沈黙の血脈

第二話 鬼神と少年

 夢は、二夜続けて訪れた。昨日と同じ道場。けれど、空気の粒の粗さがちがう。湿りと埃と樟脳の混合はそのままに、今夜はそこへ「圧」が足されていた。畳がひらたく息をして、梁が呼吸の合間に軋む。奥の壁に吊るされた木刀の列が、微かに互いを鳴らす。薄い夜の温度の上に、見えない重しが置かれている。
 静が面を付けた瞬間、その重しがさらに沈んだ。音の焦点が一点に集まり、周囲のざわめきが後景に引く。構えた竹刀の先が、空間の「端」を定義し直す。間合い――緋真はその言葉を、これまで本でしか知らなかった。実物は、いま目の前に線として在った。静の右足が半歩だけ滑り、左足が床板の節を避ける。踏み込みの音が床板を撓ませ、見えない波紋が畳の目の間を走る。打突は、ためらいがない。ためらいがないのに、無鉄砲ではない。相手の中心を正確に割り、打ち切る刹那に「戻り」がもう始まっている。
「間合いを奪っている」
 緋真は、誰にともなく思う。奪う、という動詞に似合う荒さが、そこにはなかった。静は、差し出された呼吸を、呼吸で包んで取り上げる。奪うよりも「預かる」に近い。けれど、勝敗の上ではたしかに奪っている。周囲の大人たちは小声で囁く。あの子は天分がある。踏み込みの強さがちがう。出ばなを捉える目が早い。褒める言葉が、道場の壁の節を数えるように落ちては、静かに消えた。
 攻めの合間、静は目の高さを変えない。竹刀の先をわずかに遊ばせ、相手の中心線をなぞる。相手が痺れを切らして前に出た瞬間、静は一拍先にそこにいた。面(めん)、小手(こて)、胴(どう)。どれもが「そこしかない」という場所へ吸い込まれ、打突の後の礼が呼吸と一体になって滑り出る。緋真は、それを見るだけで胸の内側が乾いた紙のように鳴った。からん、と音がして、自分が観客席にいないことに遅れて気づく。夢の中でさえ、彼は畳の縁の向こう側に立っている。誰にも見つからない位置。そこからなら、誰の邪魔にもならないで、息だけを合わせられる。
 十分に稽古が回った頃、師範代が手を挙げた。「休憩」。一斉に面が外れ、布地が空気にほどける音が道場に溢れる。汗の匂いが濃くなるのに、場の温度は不思議と下がる。静は面紐をほどき、布の内側を手ぬぐいで押さえただけで、まず廊下側へ目をやった。隅に立ち尽くしている初心者の少年――帯(おび)が上手く結べず、結び目が耳のようにだらしなく垂れている。静は何も言わず近づいて、指でほどく。ほどいた紐の端を揃え、相手の呼吸の速さに合わせてゆっくり締める。「痛かったら言ってね」。声は小さい。相手が「だいじょうぶです」と言い終える前に、結び目は美しく収まった。静は笑い、結んだ紐の余りを短く撫でた。撫でられた布が、安心した動物みたいに、手のひらに沿って形を整える。
 彼は、鬼神の顔を持っている。打突の端々にそれが宿る。けれど、帯に触れた指が子どもであることを、緋真は見逃さない。柔らかい。相手の痛みを先に予感できる指。「痛かったら言って」と言える人は、自分が痛ませてしまう可能性に耐える人だ。耐えられる人は、礼を忘れない。
 縁側へ出ると、夕方の風が道場の熱と混ざって、麦茶の香りを薄めた。ガラスのコップの外側を水滴が流れ、縁側の木目で丸い池を作る。静は麦茶を半分だけ飲んでから、師範代に尋ねた。
「勝ち続けることに意味はありますか」
