第十六話 夢のない夜
締切のない原稿に向かう夜が戻ってきた。
戻ってきた、と書くと歓迎の色が強すぎる。正確には、緋真の部屋に夜が来て、彼が机に座り直した。そこに締切はなく、叱る編集者もいない。代わりに座っているのは、半年ほど前から姿形を曖昧に変えながら緋真の向かいに腰を下ろしてきた相棒――自分の無能感である。
「やあ」と心の中で言うと、無能感は頬杖をついてあくびをする。
「今日もよろしく」と緋真。
「よろしくって、何をだい」と無能感。
「書くよ。君が座っている席の分まで」
部屋の隅に置いた小さな「場所」は、相変わらず静かだ。紺の布の上に短冊。竹の守り。薄い封筒の紙。「名を呼ぶな、声が泣く」と墨書きされた写し。瓶の列はその脇に移され、ラベルは面をそろえている。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉〈静の遺るところ〉。空の瓶は風の通り道だ。窓の隙間から入った夜風が瓶の口を撫で、目に見えない音だけが鳴る。鳴る音を緋真は誰にも説明しない。説明の手前で、礼を置く。
パソコンの画面はまぶしすぎない明るさに落とされている。カーソルの点滅は早くも遅くもない。緋真は深呼吸を一つして、冒頭の段落を削った。昨日までの自分が回りくどく擬えていた比喩を、まるごと抜く。静の指はもう比喩の中で呼吸しない。彼は現実の埃っぽい空気の中で、面紐を結び直す。矢野はそこに立ち、短い息で静の肩をたたく。「おまえのままで」と言ったかどうかわからない。その不確かさの輪郭だけを残す。
「二番手であること、ミスをすること、誰かの陰影を羨むこと」
声に出すと、無能感がふっと笑った。
「そういうの、きれいに隠したほうが読みやすいよ」
「読みやすさは今日はいらない」
緋真はキーボードを打つ。指が少し震える。震えは止めない。震えの分だけ、文末が短くなる。《面紐は固い/固いほうが安心だ/手のひらに汗が出る/汗を拭く時間がない》。短い行を並べ、空白を置く。空白は怖い。けれど、空白の分だけ、読む人が息を通せる。
物語は、飛翔の瞬間で止める。散り際は描かない。散り際は、誰かの確定を助けてしまうから。代わりに、緋真は飛ぶ前の数時間に光を置いた。何も起きていない時間。けれど、そこにしか起きないことがある時間。
――午后二時。
滑走路の端、砂の混じる風。静は機体の影に座り、軍手を外して掌を見ている。掌の線に砂が入り込む。水筒の口を開け、指先を湿らせて砂を払う。その水の冷たさが、喉の奥に残っていた別の熱を一瞬だけ忘れさせる。
――午後三時。
矢野が来る。足音でわかる。足音は急がない。急がないくせに、間に合う足音。矢野は静の横に腰を下ろし、何も言わずに空を見る。二人は空を等分に見て、等分に怖がる。怖がり方が違うのに、見ている空だけは同じだ。
――午後三時半。
面紐の堅さを思い出して、静がふと笑う。矢野は「どうした」と訊く。静は首を振る「帰ったら、道場の紐、結び直す」
「人の紐まで結ぶな」
「自分のだけじゃないと、意味が薄れる」
「おまえはそういうやつだ」
矢野は笑い、ラムネの瓶を二本、どこからか出してくる。泡の音が鳴る。ビー玉が転がる。泡はすぐ消える。消えたあとに残る甘さだけが喉の奥に居座る。
――午後四時。
誰かが名前を呼ぶ。点呼の声。静は振り向く。矢野は静の肩を軽く叩く。「おまえのままで」
その言葉の重さを、緋真は慎重に軽くする。軽くしないと、意味に殺される。意味を薄めるのではなく、余白を増やす。「おまえのままで」の前後に、風の音と靴の砂の感触と、遠くで引き揚げられる旗の布のざわめきを混ぜる。言葉が、世界の中の一要素に戻る。そうやって、言葉は生き延びる。
