第十四話 遺されたものの場所
退院して最初にしたのは、机を片づけることだった。
片づける、という動詞は便利だ。なにかを捨てるわけでも、なにかを新しく買い足すわけでもない。所在を与え直すだけで、部屋の空気はわずかに整い、人は「やった気」になる。緋真はその「やった気」に縋った。縋るというのは情けないが、情けないことに礼を与えるのが、ここしばらくの彼のやり方だった。
机の上には、散乱したノート、黒く染みたインク、芯の折れたシャープペン、半分だけ飲んで忘れ去られたペットボトル、斜めに傾いて乾いたコーヒーの輪。どれもが戦場から戻った遺物のようだ、という比喩を自分で思いついて自分で嫌がった。「戦場」を軽々しく持ち出すのは、今の自分には許されない。許さないまま、彼は輪じみの上に触れた。指先にざらつきが残る。紙に触れた指の皺に、黒の粉がちょっとだけ移る。その小さな移動が、なぜだか落ち着きをくれる。
ベッドの足元に並べていた〈瓶〉の列を、一度だけ見渡す。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉。ラベルは増えたが、どの瓶も空だ。空のほうが重い、と彼はあの夜に理解した。その重さを、今日は棚の最上段に移す。高いところに置くと、少しだけ遠くなる。遠くなることが、今日は礼だ。
夢は、退院してから一度も続いていない。静がいない。いないことが、想像よりずっと現実的な形で日中に現れる。失恋の後遺症というやつだろうか。自分では笑って言えるが、身体は笑わない。胸の真ん中が不意に空白になり、手足の先が急に冷え、視界がばらばらになって、椅子から滑り落ちるほどのめまいに襲われる。台所の床で、冷蔵庫の清音を聞きながら、冗談みたいにうずくまる朝もあった。母に見つかると面倒なので、気配が近づく前に立ち上がる。立ち上がると、世界の中央がわずかに戻る。戻った中央に、呼吸を一つ置く。置き方がうまくなったのは、病院で習ったことの一つだ。
母は「あまり無理しないで」と言い、父は「スマホはほどほどに」と言い、妹は「退院祝いで焼肉」と言った。家族はおおむね、現実の側に立っている。ありがたい。ありがたいのだが、ありがたいと認めると同時に、緋真の中のどこかが薄く寂しくなる。「現実の側」という言い方は、夢の側を切り捨てる匂いがする。切り捨てられるために在ったのではないものが、緋真の中にある。あると認めることは、もう誰にも告げない。
ケンタからは、LINEがやたらと飛んでくる。〈生きてる?〉〈焼肉ならカルビ〉〈宿題の写真送る〉〈送るといったけど、まだ撮ってない〉〈今撮った〉〈いやまだ〉〈今度こそ〉。既読を付けるだけの返事に、ケンタは気を悪くしない。気を悪くしない友人は、体温のように頼りになる。
退院の翌々日。緋真は学校を早退して、祖母の家へ向かった。急行から各駅に乗り換え、商店街を抜け、瓦屋根の低い家並みの間を歩く。日差しは秋に移りかけているが、今日の空気にはまだ夏の匂いが残っていて、頬に当たる風は少し塩の味がした。祖母の家の戸を開けると、懐かしい埃の匂いが出迎えてくれた。埃の匂いは、祈りと同じで、少し古いほうが落ち着く。
「どうしたんだい、急に」
祖母はすでに湯を沸かしていて、湯呑を二つ用意しながら笑う。緋真は座敷に座り込み、言い出しにくい言葉を一息で出した。
「祖母ちゃん、もう一回、家系図……じゃなくて、今日は違うもの。静さんのもの、もし何か残っていたら、見せてほしい」
祖母の笑みがほんの少しだけ奥に引っ込んだ。引っ込んだ笑みの後ろで、目の光が変わる。覚悟を決める大人の目の光。祖母は「少し待ってね」と言って奥に消え、しばらくして仏間へ呼んだ。桐箪笥の最下段から桐箱を出し、さらに布包みを二枚ほど剥がし、薄い木箱を卓に置く。蓋を開けると、煤けた短冊が数枚と、竹で組まれた小さな守りのようなものが入っていた。
緋真は息を呑む。短冊の紙は黄変し、端が欠け、墨の色が褪せ気味だが、筆圧はまっすぐだ。《稽古は人を正す》《負けても、次に繋げ》。どこかで聞いた声。夢の中の縁側で、師範代に頭を下げる静の声が、文字になってここにいる。ここにいる、という確かさに、緋真の指先が震えた。
「これはね、静さんのものだと言われてきた。ただ、うちでは“行方知れず”の人になっている。終戦後も戻らなかったから。名を語れる人もいなくなって、話すこと自体が苦しくてね」
祖母は目を閉じる。「でも、あんたが倒れた夜から、私はずっと祈っていた。どうやら、昔の人も同じように誰かを祈り続けたらしい。祈りは、血で運ばれるのかもしれない」
緋真は短冊を手に取り、紙の端についた黒い汚れに気づく。インクではない。煤にも見えるし、土の色にも見える。紙を鼻先に寄せるとかすかに潮の匂いがした。潮の匂いが古い紙に残ることなんて、あるだろうか。あるかどうかより、今はそれを受け取る。受け取ることに礼がある。
「おばあちゃん、静は……死んだの?」
問うと、祖母は首を横に振る。「わからない。『わからないままでいる』のが、うちのやり方だったのかもしれない。誰かの死を確定させる言葉は、ときに生き残った者を殺すから」
その言葉は、祖母の口から出てくるとき、ことさらに格言めいてはいなかった。日常の言葉の延長に、深い谷がたまたま口を開いているような感じだった。緋真は頷く。確定を欲しがっていたのは誰か。自分だ。物語の「結末」を愛してきた書き手の癖が、現実にも刃を向けていた。