 師範代は、すぐには答えなかった。蚊取り線香の煙が青い円を描いて、風に崩されるのを見ている。しばらくして、「勝ち続けるより、礼を失わずに続ける方が難しい」と言った。静は頷き、「では僕はそちらをやります」と言い、笑って畳に額を付けるほど深く礼をした。額に畳の目が刻まれて、次の瞬間には消えた。消えた跡だけが、緋真の目に残る。
 猫が縁側を横切った。灰色の背に、白い毛が一本混ざっている。静はコップを猫の手前で止め、猫の歩幅に合わせて自分の目線を低くした。猫は無視した。無視された静の顔は、面を外したときよりさらに子どもで、緋真は思わず笑いそうになった。笑いは喉で止めた。笑い声は、夢の内側のものを壊す。
 緋真は「観客」に徹していた。夢の中でペンは握っていないのに、ノートをめくり続ける自分の手の感覚がある。面金の曇りに映った自分の目。汗が表面張力で丸く盛り上がる瞬間。夏の湿気が天井に薄い膜を張り、梁の節がその膜を押し上げている。縁側の猫の毛が、光を一本ずつ掴む。文章は自動記述のように流れ、目の前の景色の濃さに任せて、緋真の中で勝手に文の骨格を立てていった。主人公が“抵抗なく動く”ことに、恐怖と快感が同時に芽生える。自分の意思より先に、出来事の方が推敲を始めてしまう恐怖。意思より先に動く言葉のなめらかさへの快感。
 夢はそこで、ふっと薄くなった。視界の端が崩れ、畳の目が溶けて、縁側の猫だけがやけに鮮明なまま残る。猫の毛だけを残して、世界が退室する。
     ※
 目が覚めた瞬間、緋真はベッドの脇に置いたノートに飛びついた。枕元のデジタル時計は、午前四時十六分。夏の夜明けがカーテンの向こうで色を変える手前。ペン先が紙に触れる音が、やけに大きい。書くべきことは多く、失う速度はそれ以上に速い。面金の曇りに映る自分の目――曇りに自分が映るという表現は、物理的にはおかしいのに、夢の中では成り立っていた、などと余計な言語律を持ち出す暇がない。彼は列挙した。静の右足の外反母趾の具合。踏み込む瞬間に小指が畳の目ひと筋分だけ沈むこと。師範代の左手薬指に巾着の紐の跡。初心者の帯が固く結ばれていた「前の人」の癖。麦茶の氷が半分溶けた頃の濁りかた。猫の背の、白い毛一本だけの違和感。
 書きながら緋真は、何度も息継ぎを忘れた。忘れたと気づくたび、肺に空気を入れ直す。書くことが呼吸に近いのなら、呼吸の乱れは文章の乱れになる。乱れは嫌いではないが、いまは「記録」を優先する。まぶたの裏に残像が静止画として貼りつき、緋真はそれを剥がして紙へ移す。剥がすときに破れが生じる。破れはメモの余白に落ちる。余白は、のちの自分にとっての現場になる。彼はその余白に、小さく「礼」と書いた。
 朝の階段を降りると、母が冷凍うどんを温めていた。夏休み明け前の登校日で、台所の空気は早起きの湿り気でやや重い。「夜更かしは肌に悪いよ」。半笑いの常套句が、緋真の背に軽くかかる。緋真は「寝たよ」と適当に返し、急いでうどんをかき込んだ。小さな明太子の粒が舌に残る。人間は、夢から現実へ戻るために、塩を欲しがる生き物かもしれない。そんなことを考える間に、時間は進む。
 バスに乗る。朝の車内には、既に一日の疲れの先取りみたいな空気が漂う。制服の襟の糊が首筋に当たって、汗がラインをなぞる。隣の席の男子が、スマホで「ショート」を流している。剣道の全国大会のハイライトが数秒で切り取られ、面や小手がスローで映し直される。テロップのフォントは太い。「エグい」「神反応」。緋真は画面を横目で見て、昨夜の静の打突に重ねようと試みたが、うまくいかなかった。あの速さは、スローにできない種類の速さだ。スローにして初めて見える技巧ではなく、等速でしか伝わらない間(あいだ)。思い出すには、自分の呼吸をあの間に合わせる必要がある。通学路の呼吸は、別の速度で動いている。
