓の外で、遠いバイク音が通りをなぞる。どこかの部屋で、家庭用の洗濯機が脱水に入る音。令和の夜は、音が層を作って、互いに干渉しない。緋真は布団に身を滑らせ、目を閉じた。
※
三夜目の夢の続きは、道場の裏手へ連れて行った。小川が細い音で流れ、蛍が一匹、遅れて季節を間違えたみたいに光っていた。土の匂いと、笹の葉の擦れ合う音。静と矢野が、竹で作った小さな“守り”を交換している。膝を折り、竹の先を指で撫で、紐を結ぶ。紐は麻で、毛羽立ちが硬い。手のひらに当たる感触が素直に痛い。痛みが、現実の証明書みたいに渡される。
静が紐を結びながら言う。
「あなたは僕の背中を真っ直ぐにしてくれる」
矢野は照れ隠しのように鼻で笑って、視線を逸らす。逸らした視線は、静の手元に戻る。
「おまえは俺の踏み込みを無茶にする」
互いの弱点が、相手によって“矯正される”。それは言葉ではなく、手の温度で伝わっている。温度は、竹の守りを通して移る。紐を結ぶ手つきが、指の間で小さく震えて、震えが二人の間に橋をかける。橋は細い。細いけれど、渡れる。渡るための礼が、最初から用意されている。
「これ、なんの守り?」
川の音を切り取るように、静が問う。
「おまえの間に、俺が落ちないための守り」
矢野の言い方は照れていて、でも、照れた分だけ正確だ。
「あなたの間に、僕が居座らないための守り」
静の言葉は、矢野の手の甲に柔らかく落ちて、乗った。
緋真は、二人のあいだにできた見えない線を見ている。線の両端に立つ方法は、ひとつしかない。押し合わないこと。礼を忘れないこと。矢野が竹の守りを指先で弾き、その小さな音が夜の川に混ざる。静が笑う。笑いは、道場のときより幼い。幼さは、矢野の前でだけ出る。
「矢野さん」
静が、名前で呼んだ。
「戻ってこいよ」
矢野が、冗談めかして言う。
「どこへ?」
「いつもいるところへ」
いつもいるところ――道場だ。縁側だ。猫の通る影だ。ラムネ瓶のビー玉だ。緋真の胸に、冷たい楕円の穴が、少しだけ縮んだ。
夢はそこまでで、やわらかく切れた。目を開けると、部屋の天井は白い。白い天井に、川の音の余韻だけが残っていた。緋真は布団から起き上がり、机に座って、ノートを開いた。竹の守りの形、麻紐の毛羽立ち、手の温度。書きながら、彼はふと、思った。――自分は、二人のあいだに立てるのだろうか。
※
翌朝、緋真は授業の合間にトイレの鏡で自分の顔を見た。髪は寝癖で跳ね、目の下の隈はすこし薄くなっている。見慣れた凡庸。令和の高校生の平均的な顔。地味でもなく、派手でもなく、SNSで映えるでもなく、バズる言い回しも知らない。流行りの振り付けは妹から教わるが、三回繰り返す前に飽きる。そんな自分が、夢の中では、誰かの歴史の隅に居候している。居候する礼儀の重さを、朝の鏡は教えてくれない。
国語の時間、先生がふいに言った。「感想文を、今学期はやめます。代わりに『誰かの言葉を正確に写す練習』をします」。教室がざわっとする。写経か、と誰かが笑う。先生は黒板に太い字で書いた。「正確」。緋真は、その黒い輪郭が好きだと思った。正確であることは、誰かの痛みへの礼になる。礼は、万能ではない。けれど、最初の階段になる。
放課後、ケンタがまた言った。「おまえの新作、更新止まってるな」。緋真は笑ってごまかす。「止めた」。ケンタが目を丸くする。「もったいなくね?」。もったいない、という言葉の中には、いろんな怠惰が紛れている。緋真は頷いて、「もったいないけど、もったいないまま置いとく」と言った。自分で言葉を出しながら、この返事が誰の言い回しかわからなくなる。静の言い方にも、矢野の言い方にも似ていない。たぶんこれは、緋真の言い方だ。緋真の言い方を、彼自身が初めて聞いた。