「持っていきなさい」
祖母は木箱から短冊の束と竹の守りを取り出し、薄い布袋に収めて緋真に渡した。「なくしてもいい。見るのが辛くなったら、しまってもいい。名を呼ばないまま、そばに置いておくこともできる」
「ありがとう」
言えた。礼はいつでも彼の側に残る。祈りと礼は、セットで育つ。
祖母の家を辞す頃には、午後の光が斜めに傾いていた。商店街の揚げ物屋から油の匂いが流れ、店先のテレビにはニュースのテロップが流れている。令和の街は、いつでも今の顔で立っている。緋真は駅まで歩きながら、スマホを取り出してメモ帳を開いた。《遺る、という動詞のために――》と打ち、すぐ消す。打って消す、その反復が今は必要だ。言葉はすぐに確定に手を貸す。焦るな。
帰宅すると、母が台所から顔を出した。「祖母ちゃん、元気だった?」
「うん。短冊、もらった」
「短冊?」
「静さんの、かもしれない、やつ」
母は驚いた顔で緋真の手元を見るが、それ以上を聞かない。「ごはん、あとで食べる?」とだけ言う。「あとで」と答え、緋真は自室へ駆け上がった。
机に向かう。ノートパソコンを開く。黒い画面に自分の顔が一瞬映り、すぐに起動の音が鳴る。緋真は深呼吸を一つ。祖母の紺の布を机の左端に敷き、布の上に短冊をそっと置いた。竹の守りは掌にのせ、体温で温める。守りは暴れない。暴れない上で、心が少し動く。
彼は夢の再生を試みない。代わりに、「今ここにある遺されたもの」を起点に書き始める。短冊の文言を引用し、竹の守りを掌に載せ、祖母の沈黙も含めて一行ずつ言葉に変える。夢の物語ではなく、夢に触れた現在の生活として立ち上がるものを書きたい。書くことの位置を、彼はやっと少しずらせた。
――稽古は人を正す。
彼はキーボードに打つ。緋真の稽古は、もう竹刀ではない。言葉の稽古。礼の稽古。名を呼ばない稽古。正してくれるのは誰か。静か。矢野。祖母。ケンタ。母。父。妹。防波堤の風。救急車の赤。病室の白。どれもが少しずつ、彼の姿勢を正した。その列に、自分で自分を正す小さな力を並べてもいい。小さな力は、すぐ倒れる。倒れたら、起こす。それも稽古。
――負けても、次に繋げ。
負けの種類は多い。嫉妬に負ける。怠惰に負ける。恐怖に負ける。正義に負ける。善意に負ける。彼はそのどれにも少しずつ負けながら、次に繋げる方法を学んだ。繋げるというのは、具体がいる。彼は具体を机の上に並べる。短冊。竹の守り。布。瓶。ラベル。インクの汚れ。潮の匂い。祖母の沈黙。ケンタの既読。母の「あとで」。具体の列の中に、静は立っている。名を呼ばずとも、そこにいる。
キーボードを叩く指が、ある単語で止まった。「矢野」。
指の骨がわずかに固くなる。キーの上で、左手薬指が迷う。嫉妬は、緋真の中でまだ完全には終わっていない。静を想う矢野。矢野に抱く刺。夢の中で、緋真は矢野の目を正面から見なかった。見たら、負けを認めることになるから。認めると、何かが終わる気がした。終わりを恐れて、彼は横を向き続けた。
――負けても、次に繋げ。
短冊の文言が、また緋真の背中を押す。負けを確定すれば、次が始まる。矢野に負けたことを、緋真ははっきり言葉にする。嫉妬した。卑小化した。狭く書いた。書き手として卑怯だった。彼は画面の別のタブを開き、過去に保存していた「矢野を嫌なやつにした」小説の章を見つけて、もう一度削除した。二度目の削除は、一度目より深いところまで刃が届いた気がする。空白になった画面が、短い呼吸をした。
翌日。緋真は図書室へ行った。退院の報告を担任にして、保健室の先生に「よかった」と言われ、少し笑い、図書室の奥の古い棚に向かう。郷土誌の戦時特集の薄い冊子は、紙質が柔らかく、手に触れると音を立てずにめくれる。薄い紙の匂いが、埃と混じって鼻の奥に残る。彼は机に座り、ページをゆっくり進めた。知らない地名が、今の街の名前に連なる。小さな写真がいくつか載っていた。どれもぼやけていて、輪郭は汗のにじんだ白シャツみたいに曖昧だ。
その一つに、緋真の指が止まる。
出撃前、飛行服の男の肩に手を置く少年――顔は不鮮明だ。帽子の影。肩の線。指の長さ。まっすぐでも曲がってもいない、すこしだけ不器用な手の置き方。緋真は“矢野だ”と思った。根拠はない。けれど、恋をした者には、恋を見分ける直感が備わるのだろう。直感は捏造の親戚かもしれないが、今、これを信じることは、誰も傷つけない。
ページを閉じると、胸の底で何かがようやく静まった。嫉妬は、遅れて理解に変わる。矢野が静を大切に想ったように、自分も静を大切に想った。ただ、矢野の側にいたのは現実で、自分の側にあるのは言葉だ。ならば、言葉で守る番だ。言葉は刃にも盾にもなる。刃にしない。盾にする。盾は重い。重いものを持てるか。持つしかない。
図書室の窓の外、校庭ではサッカー部が走っている。掛け声が風に削られて、意味のない音の列に崩れる。意味のない音が、かえって彼を落ち着かせた。意味を与えすぎるのは、今は危険だ。危険の先には確定がある。確定は、時に生き残った者を殺す。
帰宅して、緋真は原稿ファイルを開いた。ファイル名の欄をクリックし、ゆっくりと文字を消していく。『静の生還』――この語の中に、自分の善意の暴力が混じっていることを、今の彼は認める。善意であることが免罪符になると思っていた。免罪符はきれいな紙で、手触りがよく、香りがついていた。けれど、印刷された字は刃だった。刃で人の息を削いだ。そういう書き方を、彼はもうしない。