 学校に着くと、教室は「新学期前」の沈殿で満ちていた。誰もがめんどうくささを笑いに変換しようとし、笑いの音が机の間に落ちては拭き取られる。国語の時間、先生が古文の現代語訳を指名する。「神田」。緋真は立ち上がり、冒頭の主張を二行で訳して、三行目の「されど」で躓いた。されど、の後に来るはずの言葉が、さっき見た猫の毛の一本に引っかかる。「……されど、ええと」。隣の席の生徒が、ふつうの調子で続きを言ってくれて、今日も教室に小さな笑いが起きる。笑いの外側にいるのは、もう慣れた。慣れは、時々、自分の劣等感を見えない場所に運び去ってくれる。ありがたいときもある。
 授業が終わると、クラスの連絡用LINEにスタンプが流れる。「明日プリント持ってきて」「体育館シューズ忘れんな」。緋真は既読をつけ、コンビニに寄った。ノートをもう一冊。黒い表紙の安いやつ。帰り道、信号待ちの間に、表紙に白ペンで「夢専用」と書く。雑な字で書くと、守りが強くなる気がする。きれいに書いたものほど壊しやすい。壊れてもいいように雑で始める。令和の凡庸な高校生の、凡庸な小さなまじないだ。
 家に戻ると、妹がリビングでダンスの練習動画を流していた。画面の中の女子たちは、笑顔の角度まで揃っている。緋真は「音小さくして」とだけ言って階段を上がる。自室のドアを閉め、机の前に座る。新しいノートを開いた瞬間、彼は初めて夢の出典について考えた。“これは妄想か、記憶か”。妄想の精度にしては、言い回しが古い。昭和前期の空気、手触り、道場の配置。匂いまで。検索すれば、検証できるかもしれない。けれど、今はそれさえ躊躇われる。調べて“作り物”だと知れば魔法は消える。逆に“本物”だと知ってしまえば、誰かの人生を勝手に覗き見た罪悪感に押し潰される。罪悪感の重さは、魔法の重さとだいたい同じだ。なら、どちらに転んでも、今の呼吸は壊れる。
 緋真はスマホを伏せ、ノートをこちら側に引き寄せた。ページの端に線を引く。現実/虚構。線の上に「礼」と書き、下に「勝敗」と書く。線は細い。細い線の上を歩けるのは、猫くらいだ。昨夜の猫は、どちら側を歩いていたのだろう。そんなくだらないことに気を逸らし、ペン先が紙に落ちる音に集中する。文章はまた自動記述のように流れ始める。しかし、今度はそれが怖い。自動で書けることは、誰かの痛みを自動で消費してしまう危険を孕む。消費するつもりはなくても、消費になってしまうことがある。緋真は、書く速度を意図的に落とした。一行書いて、一呼吸。二行目で、前の行の主語を言い換える。三行目で、比喩を削る。削る音が自分の胸骨で鳴る。
 夕方、部活の時間が近づく。グループLINEに主将が「今日は地稽古多め」と入れた。緋真は既読をつけ、道具袋を掴む。道場の空気が夢と重なるかどうか、確かめたい衝動があった。体育館の二階、扇風機は古く、回転のうなりが風より目立つ。準備運動、素振り、足さばき。切り返しで、緋真は意識して「間」を作ろうとした。昨日の静の間合いを真似る――無理だった。真似は、元のものの輪郭を強調するための影絵になる。主将が軽く指摘する。「神田、いいんだけど、詰めるなら詰める、引くなら引く。半端がいちばん当てられる」。言い方は優しい。優しさは刃を鈍くする。鈍い刃は、切られる方が痛い。痛みが、汗の塩に滲む。