帰宅途中、商店街の角でガチャガチャの機械に足が止まる。「昭和レトロ・ミニチュア」。ラムネ瓶のキーホルダーが出るかもしれない。二百円玉を入れ、ハンドルを回す。出てきたのは、ビー玉だった。ラムネ瓶のビー玉を模した透明の丸に、小さな空気の泡がいくつも閉じ込められている。緋真は手のひらに乗せ、光にかざした。ビー玉の向こうに、自分の顔が逆さに歪む。歪んだ顔と目が合う。笑ってみる。笑いがゆがむ。ゆがんだ笑いは、少しだけ本音に近い。
夜、緋真は机にビー玉を置いた。ノートの端に指で転がすと、ビー玉はゆっくりと紙の目に引っかかり、静かに止まる。止まった場所に、ペン先で点を打つ。点の隣に、文字を書く。
――矢野は、誰かの影ではない。影を連れて歩く人だ。
書いた瞬間、体の中で音がした。骨が一本、定位置に嵌ったような音。緋真は深く息を吐いた。嫉妬の実像が、少しだけ輪郭を持った。輪郭を持つと、愛着が湧く。自分の中の良くないものに愛着を持つのは、危険だ。でも、危険を知って愛着を持つのと、知らずに懐くのとでは、話が違う。
ペンを置いて、緋真は天井に問いかけた。
「矢野、あんたは彼の何だったんだ」
答えはない。答えがないという事実が、今夜は救いになっていた。答えのない夜にだけ開く扉がある。扉の向こうで、竹の守りが小さく鳴る。鳴る音は、風と間違えてもいい種類の音だ。聴き取れなくても、たぶん、そこにある。
※
次の夜から、夢は二人をセットで連れてくるようになった。稽古のたびに、静と矢野は打ち合い、互いの隙を笑い合う。笑いは短く、汗は長い。師範代は「引き分け」を幾度も告げ、見学の子どもは拍手に飽きない。縁側のラムネは、ビー玉を落とす音がだんだん上手になる。上手になるというのは、失敗の比率が減ることではなくて、失敗の顔が短くなることだ。失敗にも顔がある。二人は、失敗の顔に礼をすることを知っている。
緋真の書くノートの字は、少しずつ変わった。行間が広くなり、比喩が減る。減らした分だけ、具体が増える。面金の曇りに映る、誰かの目――その誰かが、自分かどうかがどうでもよくなる。どうでもいいと判断できるのは、判断を保留し続けられる力がついたからだ。令和の高校生は、判断を早く求められる。アンケート、投票、即時の、わかりやすい結論。緋真は、遅い判断を背負って歩く練習を始めていた。
ある夜、夢の中の道場の隅で、矢野が猫に指を差し出した。猫は匂いをかぎ、気分が良いと見えて、指に額を押しつけた。矢野が笑う。笑いは、静の笑いとはちがう。静の笑いは、礼の延長線上にある。矢野の笑いは、戦の前の肩慣らしみたいだ。緋真は、笑いの音のちがいをノートに書いた。笑いにも、音階がある。二人の音階は違うが、合奏のときに濁らない。それが、二人の関係の基底音なのだと思う。
別の夜、矢野が静の竹刀の握りを直した。
「ここ、指一本分だけ浮かす」
「落ちませんか」
「落ちる前に打つ」
「なるほど」
やり取りは短く、手は正確だ。短い正確さの上に、長い信頼が置かれる。置かれた信頼は、重さで試される。二人のあいだにだけ通じる冗談が、信頼の重しを少しだけ軽くする。緋真は、冗談の重さを初めて意識した。
現実の緋真は、相変わらず凡庸だった。英語の小テストは平均より少し下。体育のシャトルランはクラスの中の上。文化祭の係は「物品管理」。おもしろそうな役でもなく、目立つ役でもなく、責任だけはある役。顧問は「神田は信頼できるから」と言った。信頼は、本来、嬉しい言葉だ。けれど、“便利”の言い換えにされることがある。緋真は、自分が便利にされていることを責めるでも、喜ぶでもなく、「はい」と返した。返事は短い。その短さに、夜の夢の礼が混ざる。