カーソルはさらに進む。緋真は止まらない。息が短くなったら、椅子に背中を預ける。深呼吸。窓を数センチだけ開ける。冷えた空気が頬に当たる。名を呼ばない祈りが喉の奥に集まり、声にならない。声にならないことが、今日は礼だ。
途中で一度だけ、スマホが震えた。ケンタから〈腹減った。カップ麺いる?〉。緋真は〈いらん〉とだけ返す。〈じゃ俺が二つ食べる〉〈食べすぎ〉〈食べすぎてみせる〉。既読の点は気ままに明滅し、やがて黙った。黙る相手がいるのは助かる。沈黙は、ひとりでは辛い。
夜の真ん中で、緋真はプリンターのスイッチを入れた。機械が低い音を立て、白い紙に黒い字が落ちていく。落ちていく音は、いつだって少し笑っているみたいだ。温かい紙を束ね、クリップで留める。表紙に『静の遺るところ』とペンで書く。自分の字の下手さにいちど眉をしかめ、それでも、下手な字がふさわしい気がした。整えられたフォントが似合う内容ではない。
翌日。
緋真は祖母の家へ行った。薄い雲のかかった昼。祖母は台所から出てきて、緋真の顔を見るなり「座っていなさい」と言った。緋真は座卓に原稿を置き、湯呑を両手で包む。祖母は原稿を受け取り、ページの角をそっと撫でるようにしてから、読み始めた。
一時間ほど、時計は進んだ。台所の音が時々差し込み、表の道を自転車が通る気配がして、風鈴が一度だけ鳴った。祖母の指は紙の上を静かに移動し、時折止まり、また進む。紙の上を歩く指先を見ていると、緋真の胸の奥で瓶の一つがわずかに鳴る。鳴る音は、外に出ない。
最後のページの角に祖母の指が届き、ゆっくり折り返された。祖母はページの端を指で撫でてから、息を吸い、「ありがとう」とだけ言った。
確定の言葉を避け続けてきた家の歴史の中で、その「ありがとう」は初めての確定だった。緋真は泣かない。泣けなかったのではなく、泣く場所ではなかった。椅子に深く座り、息を吐く。吐いた息の重さが、床の木目の上でほどけた。
帰り道、緋真はスマホのメモアプリを開く。SNSに告知を出すか、出さないか。指は「告知」の画面に行きかけ、戻る。孤高の仮面は、被ろうと思えばいつでも被れる。被るのは簡単だ。だが今日は、仮面の内側に隠れるのではなく、仮面を机の上に置いておくことにする。拍手の数で測らないほうがいい内容がある。そういうものにだけ、今は触れていたい。
代わりに、郷土誌の編集部のメールアドレスを開き、件名に「寄稿のご相談」と打つ。本文には簡潔に内容と意図を書いた。《散り際を描かず、飛ぶ前の数時間に光を置く文章です。遺るものの配置で弔うやり方に、どうにか辿り着いた気がしています》。送信ボタンを押す。返事はすぐには来ない。来ないメール受信箱の白は、驚くほど穏やかだ。待つ時間が平穏だと、彼は初めて知る。待てるだけの場所が、自分の生活の中にできたからだ。
夜。
机の隅に竹の守りと短冊を置き、灯りを落とす。布団に入って、耳を澄ます。風が動く音。遠くの車の気配。隣家の階段を降りる足音。冷蔵庫の小さなモーターのうなり。いつもの夜の雑音。――夢は来ない。驚くほど来ない。恐怖も来ない。静がいないことに耐えられるかを試す夜ではなく、静が“遺る”夜だ。
名を呼ばない。呼ばないまま、胸の中心で光が丸くなる。名前のない光。名前がないから、どこへでも行ける光。光は、瓶の口から出ていって、また戻ってくる。
目を閉じたまま、緋真は心の中で静に話しかける。
――君は生きたのか、死んだのか。
――僕にはもう、どちらでもいい。
――君が君であったことを、僕は受け取った。
