第十三話 飛翔/病室
最初に来たのは音だった。
地の底から上がってくるような低い唸り。耳よりも骨が先に受け取る。脛の骨、膝の皿、肋骨の弓。一本一本が弦になって、空気ではなく振動で共鳴した。続いて匂いが来る。油と布と塗装。微かに焦げたような、機械の息の匂い。視界がゆっくり開いていくと、そこには窓の枠に切り取られた青があった。濃い海の上にさらに濃い空がある。その二つの青の間に、息をする機体が浮かんでいる。
静がいた。
彼の手は操縦桿に置かれている。握っているのではなく、触れている、という距離。指先の力は、竹刀を持つときの力のかけ方と同じだった。乗せて、引く。押さえつけず、離しすぎず。掌の中央にかすかな汗が滲み、皮膚の上を風が走るような感覚があるのか、彼は一度だけ指を少し開いてまた閉じた。閉じるとき、拳の中の何かをそっと手放した。何かが空気に溶けた音がした気がしたが、緋真にはそれが何か見えない。
プロペラの震動が、言葉より先に彼の胸を満たす。視界の隅で、計器の針が僅かに揺れ、針の影がまた別の影を作る。ベルトが肩に食い込み、背中が機体に吸いつく。空の密度は地上のそれと違って、冗談を許さない。静は黙っている。黙って、しかし唇の端に微笑にも見える癖が浮かんでいる。冷たい笑みではない。恐怖と礼のあいだにしか生まれない、硬さとやわらかさが同居した線。緋真はそれを何度も夢の中で見てきた。あの笑みを見るたび、胸の奥で何かが軋む。
――死にたくない。
声は出ない。出さない。彼の胸の内側でだけ、固い文字になって横たわっている。静はその文字を掌に載せ、重さを確かめたのち、拳を開いて空へ解き放つ。何も飛んでいかない。何も落ちない。ただ、開いた指の間に風が通って、爪の下が白くなる。爪の白さの端に、矢野の顔が一瞬だけ反射する。誰も呼ばない。呼べば確定が来る。名を呼ばない礼が、ここにも守られている。
緋真は夢の中の観客席から、身を乗り出してしまう自分を押しとどめる。身を乗り出すのは無礼だ。彼がここに在ること自体がもとは無礼なのだ。だからせめて、呼ばない。呼ばずに、記憶する。音、匂い、手の意志、唇の線、ベルトの擦れる音、窓の縁の塗装の剥げ。ひとつひとつを瓶に入れるように、彼は胸の内でラベルを貼っていく。〈飛翔の音〉〈油の息〉〈拳の開閉〉〈礼の笑み〉。ラベルだけが増えていき、瓶はどれも空のままだ。空のほうが重い。重さは彼の座っている見えない椅子をさらに沈める。
機体がわずかに傾き、青が入れ替わる。窓の外の水平線が静かに斜めになる。静の視線は前に固定されているが、その端々は何かを受け取り続けている。空の濃さ。風の手触り。機体の鼓動。加速度の微妙な変化。全部を拾い上げながら、しかし拾い上げたものに溺れない。道場で彼がいつもしていたこと。情報の多い世界の中で、礼を失わず、中心を保つこと。
どれほど時間が経ったのか分からない。夢の中の時間は、砂時計のように見えて、水時計のように曖昧だ。ひとつだけ確かなのは、静の背中から漂ってくる熱が、さっきより薄まっていること。薄まる熱は、冷える前の合図ではない。熱が周囲の空気と混ざって、ひとつの温度になろうとしている。そのとき、彼はもう一度だけ拳を開いた。さっきよりゆっくり。ゆっくりだから、見えるはずのないものが見えそうになる。緋真は息を止め、目を凝らす。何かが手を離れていく。重さのないもの。名前のないもの。祈りか。恐怖か。矢野の背中か。道場の梁の木目か。いずれにせよ、それはもう彼の手の中にはない。彼は空に渡した。渡した顔で、彼は前を向いている。
窓の外、青の深さは変わらない。深さの奥に、どこかに白い雲があり、雲の向こうには見えない地上がある。地上には、彼が帰ってこないかもしれない現実がある。帰ってこれるかもしれない現実もある。どちらでもいいと、言えるか。言えない。言えないことを、彼は知っている。知っているからこそ、拳を開いた。開いた後の手を、操縦桿に戻す。戻す所作が、美しかった。緋真はそこまでを、はっきり記録できた。