新しい名前を打つ。
『静の遺るところ』。
結末を救済ではなく、継承に据えるために。画面に打った新しいタイトルは、彼自身の呼吸をゆっくりと整えてくれた。整ってくる呼吸に合わせて、部屋の空気が少しだけ透明になる。透明は痛みも透過するが、光も通す。
その夜、机の上に「遺されたもの」のための小さな場所を作った。祖母の紺の布を折って敷き、短冊と竹の守りを置く。瓶の列の一部を布の端に寄せ、ラベルが読める角度に揃える。祭壇というほど大げさではない。置き場。雑音に飲まれないための、簡素な境界。置いたもののひとつひとつに手を触れ、名を呼ばないまま「おかえり」と心の中で言う。おかえり、と言えるものは、ここには多い。
スマホの画面が光り、ケンタから〈タイトル、変えた?〉と来る。時々、彼の公開アカウントをのぞいているらしい。緋真は〈変えた〉と返す。〈なんか、いいなそれ〉〈どれ〉〈遺るところ〉〈おまえが好きそう〉〈おまえが好きなものでもある〉〈おまえが言うならそうだな〉。くだらないやりとりの最後に、ケンタが〈眠れ〉と打つ。緋真は〈眠る〉と返す。返してから、机の上の布を指で撫でる。布は暴れない。暴れないものに触れると、暴れているものがやわらぐ。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。白い天井は、病室のそれとは違って、微細な汚れがところどころにある。そこに小さな星座を見つけるつもりで目を細め、やめる。比喩の濫用は、確定の濫用に似ている。彼はまばたきの回数を数える。四回目でやめる。やめると、眠気が軽く肩に乗る。肩に乗った眠気は、命令しないかぎり、勝手に動かない。命令しない。眠気の自由を認める。
――名を呼ばない。
――けれど、忘れない。
その二文を胸に置き、緋真は目を閉じた。夢は来ない。驚くほど来ない。来ない夜は、かつて恐怖だった。今は、たぶん、礼だ。夢を「来させない」ことで、彼は何かを守っている。誰かの時間かもしれないし、自分の呼吸かもしれない。守っているという感覚自体が、彼を生きさせる。
※
翌日の放課後。
クラスメイトの数人がファストフード店に行くらしいと騒ぎ、緋真も誘われたが断った。代わりに、海の近くまで歩いた。防波堤には行かない。行かないと決めた場所に、今日の足は行かない。代わりに、少し離れた海沿いの公園に座る。ベンチは冷たく、潮風は頬の皮膚に細かな塩を置いていく。スケボーの音。子どもの笑い声。犬の首輪の小さな鈴。世界は音でできており、音は誰のものでもない。
ポケットから竹の守りを取り出し、掌にのせる。結び目がほどけかけていないか、指で確かめる。結び目は意地を持つ。緋真の結び目はまだ幼い。不器用なまま、ほどけないように結ばれている。祖母の紺の布は持ってきていない。布は部屋の場所を守る。この公園に持ってくるのは違う気がした。場所には役割がある。それを尊ぶのも礼だ。
ベンチの向こうで、海は相変わらずで、波は相変わらず崩れ、また相変わらず立ち上がる。規則のない規則。そこに〈遺る〉という動詞が似合う。〈残る〉でも〈存る〉でもない。〈遺る〉。意志と他者の手が入る文字。緋真は小声でそれを反芻してみる。口の形が、初めてその言葉にぴたりと合った気がした。
夕暮れのオレンジが水面に細長い帯を作る。その帯の上に、目に見えない足音が並ぶ。足音は誰のものでもないが、彼はそこに、静の歩幅と矢野の歩幅を同時に置く。並んだ歩幅は、競争の形をとらない。並ぶだけだ。並んだ先に、次がある。次は、いつでも彼の胸の中にだけある。
帰り道、商店街のくじ引きのガラガラの音がして、子どもの歓声が上がる。当たりだ。金色の紙がひらひらと舞い、店先の店員が拍手する。彼は足を止め、拍手のリズムだけを聞いていた。手が向き合って音を作る。礼に似ている。拍手は、実は祈りの親戚なのだろう。たぶん、そうだ。
家に着くと、机の上の「遺されたものの場所」が夕焼けで薄く赤くなっていた。布の上の影が長く伸び、短冊の文字のいくつかが読みにくい角度に傾いている。緋真は窓のカーテンを軽く引き、灯りを点けた。白い光が布の上に均等に落ちる。均等は心を休ませる。彼は短冊の一枚を取り、声に出さずに読む。《負けても、次に繋げ》。読み返すたび、文の重心が少しだけ移動する。それを確かめるように、彼は机に向かった。
キーボードを打ち始めると、指が自分のものではないみたいに滑らかに動いた。比喩は最小限で、修飾は剥がし、短い行を並べる。《短冊は煤けている/匂いは潮と埃/竹の守りの結び目は幼い/祖母は名を呼ばない/名を呼ばないまま祈る》。並べられた行のあいだに空白がある。空白は怖い。怖いが、空白の分だけ、読む人が息を通せる気がする。彼は空白を残した。
ふと、矢野の名が文の上に浮かぶ。
「君は彼の何だったんだ」。
緋真は一度、天井を見てから、画面に戻った。名を呼ぶ。呼んで、文の中で礼をする。矢野へ。君がそこにいたことに。緋真の指は〈矢野〉の字面に軽く触れるように打ち、次の行に《君は僕の背中を真っ直ぐにしてくれる》と写した。夢の中の静の言葉。緋真はそれが矢野に向けられたものだということを、今ようやく受け入れられる。受け入れることは負けではない。受け入れた先に、彼自身の立つ場所が開く。