家で、妹がソファで寝落ちしていた。スマホを握ったまま、ショート動画の音が小さく途切れ途切れに流れ続ける。母が毛布をかけ、「若いっていいね」と笑う。緋真も笑った。「若い」を言い訳にできる期間は短い。短い期間に、何を覚えるか。礼を覚えるなら、いまがいい。礼は、遅れても覚えられるが、早く覚えるほど柔らかい。
深夜、緋真はもう一度、机に向かった。画面に保存していた注記を読み返す。《嫉妬は誰にでもある……》。嫉妬は居座る。居座る嫉妬を、玄関まで見送りに行く日が来るのだろうか。来るとして、その日はいつだろう。緋真は、未来の予告をやめた。やめることで、呼吸が楽になる。楽になった呼吸で、天井に問いかける。
「矢野、あんたは彼の何だったんだ」
答えは、ない。
ないことが、今夜も救いだった。
ないことの中に、風が通る。風が通る音は、眠りに似ている。
緋真は目を閉じた。夢の入口は、相変わらず、現実よりも明るい。けれど、その明るさに慣れすぎないように、彼は心のどこかで、灯りをひとつだけ落とした。落とした灯りの暗さが、二人の影の輪郭を、はっきりさせる。影は、付き従うものではない。影は、ともに歩くための、もうひとつの足場だ。そう思えた夜は、眠りの底が、少しだけ深かった。
夢は三夜目に、もう一人を連れてきた。
道場の空気は、昨夜よりもさらに輪郭を持っていた。樟脳の匂いと湿り気のあいだに、金属のような冷たさが混じる。竹刀と竹刀がすれ違う時にだけ鳴る、薄い鈴のような音。畳の目の一本一本までが、誰かの足裏を待っている。
静の隣に立つ少年は、静より少し背が高い。眉が凛として、目尻はわずかに下がっているのに、視線がまっすぐに届く。矢野蓮――十六。名乗りはない。けれど、名前は姿勢でわかる。そういう種類の人間がいる。
構えの高さが違う。静は相手の中心を笛の音でなぞるみたいに、柔らかく差し、矢野は中心に針を突き立ててから、そこへ自分の体を連れてくる。踏み込みの力が強く、躊躇がない。竹刀の軌道に迷いが付着しない。打突の直前、矢野の足の親指が、畳の目ひと筋をわずかに噛む。噛んだ分だけ、音が深くなる。
「面!」
矢野の声は低い。静の「めん」は細くてまっすぐだったが、矢野のは地面から空へ突き上げる。対峙すると、静の間が広がり、矢野の間が縮む。広がる間と縮む間がぶつかると、そこで、なぜか余裕が生まれる。余裕の上に、二人は同時に立った。
面。
面。
ほとんど同時。見学の子どもが思わず拍手をする。師範代が笑い、「引き分け」と手を挙げる。二人は面を外し、汗で張りついた前髪を手ぬぐいで押さえ、目が合うと同時に笑う。敵でも味方でもない、長い稽古の中間点にだけ居場所を作る笑いだった。
道場の外に出ると、湿った風が二人の体温を剥がしていく。縁側に腰を下ろし、ラムネ瓶を分け合う。ガラスの口に押し込まれたビー玉が、コトン、と軽い音を立てて落ちる。静が少しだけ眉尻を下げ、「炭酸は、喉の背中を撫でますね」。矢野が鼻で笑い、「言い方、真っ直ぐ過ぎる」。静が「あなたは曲がらなさすぎる」と返す。二人の言葉は軽口に見えるけれど、観察が骨に達している。互いの性質が、冗談の衣をまとって運ばれてくる。
緋真は、夢の中の縁で息を殺した。視界の端に自分の指がある――ノートをめくる感覚は、夢の中でも消えない。面布団の布目の粗さ。矢野の額からこめかみへ流れる汗の筋、ビー玉に写る逆さの縁側、瓶底にできた小さな水の渦。書くべき細部が、押し寄せる。けれど今夜に限って、緋真の視線は矢野の指に何度も戻る。竹刀を握るときの、第二関節の角度。ラムネ瓶の首を、強くは持たないのに落とさない持ち方。人にものを渡す時の、手の平の見せ方が素直だ。素直だが、無防備ではない。
