第十五話 海と滑走路
場所の名は、祖母の口から驚くほど軽く出てきた。
台所で小鍋の味噌汁が弱火の泡を立てている午前、祖母は味噌の入った木べらを鍋の縁で軽く叩き、「もうひとつだけ、行ってみるといいところがあるよ」と言った。
緋真は箸を止める。「どこ?」
「海沿いの小さな神社。戦のころ、近くに仮設の滑走路があってね。出撃の前に絵馬を結んだって、そう言い伝えが残っている。うちの人間が誰か行ったかは、もう誰も覚えちゃいないけど」
祖母は鍋の火を止め、ふいと顔を上げる。「風がね、同じ匂いで吹く場所だよ」
同じ匂い。祖母の言葉はいつも「たしかなこと」と「たしかでないこと」のあいだに橋を架ける。その橋は細いのに、足を乗せると揺れない。
緋真はうなずき、茶碗の底の米粒を一つだけ拾って口に運んだ。「行っていい?」
「行きなさい。ただ、名前は呼ばないでおいで」
祖母の言葉は、彼の胸の内のどこかで鈴のように鳴る。名を呼ぶな。声が泣く。石碑の文言を、祖母はまだ言っていないのに、彼の耳にはもう聞こえている。
※
昼前の電車は空いていた。
座席に腰を下ろし、スウェットのポケットに手を突っ込んで、緋真はスマホのバッテリー残量を確認する。六十三パーセント。駅の自販機で買った無糖の缶コーヒーはもうぬるい。窓の外で景色が早送りされ、彼の顔がガラスに薄く重なる。目の下の隈はもう薄くなった。病室の白は遠ざかり、机の上の紺の布の青が、彼の日常の色になりつつある。
乗り換えを一度。改札でSuicaをタッチすると、小さな「ピッ」の音がして、現実が緋真の背中を押す。駅のホームで風が浮き、潮の匂いがかすかに混じった。海に近づいている。
スマホにはケンタから〈どこ〉というメッセージ。緋真は〈海〉と返す。三秒で〈死ぬな〉が返ってきた。緋真は笑い、返信は打たない。打たないまま笑っていると、笑いはだんだん祈りに似てくる。
バスは小さな港町を抜け、舗装のひび割れた道路を走った。車窓の向こうで、閉まったままの土産物屋のシャッターにカモメが一羽止まり、白い体を器用に伸ばして羽を手入れしている。バスの揺れに合わせて緋真の掌で竹の守りが転がり、結び目が指に触れた。ほどけかけていないか、そっと確かめる。祖母の布は今日は持ってきていない。部屋の机の上のあの場所は、あの場所のためにある。ここには、ここにふさわしい手の温度がある。
終点の一つ手前で降りる。バス停の名前は海の漢字を含んでいるが、読み方が難しく、緋真は一度声に出してみて諦めた。風が強い。髪が額に貼りつく。靴の中の靴下が湿って、足の指先が少し冷たい。防波堤は見えない。見えなくてよかった。そこに行かないと決めたことが、今日の礼だ。
古い地図看板の端に、ボールペンで小さく矢印が書かれていて、「神社→」の落書き。観光地図ではなく、誰かの「通り道」の印。緋真は矢印に従い、海の方向へ歩く。角を曲がるたびに潮の匂いが濃くなり、風が音を連れてくる。遠くから、波の崩れる音。近くで、旗のはためく音。旗の赤は褪せていて、陽に透けて薄い桃色になっている。
※
鳥居は低かった。
潮に磨かれて角の丸くなった社。注連縄の藁は新しく、しかしその上に古い塩の結晶が薄く残っている。絵馬掛けには新しいものと古いものが混ざって吊られ、紐は太陽に焼けて色褪せ、結び目はどれも人間の癖を持っていた。「受験祈願」「健康祈願」「海の安全」。令和のお願いたちが、戦時の息を吸った柱に結ばれている。時間の段差の上に紐が垂れ下がって、それが風に揺れていた。
境内の隅。石の小さな碑が苔に半分覆われるように置かれている。緋真は近づき、膝に砂の感触を受けながら屈み込んだ。指で苔を払う。緑の匂いが立つ。読みづらい刻印が、陽の角度でふっと浮き上がった。
――名を呼ぶな、声が泣く。