深夜、母に「もう寝なさい」と言われ、緋真はPCを閉じた。画面が黒くなり、彼の顔が映る。顔の中で一つだけはっきり見えるものがある。目の下の隈ではない。口の端の、わずかな上がりだ。彼は電気を消し、机の上の「遺されたものの場所」を見つめる。暗闇の中でも、短冊の白は薄く光る。竹の守りは見えない。見えないものを守るための守りなのだと思って、彼は笑った。笑いは、彼の持てるいちばん静かな武器だ。
※
数日後。
緋真は祖母の家を訪ね、短冊と竹の守りを置く台について相談した。祖母は「台なんていらないよ」と笑った。「布と、気持ちと、手の温度があれば十分だよ」。その「十分」という言葉に、過剰を愛してきた緋真のどこかが静かに折れた。折れた箇所から、別の形が生えてくるような感じがした。
仏間の脇の障子に、薄い光が刺す。祖母は箪笥の引き出しからもう一枚、小さな紙を出してきて、「これも渡しておこう」と言う。紙には、短い文が記されていた。《名を呼ぶな、声が泣く》。祖母は「どこかの神社の碑に刻まれていた言葉を、誰かが写したものだと思う」と言った。緋真はそれを受け取り、指の腹でそっと撫でた。紙は弱い。弱さは、守りの形を教えてくれる。
帰り道、彼は紙の言葉を心の中で繰り返した。名を呼ぶな、声が泣く。叫び出したいときの喉を、柔らかく塞いでくれる魔法みたいに思えた。塞がれた喉の内側で、祈りは形を変える。声にならない祈りは、風の動きに似る。似ていれば、いつか必ず、あの滑走路の風と繋がる。
家に戻ると、机の上の場所に、その紙も加えた。布の端に重ね、角を少しずらして置く。ずらしには意味がある。完全に重ねると、呼吸が止まる。少しずらすことで、紙と紙の間に空気が入る。空気の分だけ、祈りが通う。
緋真は背筋を伸ばし、椅子に深く座った。ノートを開き、新しい章の冒頭に打つ。《ここに、遺るものの場所を作る》。宣言に似た一行。宣言は、自分に向けて言うべきだと祖母が教えてくれたわけではないが、彼の指はそのように動いた。
小さな場所は、日ごとに意味を増す。学校から帰るたび、彼は布の上のものに触れ、今日は触れないものも決める。触れない日を作るのも礼だ。触れすぎは、所有の匂いがする。所有は、祈りから遠い。所有した瞬間、ものは外に出られなくなる。外に出られないものは、風と友だちになれない。風は、いつでも彼の味方である。味方に、彼は礼を失わない。
ケンタは「最近の文、短くて刺さる」と言った。「長いのも好きだったけど」。緋真は「長いのは、またいつか」と答えた。「いつか」は、今は便利な言葉ではなく、保留の礼だ。保留にしないと、壊れるものがある。壊してからでは遅い。
夜、窓を開ける。潮風が入る。カーテンがふわりと持ち上がり、静かに落ちる。その動きが、彼の胸の中の瓶を一つ、静かに鳴らした。〈静の遺るところ〉。タイトルは、今夜もまだ新しくて、彼の部屋の空気に馴染みきっていない。そのぎこちなさを、彼は愛した。新しいものが部屋に入ってくるときの、少し居心地の悪い感じ。そこに、未来が居座っている。
緋真はペンを置き、両手を膝に置き、背を伸ばし、名を呼ばずに祈った。
――君の遺したものが、僕の中で増殖しないように。
――君の遺したものを、僕が勝手に美化しないように。
――君の遺したものの場所を、僕が空け続けられるように。
祈りの三行は、彼にしか意味を持たない。それでいい。意味を共有しないことで守れるものがある。共有した瞬間に薄まる祈りもある。薄まることもまた礼だが、今日は濃いままで持っていたい。濃いものを持つ手は、震える。震えを止めない。止めずに、次へ運ぶ。
机の隅に置いたスマホが震えた。画面には、見慣れない名前のメールが通知されている。郷土誌の編集部からだった。以前、緋真が送った短い文章に対する返事だ。《寄稿、読ませていただきました。静かで、強い文でした。よければ、特集の一部として掲載させてください》。緋真は息を吸い、吐いた。承諾の返事を打ちながら、自分が拍手されるためではなく、遺るものの場所に風を通すために書くのだと、もう一度、身体で了解する。拍手は嬉しい。けれど、拍手の音はすぐ消える。風の道は、残る。
送信を終えると、彼はPCのファイルを開き、今日書いた行のいくつかを読み返した。短い文の末尾が、いちいち彼の胸の内側に触れてくる。触れてくる場所が、昨日とは微妙に違う。それでいい。日ごとに祈りの位置は変わる。祈りの位置に合わせて、彼の椅子の位置も少しずれる。ずれは、生活だ。
窓の外で、どこかの家の風鈴が鳴った。緋真は顔を上げた。祖母の家の縁側で聞いた風鈴とは音色が違う。違う音色に、彼は同じ風を見る。同じ風が、違う音を鳴らす。違う音の中で、同じ祈りを続ける。続けながら、彼はそっと目を閉じた。目を閉じても、今は夢の入口が勝手に明るくならない。それは痛みではなく、選択だった。
名を呼ばないまま。
息を確かめるまま。
遺されたものの場所を、明日も同じところに保つまま。
緋真は、ゆっくりと灯りを落とした。机の上の布が、闇の中に沈む。短冊の紙がわずかに光を拾い、竹の守りの影が、壁に細い線を描く。線はすぐ消えた。消えても、そこに在ったことだけが、彼の中で確かな重みになった。重みは、瓶の列のどれかをまた静かに鳴らす。鳴る音は、誰にも聞こえない。聞こえない音に、彼は礼をした。礼は、今日も彼の側に残った。