そこで夢は、空の端を切り取ったみたいに、唐突に終わった。
※
目が覚めたとき、白かった。
天井は、病院の白だった。現実の白だ、と頭がすぐに判断する。白は薄い。薄いのに、何層にも重なって見える。目の奥に残っていた青が、白の下に押しやられていく。押しやられて泣き出す。胸の内側がひっくり返るようで、緋真は反射的に体を丸めようとした。――が、腕に絡んだ何かに引き留められ、身体が重い重力に貼り付けられていることに気づいた。点滴。鼻に硬くて柔らかい管。口の中に残る潮の匂い。喉は焼けたように痛く、咳をしようとするたびに胸がきしむ。
「緋真!」
母の声が、遠くの海で波が割れるみたいに弾けた。視界の左側に見慣れた顔があって、目と鼻の形は泣いているときの形だった。母は椅子から身を乗り出し、手を伸ばしたが、途中で止めた。点滴の管や心電図のコードが絡んでいる。触ってしまえば壊してしまいそうな、躊躇の位置で手が止まる。止まった手は、しかし空気を震わせた。震えが緋真の頬に触れた気がした。彼は自分の声が出るか分からないまま、唇を開いた。乾いた音がした。
「……ごめん」
言った瞬間、母は泣きながら笑った。「ごめんじゃない。生きてるんだから、それだけで」
祖母は黙って座っていた。背筋は伸び、膝の上に両手を重ね、目は穏やかだが、静かな波の下に深い暗さを湛えている。緋真と目が合うと、祖母はゆっくり頷いた。頷きは短く、その短さが長い時間を含んでいる。祖母の周りだけ、空気が少し硬い。祈りの硬さだ。祈りは、柔らかいだけでは立たない。
「神田くん、わかるかな」
白衣の男の声。医師だろう。白いマスクの上で目がきちんと笑う。看護師がベッドの頭の方のスイッチを操作し、背もたれが少し上がった。世界が彼の方へ斜めに近づく。医師の説明は、現実の音でできていた。意識消失、低体温、過換気、海水の誤嚥。救助された時刻。この市の消防団の迅速さ。彼はうなずく。言葉は頭にさやさやと飛び込んできては、どこかに引っかかる。引っかかった場所から、別の思考の線が伸びる。――静は、飛んだ。
医師の声が遠のく。母が袖で目を拭う音、カーテンの輪がレールをこする音、隣のベッドの誰かが呼吸を調える微かな声。病室は音に満ちているのに、静かだ。静かさの底に、自分の泣き声が溜まっているのが分かった。溜まったものは、溢れる前に出しておかないと、別の場所からあふれる。
緋真は子どものように泣いた。
嗚咽は屈辱ではなかった。膝を抱えたくても抱えられず、代わりに胸の上で手を握り、床に向かって顔を伏せた。鼻水が出て、喉が鳴る。看護師がティッシュを近づけてくれたが、彼は自分の涙で頬が温かくなる感覚に身を任せた。泣くことでしか運べないものがある。泣くたびに少しずつ軽くなる小石みたいなものを、彼はずっと抱えていたのだと思う。その小石に名前を付けることはしない。名を付ければ確定が来る。確定は、誰かを殺す。
祖母は黙ったまま、緋真の泣く時間を守ってくれた。母は手の甲で目の下を拭い、声を殺して泣いた。泣く音にも礼儀がある。空気がそれを受け止める。緋真の中で、夢の中の青が、病室の白の下でゆっくりと混ざり始めた。混ざると色は鈍くなるが、匂いは濃くなる。油と塩と布の匂いが、病室の消毒液の匂いと重なる。重なった匂いの中で、彼は静の拳がふたたび開くのを見た。開いて、何かを手放す。今度は、その何かが形を持たないことを、はっきり理解した。形のないものを手放すとき、人は最も美しい所作をする。静は美しい。
「緋真、先生にお礼を」
母の声に促され、彼は涙の残った声で「ありがとうございます」と言った。礼は、病室でも礼だ。医師は頷き、「無理しないで、眠っていいよ」と言った。