――そのまま渡す。
言葉は誰にも聞こえない。聞こえない礼を、彼は一つずつ置く。置いた礼は、彼の中に小さな柱を立てる。柱は目に見えないが、姿勢がよくなる。
翌朝、防波堤に立つ。
海は相変わらずで、石垣の隙間に小さな草が揺れる。朝の光がまだ固い角度で水面に刺さり、白いきらめきが連続して目に入る。緋真はポケットの中の守りを指で探り、人目のないところでそっと掌にのせる。守りは温かい。掌の中で、昨日の風がふっと蘇る。
緋真は海へ向けて、名前を呼ばない祈りを投げる。祈りは水面に届くまえに風に拾われ、海の匂いを連れて戻ってくる。波は答えない。けれど頬を撫でた風が、一瞬だけ、あの夢の前兆に似ていた。似ていることだけで十分だ。確定はいらない。
防波堤でしばらく立ち尽くし、緋真は早足で家へ戻る。机に座る。パソコンを開く。新しいファイルが、無言で待っている。ファイル名はまだ「無題」。冒頭に打つ。
――これは恋の話ではない。
――けれど、恋の仕方を学んだ者の話だ。
キーを打ち終えると同時に、心のどこかで瓶が一つ小さく鳴る。鳴った音を確かめない。確かめないまま、次の行に進む。矢野の影も、静の気配も、そのままに。影と気配は、物語の中で主人公に肩を貸す。主人公は緋真ではない。緋真は、その肩に触れずに歩幅を合わせる。合わせた歩幅の分だけ、言葉がまっすぐになる。
午後になって、ケンタが家に来た。
「プリント持ってきたぞ。数学、範囲広いぞ」
「ありがとう」
緋真は受け取り、机の端に置く。ケンタの視線が紺の布のほうに一瞬だけ流れて、すぐ戻る。「海、行った?」
「行った」
「死ぬなって言ったろ」
「死なない。当分」
ケンタは「当分ってのが怖えんだよ」と笑い、冷蔵庫からスポーツドリンクを勝手に出して飲んだ。笑い声は、部屋の空気を少し軽くする。軽くなりすぎないように、緋真は意識的に椅子の背にもたれず、姿勢を保った。
「で、書いた?」
「書いた。まだ続ける」
「読ませないんだろ?」
「いつか」
「いつか、ね」
ケンタは飲みかけのボトルを振って、キャップを閉めた。「じゃ、昼飯。焼きそばパン買いに行く」
「行ってらっしゃい」
「おまえも来いよ」
「行かない」
「だろうな」
扉が閉まる。足音が階段を下りていく。静かになった部屋に、風がまた入ってきた。風は、今日も同じ匂いで吹く。
夕方になり、郷土誌の編集部から短い返信が届いた。《拝受しました。編集会議にかけますので、少しお時間ください》。
丁寧な定型文。けれど、そこに息がある気がした。送りっぱなしではない。それだけで十分だ。待つ時間のなかで、緋真の生活は崩れない。崩れないように、彼はいつもより丁寧に皿を洗い、洗濯機の音に耳を傾け、祖母の作った佃煮をご飯に乗せて食べる。味は濃く、舌の奥に残る。その残り方が、今日の文体に似ている。
夜が来る。
机に向かう。肩の力は抜けているが、姿勢は崩れていない。カーソルの点滅は相変わらず規則正しい。緋真は、これまで避けてきた「自分の無能感」ともう一度目を合わせる。
「今日は?」
「座って見ているよ」
「それでいい」
無能感が頷いたような気がして、彼は笑う。笑うと、文末の句点が少しやわらかくなる。やわらかい句点は、読んだ人の心の中に椅子を置く。座って、次の頁へ行く準備をさせる。今日の文は、その椅子を少しずつ増やすことに費やされる。派手ではない。けれど、座れる場所を増やすのは、書き手の重要な仕事のひとつだ。
物語はここで終わる。
結末は明示されない。
