第一話 孤高の仮面
放課後の教室は、黒板に残ったチョークの粉と、窓の向こうのスポーツテストの掛け声が、うすい層になって漂っていた。神田緋真(十七)は、窓際の最後列に陣取り、膝にのせたノートPCのキーボードを指先で叩いていた。机は連結式で、天板の端に鉛筆の傷が何本も重なっている。隣の席では誰かが忘れていった消しゴムが四角い影になり、日の傾きに合わせて少しずつ伸びていった。
――《現実より虚構のほうが呼吸しやすい。ここでは失敗の音がしない》。
書き終えた一文を見直し、彼はスマホのテザリングをONにする。小さなアイコンが青になり、画面の片隅に弱い電波の扇が立つ。投稿ボタンを押すのは、いつだって一秒にも満たない。だが、その一瞬の前に、胃のあたりに柔らかな重みが降りる。誰かに読まれる可能性の重み。誰にも届かないかもしれない軽さ。どちらでも構わないふりをして、緋真は親指でボタンを押し切った。
通知はすぐに鳴った。フォロワーはそこそこいる。匿名の感想が数件、スタンプのような短い賛辞がいくつか。画面の中では彼は“孤高の小説家”だ。アイコンは古書の背表紙、プロフィール欄には気の利いた言葉。孤高を演じるための語彙は、彼の引き出しに過不足なく揃っている。だが現実の緋真は器用ではなかった。定期テストは“二番手の群れ”に沈み、学年上位の名簿に食い込むには一歩足りない。体育祭ではアンカーではなく“第二走者”。剣道部でも主将ではなく副将。文化祭の脚本は書いたが、パンフレットのクレジットは“最終的には先輩の監修”。勝ち切れない指先の温度が、彼の毎日に染みついていた。
チャイムが鳴り、クラスメイトのざわめきが音量を増す。「カラオケ行こ」「マックで課題やらない?」誰かが緋真に声をかけようとして躊躇う。緋真はノートPCを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。誰の誘いも断ったわけではない。けれど、誘われるのを待つ顔にはなれない。孤高の仮面は、日常のやり取りでこそ必要になる。笑って首をかしげる角度、鞄を肩にかけ直す仕草、窓ガラスに映る自分の横顔。そういうものを整えておけば、寂しさは“選んだもの”のように見える。
校舎を出ると、夕焼けがグラウンドの砂を真っ赤に染めていた。風が少し強く、鉄棒に結ばれたビニールテープがばたばたと鳴る。部活の掛け声が遠くから響き、緋真は思わず視線をそちらに向けた。体育館の二階、剣道場の窓が開いている。かつん、かつん、かつん。踏み込みの音がリズムになって、空気を撓ませる。胸の奥で懐かしいものが動いた。
緋真は剣道部の“副将”である。名ばかりの肩書きではない。ただ、主将と比べれば一段低い。試合で勝てないわけではない。けれど、ここぞという場面で相手の中心を割り切れない。紙一重のところで、いつだって“惜しかった”に落ちる。惜しさは美徳のように扱われるときがある。だが実際には、惜しい人間は誰かの代替品になりやすい。緋真はそのことを、言葉にせず知っている。
帰路は、学区の外れまで続く坂道だ。坂を下りきると古い商店街がある。八百屋の店先のトマトはやわらかく、魚屋の氷は溶けかけて透明な川を作っている。緋真は揚げ物屋の前で一瞬足を止め、けれど財布の中身を思い出して歩き出す。夕暮れの色は、空腹とよく似合う。人の気配が多いのに、誰も自分のことを覚えていないような安心がある。
家の玄関を開けると、台所から味噌汁の匂いがした。母が半笑いで振り向く。「夜更かしは肌に悪いよ」。言い方は柔らかいが、目の端が少し心配を含んでいる。緋真は曖昧に頷き、食卓に座って、黙ってごはんを口に運ぶ。テレビはニュース番組に切り替わり、どこかで起きた事故の映像が音量を落として流れている。父は帰りが遅く、妹は塾の日だ。食事の会話は短く、食器のあたる音がその隙間を埋める。家庭のなかの沈黙は、外の沈黙よりやわらかい。緋真はそれを嫌いではなかった。
食事を終えると、自室のドアを閉める。壁にはお気に入りの作家の短い言葉を手書きで貼ってある。「言葉は誰のものでもない。だから、誰かを救ってしまうことがある」。紙は端が巻き、セロテープは黄ばんでいる。机の上には未完の原稿ファイルがいくつも開きっぱなしで、カーソルだけが点滅を繰り返す。点滅は鼓動に似ている。前に進まない鼓動。緋真は椅子に深く座り、天井を見上げて溜め息を吐く。
「俺は、虚構でしかマトモじゃない」
口にした瞬間、それが自嘲だとわかる。わかっているから、打ち消すために、彼はスマホの画面を開く。SNSの小説アカウントにログインし、さきほどの断章に続けて短い情景を足す。二百字、三百字。言葉は小分けにすればするほど、誰かの気分転換のための砂糖菓子になる。だが、その砂糖菓子の粒が、いずれ自分の血糖になることもある。救われる順番は、いつも曖昧だ。
それから、彼はシャワーを浴びた。湯の温度を少し高めにして、頭の皮がじんわりと柔らかくなるまで、目を閉じる。水音は考え事を鈍くする。眠れるかもしれないと思うとき、眠りは逃げる。逃げられれば追いかける癖がつく。緋真はタオルで髪を拭きながら、鏡に映った自分の顔を見た。目の下の隈が、孤高の仮面のひび割れみたいに見えた。
布団を敷き、灯りを落とす。窓の外では、遠いバイクの音が一定の距離を保って通り過ぎていく。手の届くところにノートとペンを置き、緋真は横になる。眠りを人質に取るように、彼は一行書いた。
――眠ることを恐れているのに、眠りに期待している。
その夜、夢は異様に具体的だった。
畳の匂い。湿った藺草。裸足の足裏に伝わる冷たさ。胴着の擦れる音。面越しに見える白い天井梁の節。打突の残響が空気を震わせ、細い埃が光を帯びて漂う。空気は乾いているのに、喉は湿っている。汗の塩が眉にうすい線を引く。夢の中で“見ている”のは緋真ではない。十五歳の少年――沖田静。