眠る、という言葉に内臓が反射した。眠れば、静は遠くなる。眠らなくても、静は遠くなる。遠くなることを引き受けられるか。今日の緋真は、答えを持たない。持たないこと自体が答えだ。祖母はそれを察したみたいに、静かに目を閉じ、耳の下で数珠をひとつ撫でた。玉の触れ合う音が小さく鳴る。祈りのリズムは、呼吸のリズムと同じだ。四で吸って、四で止めて、四で吐く。緋真もそれに合わせる。吐く息の最後のほうで、胸の中の痛みが少しだけ移動する。移動した痛みは、言葉になりかけて消える。
ケンタからメッセージが来ていた。母が緋真のスマホを手にしていて、「友だちから」と画面を見せる。〈死ぬな。マジで。〉〈生きろよ。〉〈おまえの宿題の写し、俺にしかないぞ。〉めちゃくちゃで、やさしい。緋真は笑ってしまい、肺がまた少し痛んだ。笑いと痛みは、いま仲良くしている。
窓の外は薄い雲がかかっていて、海は見えない。病室の窓は細く開いていて、そこから潮の匂いが入ってくる。匂いは音よりも早く記憶の層を通り抜けて、夢の入口を軽く叩いた。叩いたきり、扉は開かない。今はそれでいい。扉が勝手に開かない夜を、彼はやっと迎えられたのかもしれない。
夕方、父が仕事を切り上げて駆けつけた。額に汗が浮き、スーツの襟に塩の白い線が出ている。緋真の顔を見て、父は一度だけ大きく息を吐いた。「馬鹿」と言い、その一語の中に救いと怒りと安堵と、いくつものヴァリエーションが詰め込まれているのがわかった。緋真は「うん」と言った。父の「馬鹿」はこの家では最高の「おかえり」に近い。病室の床の色が、少しだけ温かく見えた。
夜。点滴の滴る音が耳の奥で規則正しく鳴り、看護師のサンダルが廊下のワックスの上を滑る。祖母は「帰らなきゃ」と立ち上がり、緋真の枕元で囁く。「あんたは、名前を呼ばない子だね」。緋真は笑って、「祖母ちゃんの真似」と言う。祖母は「そうかい」と言い、緋真の頭に、そっと手を置いた。手のひらの骨のかたちを、頭蓋骨が内側から受け取る。受け取った形は、彼の祈りの「かたち」をまた一つ増やす。
母は窓際のソファで眠り始める。父は椅子で背中を丸めている。カーテンの上部から白い明かりが漏れて、夜の病院を避難所みたいに見せる。緋真は枕元のナースコールの赤いボタンを見つめ、押す理由がないことを確かめた。押すべきときは押す。それまでは、押さない。押さないのも礼。
息を整え、胸の内側で瓶の列を確かめる。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉。ラベルに新しい一本を足す。《飛翔(見届け)》と書く。瓶は空でいい。中身を詰めようとすると、勝手に余計なものまで入ってしまう。空っぽのまま、その瓶がここに存在したことだけを、彼は記録する。
手を伸ばして、ベッド脇の棚に置かれた自分のリュックのポケットを探り、祖母の紺の布を取り出す。布は乾いて軽い。蘇生した布の軽さに、深いところで安堵が広がる。布の上には前にこぼしたインクの痕があって、薄い月のように見えた。布を胸に置き、目を閉じる。布は暴れない。彼の中の言葉の多くも、今夜は暴れない。
――静。
胸の奥で、呼びかけの形だけが浮かび、唇まで上がりかけて、沈む。皆まで言わない。言ってしまえば、すべてが確定してしまうから。確定を恐れているのではない。確定を、まだここに連れてこないために。緋真は、名を呼ばない祈りの仕方を、初めて身体で納得した。
窓から潮風が吹き込む。病室のカーテンがわずかに持ち上がり、その裾がまた戻る。青い空で飛んでいたはずのものは、今、見えない。見えないもののために風が動くのだと思う。彼はその風に祈りを渡す。渡した祈りは、どこへ行くのか知らない。知らないまま、渡す。
※
翌朝。
体の節々が、ずっと泣いていたあとのように重い。医師の回診が来て、緋真は短く質問に答える。意識消失の時間、救助された海の場所、体温、矢印みたいな単語が飛び交い、最後に「しばらく安静に」という普通の言葉に落ち着く。普通がありがたい。ありがたさは、抒情よりも心に長く残る。
廊下から朝の音が聞こえる。配膳車の金属の音。遠くで子どもが泣く声。駐車場で誰かが車のドアを閉める音。現実は音からやってくる。音があるところに、彼は戻ってきたのだ。