けれど、緋真の生活に起きた微細な変化――沈黙を尊ぶ姿勢、確定を急がない呼吸、言葉で守るという仕事――それ自体が、ひとつの“生還”である。生還は、戦地からだけ行われるものではない。台所から、机から、防波堤から、教室から、日々の細部から行われる。毎日の小さな生還の折り重なりが、やがて人を生かす。
深夜零時。
緋真は灯りを落とし、布団に潜り、耳を澄ます。風の音。遠くの車の気配。隣家の時計の針の音。いつもの夜の雑音。――夢は来ない。来ないことを、彼は選ばない。拒まない。ただ眠る。夢を見るかもしれないし、見ないかもしれない。どちらでも、世界は続く。目覚めの白い天井の下で、彼はもう泣かない。泣きたいときには、泣く。泣きたくないときには、泣かない。それだけだ。
名を呼ばないまま。
息を確かめるまま。
遺されたものの場所を、明日も同じところに保つまま。
眠りのふちで、緋真はひとつだけ、はっきりとした像を見る。
面紐を結ぶ指。
それは静の指であり、矢野の指であり、緋真の指でもある。
指は結び目を固め、ほどけないように、しかし締めすぎないように引く。
結び終えた指は、拳を作らず、開かれる。
開かれた掌に、風が通る。
その風は、今日も同じ匂いで吹く。
緋真は眠った。
夢のない夜は、ひどく優しかった。
・・・・・
〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
→【URL】https://novema.jp/book/n1757784
〈青春で締めるなら〉『学校イチのイケメン×学校イチのイケメンは恋をする』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761242
〈怖さで締めるなら〉『白いドレスに滲むもの』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761088
締切のない原稿に向かう夜が戻ってきた。
戻ってきた、と書くと歓迎の色が強すぎる。正確には、緋真の部屋に夜が来て、彼が机に座り直した。そこに締切はなく、叱る編集者もいない。代わりに座っているのは、半年ほど前から姿形を曖昧に変えながら緋真の向かいに腰を下ろしてきた相棒――自分の無能感である。
「やあ」と心の中で言うと、無能感は頬杖をついてあくびをする。
「今日もよろしく」と緋真。
「よろしくって、何をだい」と無能感。
「書くよ。君が座っている席の分まで」
部屋の隅に置いた小さな「場所」は、相変わらず静かだ。紺の布の上に短冊。竹の守り。薄い封筒の紙。「名を呼ぶな、声が泣く」と墨書きされた写し。瓶の列はその脇に移され、ラベルは面をそろえている。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉〈静の遺るところ〉。空の瓶は風の通り道だ。窓の隙間から入った夜風が瓶の口を撫で、目に見えない音だけが鳴る。鳴る音を緋真は誰にも説明しない。説明の手前で、礼を置く。
パソコンの画面はまぶしすぎない明るさに落とされている。カーソルの点滅は早くも遅くもない。緋真は深呼吸を一つして、冒頭の段落を削った。昨日までの自分が回りくどく擬えていた比喩を、まるごと抜く。静の指はもう比喩の中で呼吸しない。彼は現実の埃っぽい空気の中で、面紐を結び直す。矢野はそこに立ち、短い息で静の肩をたたく。「おまえのままで」と言ったかどうかわからない。その不確かさの輪郭だけを残す。
「二番手であること、ミスをすること、誰かの陰影を羨むこと」
声に出すと、無能感がふっと笑った。
「そういうの、きれいに隠したほうが読みやすいよ」
「読みやすさは今日はいらない」