「おまえは真っ直ぐ過ぎる」
「あなたは曲がらなさすぎる」
言葉の入れ子みたいなやり取りが、緋真の胸のどこかを、冷たく空洞にする。目配せだけで意味が通じる相手――自分には、いない。教室では“話題を共有する相手”はいる。ゲームの攻略、動画の話題、テストの平均点。グループチャットで流れるスタンプ。けれど、目線だけで笑って、笑いの意味を共有できる場所はない。SNSでの称賛や連投の“いいね”は、ラムネの泡ほどの寿命しか持たない。弾ける音はたのしいが、喉を潤さない。
夢が薄くなる。二人の笑い声の輪郭が溶け、縁側の木目だけが残って、猫が影の中で伸びをしたところで、緋真は目を開けた。
※
目を覚ました緋真は、胸の中心に冷たい空洞を見つけた。穴は丸ではなく、細長い楕円だ。呼吸をすると、その楕円の縁だけが擦れて音を立てる。枕元のノートにペンを走らせる。静の動きはすぐに書ける。礼の角度、踏み込みの深さ――緋真の中に、もう定位置がある。矢野の印象は、文字になる手が鈍る。「矢野は……」。そこまで書いて、ペン先が止まる。嫉妬という単語は、簡単に出る。けれど、嫉妬の実像は書けない。嫉妬の形は、書こうとした瞬間、読点のように小さく逃げる。
登校。ヘッドホンを耳に押し込み、再生ボタンを適当に押す。ショート動画のアルゴリズムは、緋真が最近「剣道」「ラムネ」「古い道場」と検索しそうになってやめたことを見透かしたように、瞬間的な映像を投げ込んでくる。白い道着、打突のスロー。タグには「神反応」「バケモン」「令和最強」。言葉の強さは、だいたい意味の弱さと相殺し合う。緋真は音量を少し下げる。窓の外で、保育園の散歩の列が横断歩道を渡っている。先生が黄色い旗を持ち、子どもが列を乱して怒られている。怒られ方が羨ましい。怒られる相手がいることは、立派な資産だ。
教室では、体育祭の係決めの話が続いている。運動会アプリにログインしろだの、当日の配信係が誰だの、令和の学校の段取りは、紙と画面のあいだを忙しく行き来する。隣の席の男子――ケンタが、無邪気に言う。「おまえの新作、新しく出てきたキャラ、えらい嫌なやつになってるな」。昨日の夜、緋真は夢の続きを起点に小説に手を入れていた。登場人物の名は改め、舞台も現代に寄せ、矢野に似た少年を“軽薄な競争相手”に改悪した。緋真は気づいていないふりをしながら、実際にはよく知っている。自分が“仮想の矢野”を小さくつくることで、静との距離を詰めようとしていることを。
「物語は刺激が必要だから」
笑ってごまかす。口にした瞬間、胃がねじれる。刺激という語で包んだのは、貧しい自尊心だった。ケンタは悪意がない。悪意のない指摘は、よけいに痛い。「刺激が」と軽く言った自分の声が、教室の天井で跳ね返って緋真の耳に落ちてくる。彼はノートパソコンの画面を閉じ、プリントに視線を落とした。プリントの白は、紙の白に見えない。夢の白と現実の白が混ざって、どちらの白も少しずつ灰色になる。
昼休み、購買のパンは売り切れていて、代わりにカップ焼きそばを買う。お湯を注ぎ、待つ三分間、緋真はスマホのメモを開いた。「矢野の手」「矢野の足」「矢野の声」。箇条書きにすれば具体になると思ったが、文字列は砂の山のように崩れる。「矢野は……」の続きを、言葉は拒む。拒まれているのは、緋真の側だ。彼は再生ボタンを押し、音楽アプリのランダムに逃げる。逃げた音の先に、救いはないが、空白は作れる。空白は、ときに神様の居場所になる。神様は、空白にしか降りてこない夜がある。