 稽古が終わる頃、顧問が珍しく見回りに来た。「大会前だ、無理すんなよ」。軽口。軽口は、疲労の蓋になる。緋真は「はい」と言い、道具を片づける。帰り際、後輩が駆け寄ってきた。「神田先輩、昨日の小説、めっちゃよかったっす。“礼と勝敗の線の上を歩く猫”のとこ、意味はわかんないけど、なんかグッと来た」。緋真は笑ってごまかす。「ありがとう」。意味はわからなくていい。わからないのに刺さるものは、たしかにある。そういうものを書けるなら、それで生きていけるのだろうか、と一瞬思って、すぐに打ち消す。生きる話はまだ早い。今は、眠る話だ。
     ※
 夜半。机の上でペンを置く。窓の外では、遠いバイク音がアスファルトの目地を辿るように走り、角を曲がって音だけ残す。天井の白は、昼間より広い。緋真は独り言のように呟いた。
「お前は誰なんだ、沖田静」
 名前を呼んだ途端、胸が熱くなる。呼びかけは、すでに祈りの形に傾き始めている。名前は扉だ。呼ぶことは、叩くことだ。叩くと、中の空気がこちらへ動く。動いた空気の量で、扉の厚さがわかる。扉は、厚い。厚いのに、冷たくない。緋真は布団に身を滑らせ、わずかに震える呼吸を整えながら目を閉じた。夢の入口が、現実よりも明るい。明るさに目が慣れるまで、少し時間がかかる。緋真は、その時間を礼にあてた。心の中で、深く一度、頭を下げる。礼をしてから、夢に入る。
     ※
 今夜の道場は、初手から速い。静は最初の構えで既に攻めを通しており、相手の呼吸が揺れたところへ、わずかな体の捌きで面を打つ。相手は驚き、守りに入る。守りに入った相手は、勝手に崩れる。静は崩れの速度に合わせて、胴を薄く割った。打突の音が、短く、深い。緋真は、音だけで打突の正確さを判別できる気がした。気がしただけだ。けれど、気がしたことが真実に近い夜もある。
 師範代が稽古の合間に、廊下の端で誰かと話している。「あの子、右目の焦点がぶれんのに、左で見てる」。相手が「先天か」と聞く。「さあな。どっちにしろ、見えてる」。見えている。緋真は、その言葉の硬さが好きだ。見えている、と言い切ることの勇気。見えないものを見えていると嘘をつく勇気ではなく、見える範囲を見えていると確定する勇気。静は、見えている。見えているから、礼が滑り出る。
 初心者の少年は今日も帯に苦戦していた。静はまた近づき、黙って手を添える。少年が「痛くないです」と言い切る前に、小さく笑って「もう少し強く結んでも大丈夫」と言う。結び目は、ほどけるためにある。ほどけることを前提にして、きれいに結ぶ。きれいに結ぶと、ほどけるときもきれいだ。静の指は、結びと解きの両方を知っている。緋真はそのことを、誰に説明するでもなく、ただ胸の内で頷いた。
 休憩になった。縁側で麦茶。猫が今日も通る。静は猫に名をつけない。名をつけないのは、確定を避けるためではない。名をつけなくても、そこにいるものがそこにいることは、変わらない。師範代が蚊取り線香を指でずらし、「煙、こっち来るな」と笑う。静は「煙にも道があります」と答える。師範代は「あるな」と短く返す。短い会話が、長い理解に繋がっている。
「勝ち続けることに意味はありますか」
 静の問いは、今夜は昨日より深かった。深いというのは、問いの重心の位置のことだ。問いは同じでも、重心が変わると別の問いになる。師範代は昨日と同じ言葉で答えた。「勝ち続けるより、礼を失わずに続ける方が難しい」。同じ答えは、夜ごとに違う響きを持つ。静は頷き、「では僕はそちらをやります」ともう一度言い、畳に額を付けるほど深く礼をした。額に畳の目が、今度は少しだけ長く残った。残った跡を見て、緋真は息を飲んだ。息を飲む音は、夢の中でも自分の耳にはうるさい。