ケンタが見舞いに来た。プリンを二つ持ってきて、一つを緋真に渡し、もう一つを自分で食べる。「なんでおまえも食うんだよ」と緋真が笑うと、「こういうのはシェアだろ」とケンタが言って、容赦なくスプーンを突っ込む。病室で笑うことに罪悪感を持つべきではない、と彼はこの友人から学ぶ。ケンタは窓の外を見て、「海の匂いするな」と言い、「海、嫌いになった?」と尋ねる。「ならない」と緋真は答える。「嫌いになったら、俺はたぶん書けない」。ケンタは「おまえはそこに戻るのか」と目だけで言って、声では言わない。言わない配慮が、呼吸を楽にする。
午後、祖母が短い便箋を持ってきた。「読んでも読まなくてもいいよ」と言って緋真に渡す。封を切ると、簡単な筆致でこう書いてあった。《名前を呼ばないことは、忘れることではない》。緋真は便箋を胸に当て、目を閉じた。祖母の筆圧が紙を軽く凹ませている。その凹みに、自分の今いる場所の深さを測る。
丸一日、夢は来なかった。来ないことに焦りはなかった。代わりに、思い出す作業が静かに続いた。夢の中の静の拳の開き方。ベルトの擦れる音。窓枠の塗装の剥げ。矢野の影の不在。緋真はノートを取り出し、長い文を避け、短い行だけを書いた。《笑いは礼の別名》《怖いと言えるのは勇気》《怖くないと言う勇気もある》《手放すものは形がない》。短い行は、病室の白に合っていた。長い文は、今は布に吸われる。祖母の紺の布が、彼の膝の上で小さく波打つ。布の上では、言葉は暴れない。
夕暮れ、母が窓を少し開ける。「風、冷たかったらすぐ閉めるからね」。潮風がまた入ってくる。昨日のそれより少し柔らかい。浜辺の徹夜の夜と同じ匂いなのに、別の匂いに感じるのは、彼が生きてここにいるからだ。匂いは、生きている者にだけ別の顔を見せる。
祖母が帰り際、緋真の耳元で囁いた。「静さんはね、行き先を人に預けない子だったよ」。緋真は目を丸くし、「祖母ちゃん、知ってるの」と言いかけたが、祖母は首を振る。「知ってるとは言わない。知ってると言えば、確定になるから」。祖母の言葉は鋭いのに、触れると温かい。温かさの皮膚感覚に救われて、緋真は「うん」とだけ答えた。
夜中、看護師が点滴の交換に来た。若い人だった。彼のバイタルの数字をメモに取り、微笑んで言う。「死ぬの、嫌ですよね」。驚くほど率直な言葉だった。緋真は「はい」と答えた。看護師は頷いて、「じゃあ、いっしょに嫌がりましょう」と小声で言い、去っていった。嫌がる、という動詞にこんなふうに寄り添われたのは、初めてだ。嫌がることに礼があると、誰が教えてくれただろう。彼は眼を閉じ、看護師の足音が遠ざかるのを聞いた。足音が角を曲がり、消えたところで、窓の外から海の音がまた一つ入ってきた。
――静。
胸の奥で、また呼びかけの形だけが浮かび、今度は胸骨の裏側にそっと貼り付いた。貼り付いた文字は、湿気を吸って柔らかくなる。柔らかくなったところで、彼はもう一度だけ、目を閉じた。
※
夢は来た。
病室の白の下で、眠りは透明だった。透明の底に薄い青が差し、音がひとつずつ立ち上がる。プロペラの唸り。計器の針の微かな揺れ。ベルトの擦れる音。静の呼吸。緋真は観客席に座る。手は膝の上。背中はまっすぐ。礼を保つ。静は飛んでいる。前を見ている。拳は開かれている。何かが手から離れていく。何かが戻ってくる。離れたものと戻ったものは、同じではない。同じである必要もない。
そこで、風が吹いた。
道場の縁側を通り抜けるあの夏の風と、病室の窓から入る潮風と、滑走路の上をかすめる冷たい風。その三つが一瞬だけ同じ速度で彼の頬を撫でた。撫でるという動詞を、彼はそのまま大切にポケットにしまった。どれだけ撫でられても、名前を呼ばないかぎり、確定は来ない。撫でられた頬は、しかし確かに温かい。温かさは、現実の側に残る。
緋真はそこで泣かなかった。泣くのをやめたのではない。泣く必要が、今は少し遠かった。代わりに、短い言葉を胸の内に置く。