放課後、稽古。体育館の二階は、いつもと同じ匂い。汗と布と木の混合。主将の合図で準備運動、素振り、足さばき。緋真は、自分の面紐を結ぶ手の遅さを持て余す。結び目が美しく収まらない。昨日の夢の静の結び目を思い出し、指の位置を真似る。でも、真似は真似でしかない。緋真は、面を被る前に呼吸を整えた。出ばな面。狙いはわかる。出る瞬間に打つ。しかし、出ていない。出る瞬間は、いちばん短く、いちばん長い。緋真の足は、その長さを測れない。主将が笑って言う。「神田、悪くないよ。悪くないけど、相手の『次の呼吸』を先に吸え。自分の吸う空気ばっかり見てると、間に合わない」。言い方は優しい。優しさは、刃を鈍くする。鈍い刃は切れないが、当たると痛い。
稽古後、道具を片づけて校門を出る。夕方の風は湿り気を増して、街路樹の葉の裏に夏の疲れを貼り付ける。緋真はコンビニでノートをもう一冊増やし、「夢専用」と表紙に書き足した。家までの途中、信号待ちの横断歩道で、ベビーカーを押す父親と目が合う。父親が少し会釈する。緋真も会釈を返す。誰かと礼を交わすと、自分の骨が一本増えるような気がする。骨は身体を支える。支えが増えると、空洞が鳴らなくなる。
※
その夜、緋真は机に向かって、昨日の原稿を開いた。“矢野に似た少年”が卑小化されて、主人公の引き立て役に落とされている。読めば読むほど、心が縮む。縮んだ心は、画面の光の中で影を濃くする。緋真は、カーソルを動かした。卑小化した章を選択し、バックスペースを長押しする。消える音はしない。画面の文字が沈黙の中で消え、空白が残る。空白の中心に、一行だけ注記を書いた。
《嫉妬は誰にでもある。書かないことが誠実とは限らない。だが、誰かを貶めて自分を慰めることは、作品を貶める》。
指先の震えが止まる。言葉にしたことで、嫉妬は少しだけ形を持つ。形を持った嫉妬は、飼える。名前をつけない飼い犬のように、近くに置いておける。遠ざけないことが、距離になる。緋真はファイルを保存し、パソコンを閉じ、部屋の灯りを落とした。
窓の外で、遠いバイク音が通りをなぞる。どこかの部屋で、家庭用の洗濯機が脱水に入る音。令和の夜は、音が層を作って、互いに干渉しない。緋真は布団に身を滑らせ、目を閉じた。
※
三夜目の夢の続きは、道場の裏手へ連れて行った。小川が細い音で流れ、蛍が一匹、遅れて季節を間違えたみたいに光っていた。土の匂いと、笹の葉の擦れ合う音。静と矢野が、竹で作った小さな“守り”を交換している。膝を折り、竹の先を指で撫で、紐を結ぶ。紐は麻で、毛羽立ちが硬い。手のひらに当たる感触が素直に痛い。痛みが、現実の証明書みたいに渡される。
静が紐を結びながら言う。
「あなたは僕の背中を真っ直ぐにしてくれる」
矢野は照れ隠しのように鼻で笑って、視線を逸らす。逸らした視線は、静の手元に戻る。
「おまえは俺の踏み込みを無茶にする」
互いの弱点が、相手によって“矯正される”。それは言葉ではなく、手の温度で伝わっている。温度は、竹の守りを通して移る。紐を結ぶ手つきが、指の間で小さく震えて、震えが二人の間に橋をかける。橋は細い。細いけれど、渡れる。渡るための礼が、最初から用意されている。
「これ、なんの守り?」
川の音を切り取るように、静が問う。
「おまえの間に、俺が落ちないための守り」
矢野の言い方は照れていて、でも、照れた分だけ正確だ。
「あなたの間に、僕が居座らないための守り」
静の言葉は、矢野の手の甲に柔らかく落ちて、乗った。