退院して最初にしたのは、机を片づけることだった。
片づける、という動詞は便利だ。なにかを捨てるわけでも、なにかを新しく買い足すわけでもない。所在を与え直すだけで、部屋の空気はわずかに整い、人は「やった気」になる。緋真はその「やった気」に縋った。縋るというのは情けないが、情けないことに礼を与えるのが、ここしばらくの彼のやり方だった。
机の上には、散乱したノート、黒く染みたインク、芯の折れたシャープペン、半分だけ飲んで忘れ去られたペットボトル、斜めに傾いて乾いたコーヒーの輪。どれもが戦場から戻った遺物のようだ、という比喩を自分で思いついて自分で嫌がった。「戦場」を軽々しく持ち出すのは、今の自分には許されない。許さないまま、彼は輪じみの上に触れた。指先にざらつきが残る。紙に触れた指の皺に、黒の粉がちょっとだけ移る。その小さな移動が、なぜだか落ち着きをくれる。
ベッドの足元に並べていた〈瓶〉の列を、一度だけ見渡す。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉〈飛翔/病室〉。ラベルは増えたが、どの瓶も空だ。空のほうが重い、と彼はあの夜に理解した。その重さを、今日は棚の最上段に移す。高いところに置くと、少しだけ遠くなる。遠くなることが、今日は礼だ。
夢は、退院してから一度も続いていない。静がいない。いないことが、想像よりずっと現実的な形で日中に現れる。失恋の後遺症というやつだろうか。自分では笑って言えるが、身体は笑わない。胸の真ん中が不意に空白になり、手足の先が急に冷え、視界がばらばらになって、椅子から滑り落ちるほどのめまいに襲われる。台所の床で、冷蔵庫の清音を聞きながら、冗談みたいにうずくまる朝もあった。母に見つかると面倒なので、気配が近づく前に立ち上がる。立ち上がると、世界の中央がわずかに戻る。戻った中央に、呼吸を一つ置く。置き方がうまくなったのは、病院で習ったことの一つだ。
母は「あまり無理しないで」と言い、父は「スマホはほどほどに」と言い、妹は「退院祝いで焼肉」と言った。家族はおおむね、現実の側に立っている。ありがたい。ありがたいのだが、ありがたいと認めると同時に、緋真の中のどこかが薄く寂しくなる。「現実の側」という言い方は、夢の側を切り捨てる匂いがする。切り捨てられるために在ったのではないものが、緋真の中にある。あると認めることは、もう誰にも告げない。
ケンタからは、LINEがやたらと飛んでくる。〈生きてる?〉〈焼肉ならカルビ〉〈宿題の写真送る〉〈送るといったけど、まだ撮ってない〉〈今撮った〉〈いやまだ〉〈今度こそ〉。既読を付けるだけの返事に、ケンタは気を悪くしない。気を悪くしない友人は、体温のように頼りになる。
退院の翌々日。緋真は学校を早退して、祖母の家へ向かった。急行から各駅に乗り換え、商店街を抜け、瓦屋根の低い家並みの間を歩く。日差しは秋に移りかけているが、今日の空気にはまだ夏の匂いが残っていて、頬に当たる風は少し塩の味がした。祖母の家の戸を開けると、懐かしい埃の匂いが出迎えてくれた。埃の匂いは、祈りと同じで、少し古いほうが落ち着く。
「どうしたんだい、急に」
祖母はすでに湯を沸かしていて、湯呑を二つ用意しながら笑う。緋真は座敷に座り込み、言い出しにくい言葉を一息で出した。
「祖母ちゃん、もう一回、家系図……じゃなくて、今日は違うもの。静さんのもの、もし何か残っていたら、見せてほしい」
祖母の笑みがほんの少しだけ奥に引っ込んだ。引っ込んだ笑みの後ろで、目の光が変わる。覚悟を決める大人の目の光。祖母は「少し待ってね」と言って奥に消え、しばらくして仏間へ呼んだ。桐箪笥の最下段から桐箱を出し、さらに布包みを二枚ほど剥がし、薄い木箱を卓に置く。蓋を開けると、煤けた短冊が数枚と、竹で組まれた小さな守りのようなものが入っていた。
緋真は息を呑む。短冊の紙は黄変し、端が欠け、墨の色が褪せ気味だが、筆圧はまっすぐだ。《稽古は人を正す》《負けても、次に繋げ》。どこかで聞いた声。夢の中の縁側で、師範代に頭を下げる静の声が、文字になってここにいる。ここにいる、という確かさに、緋真の指先が震えた。
「これはね、静さんのものだと言われてきた。ただ、うちでは“行方知れず”の人になっている。終戦後も戻らなかったから。名を語れる人もいなくなって、話すこと自体が苦しくてね」
祖母は目を閉じる。「でも、あんたが倒れた夜から、私はずっと祈っていた。どうやら、昔の人も同じように誰かを祈り続けたらしい。祈りは、血で運ばれるのかもしれない」
緋真は短冊を手に取り、紙の端についた黒い汚れに気づく。インクではない。煤にも見えるし、土の色にも見える。紙を鼻先に寄せるとかすかに潮の匂いがした。潮の匂いが古い紙に残ることなんて、あるだろうか。あるかどうかより、今はそれを受け取る。受け取ることに礼がある。
「おばあちゃん、静は……死んだの?」
問うと、祖母は首を横に振る。「わからない。『わからないままでいる』のが、うちのやり方だったのかもしれない。誰かの死を確定させる言葉は、ときに生き残った者を殺すから」
その言葉は、祖母の口から出てくるとき、ことさらに格言めいてはいなかった。日常の言葉の延長に、深い谷がたまたま口を開いているような感じだった。緋真は頷く。確定を欲しがっていたのは誰か。自分だ。物語の「結末」を愛してきた書き手の癖が、現実にも刃を向けていた。