字は古く、擦れているのに、意味は濃い。石の上で泣く声は見えない。見えないが、そこに在る。緋真は息を呑み、石に額を寄せるようにして目を閉じた。名を呼ばない。呼ばないために、口を閉じ、舌を静かに上顎に付ける。昔、顧問の先生が「試合前の呼吸は舌先の位置で整う」と言っていた。緋真は剣道の副将だったころの身体の癖を思い出し、舌と息と心の位置を合わせる。
竹の守りを取り出し、掌で温める。結び目が小さくなり、彼の指の太さに馴染んでいく。守りは暴れない。暴れないものに触れると、暴れているものが静まる。
賽銭箱に小銭を落とす音が、風に混じって少し遠くで響いた。誰かが先にいたらしい。顔を上げると、絵馬掛けの前で老夫婦が小さく頭を下げ、お願いを吊るしている。老いというのは「静かないそがしさ」だ、と緋真は思う。彼らは急がない。けれど、待たせない。
鈴の紐を引く。鈴の中で金属の舌が石と触れ、短い音が空気を震わせる。緋真は手を合わせ、心の中でだけ言う。
――名を呼ばないまま、祈ります。
――ここに、遺るものの場所を作ります。
風が一段と強くなった。
そのときだった。視界の密度が、変わる。音が引く。光が濃くなる。世界がピントを合わせ直されるときの、あの頭蓋骨の中の軽い圧力。夢の発動と同じ前兆。けれど、緋真は眠っていない。立っている。膝に砂の触感が確かにあり、鼻腔の奥に潮と苔の匂いが混ざっている。眠っていないのに、世界の方が歩み寄ってくる。
砂地の向こうに、影が複数。
整列した若者たち。飛行服。鉢巻。硬い背筋。口を引き結ぶ癖。まぶたの影。膝の角度。一本一本の指が、乾いた風に微細に震えている。彼らの靴底が砂に少し沈み、沈んだ縁に風が砂を足していく。時間は進んでいる。止まってはいない。
静がいた。
彼は微笑んでいる。笑っているのに、目の奥に波の色が湛えられている。波は穏やかでもなく、荒れてもいない。遠くで定期的に崩れては立ち上がり、崩れては立ち上がる、規則のない規則。緋真の胸の奥が、あの笑みの形に合わせて痛む。痛むのに、優しくなる。
矢野もいた。
背丈は静より少し高く、眉が凛としている。矢野は静の肩を軽く叩き、なにか短く言った。声は届かないのに、意味だけが緋真の胸に落ちる。
――戻ってこい、ではない。
――行ってこい、でもない。
たぶん――おまえのままで。
その言葉の形が、海風の中でかすかに輪郭を持つ。輪郭はすぐに崩れるが、崩れたあとに残る余韻が、緋真の肺に入ってくる。呼吸が少しだけ変わる。
静は列に戻り、まっすぐ前を見た。次の瞬間、彼は一瞬だけ、緋真のほうを見た。見た、と思った。互いに認識したのか、確証はない。けれど緋真は、胸の奥の誰かが「はい」と返事をするのを聞いた。自分の声ではなく、誰かの声でもない返事。
ここで名前を呼んではいけない。
直感が、喉の筋肉をやわらかく固める。舌は上顎についたまま。唇は閉じている。声は現実に出ない。呼べば、確定が訪れる。確定の刃は、祈りの薄い皮膚を易々と切る。緋真は切らない。代わりに、掌の竹の守りを握った。結び目が指の腹に食い込む。痛みは短く、現在は戻る。
やがて列は動いた。
影は薄くなる。輪郭は、風にゆっくり剥がされる紙の端みたいにほどけ、若者たちは砂の粒のように光の中に散った。音だけが戻ってくる。海が近づき、カモメの鳴き声が落ちてくる。絵馬の紐がぱたぱたと鳴り、境内を吹き抜けた風が石畳の間の砂をさらう。
緋真はその場に崩れた。
膝と掌が砂に触れ、指先に貝殻の欠片が刺さる。小さな痛みが、現在をもう一度強く引き寄せる。砂の上に落ちた彼の影は、風に揺れて形を変えた。呼吸が粗い。喉の奥が熱い。目の中に潮風が入り、涙かどうか判断できない水分がにじむ。砂を掴む。粒が指の間からこぼれ、手のひらの線に沿って集まる。集まった砂は体温で少し湿り、現実の重みを持った。
「大丈夫かい」