――見た。
――生きていた。
それだけで、十分だった。十分であることを、自分で許す。許すのに時間がかかった。今、ようやく許せる。
夢は、また突然に終わった。
終わることは、死と似ている。似ているだけだ。終わったものは、すぐに起こさない。起こさずに、静かに布を掛けておく。それが礼だと、緋真は祖母に教わっていたのかもしれない。教わったことは、いつも言葉の形では覚えていない。手の温度で覚えている。
※
明け方。
病室の白が少しだけ青を混ぜる。窓の外で鳥が鳴き、遠くで誰かが新聞を配る自転車の音がする。緋真は目を開け、人のいない天井を見つめ、ひとつ呼吸を大きくした。胸はもう、昨夜ほど痛くない。痛みがなくなったわけではなく、位置がずれたのだ。ずれた痛みは、言葉にしないほうがうまく抱えられる。
枕元のノートを開き、彼はペンを取る。祖母の紺の布の上にノートを置く。布は暴れない。暴れない上で書く字は、暴力に似ない。彼は短く書いた。《結末を知ることより、そこに息があったことを記録する》。書きながら、病室の空気が少し新しく入れ替わるのを感じる。換気扇の音。廊下の誰かの笑い声。看護師の「おはようございます」。すべてが彼を現実へ戻す。
母が目を覚まし、髪を整え、緋真の額に手を当てる。熱はない。「よかった」と母は言い、窓を少し開ける。潮風が流れ込み、カーテンが持ち上がり、また戻る。入ってきた風が、出ていく。出ていく風に祈りを少し乗せる。乗せると、胸の中の重さが少しだけ軽くなる。
「君はどこへ行ったのか。死んだのか。生きたのか」
心の中でだけ、緋真は問いかける。声には出さない。問いを投げた手で、そのまま自分の胸を押さえる。押さえた掌の下で、心臓が規則正しく動く。動いている限り、彼は記録者でいられる。記録者は、救う者ではない。救うふりをしない。救済の嘘で上書きしない。上書きせずに、息のあった痕跡を並べる。短冊、竹の守り、紺の布、瓶のラベル、塩の匂い、笑いの線。遺るものを、遺るままに置く。
祖母が再び病室に顔を出し、緋真の枕元に小さな袋を置いた。「中身は見ていいけれど、名をつけるのは、もう少しあとのほうがいい」。緋真は頷く。袋の布は洗いざらしで、指に馴染む。彼はひもをゆっくり緩め、中を覗いた。中には小さな紙片と、古い糸で結ばれた細い竹の欠片。竹にはうっすらと人の指が触れた痕が残っている気がした。静のものかどうか、何も確証はない。それでいい。確証がなければ、彼は祈りの形を選べる。
彼は袋を閉じ、胸の上に置き、目を閉じた。
――君の名を呼ばない。
――でも、君の息を忘れない。
潮風がまた一度だけ吹き、病室の白が、ほんの瞬間だけ青に傾いた。青はすぐにまた白に戻る。その白の下で、緋真は静かに息を整えた。整えながら、彼は決める。結末を書かないこと。結末を求めて誰かを急かさないこと。記録者でいること。礼を失わないこと。名を呼ばない祈りを続けること。
静はどこへ行ったのか。死んだのか、生きたのか。
答えは与えられない。
与えられないからこそ、彼は記す。ここに、確かに一人の少年が生き、拳を開き、何かを手放し、前を見ていたことを。そこに、祈りがあったことを。礼があったことを。
その夜、病室の窓からまた潮風が吹き込んだ。緋真は涙を指で拭い、もう一度だけ胸の内で名の形をつくり、そっとほどいた。ほどかれた名は、風に混じってどこかへ消え、代わりに温もりだけが彼の掌に残った。温もりは、確定を呼ばない。温もりは、遺る。遺るものの側に、彼は筆を置く。置いた筆の先で、見えない瓶がちいさく鳴った。〈飛翔/病室〉。ラベルは、今夜はまだ貼らない。貼らずに、眠る。眠りは、今度は静かだった。静かな眠りの中で、彼はもう、名を呼ばなかった。
最初に来たのは音だった。