「持っていきなさい」
祖母は木箱から短冊の束と竹の守りを取り出し、薄い布袋に収めて緋真に渡した。「なくしてもいい。見るのが辛くなったら、しまってもいい。名を呼ばないまま、そばに置いておくこともできる」
「ありがとう」
言えた。礼はいつでも彼の側に残る。祈りと礼は、セットで育つ。
祖母の家を辞す頃には、午後の光が斜めに傾いていた。商店街の揚げ物屋から油の匂いが流れ、店先のテレビにはニュースのテロップが流れている。令和の街は、いつでも今の顔で立っている。緋真は駅まで歩きながら、スマホを取り出してメモ帳を開いた。《遺る、という動詞のために――》と打ち、すぐ消す。打って消す、その反復が今は必要だ。言葉はすぐに確定に手を貸す。焦るな。
帰宅すると、母が台所から顔を出した。「祖母ちゃん、元気だった?」
「うん。短冊、もらった」
「短冊?」
「静さんの、かもしれない、やつ」
母は驚いた顔で緋真の手元を見るが、それ以上を聞かない。「ごはん、あとで食べる?」とだけ言う。「あとで」と答え、緋真は自室へ駆け上がった。
机に向かう。ノートパソコンを開く。黒い画面に自分の顔が一瞬映り、すぐに起動の音が鳴る。緋真は深呼吸を一つ。祖母の紺の布を机の左端に敷き、布の上に短冊をそっと置いた。竹の守りは掌にのせ、体温で温める。守りは暴れない。暴れない上で、心が少し動く。
彼は夢の再生を試みない。代わりに、「今ここにある遺されたもの」を起点に書き始める。短冊の文言を引用し、竹の守りを掌に載せ、祖母の沈黙も含めて一行ずつ言葉に変える。夢の物語ではなく、夢に触れた現在の生活として立ち上がるものを書きたい。書くことの位置を、彼はやっと少しずらせた。
――稽古は人を正す。
彼はキーボードに打つ。緋真の稽古は、もう竹刀ではない。言葉の稽古。礼の稽古。名を呼ばない稽古。正してくれるのは誰か。静か。矢野。祖母。ケンタ。母。父。妹。防波堤の風。救急車の赤。病室の白。どれもが少しずつ、彼の姿勢を正した。その列に、自分で自分を正す小さな力を並べてもいい。小さな力は、すぐ倒れる。倒れたら、起こす。それも稽古。
――負けても、次に繋げ。
負けの種類は多い。嫉妬に負ける。怠惰に負ける。恐怖に負ける。正義に負ける。善意に負ける。彼はそのどれにも少しずつ負けながら、次に繋げる方法を学んだ。繋げるというのは、具体がいる。彼は具体を机の上に並べる。短冊。竹の守り。布。瓶。ラベル。インクの汚れ。潮の匂い。祖母の沈黙。ケンタの既読。母の「あとで」。具体の列の中に、静は立っている。名を呼ばずとも、そこにいる。
キーボードを叩く指が、ある単語で止まった。「矢野」。
指の骨がわずかに固くなる。キーの上で、左手薬指が迷う。嫉妬は、緋真の中でまだ完全には終わっていない。静を想う矢野。矢野に抱く刺。夢の中で、緋真は矢野の目を正面から見なかった。見たら、負けを認めることになるから。認めると、何かが終わる気がした。終わりを恐れて、彼は横を向き続けた。
――負けても、次に繋げ。
短冊の文言が、また緋真の背中を押す。負けを確定すれば、次が始まる。矢野に負けたことを、緋真ははっきり言葉にする。嫉妬した。卑小化した。狭く書いた。書き手として卑怯だった。彼は画面の別のタブを開き、過去に保存していた「矢野を嫌なやつにした」小説の章を見つけて、もう一度削除した。二度目の削除は、一度目より深いところまで刃が届いた気がする。空白になった画面が、短い呼吸をした。
翌日。緋真は図書室へ行った。退院の報告を担任にして、保健室の先生に「よかった」と言われ、少し笑い、図書室の奥の古い棚に向かう。郷土誌の戦時特集の薄い冊子は、紙質が柔らかく、手に触れると音を立てずにめくれる。薄い紙の匂いが、埃と混じって鼻の奥に残る。彼は机に座り、ページをゆっくり進めた。知らない地名が、今の街の名前に連なる。小さな写真がいくつか載っていた。どれもぼやけていて、輪郭は汗のにじんだ白シャツみたいに曖昧だ。
その一つに、緋真の指が止まる。
出撃前、飛行服の男の肩に手を置く少年――顔は不鮮明だ。帽子の影。肩の線。指の長さ。まっすぐでも曲がってもいない、すこしだけ不器用な手の置き方。緋真は“矢野だ”と思った。根拠はない。けれど、恋をした者には、恋を見分ける直感が備わるのだろう。直感は捏造の親戚かもしれないが、今、これを信じることは、誰も傷つけない。
ページを閉じると、胸の底で何かがようやく静まった。嫉妬は、遅れて理解に変わる。矢野が静を大切に想ったように、自分も静を大切に想った。ただ、矢野の側にいたのは現実で、自分の側にあるのは言葉だ。ならば、言葉で守る番だ。言葉は刃にも盾にもなる。刃にしない。盾にする。盾は重い。重いものを持てるか。持つしかない。
図書室の窓の外、校庭ではサッカー部が走っている。掛け声が風に削られて、意味のない音の列に崩れる。意味のない音が、かえって彼を落ち着かせた。意味を与えすぎるのは、今は危険だ。危険の先には確定がある。確定は、時に生き残った者を殺す。
帰宅して、緋真は原稿ファイルを開いた。ファイル名の欄をクリックし、ゆっくりと文字を消していく。『静の生還』――この語の中に、自分の善意の暴力が混じっていることを、今の彼は認める。善意であることが免罪符になると思っていた。免罪符はきれいな紙で、手触りがよく、香りがついていた。けれど、印刷された字は刃だった。刃で人の息を削いだ。そういう書き方を、彼はもうしない。