背後から声がした。老いた男の声。緋真が振り向くと、社務所の陰から老神主が出てくるところだった。白髪が風に揺れ、目が細い。「若い人が来るのは珍しい」と彼は言い、緋真が持つ竹の守りを見て目をさらに細める。「それは……昔この辺りの道場で配られていたやつだ」
緋真は思わず守りを隠しかけ、やめた。「ご存じ、なんですか」
「戦に行く子らが、よう持っていった。うちの親父が奉公で滑走路に水撒きに行ってた頃、腰にぶら下げとるのを、よう見たそうだ。…そうか、まだ残っとったか」
風が神主の着物の裾を揺らした。
緋真は尋ねた。「帰ってきた人は、いますか」
神主は少し黙り、海の方へ顔を向けた。しわの谷間に、意地のようなものが静かに立った。「いたとも言えるし、いないとも言える。身体の話をすれば、いないほうが多い。けどな、ここに吹く風は、あの時の匂いとおんなじ匂いで吹く。人が死んでからのほうが、帰ってくることもある。風のほうから、帰ってくるんだ」
緋真はうなずく。
「風は器用だ。名前がついとらんものでも運ぶ。名がつかないもんほど、よう運ぶ」
名を呼ぶな、声が泣く。石碑の文字が、老いの声で現実の音になる。緋真は喉の奥で小さく息を飲み、守りを掌の中で握り直した。
神主は境内の砂を足で軽く払う。「ここではの、人の顔をじっと見るのは、あんまりすすめん。風のほうを見るといい。風がどこから来てどこへ行くか、そっちのほうが、あの人らを正しく見ることになる」
緋真は海のほうを見た。白い波の筋。遠くの水平線の少し上で、薄い雲の帯が横に伸びる。風は、来て、去っていく。去っていって、また来る。
「ありがとう、ございます」
神主は頷き、「名は呼ぶなよ」と言って社務所に戻った。言われなくても、もう知っている。けれど、言われたほうがいい。礼は、時々、他人の口から与えられたほうが守りやすい。
※
帰路。
緋真はスマホを開き、書きかけの小説のメモを開く。歩きながら親指でぽつぽつ文字を打つ。不器用な打鍵には、呼吸のリズムが乗る。
――帰還とは、身体が戻ることだけを指さない。風が同じ匂いで吹く場所に、名前のない戻り方がある。
打ち終えた瞬間、指が止まった。指が止まる感じが、自分の文章のものだった。夢の模写ではない。誰かの声の借用でもない。彼の指が彼の言葉を生んだ。画面に打ち出された一文が、彼の胸の中のどこかを軽く叩いた。叩かれた場所の皮膚が、少しだけ赤くなった気がする。痛くはない。生きている場所の色だ。
〈生きてる?〉
ケンタからのメッセージ。
〈生きてる〉と返す。
〈何か書いた?〉
〈書いた〉
〈読まない〉
〈読ませない〉
〈正解〉
短いやり取りが、歩幅を整える。歩幅を整えると、体が空に対してまっすぐになる。まっすぐな体は、礼の形に近い。礼に近づくと、嫉妬の刺が鈍くなる。鈍くなった刺は、もう刺さらない。刺さらないかわりに、内側から重みを持つ。重みは落ち着きだ。
バスに乗り、電車に乗り、町へ戻る。駅ビルのテナントの入れ替えの紙が貼られたガラスの前を通り過ぎる。映画の予告編の音が遠くで鳴り、コンビニの自動ドアが開くたびに冷たい空気が足首にまとわりつく。令和の街の風は、あの神社の風と混ざり合わないようでいて、どこかでそっと混ざっている。匂いはわずかに違うが、混ざったものは、彼の鼻も受け入れている。
◇
家の扉を開けると、厨房の奥に立つ祖母の背中が見えた。
「ただいま」
「おかえり」
祖母は鍋の蓋を持ち上げ、味を見てから、ふっと笑う。「海の匂い、連れて帰ったね」
緋真は苦笑した。「わかる?」
「わかるとも。髪が少ししょっぱい」
緋真は前髪に触れ、祖母の笑いにつられて肩の力が抜ける。祖母は手を拭き、古い箪笥の引き出しを開けた。しばらく探って、小さな薄い封筒を取り出す。茶色がかった紙。角が丸くすり減っている。
「これはね、読んでも読まなくてもいい。静さんのものかどうか、確証はない。けれど、あの人の“友”が戦後に置いていったと、母から聞いた」