静は面を取る。所作が驚くほど整っている。面紐を解き、面を脇に置く動きが、竹刀の握りと同じくらいの慎重さで運ばれる。勝敗の後に相手の面紐をそっと直し、礼を深く取ってからも一拍置いて頭を下げる。師範代が笑い、「時代が時代なら将軍よ」と冗談めかす。静は照れたように眉尻を下げ、「勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない」と、小さく口にした。声は高くも低くもなく、竹の節のように真っ直ぐだった。
そこで夢は切れ、緋真は跳ね起きた。心臓は早鐘、喉は乾いている。夢にしては異常に“手触り”が濃い。枕元のノートを開き、震える手でメモを走らせる。畳の目の数、面金の冷たさ、竹刀の握りの微妙な角度。面を外した耳が感じる空気の軽さ、縁側の影、道場の外で鳴く名前の知らない鳥。自分の文章がいつもより勝手に動き、行間が呼吸する。書きながら恐怖も覚える――自分の作ったキャラより、夢の少年の方がはるかに“生きている”。
緋真はペンを握ったまま、しばらく動けなかった。自分の頭から出たものではない感触が、背骨に沿って降りてきて、腰のあたりで溜まっていく。夢の中で手にしていた竹刀の重みが、まだ指に残っている気がした。何かを“掴んだ”という高揚ではない。何かに“掴まれた”という実感だった。
気づけば窓の外が灰色にほどけ始めている。鳥の声が増え、遠くの道路で最初のトラックが走り出す音がした。緋真はノートを閉じ、もう一度だけ短く書き添えた。
――君は誰だ。
翌朝、階段を降りると、母がいつもの通り「夜更かしは肌に悪いよ」と半笑いで言った。緋真は曖昧に頷き、味噌汁を飲み干す。母の視線は、息子のどこを見ればいいのかを探しているようだった。体調か、成績か、機嫌か。どれも少しずつ悪いとき、人はどれか一つを良いことにしてバランスを取ろうとする。緋真は「大丈夫」とは言わず、「眠いだけ」と言った。母は「もう少し早く寝たら?」と返し、皿を重ねた。
バスは、朝の人の重さを載せて、ぎくしゃくと坂を登っていく。緋真は窓側の席で、二度寝しかけた。窓に映る自分の顔は“孤高の小説家”のそれに見えなくもないが、目の下の隈が現実を裏切っている。スマホを取り出し、昨夜のメモを開く。読み返すと、紙の上ではなく畳の上を歩く気になった。指先が汗ばむ。夢だったのに、証拠が残っている。証拠というにはあまりにも主観的だが、緋真はそれを証拠と呼びたかった。
学校に着くと、教室ではクラスメイトが進路相談の話で盛り上がっていた。「指定校とれた」「模試C判」。数字と名詞が交互に飛び、笑いが小刻みに弾ける。緋真は輪の外側で、昨夜書いた夢の断章だけを何度も読み返す。輪に入れないことを、自分の選択のように装う。装いは仮面になり、仮面は日常になる。日常はときどき重くなる。
最後のホームルームで担任が言った。「大学も就職も、結局は積み重ねだ。何も一番になる必要はない。小さな二番手を勝ち続けろ」。緋真は胸の奥が痛んだ。“二番手の積み重ね”は今の自分そのものだ。だが昨夜の夢が、どこかでそれを肯定した気もする。「勝っても負けても、次へ」。黒板の文字が滲む。担任の声は遠く、緋真は自分の中の別の声に耳を澄ます。竹の擦れる音、礼をするときの呼吸。夢の少年の言葉は、教科書の定義よりも、彼の身体に早く染み込んだ。
放課後、緋真は用具室で剣道具を背負った。面の中の布地は汗で堅くなり、胴の表面には小さな傷がいくつも走っている。道場に入ると、主将の掛け声で準備運動が始まった。素振り、足さばき、切り返し。体育館の床板が、同じ位置でいつもより少し高く鳴った。そこが緋真の癖の場所なのだと、主将が後で言った。「同じところに重心を落とすなよ」。言い方は優しい。優しさは時に、指摘の刃を鈍くする。鈍い刃は、切られる方が痛い。
かかり稽古の途中で、緋真は呼吸を整えるために面を外した。額に当たる冷たい空気に、昨夜の夢が重なる。面紐を結び直す手が、やけに慎重になる。あの少年の結び方を真似たくなる。だが、真似はすぐに見破られる。自分の癖は、長年自分の中で暮らしてきたから、他人の所作を一夜で移植することはできない。緋真は面を被り直し、もう一度踏み込む。相手の竹刀が自分の中心を割り、面布団の厚みを通して、鈍い痛みが頭皮にまで届いた。
練習の終わり、主将が言った。「今日はここまで。副将、道場締め頼む」。緋真は前に出て、号令に合わせて礼を取る。声は出る。しかし、心は少し遅れて動く。遅れた心の分だけ、礼の角度が浅くなる。本当の礼は、心の方が先に頭を下げる。緋真はそれを知識では知っている。身体で知るのは、もう少し先だ。
道具を片づけながら、後輩が話しかけてきた。「先輩、昨日上げてた小説、いいっすね。“失敗の音がしない”って、わかる気がしました」。緋真は一瞬、息がつまった。読まれたのだ。顔の皮膚が内側からむずむずした。「ありがとう」とだけ言い、鞄の紐を引き上げた。褒められるときに嬉しさより先に警戒が立つ。警戒は、褒められる理由が“自分が思っている理由と違うのでは”という疑いから生まれる。緋真は疑いを隠すために、笑った。笑いは仮面の一部だ。
外に出ると、空はもう薄紫だった。緋真はふらりと学校近くの古い神社に寄った。鳥居は低く、拝殿の木は年季で黒く、柱の下の石は風雨で角が取れていた。風鈴の音が、境内の空気を四角く切り取っては解放する。拝殿の前に立ち、緋真は小銭を投げる代わりに深く息を吸い、吐いた。言葉を持たない祈りは、静かで、少し臆病だ。絵馬の棚を眺める。合格祈願、家内安全、恋愛成就。どの願いも、ゆっくりと紙の色を褪せさせている。緋真は絵馬を手に取らなかった。何かを書けば、何かが確定する。確定は救いの形をしていることもあるが、彼にはまだ重すぎた。
神社を出ると、風が少し冷たくなっていた。商店街の灯りがひとつずつ点き始め、焼き鳥の匂いが一本路地を越えて漂ってくる。緋真は背負った道具の重さを背骨に沿わせながら歩いた。道具の重さは、彼が“ここで生きている”証拠のひとつだ。証拠はたいてい重い。軽い証拠は、すぐに指の間から抜け落ちる。