地の底から上がってくるような低い唸り。耳よりも骨が先に受け取る。脛の骨、膝の皿、肋骨の弓。一本一本が弦になって、空気ではなく振動で共鳴した。続いて匂いが来る。油と布と塗装。微かに焦げたような、機械の息の匂い。視界がゆっくり開いていくと、そこには窓の枠に切り取られた青があった。濃い海の上にさらに濃い空がある。その二つの青の間に、息をする機体が浮かんでいる。
静がいた。
彼の手は操縦桿に置かれている。握っているのではなく、触れている、という距離。指先の力は、竹刀を持つときの力のかけ方と同じだった。乗せて、引く。押さえつけず、離しすぎず。掌の中央にかすかな汗が滲み、皮膚の上を風が走るような感覚があるのか、彼は一度だけ指を少し開いてまた閉じた。閉じるとき、拳の中の何かをそっと手放した。何かが空気に溶けた音がした気がしたが、緋真にはそれが何か見えない。
プロペラの震動が、言葉より先に彼の胸を満たす。視界の隅で、計器の針が僅かに揺れ、針の影がまた別の影を作る。ベルトが肩に食い込み、背中が機体に吸いつく。空の密度は地上のそれと違って、冗談を許さない。静は黙っている。黙って、しかし唇の端に微笑にも見える癖が浮かんでいる。冷たい笑みではない。恐怖と礼のあいだにしか生まれない、硬さとやわらかさが同居した線。緋真はそれを何度も夢の中で見てきた。あの笑みを見るたび、胸の奥で何かが軋む。
――死にたくない。
声は出ない。出さない。彼の胸の内側でだけ、固い文字になって横たわっている。静はその文字を掌に載せ、重さを確かめたのち、拳を開いて空へ解き放つ。何も飛んでいかない。何も落ちない。ただ、開いた指の間に風が通って、爪の下が白くなる。爪の白さの端に、矢野の顔が一瞬だけ反射する。誰も呼ばない。呼べば確定が来る。名を呼ばない礼が、ここにも守られている。
緋真は夢の中の観客席から、身を乗り出してしまう自分を押しとどめる。身を乗り出すのは無礼だ。彼がここに在ること自体がもとは無礼なのだ。だからせめて、呼ばない。呼ばずに、記憶する。音、匂い、手の意志、唇の線、ベルトの擦れる音、窓の縁の塗装の剥げ。ひとつひとつを瓶に入れるように、彼は胸の内でラベルを貼っていく。〈飛翔の音〉〈油の息〉〈拳の開閉〉〈礼の笑み〉。ラベルだけが増えていき、瓶はどれも空のままだ。空のほうが重い。重さは彼の座っている見えない椅子をさらに沈める。
機体がわずかに傾き、青が入れ替わる。窓の外の水平線が静かに斜めになる。静の視線は前に固定されているが、その端々は何かを受け取り続けている。空の濃さ。風の手触り。機体の鼓動。加速度の微妙な変化。全部を拾い上げながら、しかし拾い上げたものに溺れない。道場で彼がいつもしていたこと。情報の多い世界の中で、礼を失わず、中心を保つこと。
どれほど時間が経ったのか分からない。夢の中の時間は、砂時計のように見えて、水時計のように曖昧だ。ひとつだけ確かなのは、静の背中から漂ってくる熱が、さっきより薄まっていること。薄まる熱は、冷える前の合図ではない。熱が周囲の空気と混ざって、ひとつの温度になろうとしている。そのとき、彼はもう一度だけ拳を開いた。さっきよりゆっくり。ゆっくりだから、見えるはずのないものが見えそうになる。緋真は息を止め、目を凝らす。何かが手を離れていく。重さのないもの。名前のないもの。祈りか。恐怖か。矢野の背中か。道場の梁の木目か。いずれにせよ、それはもう彼の手の中にはない。彼は空に渡した。渡した顔で、彼は前を向いている。
窓の外、青の深さは変わらない。深さの奥に、どこかに白い雲があり、雲の向こうには見えない地上がある。地上には、彼が帰ってこないかもしれない現実がある。帰ってこれるかもしれない現実もある。どちらでもいいと、言えるか。言えない。言えないことを、彼は知っている。知っているからこそ、拳を開いた。開いた後の手を、操縦桿に戻す。戻す所作が、美しかった。緋真はそこまでを、はっきり記録できた。
そこで夢は、空の端を切り取ったみたいに、唐突に終わった。
※
目が覚めたとき、白かった。