祖母の「母」というのは緋真の曾祖母にあたる。祖母の声が少しだけ遠い時代の空気を含む。
緋真は封筒を受け取り、テーブルに座る。封は、湿気でやわらかく閉じている。破かないように、ゆっくり開く。中には薄い紙切れが一枚。手に取ると、紙が軽く、緋真の指で震えた。墨の色は薄いが、筆圧ははっきりしている。
――あのひとのままでいられる場所をどうか守ってください。
署名はない。日付もない。行間は広く、行末はすこしだけ右上がりだ。緋真は文字の「癖」を、夢の中の矢野の眉の形と重ねてしまう。根拠はない。けれど彼は、矢野の筆致だと勝手に決めた。勝手に決めることは傲慢だ。傲慢の手前で、祈りはひざまずく。
誰かが誰かを“そのまま”に保とうとした。そのために場所を頼んだ。頼まれた紙は、めぐりめぐって今、緋真の手にある。彼の仕事もまた、きっとそれだ。
「祖母ちゃん」
「うん」
「守るよ」
短い言葉。祖母は頷いた。「守るって、持つことじゃないからね」
「うん」
「空けておくことだよ」
「うん」
祖母は笑い、「その『うん』はいい『うん』だ」と言った。
自室に戻る。机の上の「遺されたものの場所」に、封筒の紙をそっと加える。紺の布の上に置き、角を少しずらす。ずらすのは、呼吸のため。短冊の一枚を少し横へ。竹の守りは、今日の風をまだ含んでいる。机の前に座り、緋真は目を閉じた。
――あのひとのままでいられる場所。
――君のままで、いられる場所。
彼の胸の奥で、言い換えがいくつか生まれては消える。消えるものは、いったん外に出さない。出せば、薄まる。薄めるのは、また別の日にする。
ノートパソコンを開き、タイトルを見つめる。『静の遺るところ』。今日の一文を、冒頭近くに差し込む。カーソルが、彼の指のわずかな震えを正確に拾う。
――帰還とは、身体が戻ることだけを指さない。風が同じ匂いで吹く場所に、名前のない戻り方がある。
保存。画面の隅に小さなチェックマークが点り、消える。小さな印は、彼の日常の祈りだ。彼は背を伸ばし、椅子に深く座り、名を呼ばずに礼をした。
礼は、今日も彼の側に残った。
◇
夜。
窓を細く開ける。潮風が入ってくる。昼間のそれより柔らかく、部屋の紙と布の匂いに寄り添う風。カーテンの裾がふわりと持ち上がり、すぐ戻る。眼を閉じる。頬に風が触れる場所の温度が、わずかに下がる。
――おまえのままで。
滑走路の風の言葉が、今夜も少し遅れて届く。届いた言葉の形は、すぐに崩れる。崩れて、そこに残るのは、ただの風だ。風は、名前を持たない。名前を持たないほうが、遠くまで行ける。
緋真は布団に潜り、両手を胸の上に置いた。掌の中には、今日の砂の感触がまだ小さく残っている。貝殻の欠片を押し込んだ痛みが、ほんの微量の違和感を指の腹に宿す。その違和感を確かめるように、彼は手を握ったり開いたりした。拳を開く。その所作に、静の姿勢が重なる。
拳を開く。
何かを手放す。
形のないものを。
彼はゆっくりと息を吐き、目を閉じたまま微笑した。祈りは、名を呼ばなくても、たしかに届く。届かなくても、いい。届くかどうかを問わないことが、礼だ。
眠りは、今夜は遅れて来た。遅れて来る眠りのほうが、身体に優しい。彼は待ちながら、胸の中で瓶の列を一つずつ指差す。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉〈静の遺るところ〉。瓶はどれも空だ。空の瓶は、風の通り道になる。風が通ると、瓶は小さく鳴る。鳴る音は、誰にも聞こえない。聞こえない音のほうが、長く残る。
やがて眠りが肩に降りた。
降りた眠りを命令で追い払わない。受け入れる。受け入れることは負けではない。受け入れた先に、守るべき場所が開く。
緋真は、名を呼ばないまま、眠った。
夢は来ても来なくてもいい。
風は、どちらでも、同じ匂いで吹く。