新しい名前を打つ。
『静の遺るところ』。
結末を救済ではなく、継承に据えるために。画面に打った新しいタイトルは、彼自身の呼吸をゆっくりと整えてくれた。整ってくる呼吸に合わせて、部屋の空気が少しだけ透明になる。透明は痛みも透過するが、光も通す。
その夜、机の上に「遺されたもの」のための小さな場所を作った。祖母の紺の布を折って敷き、短冊と竹の守りを置く。瓶の列の一部を布の端に寄せ、ラベルが読める角度に揃える。祭壇というほど大げさではない。置き場。雑音に飲まれないための、簡素な境界。置いたもののひとつひとつに手を触れ、名を呼ばないまま「おかえり」と心の中で言う。おかえり、と言えるものは、ここには多い。
スマホの画面が光り、ケンタから〈タイトル、変えた?〉と来る。時々、彼の公開アカウントをのぞいているらしい。緋真は〈変えた〉と返す。〈なんか、いいなそれ〉〈どれ〉〈遺るところ〉〈おまえが好きそう〉〈おまえが好きなものでもある〉〈おまえが言うならそうだな〉。くだらないやりとりの最後に、ケンタが〈眠れ〉と打つ。緋真は〈眠る〉と返す。返してから、机の上の布を指で撫でる。布は暴れない。暴れないものに触れると、暴れているものがやわらぐ。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。白い天井は、病室のそれとは違って、微細な汚れがところどころにある。そこに小さな星座を見つけるつもりで目を細め、やめる。比喩の濫用は、確定の濫用に似ている。彼はまばたきの回数を数える。四回目でやめる。やめると、眠気が軽く肩に乗る。肩に乗った眠気は、命令しないかぎり、勝手に動かない。命令しない。眠気の自由を認める。
――名を呼ばない。
――けれど、忘れない。
その二文を胸に置き、緋真は目を閉じた。夢は来ない。驚くほど来ない。来ない夜は、かつて恐怖だった。今は、たぶん、礼だ。夢を「来させない」ことで、彼は何かを守っている。誰かの時間かもしれないし、自分の呼吸かもしれない。守っているという感覚自体が、彼を生きさせる。
※
翌日の放課後。
クラスメイトの数人がファストフード店に行くらしいと騒ぎ、緋真も誘われたが断った。代わりに、海の近くまで歩いた。防波堤には行かない。行かないと決めた場所に、今日の足は行かない。代わりに、少し離れた海沿いの公園に座る。ベンチは冷たく、潮風は頬の皮膚に細かな塩を置いていく。スケボーの音。子どもの笑い声。犬の首輪の小さな鈴。世界は音でできており、音は誰のものでもない。
ポケットから竹の守りを取り出し、掌にのせる。結び目がほどけかけていないか、指で確かめる。結び目は意地を持つ。緋真の結び目はまだ幼い。不器用なまま、ほどけないように結ばれている。祖母の紺の布は持ってきていない。布は部屋の場所を守る。この公園に持ってくるのは違う気がした。場所には役割がある。それを尊ぶのも礼だ。
ベンチの向こうで、海は相変わらずで、波は相変わらず崩れ、また相変わらず立ち上がる。規則のない規則。そこに〈遺る〉という動詞が似合う。〈残る〉でも〈存る〉でもない。〈遺る〉。意志と他者の手が入る文字。緋真は小声でそれを反芻してみる。口の形が、初めてその言葉にぴたりと合った気がした。
夕暮れのオレンジが水面に細長い帯を作る。その帯の上に、目に見えない足音が並ぶ。足音は誰のものでもないが、彼はそこに、静の歩幅と矢野の歩幅を同時に置く。並んだ歩幅は、競争の形をとらない。並ぶだけだ。並んだ先に、次がある。次は、いつでも彼の胸の中にだけある。
帰り道、商店街のくじ引きのガラガラの音がして、子どもの歓声が上がる。当たりだ。金色の紙がひらひらと舞い、店先の店員が拍手する。彼は足を止め、拍手のリズムだけを聞いていた。手が向き合って音を作る。礼に似ている。拍手は、実は祈りの親戚なのだろう。たぶん、そうだ。
家に着くと、机の上の「遺されたものの場所」が夕焼けで薄く赤くなっていた。布の上の影が長く伸び、短冊の文字のいくつかが読みにくい角度に傾いている。緋真は窓のカーテンを軽く引き、灯りを点けた。白い光が布の上に均等に落ちる。均等は心を休ませる。彼は短冊の一枚を取り、声に出さずに読む。《負けても、次に繋げ》。読み返すたび、文の重心が少しだけ移動する。それを確かめるように、彼は机に向かった。
キーボードを打ち始めると、指が自分のものではないみたいに滑らかに動いた。比喩は最小限で、修飾は剥がし、短い行を並べる。《短冊は煤けている/匂いは潮と埃/竹の守りの結び目は幼い/祖母は名を呼ばない/名を呼ばないまま祈る》。並べられた行のあいだに空白がある。空白は怖い。怖いが、空白の分だけ、読む人が息を通せる気がする。彼は空白を残した。
ふと、矢野の名が文の上に浮かぶ。
「君は彼の何だったんだ」。
緋真は一度、天井を見てから、画面に戻った。名を呼ぶ。呼んで、文の中で礼をする。矢野へ。君がそこにいたことに。緋真の指は〈矢野〉の字面に軽く触れるように打ち、次の行に《君は僕の背中を真っ直ぐにしてくれる》と写した。夢の中の静の言葉。緋真はそれが矢野に向けられたものだということを、今ようやく受け入れられる。受け入れることは負けではない。受け入れた先に、彼自身の立つ場所が開く。