緋真はキーボードを打つ。指が少し震える。震えは止めない。震えの分だけ、文末が短くなる。《面紐は固い/固いほうが安心だ/手のひらに汗が出る/汗を拭く時間がない》。短い行を並べ、空白を置く。空白は怖い。けれど、空白の分だけ、読む人が息を通せる。
物語は、飛翔の瞬間で止める。散り際は描かない。散り際は、誰かの確定を助けてしまうから。代わりに、緋真は飛ぶ前の数時間に光を置いた。何も起きていない時間。けれど、そこにしか起きないことがある時間。
――午后二時。
滑走路の端、砂の混じる風。静は機体の影に座り、軍手を外して掌を見ている。掌の線に砂が入り込む。水筒の口を開け、指先を湿らせて砂を払う。その水の冷たさが、喉の奥に残っていた別の熱を一瞬だけ忘れさせる。
――午後三時。
矢野が来る。足音でわかる。足音は急がない。急がないくせに、間に合う足音。矢野は静の横に腰を下ろし、何も言わずに空を見る。二人は空を等分に見て、等分に怖がる。怖がり方が違うのに、見ている空だけは同じだ。
――午後三時半。
面紐の堅さを思い出して、静がふと笑う。矢野は「どうした」と訊く。静は首を振る「帰ったら、道場の紐、結び直す」
「人の紐まで結ぶな」
「自分のだけじゃないと、意味が薄れる」
「おまえはそういうやつだ」
矢野は笑い、ラムネの瓶を二本、どこからか出してくる。泡の音が鳴る。ビー玉が転がる。泡はすぐ消える。消えたあとに残る甘さだけが喉の奥に居座る。
――午後四時。
誰かが名前を呼ぶ。点呼の声。静は振り向く。矢野は静の肩を軽く叩く。「おまえのままで」
その言葉の重さを、緋真は慎重に軽くする。軽くしないと、意味に殺される。意味を薄めるのではなく、余白を増やす。「おまえのままで」の前後に、風の音と靴の砂の感触と、遠くで引き揚げられる旗の布のざわめきを混ぜる。言葉が、世界の中の一要素に戻る。そうやって、言葉は生き延びる。
カーソルはさらに進む。緋真は止まらない。息が短くなったら、椅子に背中を預ける。深呼吸。窓を数センチだけ開ける。冷えた空気が頬に当たる。名を呼ばない祈りが喉の奥に集まり、声にならない。声にならないことが、今日は礼だ。
途中で一度だけ、スマホが震えた。ケンタから〈腹減った。カップ麺いる?〉。緋真は〈いらん〉とだけ返す。〈じゃ俺が二つ食べる〉〈食べすぎ〉〈食べすぎてみせる〉。既読の点は気ままに明滅し、やがて黙った。黙る相手がいるのは助かる。沈黙は、ひとりでは辛い。
夜の真ん中で、緋真はプリンターのスイッチを入れた。機械が低い音を立て、白い紙に黒い字が落ちていく。落ちていく音は、いつだって少し笑っているみたいだ。温かい紙を束ね、クリップで留める。表紙に『静の遺るところ』とペンで書く。自分の字の下手さにいちど眉をしかめ、それでも、下手な字がふさわしい気がした。整えられたフォントが似合う内容ではない。
翌日。
緋真は祖母の家へ行った。薄い雲のかかった昼。祖母は台所から出てきて、緋真の顔を見るなり「座っていなさい」と言った。緋真は座卓に原稿を置き、湯呑を両手で包む。祖母は原稿を受け取り、ページの角をそっと撫でるようにしてから、読み始めた。
一時間ほど、時計は進んだ。台所の音が時々差し込み、表の道を自転車が通る気配がして、風鈴が一度だけ鳴った。祖母の指は紙の上を静かに移動し、時折止まり、また進む。紙の上を歩く指先を見ていると、緋真の胸の奥で瓶の一つがわずかに鳴る。鳴る音は、外に出ない。
最後のページの角に祖母の指が届き、ゆっくり折り返された。祖母はページの端を指で撫でてから、息を吸い、「ありがとう」とだけ言った。