家に戻ると、父が居間で缶ビールを開けていた。「お、練習か。青春だな」と笑い、テレビの音量を少し上げた。母は洗濯物をたたみながら、「先にお風呂入りなさい」と言う。誰も責めてはいない。誰も励ましてもいない。その中庸さが、緋真を安心させた。彼は階段を上がり、自室に戻る。机の上には、朝のノートが開いたままだ。紙の上の文字は、書いたときよりも濃く見える。夢の重みは、時間を経ると輪郭がはっきりすることがある。
夜、机に向かい、緋真は初めて“虚構の続きを期待して眠る”という行為を自覚した。自覚は恥に似ている。けれど、その恥を抜けないと、何もはじまらない。彼は原稿ファイルをいくつか開いては閉じ、SNSのタイムラインを少し遡っては戻し、結局ノートに戻った。紙は嘘をつかないが、書き手は嘘をつく。嘘をつく自分を監視するために、緋真は自分の呼吸の数を数えた。四つ吸って、六つ吐く。心拍がゆっくりになる。眠りの入口が、目の前に沈んだ水面のように広がった。
寝落ちの直前、彼は小さくつぶやいた。
「また、会えるだろうか」
それは恋の言い回しに酷似しているのに、本人はまだ気づいていなかった。
※
眠りの縁は、昼間の残響を吸い込んで、夜だけの形に固まっていく。緋真はその縁を指でなぞるようにして、もう一度、同じ道場に降り立った。
畳の目は前夜よりもくっきりと数えられ、縁側の木目は古い川の流れみたいに見えた。静は道着の紐を結んでいる。結び目の所在が良い。面紐の端がきれいに揃って、余計な輪を作らない。師範代は何も言わない。ただ、うなずく。うなずき方にも礼があるのだと、緋真は初めて知る。
静は竹刀を取り、正面に礼をし、構えた。眼差しに焦点がないのに、中心だけが強い。視界のどこを見ているのかがわからないのに、どこか一点を絶対に外さない。踏み込みの音が畳を通して脛に伝わり、緋真のふくらはぎの奥が痺れた。打突は速い。速いのに、焦らない。焦らないのに、迷わない。矛盾が同居して、ひとつの動きになる。
かけ声は大きくない。「めん」。声は身体から正直に出て、すぐに空に吸われた。静は一手ごとに呼吸を整え、相手の中心に触れるたびに、ほんのわずかに頭を下げる。勝敗の瞬間に礼が滑り出るのは、稽古が長いからだ。稽古は、人を正す。静の短冊にいつか書かれるはずの言葉が、緋真の耳にはもう聞こえていた。
誰かが道場の外で風鈴を鳴らした。静は面を外し、額の汗を手ぬぐいで押さえる。手ぬぐいの端に小さな刺繍があった。十字のようにも、竹の節のようにも見える印。静はそれを指でなぞり、縁側に置いた。緋真の視線は、そこに吸い寄せられる。触れたら、何かが確定してしまう気がする。確定は、いまはまだこわい。
遠くで子どもの笑い声が上がり、猫が縁側の影を横切る。静は猫に気づいて、手をひらひらと振った。猫は無視した。無視されても静は笑った。笑い方は幼い。鬼神の顔と子どもの顔が、矛盾せずに同居している。緋真は、その同居に嫉妬した。自分もそうでありたいのに、どちらか一方の顔を被るので手一杯だ。
「沖田」
師範代が呼ぶと、静はすぐに返事をした。「はい」。返事は短い。短いのに、ひと呼吸分の礼が入っている。緋真は、その“間”がたまらなく好きだと、自覚した。好き、という単語を、彼はまだ自分の中でどうにも持て余している。
夢が薄くなり始めたとき、静はふと立ち止まり、緋真のいる方角を見た。見ている、のかどうかはわからない。けれど、見られたと緋真は感じた。感じたという事実の方が、本当か嘘かよりも、いまは重要だった。
緋真は目を覚ました。枕は冷たく、カーテンの隙間から細い朝の光が一本、床に落ちている。時計は、前夜より十分早かった。夢の続きを見るために眠りをむさぼった日々とは違う、正確に起きる朝。身体は軽くはなかったが、重くもなかった。重さと軽さの間に、薄い板が敷かれている感じ。板の上に立っていられそうだ。
彼は机に向かい、ノートにもう一度、夢を書き起こした。書くことは、会うことの代わりではない。けれど、会った事実を存続させる。存続の方法は、誰かにより強く触れた何かほど、具体でなければならない。緋真は、面紐の結び目の硬さ、畳の擦り切れた箇所の毛羽立ち、師範代の指の節の太さ、猫の毛の色を、可能な限り正確に書いた。
そして、ペンを置く。深呼吸をひとつ。喉が鳴る。胃のあたりで、昨日と同じ重みが降りる。だが、重みは薄くなった。彼はノートの端に小さく書く。
――これは、誰かの息の記録である。
※
その日の授業で、国語の先生が評論文の要約を指名した。緋真の名前が呼ばれる。彼は立ち、文中の主張を三行にまとめようとして、二行目で詰まった。「つまり」と言ったきり、言葉が見つからない。隣の席の生徒が代わりに答えて、教室に小さな笑いが起きた。緋真は笑いの外側で、昨夜の夢の一行を反芻している。
――勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない。
教科書の紙より、夢の短い台詞の方が身体に刻まれて離れない。先生は何も言わなかった。何も言わないことで、教えることがある。沈黙の種類を、緋真は増やしていく。
昼休み、屋上へつづく階段の踊り場に座り込むと、風が汗の上をなでていった。パンの袋を開ける音が、やけに大きく感じる。SNSの通知は止まっている。朝に上げた断章に、いくつかのいいねがついたまま静かだ。沈黙は心地よくもあり、怖くもある。沈黙の中でしか聞こえない声があることを、緋真は知り始めている。
午後の数学は散々だった。数列の一般項が導けず、黒板の前で固まっていると、先生がやんわりと助け舟を出した。「ここまでは合っている。あと一歩だ」。あと一歩。緋真はその言葉に軽く笑う。あと一歩は、彼の人生の総称みたいだ。笑いは自嘲に似ている。でも、完全な自嘲ではなかった。ほんの少しだけ、次に繋がる笑いだった。
放課後、もう一度、神社に寄った。昨日の風鈴が、今日も同じ音で鳴った。拝殿の木の匂いは微かに湿っていて、空気は昨日より冷たい。緋真はポケットの中でボールペンを握った。体温で温かい。絵馬の棚の前に立ち、一本だけ筆を手に取る。何かを書こうとして、やめた。紙に文字が乗ると、それは“こちらの世界”に降りてきてしまう。まだ上空に漂わせておきたいことがある。漂っているものは、いちばん自由だ。