緋真は、二人のあいだにできた見えない線を見ている。線の両端に立つ方法は、ひとつしかない。押し合わないこと。礼を忘れないこと。矢野が竹の守りを指先で弾き、その小さな音が夜の川に混ざる。静が笑う。笑いは、道場のときより幼い。幼さは、矢野の前でだけ出る。
「矢野さん」
静が、名前で呼んだ。
「戻ってこいよ」
矢野が、冗談めかして言う。
「どこへ?」
「いつもいるところへ」
いつもいるところ――道場だ。縁側だ。猫の通る影だ。ラムネ瓶のビー玉だ。緋真の胸に、冷たい楕円の穴が、少しだけ縮んだ。
夢はそこまでで、やわらかく切れた。目を開けると、部屋の天井は白い。白い天井に、川の音の余韻だけが残っていた。緋真は布団から起き上がり、机に座って、ノートを開いた。竹の守りの形、麻紐の毛羽立ち、手の温度。書きながら、彼はふと、思った。――自分は、二人のあいだに立てるのだろうか。
※
翌朝、緋真は授業の合間にトイレの鏡で自分の顔を見た。髪は寝癖で跳ね、目の下の隈はすこし薄くなっている。見慣れた凡庸。令和の高校生の平均的な顔。地味でもなく、派手でもなく、SNSで映えるでもなく、バズる言い回しも知らない。流行りの振り付けは妹から教わるが、三回繰り返す前に飽きる。そんな自分が、夢の中では、誰かの歴史の隅に居候している。居候する礼儀の重さを、朝の鏡は教えてくれない。
国語の時間、先生がふいに言った。「感想文を、今学期はやめます。代わりに『誰かの言葉を正確に写す練習』をします」。教室がざわっとする。写経か、と誰かが笑う。先生は黒板に太い字で書いた。「正確」。緋真は、その黒い輪郭が好きだと思った。正確であることは、誰かの痛みへの礼になる。礼は、万能ではない。けれど、最初の階段になる。
放課後、ケンタがまた言った。「おまえの新作、更新止まってるな」。緋真は笑ってごまかす。「止めた」。ケンタが目を丸くする。「もったいなくね?」。もったいない、という言葉の中には、いろんな怠惰が紛れている。緋真は頷いて、「もったいないけど、もったいないまま置いとく」と言った。自分で言葉を出しながら、この返事が誰の言い回しかわからなくなる。静の言い方にも、矢野の言い方にも似ていない。たぶんこれは、緋真の言い方だ。緋真の言い方を、彼自身が初めて聞いた。
帰宅途中、商店街の角でガチャガチャの機械に足が止まる。「昭和レトロ・ミニチュア」。ラムネ瓶のキーホルダーが出るかもしれない。二百円玉を入れ、ハンドルを回す。出てきたのは、ビー玉だった。ラムネ瓶のビー玉を模した透明の丸に、小さな空気の泡がいくつも閉じ込められている。緋真は手のひらに乗せ、光にかざした。ビー玉の向こうに、自分の顔が逆さに歪む。歪んだ顔と目が合う。笑ってみる。笑いがゆがむ。ゆがんだ笑いは、少しだけ本音に近い。
夜、緋真は机にビー玉を置いた。ノートの端に指で転がすと、ビー玉はゆっくりと紙の目に引っかかり、静かに止まる。止まった場所に、ペン先で点を打つ。点の隣に、文字を書く。
――矢野は、誰かの影ではない。影を連れて歩く人だ。
書いた瞬間、体の中で音がした。骨が一本、定位置に嵌ったような音。緋真は深く息を吐いた。嫉妬の実像が、少しだけ輪郭を持った。輪郭を持つと、愛着が湧く。自分の中の良くないものに愛着を持つのは、危険だ。でも、危険を知って愛着を持つのと、知らずに懐くのとでは、話が違う。
ペンを置いて、緋真は天井に問いかけた。
「矢野、あんたは彼の何だったんだ」
答えはない。答えがないという事実が、今夜は救いになっていた。答えのない夜にだけ開く扉がある。扉の向こうで、竹の守りが小さく鳴る。鳴る音は、風と間違えてもいい種類の音だ。聴き取れなくても、たぶん、そこにある。