確定の言葉を避け続けてきた家の歴史の中で、その「ありがとう」は初めての確定だった。緋真は泣かない。泣けなかったのではなく、泣く場所ではなかった。椅子に深く座り、息を吐く。吐いた息の重さが、床の木目の上でほどけた。
帰り道、緋真はスマホのメモアプリを開く。SNSに告知を出すか、出さないか。指は「告知」の画面に行きかけ、戻る。孤高の仮面は、被ろうと思えばいつでも被れる。被るのは簡単だ。だが今日は、仮面の内側に隠れるのではなく、仮面を机の上に置いておくことにする。拍手の数で測らないほうがいい内容がある。そういうものにだけ、今は触れていたい。
代わりに、郷土誌の編集部のメールアドレスを開き、件名に「寄稿のご相談」と打つ。本文には簡潔に内容と意図を書いた。《散り際を描かず、飛ぶ前の数時間に光を置く文章です。遺るものの配置で弔うやり方に、どうにか辿り着いた気がしています》。送信ボタンを押す。返事はすぐには来ない。来ないメール受信箱の白は、驚くほど穏やかだ。待つ時間が平穏だと、彼は初めて知る。待てるだけの場所が、自分の生活の中にできたからだ。
夜。
机の隅に竹の守りと短冊を置き、灯りを落とす。布団に入って、耳を澄ます。風が動く音。遠くの車の気配。隣家の階段を降りる足音。冷蔵庫の小さなモーターのうなり。いつもの夜の雑音。――夢は来ない。驚くほど来ない。恐怖も来ない。静がいないことに耐えられるかを試す夜ではなく、静が“遺る”夜だ。
名を呼ばない。呼ばないまま、胸の中心で光が丸くなる。名前のない光。名前がないから、どこへでも行ける光。光は、瓶の口から出ていって、また戻ってくる。
目を閉じたまま、緋真は心の中で静に話しかける。
――君は生きたのか、死んだのか。
――僕にはもう、どちらでもいい。
――君が君であったことを、僕は受け取った。
――そのまま渡す。
言葉は誰にも聞こえない。聞こえない礼を、彼は一つずつ置く。置いた礼は、彼の中に小さな柱を立てる。柱は目に見えないが、姿勢がよくなる。
翌朝、防波堤に立つ。
海は相変わらずで、石垣の隙間に小さな草が揺れる。朝の光がまだ固い角度で水面に刺さり、白いきらめきが連続して目に入る。緋真はポケットの中の守りを指で探り、人目のないところでそっと掌にのせる。守りは温かい。掌の中で、昨日の風がふっと蘇る。
緋真は海へ向けて、名前を呼ばない祈りを投げる。祈りは水面に届くまえに風に拾われ、海の匂いを連れて戻ってくる。波は答えない。けれど頬を撫でた風が、一瞬だけ、あの夢の前兆に似ていた。似ていることだけで十分だ。確定はいらない。
防波堤でしばらく立ち尽くし、緋真は早足で家へ戻る。机に座る。パソコンを開く。新しいファイルが、無言で待っている。ファイル名はまだ「無題」。冒頭に打つ。
――これは恋の話ではない。
――けれど、恋の仕方を学んだ者の話だ。
キーを打ち終えると同時に、心のどこかで瓶が一つ小さく鳴る。鳴った音を確かめない。確かめないまま、次の行に進む。矢野の影も、静の気配も、そのままに。影と気配は、物語の中で主人公に肩を貸す。主人公は緋真ではない。緋真は、その肩に触れずに歩幅を合わせる。合わせた歩幅の分だけ、言葉がまっすぐになる。
午後になって、ケンタが家に来た。
「プリント持ってきたぞ。数学、範囲広いぞ」
「ありがとう」
緋真は受け取り、机の端に置く。ケンタの視線が紺の布のほうに一瞬だけ流れて、すぐ戻る。「海、行った?」
「行った」
「死ぬなって言ったろ」
「死なない。当分」
ケンタは「当分ってのが怖えんだよ」と笑い、冷蔵庫からスポーツドリンクを勝手に出して飲んだ。笑い声は、部屋の空気を少し軽くする。軽くなりすぎないように、緋真は意識的に椅子の背にもたれず、姿勢を保った。