 道場の外で、遠いサイレンが鳴った。戦前の町の夜は、静かで、音のひとつひとつの輪郭が太い。サイレンの音が丸く空を流れ、道場の天井の梁で跳ね返る。跳ね返りの余韻の中で、静は竹刀を置き、縁側に正座した。師範代が隣に座る。二人はしばらく何も言わない。沈黙は、礼の変種だ。沈黙で頭を下げている時間。緋真も、畳の縁のこちら側で、同じ沈黙を持った。
 夢は、今夜はそこまでだった。退室の足音が、昨夜よりさらに静かだ。緋真は目を覚まし、暗い天井を見上げた。午前二時台。もう一度眠れば、続きが来るだろうか。続いてほしいと思う気持ちと、続いてほしくないと思う気持ちが、胸骨の内側で小競り合いして、泣きそうな疲労に変わる。彼は手探りでペットボトルの水を飲み、枕元のノートに短い線だけ引いた。線は、昨夜の「現実/虚構」の線に接続し、二本目の道路みたいに並んだ。並行する線は、いつか交わる。交わると信じたものだけが、長く引ける。
     ※
 朝のホームルーム、担任が夏期講習の案内を配る。「受ける人、ここに丸付けて」。教室の空気に、ため息が散る。机をコツコツ指で叩く音。シャーペンの芯を繰り出す軽い機械音。令和の凡庸な高校生の、凡庸な朝。緋真は配られたプリントに丸をつけない。家の事情とか、やる気がないとか、そういう明確な理由がない「やめておく」。やめておくは、理由の空白の中で芽生える。空白は、良心にも免罪にも育つ。どちらに育つかは、育てる人の手の温度で決まる。緋真の手は、まだ温度を持たない。
 昼、パンが売り切れていて、代わりにカップ麺を買う。お湯を注いで三分待っている間、彼はスマホの画面に打とうとしてやめた検索語を思い出す。「沖田 剣道」「昭和 道場 写真」「麦茶 縁側 猫」。打つ前に、胸のどこかが引っ張られて、指が止まる。ほんの少し前の自分なら、打っていたはずだ。打って、ざっと見て、関係があるものかどうかを判断して、それでも見なかったことにする自信があった。でも今は、打たない。打たないことを選ぶためには、少しの勇気がいる。勇気の単位は、だいたい深呼吸一回ぶんだ。緋真は息を吸って、麺の蓋を剥がす。湯気が眼鏡を曇らせる。曇ると、世界がやさしく見える。やさしい世界で、塩味の強いスープを啜る。矛盾は、だいたいおいしい。
 放課後、雨が降り出した。夏の雨は、最初の一粒目が大きく、残りはついてくる。傘を持っていない生徒が、校門の下で雨雲レーダーを開いている。「あと二十分でやむって」「マジ?」。緋真もアプリを開いて、青と緑の斑点の動きを眺める。現代の天気は、地図で見える。見えると、待てる。待つことに理由がつくと、人は少し賢くなった気がする。緋真は簡易のビニール傘を買って帰る。透明な膜に当たる雨粒が、街灯の下で光る。透明は、濡れると発光する。
 家に着くと、祖母からLINEが入っていた。絵文字が多めで、用件は特にない。「この前の写真、送るね」。親族の集まりのスナップ。縁側、畳、浴衣のいとこ。写真の中の縁側は、夢の縁側とは別物だ。別物なのに、木目が似ている。似ていると、広がる。夢と現実の間に、木目だけが渡り廊下を作る。緋真はスタンプで返事をし、写真をアルバムに入れた。アルバムは、現実の記憶を軽くする。軽くなると、持ち歩ける。持ち歩けると、思い出す頻度が増える。頻度が増えると、意味が変わる。意味が変わると、過去の天気が変わる。人間は、いつでも天気を上書きして生きている。