その帰り道で、緋真のスマホが震えた。後輩からのメッセージだった。――〈先輩、明日の対外試合のオーダー、見ました?〉。開くと、団体戦の名簿が送られてきていた。大将が主将で、副将が緋真。並びはいつもと同じ。安定の順番。緋真は画面を閉じ、歩幅を少し広げた。順番は変わらない。変わらない順番を、どう生きるかだけが変わる。
※
夜、窓を少し開けると、遠くで雨の匂いがした。降ってはいない。けれど、どこかで水が温まって、空に混ざろうとしている匂い。緋真は机に戻り、原稿ファイルをいくつか開いては、あるひとつを選んだ。昨年の文化祭の脚本だ。赤字が何本も入っている。〈ここ、テンポ落ちる〉〈もっとドラマを〉〈キャラの動機が弱い〉。先輩の監修。監修は、支えであると同時に、重りでもある。重りは必要だ。重りがなければ、風で飛ぶ。だが、重りだけだと、前に進めない。
緋真は、昨年の自分の台詞に、そっと赤字を入れ直した。〈ドラマではなく、呼吸を〉。演劇の台詞は、舞台で消える。消えた後に残るのは、見た人の身体に刻まれた呼吸のリズムだけだ。小説も、たぶん、同じだ。彼は画面を閉じ、ノートに向かう。紙の上の黒い行は、誰の呼吸を記録するのか。緋真は、ゆっくりとペンを置き直した。
彼の指は、思いがけず、文字ではなく図を描き始めた。道場の間取り。縁側の位置。猫の通った影の軌跡。師範代の立ち位置。静の踏み込んだ足の跡。跡はすぐに消えるのに、紙の上では消えない。消えないものを、どう扱うか。扱い方が、その人の倫理になる。
緋真は、描いた図の隅に小さな四角を足した。欄外の余白。そこにだけ、彼は文字を書いた。
――名前を呼ばない。いまは、まだ。
寝る準備をする。歯を磨き、顔を洗い、タオルで水を押さえる。水は押さえると、逆に広がる。広がった水が冷たくなって、頬の内側に染み込んでいく。鏡の中の自分は、たしかに昨日と同じ顔だ。昨日と同じ顔で、昨日と違うことを考えている。考えることが違えば、同じ顔でも別の人みたいだ。仮面を外したわけではない。仮面の内側で、表情が変わる。
布団に入ると、緋真は目を閉じずに天井を見ていた。白い天井の隅に小さな影があり、夜の色がそこから少しずつ濃くなっていく。影は動かない。動かないものを見ていると、心が動く。彼は、心の動きに名前をつけないことにした。名前をつけると、早く固まる。固まったものは、早く壊れる。流れているものは、壊れにくい。
「また、会えるだろうか」
彼は、もう一度だけ、小さく言った。
恋の言い回しに似ている。けれど、まだ恋ではない。恋の手前にある何か。恋の前の礼。礼をしてから、恋をする。そんな順番がこの世にあるなら、緋真はそれを選ぶ気がした。選ぶと決めたわけではない。選ぶ予感だけが、布団の中で暖かくなる。
目を閉じる。暗闇は完全ではなかった。どこかに薄い灰色が混ざっていて、それが道場の畳の色と、ほんの少しだけ重なる。重なった部分に、緋真は息を吹きかけるようにして、眠りに落ちた。
※
夜の真ん中で、一度だけ目が覚めた。耳の奥で、かすかな“打突”の音が鳴った気がした。かつん。かつん。かつん。規則的な音は、心臓の鼓動とすぐに重なった。緋真は、目を閉じたまま、心臓の側に耳を当てる気持ちで、その音を聞いた。音はやがて遠くなり、代わりに呼吸の音が近くなった。自分の呼吸と、誰かの呼吸が、少しの間だけ同じリズムになった。
夢は、その夜、二度目の訪問をしなかった。訪れない夢の夜は、意地悪ではない。欠席の理由を説明しないだけだ。緋真は、その説明のなさを受け入れようとした。受け入れることも、礼のひとつだ。礼を重ねれば、いつか、また会える。
朝は、予告なしに来る。カーテンの向こうで鳥が鳴き、誰かがどこかで冷蔵庫を開ける音がした。緋真は目を開け、伸びをした。背骨がほどけて、皮膚が身体に戻ってくる。ポケットの中のスマホが重い。画面を開くと、夜の間についた通知は数件だけだった。誰かの「読みました」が、文字になっている。緋真は、それに返事をしなかった。しないことが、いまは正解だった。
彼は立ち上がり、机に向かった。ノートを開く。白い紙の前で、呼吸を整える。そこに、昨夜の言葉をもう一度だけ書いた。
――現実より虚構のほうが呼吸しやすい。ここでは失敗の音がしない。
そして、そのすぐ下に、新しい一行を足した。
――けれど、虚構は呼吸を教えてくれる。現実で息ができるように。
ペン先が紙から離れた瞬間、窓の外で小さな風が起きた。カーテンがわずかに揺れ、机の端に置いた面布団が、ほんの少しだけ音を立てた。緋真は顔を上げる。誰もいない部屋で、礼をしたい気持ちになった。
礼をする相手は、まだ、名前のない誰かだ。名前を呼ばないことが、いまの礼だ。彼は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
孤高の仮面は、今日も必要だ。けれど、その内側に、昨夜の静かな声が残っている。「勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない」。緋真は、その言葉とともに、学校へ向かう支度を始めた。
今日は対外試合だ。名簿の順番は、いつもの通り。二番手の位置は、今日も彼の席だ。席は変わらないが、座り方は変えられる。背筋を伸ばしすぎず、丸めすぎず、少しだけ中心を意識する。師範代のうなずき方を思い出しながら、緋真は玄関の靴をゆっくりと履いた。
ドアを開けると、朝の光が、昨日と同じ角度で廊下に差し込んだ。昨日と同じ光なのに、今日の自分の影は、ちがう形をしていた。影の形は、心の形だ。心の形は、礼の形だ。礼の形は、次に繋がる。
緋真は一歩、外に出た。空気は少し冷たく、肺の奥が痺れた。痺れは、これから何かが起きる予感に似ている。彼は鞄の紐を握り直し、歩き出した。歩幅は昨日よりわずかに広く、呼吸は昨日よりわずかに深い。仮面は、昨日と同じ位置で彼の顔にかかっている。だが、内側の表情は、もう昨日のものではなかった。