「で、書いた?」
「書いた。まだ続ける」
「読ませないんだろ?」
「いつか」
「いつか、ね」
ケンタは飲みかけのボトルを振って、キャップを閉めた。「じゃ、昼飯。焼きそばパン買いに行く」
「行ってらっしゃい」
「おまえも来いよ」
「行かない」
「だろうな」
扉が閉まる。足音が階段を下りていく。静かになった部屋に、風がまた入ってきた。風は、今日も同じ匂いで吹く。
夕方になり、郷土誌の編集部から短い返信が届いた。《拝受しました。編集会議にかけますので、少しお時間ください》。
丁寧な定型文。けれど、そこに息がある気がした。送りっぱなしではない。それだけで十分だ。待つ時間のなかで、緋真の生活は崩れない。崩れないように、彼はいつもより丁寧に皿を洗い、洗濯機の音に耳を傾け、祖母の作った佃煮をご飯に乗せて食べる。味は濃く、舌の奥に残る。その残り方が、今日の文体に似ている。
夜が来る。
机に向かう。肩の力は抜けているが、姿勢は崩れていない。カーソルの点滅は相変わらず規則正しい。緋真は、これまで避けてきた「自分の無能感」ともう一度目を合わせる。
「今日は?」
「座って見ているよ」
「それでいい」
無能感が頷いたような気がして、彼は笑う。笑うと、文末の句点が少しやわらかくなる。やわらかい句点は、読んだ人の心の中に椅子を置く。座って、次の頁へ行く準備をさせる。今日の文は、その椅子を少しずつ増やすことに費やされる。派手ではない。けれど、座れる場所を増やすのは、書き手の重要な仕事のひとつだ。
物語はここで終わる。
結末は明示されない。
けれど、緋真の生活に起きた微細な変化――沈黙を尊ぶ姿勢、確定を急がない呼吸、言葉で守るという仕事――それ自体が、ひとつの“生還”である。生還は、戦地からだけ行われるものではない。台所から、机から、防波堤から、教室から、日々の細部から行われる。毎日の小さな生還の折り重なりが、やがて人を生かす。
深夜零時。
緋真は灯りを落とし、布団に潜り、耳を澄ます。風の音。遠くの車の気配。隣家の時計の針の音。いつもの夜の雑音。――夢は来ない。来ないことを、彼は選ばない。拒まない。ただ眠る。夢を見るかもしれないし、見ないかもしれない。どちらでも、世界は続く。目覚めの白い天井の下で、彼はもう泣かない。泣きたいときには、泣く。泣きたくないときには、泣かない。それだけだ。
名を呼ばないまま。
息を確かめるまま。
遺されたものの場所を、明日も同じところに保つまま。
眠りのふちで、緋真はひとつだけ、はっきりとした像を見る。
面紐を結ぶ指。
それは静の指であり、矢野の指であり、緋真の指でもある。
指は結び目を固め、ほどけないように、しかし締めすぎないように引く。
結び終えた指は、拳を作らず、開かれる。
開かれた掌に、風が通る。
その風は、今日も同じ匂いで吹く。
緋真は眠った。
夢のない夜は、ひどく優しかった。
・・・・・
〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
→【URL】https://novema.jp/book/n1757784
〈青春で締めるなら〉『学校イチのイケメン×学校イチのイケメンは恋をする』
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〈怖さで締めるなら〉『白いドレスに滲むもの』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761088