 夜、机に向かって、緋真はノートの左上に、今日の日付を書いた。令和六年、八月。年月日の横に、丸をつける。その丸は、小さな礼。今日を通してくれたものに対する、月謝みたいなもの。彼は、あえて下手な字で「礼」と添えた。下手な字は、うそをつきにくい。
「お前は誰なんだ、沖田静」
 もう一度、呟く。名前を呼ぶことに、少し慣れてしまった自分に、軽い恐怖を覚える。慣れは、信仰を壊す。祈りが手続きになると、神様は離れる。緋真はそのことを、祖母の仏壇の空気で知っている。だから一拍置いて、窓を開けた。夜風が文机の角を撫でる。撫でられた木は、もう少しだけ長く使える。長く使えるものだけが、記録を続けられる。続けられるものだけが、誰かの息に触れられる。
 目を閉じる。夢の入口は、いつもより明るかった。明るいところへ入るには、影を連れていく必要がある。緋真は自分の影の、少しだけ濃い部分を掴んで、一緒に連れて行った。
     ※
 道場は、風の流れが変わっていた。廊下側の障子が半間だけ開いていて、湿った夜気が畳の上を滑る。静は、いつも通りの位置に立っている。だが、その「いつも通り」が、見るたびに新しくなる。相手との距離、師範代との距離、縁側の猫との距離――それぞれの距離が、その場で再計測されている。再計測の正確さが、静の「強さ」の一部だ。天分があるという大人たちの囁きは、天分の成分表を持たない。緋真は勝手に成分表を作る。礼、呼吸、間合い、視線、沈黙。そうして書いた成分表の横に、小さく「子ども」と記す。
 かかり稽古の後、静は縁側で麦茶を飲み、師範代の質問を待っているみたいに見えた。けれど、質問したのは静の方だった。「先生、負け続けることに意味はありますか」。師範代は笑った。少し驚いたような、嬉しいような笑い。「あるよ。続けることに意味があるなら、負けの中にも意味は宿る。勝ちでしか拾えないものもあるが、負けでしか拾えないものもある」。静は「拾う」と反芻し、猫の背に視線をやった。猫はちょうど、縁側の角で立ち止まって、見えない何かに鼻を近づけていた。猫は、拾わない。拾わない強さがある。
 静は、麦茶の最後の一口を飲み干して、空になったコップの底を覗いた。「水の底にも、道があります」。師範代は「あるな」ともう一度だけ言った。短い相槌が、長い教えになる夜がある。緋真は、それを忘れないために、心の中で指で机をなぞる仕草をした。何かを紙に写す前の、指先の準備。準備の仕草は、祈りの形に似ている。
 そして静は、畳に額を付けるほど深く礼をした。額に畳の目が、今夜ははっきりと残った。残る時間が、昨夜より長い。長く残る額跡の分だけ、緋真の胸にも、何かが刻まれた。
 道場の外の空気が、ほんの少し、きしんだような音を立てた。遠くの空を横切る風の、向きが変わる音。緋真は、夢の出口がどこにあるのかを、急に怖れてしまった。怖れを抱いたまま、彼は目を開けた。現実の天井は、相変わらず白い。白いが、見え方が違う。白さの内側に、畳の目の影が薄く埋まっている。錯覚だ。錯覚だが、ありがたい錯覚だ。
 枕元のノートに、緋真は一行だけ書いた。
 ――礼のある動きは、夢を壊さない。
 書いてから、彼はペンを置いた。置いたペンの音がやけに立派に聞こえた。立派過ぎる音を笑い、布団に潜る。眠気は、思っていたより軽い。軽い眠気は、すぐに落ちる。落ちる前に、彼はもう一度だけ名前を呼んだ。
「沖田静」
 祈りは、まだ祈りの形のままだった。祈りが手続きにならないうちに、今夜も、夢の入口は、現実よりも明るく開いていた。