場所の名は、祖母の口から驚くほど軽く出てきた。
台所で小鍋の味噌汁が弱火の泡を立てている午前、祖母は味噌の入った木べらを鍋の縁で軽く叩き、「もうひとつだけ、行ってみるといいところがあるよ」と言った。
緋真は箸を止める。「どこ?」
「海沿いの小さな神社。戦のころ、近くに仮設の滑走路があってね。出撃の前に絵馬を結んだって、そう言い伝えが残っている。うちの人間が誰か行ったかは、もう誰も覚えちゃいないけど」
祖母は鍋の火を止め、ふいと顔を上げる。「風がね、同じ匂いで吹く場所だよ」
同じ匂い。祖母の言葉はいつも「たしかなこと」と「たしかでないこと」のあいだに橋を架ける。その橋は細いのに、足を乗せると揺れない。
緋真はうなずき、茶碗の底の米粒を一つだけ拾って口に運んだ。「行っていい?」
「行きなさい。ただ、名前は呼ばないでおいで」
祖母の言葉は、彼の胸の内のどこかで鈴のように鳴る。名を呼ぶな。声が泣く。石碑の文言を、祖母はまだ言っていないのに、彼の耳にはもう聞こえている。
※
昼前の電車は空いていた。
座席に腰を下ろし、スウェットのポケットに手を突っ込んで、緋真はスマホのバッテリー残量を確認する。六十三パーセント。駅の自販機で買った無糖の缶コーヒーはもうぬるい。窓の外で景色が早送りされ、彼の顔がガラスに薄く重なる。目の下の隈はもう薄くなった。病室の白は遠ざかり、机の上の紺の布の青が、彼の日常の色になりつつある。
乗り換えを一度。改札でSuicaをタッチすると、小さな「ピッ」の音がして、現実が緋真の背中を押す。駅のホームで風が浮き、潮の匂いがかすかに混じった。海に近づいている。
スマホにはケンタから〈どこ〉というメッセージ。緋真は〈海〉と返す。三秒で〈死ぬな〉が返ってきた。緋真は笑い、返信は打たない。打たないまま笑っていると、笑いはだんだん祈りに似てくる。
バスは小さな港町を抜け、舗装のひび割れた道路を走った。車窓の向こうで、閉まったままの土産物屋のシャッターにカモメが一羽止まり、白い体を器用に伸ばして羽を手入れしている。バスの揺れに合わせて緋真の掌で竹の守りが転がり、結び目が指に触れた。ほどけかけていないか、そっと確かめる。祖母の布は今日は持ってきていない。部屋の机の上のあの場所は、あの場所のためにある。ここには、ここにふさわしい手の温度がある。
終点の一つ手前で降りる。バス停の名前は海の漢字を含んでいるが、読み方が難しく、緋真は一度声に出してみて諦めた。風が強い。髪が額に貼りつく。靴の中の靴下が湿って、足の指先が少し冷たい。防波堤は見えない。見えなくてよかった。そこに行かないと決めたことが、今日の礼だ。
古い地図看板の端に、ボールペンで小さく矢印が書かれていて、「神社→」の落書き。観光地図ではなく、誰かの「通り道」の印。緋真は矢印に従い、海の方向へ歩く。角を曲がるたびに潮の匂いが濃くなり、風が音を連れてくる。遠くから、波の崩れる音。近くで、旗のはためく音。旗の赤は褪せていて、陽に透けて薄い桃色になっている。
※
鳥居は低かった。
潮に磨かれて角の丸くなった社。注連縄の藁は新しく、しかしその上に古い塩の結晶が薄く残っている。絵馬掛けには新しいものと古いものが混ざって吊られ、紐は太陽に焼けて色褪せ、結び目はどれも人間の癖を持っていた。「受験祈願」「健康祈願」「海の安全」。令和のお願いたちが、戦時の息を吸った柱に結ばれている。時間の段差の上に紐が垂れ下がって、それが風に揺れていた。
境内の隅。石の小さな碑が苔に半分覆われるように置かれている。緋真は近づき、膝に砂の感触を受けながら屈み込んだ。指で苔を払う。緑の匂いが立つ。読みづらい刻印が、陽の角度でふっと浮き上がった。
――名を呼ぶな、声が泣く。