放課後の教室は、黒板に残ったチョークの粉と、窓の向こうのスポーツテストの掛け声が、うすい層になって漂っていた。神田緋真(十七)は、窓際の最後列に陣取り、膝にのせたノートPCのキーボードを指先で叩いていた。机は連結式で、天板の端に鉛筆の傷が何本も重なっている。隣の席では誰かが忘れていった消しゴムが四角い影になり、日の傾きに合わせて少しずつ伸びていった。
――《現実より虚構のほうが呼吸しやすい。ここでは失敗の音がしない》。
書き終えた一文を見直し、彼はスマホのテザリングをONにする。小さなアイコンが青になり、画面の片隅に弱い電波の扇が立つ。投稿ボタンを押すのは、いつだって一秒にも満たない。だが、その一瞬の前に、胃のあたりに柔らかな重みが降りる。誰かに読まれる可能性の重み。誰にも届かないかもしれない軽さ。どちらでも構わないふりをして、緋真は親指でボタンを押し切った。
通知はすぐに鳴った。フォロワーはそこそこいる。匿名の感想が数件、スタンプのような短い賛辞がいくつか。画面の中では彼は“孤高の小説家”だ。アイコンは古書の背表紙、プロフィール欄には気の利いた言葉。孤高を演じるための語彙は、彼の引き出しに過不足なく揃っている。だが現実の緋真は器用ではなかった。定期テストは“二番手の群れ”に沈み、学年上位の名簿に食い込むには一歩足りない。体育祭ではアンカーではなく“第二走者”。剣道部でも主将ではなく副将。文化祭の脚本は書いたが、パンフレットのクレジットは“最終的には先輩の監修”。勝ち切れない指先の温度が、彼の毎日に染みついていた。
チャイムが鳴り、クラスメイトのざわめきが音量を増す。「カラオケ行こ」「マックで課題やらない?」誰かが緋真に声をかけようとして躊躇う。緋真はノートPCを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。誰の誘いも断ったわけではない。けれど、誘われるのを待つ顔にはなれない。孤高の仮面は、日常のやり取りでこそ必要になる。笑って首をかしげる角度、鞄を肩にかけ直す仕草、窓ガラスに映る自分の横顔。そういうものを整えておけば、寂しさは“選んだもの”のように見える。
校舎を出ると、夕焼けがグラウンドの砂を真っ赤に染めていた。風が少し強く、鉄棒に結ばれたビニールテープがばたばたと鳴る。部活の掛け声が遠くから響き、緋真は思わず視線をそちらに向けた。体育館の二階、剣道場の窓が開いている。かつん、かつん、かつん。踏み込みの音がリズムになって、空気を撓ませる。胸の奥で懐かしいものが動いた。
緋真は剣道部の“副将”である。名ばかりの肩書きではない。ただ、主将と比べれば一段低い。試合で勝てないわけではない。けれど、ここぞという場面で相手の中心を割り切れない。紙一重のところで、いつだって“惜しかった”に落ちる。惜しさは美徳のように扱われるときがある。だが実際には、惜しい人間は誰かの代替品になりやすい。緋真はそのことを、言葉にせず知っている。
帰路は、学区の外れまで続く坂道だ。坂を下りきると古い商店街がある。八百屋の店先のトマトはやわらかく、魚屋の氷は溶けかけて透明な川を作っている。緋真は揚げ物屋の前で一瞬足を止め、けれど財布の中身を思い出して歩き出す。夕暮れの色は、空腹とよく似合う。人の気配が多いのに、誰も自分のことを覚えていないような安心がある。
家の玄関を開けると、台所から味噌汁の匂いがした。母が半笑いで振り向く。「夜更かしは肌に悪いよ」。言い方は柔らかいが、目の端が少し心配を含んでいる。緋真は曖昧に頷き、食卓に座って、黙ってごはんを口に運ぶ。テレビはニュース番組に切り替わり、どこかで起きた事故の映像が音量を落として流れている。父は帰りが遅く、妹は塾の日だ。食事の会話は短く、食器のあたる音がその隙間を埋める。家庭のなかの沈黙は、外の沈黙よりやわらかい。緋真はそれを嫌いではなかった。
食事を終えると、自室のドアを閉める。壁にはお気に入りの作家の短い言葉を手書きで貼ってある。「言葉は誰のものでもない。だから、誰かを救ってしまうことがある」。紙は端が巻き、セロテープは黄ばんでいる。机の上には未完の原稿ファイルがいくつも開きっぱなしで、カーソルだけが点滅を繰り返す。点滅は鼓動に似ている。前に進まない鼓動。緋真は椅子に深く座り、天井を見上げて溜め息を吐く。
「俺は、虚構でしかマトモじゃない」
口にした瞬間、それが自嘲だとわかる。わかっているから、打ち消すために、彼はスマホの画面を開く。SNSの小説アカウントにログインし、さきほどの断章に続けて短い情景を足す。二百字、三百字。言葉は小分けにすればするほど、誰かの気分転換のための砂糖菓子になる。だが、その砂糖菓子の粒が、いずれ自分の血糖になることもある。救われる順番は、いつも曖昧だ。
それから、彼はシャワーを浴びた。湯の温度を少し高めにして、頭の皮がじんわりと柔らかくなるまで、目を閉じる。水音は考え事を鈍くする。眠れるかもしれないと思うとき、眠りは逃げる。逃げられれば追いかける癖がつく。緋真はタオルで髪を拭きながら、鏡に映った自分の顔を見た。目の下の隈が、孤高の仮面のひび割れみたいに見えた。
布団を敷き、灯りを落とす。窓の外では、遠いバイクの音が一定の距離を保って通り過ぎていく。手の届くところにノートとペンを置き、緋真は横になる。眠りを人質に取るように、彼は一行書いた。
――眠ることを恐れているのに、眠りに期待している。
その夜、夢は異様に具体的だった。
畳の匂い。湿った藺草。裸足の足裏に伝わる冷たさ。胴着の擦れる音。面越しに見える白い天井梁の節。打突の残響が空気を震わせ、細い埃が光を帯びて漂う。空気は乾いているのに、喉は湿っている。汗の塩が眉にうすい線を引く。夢の中で“見ている”のは緋真ではない。十五歳の少年――沖田静。