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次の夜から、夢は二人をセットで連れてくるようになった。稽古のたびに、静と矢野は打ち合い、互いの隙を笑い合う。笑いは短く、汗は長い。師範代は「引き分け」を幾度も告げ、見学の子どもは拍手に飽きない。縁側のラムネは、ビー玉を落とす音がだんだん上手になる。上手になるというのは、失敗の比率が減ることではなくて、失敗の顔が短くなることだ。失敗にも顔がある。二人は、失敗の顔に礼をすることを知っている。
緋真の書くノートの字は、少しずつ変わった。行間が広くなり、比喩が減る。減らした分だけ、具体が増える。面金の曇りに映る、誰かの目――その誰かが、自分かどうかがどうでもよくなる。どうでもいいと判断できるのは、判断を保留し続けられる力がついたからだ。令和の高校生は、判断を早く求められる。アンケート、投票、即時の、わかりやすい結論。緋真は、遅い判断を背負って歩く練習を始めていた。
ある夜、夢の中の道場の隅で、矢野が猫に指を差し出した。猫は匂いをかぎ、気分が良いと見えて、指に額を押しつけた。矢野が笑う。笑いは、静の笑いとはちがう。静の笑いは、礼の延長線上にある。矢野の笑いは、戦の前の肩慣らしみたいだ。緋真は、笑いの音のちがいをノートに書いた。笑いにも、音階がある。二人の音階は違うが、合奏のときに濁らない。それが、二人の関係の基底音なのだと思う。
別の夜、矢野が静の竹刀の握りを直した。
「ここ、指一本分だけ浮かす」
「落ちませんか」
「落ちる前に打つ」
「なるほど」
やり取りは短く、手は正確だ。短い正確さの上に、長い信頼が置かれる。置かれた信頼は、重さで試される。二人のあいだにだけ通じる冗談が、信頼の重しを少しだけ軽くする。緋真は、冗談の重さを初めて意識した。
現実の緋真は、相変わらず凡庸だった。英語の小テストは平均より少し下。体育のシャトルランはクラスの中の上。文化祭の係は「物品管理」。おもしろそうな役でもなく、目立つ役でもなく、責任だけはある役。顧問は「神田は信頼できるから」と言った。信頼は、本来、嬉しい言葉だ。けれど、“便利”の言い換えにされることがある。緋真は、自分が便利にされていることを責めるでも、喜ぶでもなく、「はい」と返した。返事は短い。その短さに、夜の夢の礼が混ざる。
家で、妹がソファで寝落ちしていた。スマホを握ったまま、ショート動画の音が小さく途切れ途切れに流れ続ける。母が毛布をかけ、「若いっていいね」と笑う。緋真も笑った。「若い」を言い訳にできる期間は短い。短い期間に、何を覚えるか。礼を覚えるなら、いまがいい。礼は、遅れても覚えられるが、早く覚えるほど柔らかい。
深夜、緋真はもう一度、机に向かった。画面に保存していた注記を読み返す。《嫉妬は誰にでもある……》。嫉妬は居座る。居座る嫉妬を、玄関まで見送りに行く日が来るのだろうか。来るとして、その日はいつだろう。緋真は、未来の予告をやめた。やめることで、呼吸が楽になる。楽になった呼吸で、天井に問いかける。
「矢野、あんたは彼の何だったんだ」
答えは、ない。
ないことが、今夜も救いだった。
ないことの中に、風が通る。風が通る音は、眠りに似ている。
緋真は目を閉じた。夢の入口は、相変わらず、現実よりも明るい。けれど、その明るさに慣れすぎないように、彼は心のどこかで、灯りをひとつだけ落とした。落とした灯りの暗さが、二人の影の輪郭を、はっきりさせる。影は、付き従うものではない。影は、ともに歩くための、もうひとつの足場だ。そう思えた夜は、眠りの底が、少しだけ深かった。