字は古く、擦れているのに、意味は濃い。石の上で泣く声は見えない。見えないが、そこに在る。緋真は息を呑み、石に額を寄せるようにして目を閉じた。名を呼ばない。呼ばないために、口を閉じ、舌を静かに上顎に付ける。昔、顧問の先生が「試合前の呼吸は舌先の位置で整う」と言っていた。緋真は剣道の副将だったころの身体の癖を思い出し、舌と息と心の位置を合わせる。
竹の守りを取り出し、掌で温める。結び目が小さくなり、彼の指の太さに馴染んでいく。守りは暴れない。暴れないものに触れると、暴れているものが静まる。
賽銭箱に小銭を落とす音が、風に混じって少し遠くで響いた。誰かが先にいたらしい。顔を上げると、絵馬掛けの前で老夫婦が小さく頭を下げ、お願いを吊るしている。老いというのは「静かないそがしさ」だ、と緋真は思う。彼らは急がない。けれど、待たせない。
鈴の紐を引く。鈴の中で金属の舌が石と触れ、短い音が空気を震わせる。緋真は手を合わせ、心の中でだけ言う。
――名を呼ばないまま、祈ります。
――ここに、遺るものの場所を作ります。
風が一段と強くなった。
そのときだった。視界の密度が、変わる。音が引く。光が濃くなる。世界がピントを合わせ直されるときの、あの頭蓋骨の中の軽い圧力。夢の発動と同じ前兆。けれど、緋真は眠っていない。立っている。膝に砂の触感が確かにあり、鼻腔の奥に潮と苔の匂いが混ざっている。眠っていないのに、世界の方が歩み寄ってくる。
砂地の向こうに、影が複数。
整列した若者たち。飛行服。鉢巻。硬い背筋。口を引き結ぶ癖。まぶたの影。膝の角度。一本一本の指が、乾いた風に微細に震えている。彼らの靴底が砂に少し沈み、沈んだ縁に風が砂を足していく。時間は進んでいる。止まってはいない。
静がいた。
彼は微笑んでいる。笑っているのに、目の奥に波の色が湛えられている。波は穏やかでもなく、荒れてもいない。遠くで定期的に崩れては立ち上がり、崩れては立ち上がる、規則のない規則。緋真の胸の奥が、あの笑みの形に合わせて痛む。痛むのに、優しくなる。
矢野もいた。
背丈は静より少し高く、眉が凛としている。矢野は静の肩を軽く叩き、なにか短く言った。声は届かないのに、意味だけが緋真の胸に落ちる。
――戻ってこい、ではない。
――行ってこい、でもない。
たぶん――おまえのままで。
その言葉の形が、海風の中でかすかに輪郭を持つ。輪郭はすぐに崩れるが、崩れたあとに残る余韻が、緋真の肺に入ってくる。呼吸が少しだけ変わる。
静は列に戻り、まっすぐ前を見た。次の瞬間、彼は一瞬だけ、緋真のほうを見た。見た、と思った。互いに認識したのか、確証はない。けれど緋真は、胸の奥の誰かが「はい」と返事をするのを聞いた。自分の声ではなく、誰かの声でもない返事。
ここで名前を呼んではいけない。
直感が、喉の筋肉をやわらかく固める。舌は上顎についたまま。唇は閉じている。声は現実に出ない。呼べば、確定が訪れる。確定の刃は、祈りの薄い皮膚を易々と切る。緋真は切らない。代わりに、掌の竹の守りを握った。結び目が指の腹に食い込む。痛みは短く、現在は戻る。
やがて列は動いた。
影は薄くなる。輪郭は、風にゆっくり剥がされる紙の端みたいにほどけ、若者たちは砂の粒のように光の中に散った。音だけが戻ってくる。海が近づき、カモメの鳴き声が落ちてくる。絵馬の紐がぱたぱたと鳴り、境内を吹き抜けた風が石畳の間の砂をさらう。
緋真はその場に崩れた。
膝と掌が砂に触れ、指先に貝殻の欠片が刺さる。小さな痛みが、現在をもう一度強く引き寄せる。砂の上に落ちた彼の影は、風に揺れて形を変えた。呼吸が粗い。喉の奥が熱い。目の中に潮風が入り、涙かどうか判断できない水分がにじむ。砂を掴む。粒が指の間からこぼれ、手のひらの線に沿って集まる。集まった砂は体温で少し湿り、現実の重みを持った。
「大丈夫かい」