静は面を取る。所作が驚くほど整っている。面紐を解き、面を脇に置く動きが、竹刀の握りと同じくらいの慎重さで運ばれる。勝敗の後に相手の面紐をそっと直し、礼を深く取ってからも一拍置いて頭を下げる。師範代が笑い、「時代が時代なら将軍よ」と冗談めかす。静は照れたように眉尻を下げ、「勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない」と、小さく口にした。声は高くも低くもなく、竹の節のように真っ直ぐだった。
そこで夢は切れ、緋真は跳ね起きた。心臓は早鐘、喉は乾いている。夢にしては異常に“手触り”が濃い。枕元のノートを開き、震える手でメモを走らせる。畳の目の数、面金の冷たさ、竹刀の握りの微妙な角度。面を外した耳が感じる空気の軽さ、縁側の影、道場の外で鳴く名前の知らない鳥。自分の文章がいつもより勝手に動き、行間が呼吸する。書きながら恐怖も覚える――自分の作ったキャラより、夢の少年の方がはるかに“生きている”。
緋真はペンを握ったまま、しばらく動けなかった。自分の頭から出たものではない感触が、背骨に沿って降りてきて、腰のあたりで溜まっていく。夢の中で手にしていた竹刀の重みが、まだ指に残っている気がした。何かを“掴んだ”という高揚ではない。何かに“掴まれた”という実感だった。
気づけば窓の外が灰色にほどけ始めている。鳥の声が増え、遠くの道路で最初のトラックが走り出す音がした。緋真はノートを閉じ、もう一度だけ短く書き添えた。
――君は誰だ。
翌朝、階段を降りると、母がいつもの通り「夜更かしは肌に悪いよ」と半笑いで言った。緋真は曖昧に頷き、味噌汁を飲み干す。母の視線は、息子のどこを見ればいいのかを探しているようだった。体調か、成績か、機嫌か。どれも少しずつ悪いとき、人はどれか一つを良いことにしてバランスを取ろうとする。緋真は「大丈夫」とは言わず、「眠いだけ」と言った。母は「もう少し早く寝たら?」と返し、皿を重ねた。
バスは、朝の人の重さを載せて、ぎくしゃくと坂を登っていく。緋真は窓側の席で、二度寝しかけた。窓に映る自分の顔は“孤高の小説家”のそれに見えなくもないが、目の下の隈が現実を裏切っている。スマホを取り出し、昨夜のメモを開く。読み返すと、紙の上ではなく畳の上を歩く気になった。指先が汗ばむ。夢だったのに、証拠が残っている。証拠というにはあまりにも主観的だが、緋真はそれを証拠と呼びたかった。
学校に着くと、教室ではクラスメイトが進路相談の話で盛り上がっていた。「指定校とれた」「模試C判」。数字と名詞が交互に飛び、笑いが小刻みに弾ける。緋真は輪の外側で、昨夜書いた夢の断章だけを何度も読み返す。輪に入れないことを、自分の選択のように装う。装いは仮面になり、仮面は日常になる。日常はときどき重くなる。
最後のホームルームで担任が言った。「大学も就職も、結局は積み重ねだ。何も一番になる必要はない。小さな二番手を勝ち続けろ」。緋真は胸の奥が痛んだ。“二番手の積み重ね”は今の自分そのものだ。だが昨夜の夢が、どこかでそれを肯定した気もする。「勝っても負けても、次へ」。黒板の文字が滲む。担任の声は遠く、緋真は自分の中の別の声に耳を澄ます。竹の擦れる音、礼をするときの呼吸。夢の少年の言葉は、教科書の定義よりも、彼の身体に早く染み込んだ。
放課後、緋真は用具室で剣道具を背負った。面の中の布地は汗で堅くなり、胴の表面には小さな傷がいくつも走っている。道場に入ると、主将の掛け声で準備運動が始まった。素振り、足さばき、切り返し。体育館の床板が、同じ位置でいつもより少し高く鳴った。そこが緋真の癖の場所なのだと、主将が後で言った。「同じところに重心を落とすなよ」。言い方は優しい。優しさは時に、指摘の刃を鈍くする。鈍い刃は、切られる方が痛い。
かかり稽古の途中で、緋真は呼吸を整えるために面を外した。額に当たる冷たい空気に、昨夜の夢が重なる。面紐を結び直す手が、やけに慎重になる。あの少年の結び方を真似たくなる。だが、真似はすぐに見破られる。自分の癖は、長年自分の中で暮らしてきたから、他人の所作を一夜で移植することはできない。緋真は面を被り直し、もう一度踏み込む。相手の竹刀が自分の中心を割り、面布団の厚みを通して、鈍い痛みが頭皮にまで届いた。
練習の終わり、主将が言った。「今日はここまで。副将、道場締め頼む」。緋真は前に出て、号令に合わせて礼を取る。声は出る。しかし、心は少し遅れて動く。遅れた心の分だけ、礼の角度が浅くなる。本当の礼は、心の方が先に頭を下げる。緋真はそれを知識では知っている。身体で知るのは、もう少し先だ。
道具を片づけながら、後輩が話しかけてきた。「先輩、昨日上げてた小説、いいっすね。“失敗の音がしない”って、わかる気がしました」。緋真は一瞬、息がつまった。読まれたのだ。顔の皮膚が内側からむずむずした。「ありがとう」とだけ言い、鞄の紐を引き上げた。褒められるときに嬉しさより先に警戒が立つ。警戒は、褒められる理由が“自分が思っている理由と違うのでは”という疑いから生まれる。緋真は疑いを隠すために、笑った。笑いは仮面の一部だ。
外に出ると、空はもう薄紫だった。緋真はふらりと学校近くの古い神社に寄った。鳥居は低く、拝殿の木は年季で黒く、柱の下の石は風雨で角が取れていた。風鈴の音が、境内の空気を四角く切り取っては解放する。拝殿の前に立ち、緋真は小銭を投げる代わりに深く息を吸い、吐いた。言葉を持たない祈りは、静かで、少し臆病だ。絵馬の棚を眺める。合格祈願、家内安全、恋愛成就。どの願いも、ゆっくりと紙の色を褪せさせている。緋真は絵馬を手に取らなかった。何かを書けば、何かが確定する。確定は救いの形をしていることもあるが、彼にはまだ重すぎた。
神社を出ると、風が少し冷たくなっていた。商店街の灯りがひとつずつ点き始め、焼き鳥の匂いが一本路地を越えて漂ってくる。緋真は背負った道具の重さを背骨に沿わせながら歩いた。道具の重さは、彼が“ここで生きている”証拠のひとつだ。証拠はたいてい重い。軽い証拠は、すぐに指の間から抜け落ちる。