深夜、母に「もう寝なさい」と言われ、緋真はPCを閉じた。画面が黒くなり、彼の顔が映る。顔の中で一つだけはっきり見えるものがある。目の下の隈ではない。口の端の、わずかな上がりだ。彼は電気を消し、机の上の「遺されたものの場所」を見つめる。暗闇の中でも、短冊の白は薄く光る。竹の守りは見えない。見えないものを守るための守りなのだと思って、彼は笑った。笑いは、彼の持てるいちばん静かな武器だ。
※
数日後。
緋真は祖母の家を訪ね、短冊と竹の守りを置く台について相談した。祖母は「台なんていらないよ」と笑った。「布と、気持ちと、手の温度があれば十分だよ」。その「十分」という言葉に、過剰を愛してきた緋真のどこかが静かに折れた。折れた箇所から、別の形が生えてくるような感じがした。
仏間の脇の障子に、薄い光が刺す。祖母は箪笥の引き出しからもう一枚、小さな紙を出してきて、「これも渡しておこう」と言う。紙には、短い文が記されていた。《名を呼ぶな、声が泣く》。祖母は「どこかの神社の碑に刻まれていた言葉を、誰かが写したものだと思う」と言った。緋真はそれを受け取り、指の腹でそっと撫でた。紙は弱い。弱さは、守りの形を教えてくれる。
帰り道、彼は紙の言葉を心の中で繰り返した。名を呼ぶな、声が泣く。叫び出したいときの喉を、柔らかく塞いでくれる魔法みたいに思えた。塞がれた喉の内側で、祈りは形を変える。声にならない祈りは、風の動きに似る。似ていれば、いつか必ず、あの滑走路の風と繋がる。
家に戻ると、机の上の場所に、その紙も加えた。布の端に重ね、角を少しずらして置く。ずらしには意味がある。完全に重ねると、呼吸が止まる。少しずらすことで、紙と紙の間に空気が入る。空気の分だけ、祈りが通う。
緋真は背筋を伸ばし、椅子に深く座った。ノートを開き、新しい章の冒頭に打つ。《ここに、遺るものの場所を作る》。宣言に似た一行。宣言は、自分に向けて言うべきだと祖母が教えてくれたわけではないが、彼の指はそのように動いた。
小さな場所は、日ごとに意味を増す。学校から帰るたび、彼は布の上のものに触れ、今日は触れないものも決める。触れない日を作るのも礼だ。触れすぎは、所有の匂いがする。所有は、祈りから遠い。所有した瞬間、ものは外に出られなくなる。外に出られないものは、風と友だちになれない。風は、いつでも彼の味方である。味方に、彼は礼を失わない。
ケンタは「最近の文、短くて刺さる」と言った。「長いのも好きだったけど」。緋真は「長いのは、またいつか」と答えた。「いつか」は、今は便利な言葉ではなく、保留の礼だ。保留にしないと、壊れるものがある。壊してからでは遅い。
夜、窓を開ける。潮風が入る。カーテンがふわりと持ち上がり、静かに落ちる。その動きが、彼の胸の中の瓶を一つ、静かに鳴らした。〈静の遺るところ〉。タイトルは、今夜もまだ新しくて、彼の部屋の空気に馴染みきっていない。そのぎこちなさを、彼は愛した。新しいものが部屋に入ってくるときの、少し居心地の悪い感じ。そこに、未来が居座っている。
緋真はペンを置き、両手を膝に置き、背を伸ばし、名を呼ばずに祈った。
――君の遺したものが、僕の中で増殖しないように。
――君の遺したものを、僕が勝手に美化しないように。
――君の遺したものの場所を、僕が空け続けられるように。
祈りの三行は、彼にしか意味を持たない。それでいい。意味を共有しないことで守れるものがある。共有した瞬間に薄まる祈りもある。薄まることもまた礼だが、今日は濃いままで持っていたい。濃いものを持つ手は、震える。震えを止めない。止めずに、次へ運ぶ。
机の隅に置いたスマホが震えた。画面には、見慣れない名前のメールが通知されている。郷土誌の編集部からだった。以前、緋真が送った短い文章に対する返事だ。《寄稿、読ませていただきました。静かで、強い文でした。よければ、特集の一部として掲載させてください》。緋真は息を吸い、吐いた。承諾の返事を打ちながら、自分が拍手されるためではなく、遺るものの場所に風を通すために書くのだと、もう一度、身体で了解する。拍手は嬉しい。けれど、拍手の音はすぐ消える。風の道は、残る。
送信を終えると、彼はPCのファイルを開き、今日書いた行のいくつかを読み返した。短い文の末尾が、いちいち彼の胸の内側に触れてくる。触れてくる場所が、昨日とは微妙に違う。それでいい。日ごとに祈りの位置は変わる。祈りの位置に合わせて、彼の椅子の位置も少しずれる。ずれは、生活だ。
窓の外で、どこかの家の風鈴が鳴った。緋真は顔を上げた。祖母の家の縁側で聞いた風鈴とは音色が違う。違う音色に、彼は同じ風を見る。同じ風が、違う音を鳴らす。違う音の中で、同じ祈りを続ける。続けながら、彼はそっと目を閉じた。目を閉じても、今は夢の入口が勝手に明るくならない。それは痛みではなく、選択だった。
名を呼ばないまま。
息を確かめるまま。
遺されたものの場所を、明日も同じところに保つまま。
緋真は、ゆっくりと灯りを落とした。机の上の布が、闇の中に沈む。短冊の紙がわずかに光を拾い、竹の守りの影が、壁に細い線を描く。線はすぐ消えた。消えても、そこに在ったことだけが、彼の中で確かな重みになった。重みは、瓶の列のどれかをまた静かに鳴らす。鳴る音は、誰にも聞こえない。聞こえない音に、彼は礼をした。礼は、今日も彼の側に残った。