背後から声がした。老いた男の声。緋真が振り向くと、社務所の陰から老神主が出てくるところだった。白髪が風に揺れ、目が細い。「若い人が来るのは珍しい」と彼は言い、緋真が持つ竹の守りを見て目をさらに細める。「それは……昔この辺りの道場で配られていたやつだ」
緋真は思わず守りを隠しかけ、やめた。「ご存じ、なんですか」
「戦に行く子らが、よう持っていった。うちの親父が奉公で滑走路に水撒きに行ってた頃、腰にぶら下げとるのを、よう見たそうだ。…そうか、まだ残っとったか」
風が神主の着物の裾を揺らした。
緋真は尋ねた。「帰ってきた人は、いますか」
神主は少し黙り、海の方へ顔を向けた。しわの谷間に、意地のようなものが静かに立った。「いたとも言えるし、いないとも言える。身体の話をすれば、いないほうが多い。けどな、ここに吹く風は、あの時の匂いとおんなじ匂いで吹く。人が死んでからのほうが、帰ってくることもある。風のほうから、帰ってくるんだ」
緋真はうなずく。
「風は器用だ。名前がついとらんものでも運ぶ。名がつかないもんほど、よう運ぶ」
名を呼ぶな、声が泣く。石碑の文字が、老いの声で現実の音になる。緋真は喉の奥で小さく息を飲み、守りを掌の中で握り直した。
神主は境内の砂を足で軽く払う。「ここではの、人の顔をじっと見るのは、あんまりすすめん。風のほうを見るといい。風がどこから来てどこへ行くか、そっちのほうが、あの人らを正しく見ることになる」
緋真は海のほうを見た。白い波の筋。遠くの水平線の少し上で、薄い雲の帯が横に伸びる。風は、来て、去っていく。去っていって、また来る。
「ありがとう、ございます」
神主は頷き、「名は呼ぶなよ」と言って社務所に戻った。言われなくても、もう知っている。けれど、言われたほうがいい。礼は、時々、他人の口から与えられたほうが守りやすい。
※
帰路。
緋真はスマホを開き、書きかけの小説のメモを開く。歩きながら親指でぽつぽつ文字を打つ。不器用な打鍵には、呼吸のリズムが乗る。
――帰還とは、身体が戻ることだけを指さない。風が同じ匂いで吹く場所に、名前のない戻り方がある。
打ち終えた瞬間、指が止まった。指が止まる感じが、自分の文章のものだった。夢の模写ではない。誰かの声の借用でもない。彼の指が彼の言葉を生んだ。画面に打ち出された一文が、彼の胸の中のどこかを軽く叩いた。叩かれた場所の皮膚が、少しだけ赤くなった気がする。痛くはない。生きている場所の色だ。
〈生きてる?〉
ケンタからのメッセージ。
〈生きてる〉と返す。
〈何か書いた?〉
〈書いた〉
〈読まない〉
〈読ませない〉
〈正解〉
短いやり取りが、歩幅を整える。歩幅を整えると、体が空に対してまっすぐになる。まっすぐな体は、礼の形に近い。礼に近づくと、嫉妬の刺が鈍くなる。鈍くなった刺は、もう刺さらない。刺さらないかわりに、内側から重みを持つ。重みは落ち着きだ。
バスに乗り、電車に乗り、町へ戻る。駅ビルのテナントの入れ替えの紙が貼られたガラスの前を通り過ぎる。映画の予告編の音が遠くで鳴り、コンビニの自動ドアが開くたびに冷たい空気が足首にまとわりつく。令和の街の風は、あの神社の風と混ざり合わないようでいて、どこかでそっと混ざっている。匂いはわずかに違うが、混ざったものは、彼の鼻も受け入れている。
◇
家の扉を開けると、厨房の奥に立つ祖母の背中が見えた。
「ただいま」
「おかえり」
祖母は鍋の蓋を持ち上げ、味を見てから、ふっと笑う。「海の匂い、連れて帰ったね」
緋真は苦笑した。「わかる?」
「わかるとも。髪が少ししょっぱい」
緋真は前髪に触れ、祖母の笑いにつられて肩の力が抜ける。祖母は手を拭き、古い箪笥の引き出しを開けた。しばらく探って、小さな薄い封筒を取り出す。茶色がかった紙。角が丸くすり減っている。
「これはね、読んでも読まなくてもいい。静さんのものかどうか、確証はない。けれど、あの人の“友”が戦後に置いていったと、母から聞いた」