家に戻ると、父が居間で缶ビールを開けていた。「お、練習か。青春だな」と笑い、テレビの音量を少し上げた。母は洗濯物をたたみながら、「先にお風呂入りなさい」と言う。誰も責めてはいない。誰も励ましてもいない。その中庸さが、緋真を安心させた。彼は階段を上がり、自室に戻る。机の上には、朝のノートが開いたままだ。紙の上の文字は、書いたときよりも濃く見える。夢の重みは、時間を経ると輪郭がはっきりすることがある。
夜、机に向かい、緋真は初めて“虚構の続きを期待して眠る”という行為を自覚した。自覚は恥に似ている。けれど、その恥を抜けないと、何もはじまらない。彼は原稿ファイルをいくつか開いては閉じ、SNSのタイムラインを少し遡っては戻し、結局ノートに戻った。紙は嘘をつかないが、書き手は嘘をつく。嘘をつく自分を監視するために、緋真は自分の呼吸の数を数えた。四つ吸って、六つ吐く。心拍がゆっくりになる。眠りの入口が、目の前に沈んだ水面のように広がった。
寝落ちの直前、彼は小さくつぶやいた。
「また、会えるだろうか」
それは恋の言い回しに酷似しているのに、本人はまだ気づいていなかった。
※
眠りの縁は、昼間の残響を吸い込んで、夜だけの形に固まっていく。緋真はその縁を指でなぞるようにして、もう一度、同じ道場に降り立った。
畳の目は前夜よりもくっきりと数えられ、縁側の木目は古い川の流れみたいに見えた。静は道着の紐を結んでいる。結び目の所在が良い。面紐の端がきれいに揃って、余計な輪を作らない。師範代は何も言わない。ただ、うなずく。うなずき方にも礼があるのだと、緋真は初めて知る。
静は竹刀を取り、正面に礼をし、構えた。眼差しに焦点がないのに、中心だけが強い。視界のどこを見ているのかがわからないのに、どこか一点を絶対に外さない。踏み込みの音が畳を通して脛に伝わり、緋真のふくらはぎの奥が痺れた。打突は速い。速いのに、焦らない。焦らないのに、迷わない。矛盾が同居して、ひとつの動きになる。
かけ声は大きくない。「めん」。声は身体から正直に出て、すぐに空に吸われた。静は一手ごとに呼吸を整え、相手の中心に触れるたびに、ほんのわずかに頭を下げる。勝敗の瞬間に礼が滑り出るのは、稽古が長いからだ。稽古は、人を正す。静の短冊にいつか書かれるはずの言葉が、緋真の耳にはもう聞こえていた。
誰かが道場の外で風鈴を鳴らした。静は面を外し、額の汗を手ぬぐいで押さえる。手ぬぐいの端に小さな刺繍があった。十字のようにも、竹の節のようにも見える印。静はそれを指でなぞり、縁側に置いた。緋真の視線は、そこに吸い寄せられる。触れたら、何かが確定してしまう気がする。確定は、いまはまだこわい。
遠くで子どもの笑い声が上がり、猫が縁側の影を横切る。静は猫に気づいて、手をひらひらと振った。猫は無視した。無視されても静は笑った。笑い方は幼い。鬼神の顔と子どもの顔が、矛盾せずに同居している。緋真は、その同居に嫉妬した。自分もそうでありたいのに、どちらか一方の顔を被るので手一杯だ。
「沖田」
師範代が呼ぶと、静はすぐに返事をした。「はい」。返事は短い。短いのに、ひと呼吸分の礼が入っている。緋真は、その“間”がたまらなく好きだと、自覚した。好き、という単語を、彼はまだ自分の中でどうにも持て余している。
夢が薄くなり始めたとき、静はふと立ち止まり、緋真のいる方角を見た。見ている、のかどうかはわからない。けれど、見られたと緋真は感じた。感じたという事実の方が、本当か嘘かよりも、いまは重要だった。
緋真は目を覚ました。枕は冷たく、カーテンの隙間から細い朝の光が一本、床に落ちている。時計は、前夜より十分早かった。夢の続きを見るために眠りをむさぼった日々とは違う、正確に起きる朝。身体は軽くはなかったが、重くもなかった。重さと軽さの間に、薄い板が敷かれている感じ。板の上に立っていられそうだ。
彼は机に向かい、ノートにもう一度、夢を書き起こした。書くことは、会うことの代わりではない。けれど、会った事実を存続させる。存続の方法は、誰かにより強く触れた何かほど、具体でなければならない。緋真は、面紐の結び目の硬さ、畳の擦り切れた箇所の毛羽立ち、師範代の指の節の太さ、猫の毛の色を、可能な限り正確に書いた。
そして、ペンを置く。深呼吸をひとつ。喉が鳴る。胃のあたりで、昨日と同じ重みが降りる。だが、重みは薄くなった。彼はノートの端に小さく書く。
――これは、誰かの息の記録である。
※
その日の授業で、国語の先生が評論文の要約を指名した。緋真の名前が呼ばれる。彼は立ち、文中の主張を三行にまとめようとして、二行目で詰まった。「つまり」と言ったきり、言葉が見つからない。隣の席の生徒が代わりに答えて、教室に小さな笑いが起きた。緋真は笑いの外側で、昨夜の夢の一行を反芻している。
――勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない。
教科書の紙より、夢の短い台詞の方が身体に刻まれて離れない。先生は何も言わなかった。何も言わないことで、教えることがある。沈黙の種類を、緋真は増やしていく。
昼休み、屋上へつづく階段の踊り場に座り込むと、風が汗の上をなでていった。パンの袋を開ける音が、やけに大きく感じる。SNSの通知は止まっている。朝に上げた断章に、いくつかのいいねがついたまま静かだ。沈黙は心地よくもあり、怖くもある。沈黙の中でしか聞こえない声があることを、緋真は知り始めている。
午後の数学は散々だった。数列の一般項が導けず、黒板の前で固まっていると、先生がやんわりと助け舟を出した。「ここまでは合っている。あと一歩だ」。あと一歩。緋真はその言葉に軽く笑う。あと一歩は、彼の人生の総称みたいだ。笑いは自嘲に似ている。でも、完全な自嘲ではなかった。ほんの少しだけ、次に繋がる笑いだった。
放課後、もう一度、神社に寄った。昨日の風鈴が、今日も同じ音で鳴った。拝殿の木の匂いは微かに湿っていて、空気は昨日より冷たい。緋真はポケットの中でボールペンを握った。体温で温かい。絵馬の棚の前に立ち、一本だけ筆を手に取る。何かを書こうとして、やめた。紙に文字が乗ると、それは“こちらの世界”に降りてきてしまう。まだ上空に漂わせておきたいことがある。漂っているものは、いちばん自由だ。