祖母の「母」というのは緋真の曾祖母にあたる。祖母の声が少しだけ遠い時代の空気を含む。
緋真は封筒を受け取り、テーブルに座る。封は、湿気でやわらかく閉じている。破かないように、ゆっくり開く。中には薄い紙切れが一枚。手に取ると、紙が軽く、緋真の指で震えた。墨の色は薄いが、筆圧ははっきりしている。
――あのひとのままでいられる場所をどうか守ってください。
署名はない。日付もない。行間は広く、行末はすこしだけ右上がりだ。緋真は文字の「癖」を、夢の中の矢野の眉の形と重ねてしまう。根拠はない。けれど彼は、矢野の筆致だと勝手に決めた。勝手に決めることは傲慢だ。傲慢の手前で、祈りはひざまずく。
誰かが誰かを“そのまま”に保とうとした。そのために場所を頼んだ。頼まれた紙は、めぐりめぐって今、緋真の手にある。彼の仕事もまた、きっとそれだ。
「祖母ちゃん」
「うん」
「守るよ」
短い言葉。祖母は頷いた。「守るって、持つことじゃないからね」
「うん」
「空けておくことだよ」
「うん」
祖母は笑い、「その『うん』はいい『うん』だ」と言った。
自室に戻る。机の上の「遺されたものの場所」に、封筒の紙をそっと加える。紺の布の上に置き、角を少しずらす。ずらすのは、呼吸のため。短冊の一枚を少し横へ。竹の守りは、今日の風をまだ含んでいる。机の前に座り、緋真は目を閉じた。
――あのひとのままでいられる場所。
――君のままで、いられる場所。
彼の胸の奥で、言い換えがいくつか生まれては消える。消えるものは、いったん外に出さない。出せば、薄まる。薄めるのは、また別の日にする。
ノートパソコンを開き、タイトルを見つめる。『静の遺るところ』。今日の一文を、冒頭近くに差し込む。カーソルが、彼の指のわずかな震えを正確に拾う。
――帰還とは、身体が戻ることだけを指さない。風が同じ匂いで吹く場所に、名前のない戻り方がある。
保存。画面の隅に小さなチェックマークが点り、消える。小さな印は、彼の日常の祈りだ。彼は背を伸ばし、椅子に深く座り、名を呼ばずに礼をした。
礼は、今日も彼の側に残った。
◇
夜。
窓を細く開ける。潮風が入ってくる。昼間のそれより柔らかく、部屋の紙と布の匂いに寄り添う風。カーテンの裾がふわりと持ち上がり、すぐ戻る。眼を閉じる。頬に風が触れる場所の温度が、わずかに下がる。
――おまえのままで。
滑走路の風の言葉が、今夜も少し遅れて届く。届いた言葉の形は、すぐに崩れる。崩れて、そこに残るのは、ただの風だ。風は、名前を持たない。名前を持たないほうが、遠くまで行ける。
緋真は布団に潜り、両手を胸の上に置いた。掌の中には、今日の砂の感触がまだ小さく残っている。貝殻の欠片を押し込んだ痛みが、ほんの微量の違和感を指の腹に宿す。その違和感を確かめるように、彼は手を握ったり開いたりした。拳を開く。その所作に、静の姿勢が重なる。
拳を開く。
何かを手放す。
形のないものを。
彼はゆっくりと息を吐き、目を閉じたまま微笑した。祈りは、名を呼ばなくても、たしかに届く。届かなくても、いい。届くかどうかを問わないことが、礼だ。
眠りは、今夜は遅れて来た。遅れて来る眠りのほうが、身体に優しい。彼は待ちながら、胸の中で瓶の列を一つずつ指差す。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉〈静の遺るところ〉。瓶はどれも空だ。空の瓶は、風の通り道になる。風が通ると、瓶は小さく鳴る。鳴る音は、誰にも聞こえない。聞こえない音のほうが、長く残る。
やがて眠りが肩に降りた。
降りた眠りを命令で追い払わない。受け入れる。受け入れることは負けではない。受け入れた先に、守るべき場所が開く。
緋真は、名を呼ばないまま、眠った。
夢は来ても来なくてもいい。
風は、どちらでも、同じ匂いで吹く。