その帰り道で、緋真のスマホが震えた。後輩からのメッセージだった。――〈先輩、明日の対外試合のオーダー、見ました?〉。開くと、団体戦の名簿が送られてきていた。大将が主将で、副将が緋真。並びはいつもと同じ。安定の順番。緋真は画面を閉じ、歩幅を少し広げた。順番は変わらない。変わらない順番を、どう生きるかだけが変わる。
※
夜、窓を少し開けると、遠くで雨の匂いがした。降ってはいない。けれど、どこかで水が温まって、空に混ざろうとしている匂い。緋真は机に戻り、原稿ファイルをいくつか開いては、あるひとつを選んだ。昨年の文化祭の脚本だ。赤字が何本も入っている。〈ここ、テンポ落ちる〉〈もっとドラマを〉〈キャラの動機が弱い〉。先輩の監修。監修は、支えであると同時に、重りでもある。重りは必要だ。重りがなければ、風で飛ぶ。だが、重りだけだと、前に進めない。
緋真は、昨年の自分の台詞に、そっと赤字を入れ直した。〈ドラマではなく、呼吸を〉。演劇の台詞は、舞台で消える。消えた後に残るのは、見た人の身体に刻まれた呼吸のリズムだけだ。小説も、たぶん、同じだ。彼は画面を閉じ、ノートに向かう。紙の上の黒い行は、誰の呼吸を記録するのか。緋真は、ゆっくりとペンを置き直した。
彼の指は、思いがけず、文字ではなく図を描き始めた。道場の間取り。縁側の位置。猫の通った影の軌跡。師範代の立ち位置。静の踏み込んだ足の跡。跡はすぐに消えるのに、紙の上では消えない。消えないものを、どう扱うか。扱い方が、その人の倫理になる。
緋真は、描いた図の隅に小さな四角を足した。欄外の余白。そこにだけ、彼は文字を書いた。
――名前を呼ばない。いまは、まだ。
寝る準備をする。歯を磨き、顔を洗い、タオルで水を押さえる。水は押さえると、逆に広がる。広がった水が冷たくなって、頬の内側に染み込んでいく。鏡の中の自分は、たしかに昨日と同じ顔だ。昨日と同じ顔で、昨日と違うことを考えている。考えることが違えば、同じ顔でも別の人みたいだ。仮面を外したわけではない。仮面の内側で、表情が変わる。
布団に入ると、緋真は目を閉じずに天井を見ていた。白い天井の隅に小さな影があり、夜の色がそこから少しずつ濃くなっていく。影は動かない。動かないものを見ていると、心が動く。彼は、心の動きに名前をつけないことにした。名前をつけると、早く固まる。固まったものは、早く壊れる。流れているものは、壊れにくい。
「また、会えるだろうか」
彼は、もう一度だけ、小さく言った。
恋の言い回しに似ている。けれど、まだ恋ではない。恋の手前にある何か。恋の前の礼。礼をしてから、恋をする。そんな順番がこの世にあるなら、緋真はそれを選ぶ気がした。選ぶと決めたわけではない。選ぶ予感だけが、布団の中で暖かくなる。
目を閉じる。暗闇は完全ではなかった。どこかに薄い灰色が混ざっていて、それが道場の畳の色と、ほんの少しだけ重なる。重なった部分に、緋真は息を吹きかけるようにして、眠りに落ちた。
※
夜の真ん中で、一度だけ目が覚めた。耳の奥で、かすかな“打突”の音が鳴った気がした。かつん。かつん。かつん。規則的な音は、心臓の鼓動とすぐに重なった。緋真は、目を閉じたまま、心臓の側に耳を当てる気持ちで、その音を聞いた。音はやがて遠くなり、代わりに呼吸の音が近くなった。自分の呼吸と、誰かの呼吸が、少しの間だけ同じリズムになった。
夢は、その夜、二度目の訪問をしなかった。訪れない夢の夜は、意地悪ではない。欠席の理由を説明しないだけだ。緋真は、その説明のなさを受け入れようとした。受け入れることも、礼のひとつだ。礼を重ねれば、いつか、また会える。
朝は、予告なしに来る。カーテンの向こうで鳥が鳴き、誰かがどこかで冷蔵庫を開ける音がした。緋真は目を開け、伸びをした。背骨がほどけて、皮膚が身体に戻ってくる。ポケットの中のスマホが重い。画面を開くと、夜の間についた通知は数件だけだった。誰かの「読みました」が、文字になっている。緋真は、それに返事をしなかった。しないことが、いまは正解だった。
彼は立ち上がり、机に向かった。ノートを開く。白い紙の前で、呼吸を整える。そこに、昨夜の言葉をもう一度だけ書いた。
――現実より虚構のほうが呼吸しやすい。ここでは失敗の音がしない。
そして、そのすぐ下に、新しい一行を足した。
――けれど、虚構は呼吸を教えてくれる。現実で息ができるように。
ペン先が紙から離れた瞬間、窓の外で小さな風が起きた。カーテンがわずかに揺れ、机の端に置いた面布団が、ほんの少しだけ音を立てた。緋真は顔を上げる。誰もいない部屋で、礼をしたい気持ちになった。
礼をする相手は、まだ、名前のない誰かだ。名前を呼ばないことが、いまの礼だ。彼は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
孤高の仮面は、今日も必要だ。けれど、その内側に、昨夜の静かな声が残っている。「勝っても負けても、次に繋がらなければ意味がない」。緋真は、その言葉とともに、学校へ向かう支度を始めた。
今日は対外試合だ。名簿の順番は、いつもの通り。二番手の位置は、今日も彼の席だ。席は変わらないが、座り方は変えられる。背筋を伸ばしすぎず、丸めすぎず、少しだけ中心を意識する。師範代のうなずき方を思い出しながら、緋真は玄関の靴をゆっくりと履いた。
ドアを開けると、朝の光が、昨日と同じ角度で廊下に差し込んだ。昨日と同じ光なのに、今日の自分の影は、ちがう形をしていた。影の形は、心の形だ。心の形は、礼の形だ。礼の形は、次に繋がる。
緋真は一歩、外に出た。空気は少し冷たく、肺の奥が痺れた。痺れは、これから何かが起きる予感に似ている。彼は鞄の紐を握り直し、歩き出した。歩幅は昨日よりわずかに広く、呼吸は昨日よりわずかに深い。仮面は、昨日と同じ位置で彼の顔にかかっている。だが、内側の表情は、もう昨日のものではなかった。