天井は、病院の白だった。現実の白だ、と頭がすぐに判断する。白は薄い。薄いのに、何層にも重なって見える。目の奥に残っていた青が、白の下に押しやられていく。押しやられて泣き出す。胸の内側がひっくり返るようで、緋真は反射的に体を丸めようとした。――が、腕に絡んだ何かに引き留められ、身体が重い重力に貼り付けられていることに気づいた。点滴。鼻に硬くて柔らかい管。口の中に残る潮の匂い。喉は焼けたように痛く、咳をしようとするたびに胸がきしむ。
「緋真!」
母の声が、遠くの海で波が割れるみたいに弾けた。視界の左側に見慣れた顔があって、目と鼻の形は泣いているときの形だった。母は椅子から身を乗り出し、手を伸ばしたが、途中で止めた。点滴の管や心電図のコードが絡んでいる。触ってしまえば壊してしまいそうな、躊躇の位置で手が止まる。止まった手は、しかし空気を震わせた。震えが緋真の頬に触れた気がした。彼は自分の声が出るか分からないまま、唇を開いた。乾いた音がした。
「……ごめん」
言った瞬間、母は泣きながら笑った。「ごめんじゃない。生きてるんだから、それだけで」
祖母は黙って座っていた。背筋は伸び、膝の上に両手を重ね、目は穏やかだが、静かな波の下に深い暗さを湛えている。緋真と目が合うと、祖母はゆっくり頷いた。頷きは短く、その短さが長い時間を含んでいる。祖母の周りだけ、空気が少し硬い。祈りの硬さだ。祈りは、柔らかいだけでは立たない。
「神田くん、わかるかな」
白衣の男の声。医師だろう。白いマスクの上で目がきちんと笑う。看護師がベッドの頭の方のスイッチを操作し、背もたれが少し上がった。世界が彼の方へ斜めに近づく。医師の説明は、現実の音でできていた。意識消失、低体温、過換気、海水の誤嚥。救助された時刻。この市の消防団の迅速さ。彼はうなずく。言葉は頭にさやさやと飛び込んできては、どこかに引っかかる。引っかかった場所から、別の思考の線が伸びる。――静は、飛んだ。
医師の声が遠のく。母が袖で目を拭う音、カーテンの輪がレールをこする音、隣のベッドの誰かが呼吸を調える微かな声。病室は音に満ちているのに、静かだ。静かさの底に、自分の泣き声が溜まっているのが分かった。溜まったものは、溢れる前に出しておかないと、別の場所からあふれる。
緋真は子どものように泣いた。
嗚咽は屈辱ではなかった。膝を抱えたくても抱えられず、代わりに胸の上で手を握り、床に向かって顔を伏せた。鼻水が出て、喉が鳴る。看護師がティッシュを近づけてくれたが、彼は自分の涙で頬が温かくなる感覚に身を任せた。泣くことでしか運べないものがある。泣くたびに少しずつ軽くなる小石みたいなものを、彼はずっと抱えていたのだと思う。その小石に名前を付けることはしない。名を付ければ確定が来る。確定は、誰かを殺す。
祖母は黙ったまま、緋真の泣く時間を守ってくれた。母は手の甲で目の下を拭い、声を殺して泣いた。泣く音にも礼儀がある。空気がそれを受け止める。緋真の中で、夢の中の青が、病室の白の下でゆっくりと混ざり始めた。混ざると色は鈍くなるが、匂いは濃くなる。油と塩と布の匂いが、病室の消毒液の匂いと重なる。重なった匂いの中で、彼は静の拳がふたたび開くのを見た。開いて、何かを手放す。今度は、その何かが形を持たないことを、はっきり理解した。形のないものを手放すとき、人は最も美しい所作をする。静は美しい。
「緋真、先生にお礼を」
母の声に促され、彼は涙の残った声で「ありがとうございます」と言った。礼は、病室でも礼だ。医師は頷き、「無理しないで、眠っていいよ」と言った。
眠る、という言葉に内臓が反射した。眠れば、静は遠くなる。眠らなくても、静は遠くなる。遠くなることを引き受けられるか。今日の緋真は、答えを持たない。持たないこと自体が答えだ。祖母はそれを察したみたいに、静かに目を閉じ、耳の下で数珠をひとつ撫でた。玉の触れ合う音が小さく鳴る。祈りのリズムは、呼吸のリズムと同じだ。四で吸って、四で止めて、四で吐く。緋真もそれに合わせる。吐く息の最後のほうで、胸の中の痛みが少しだけ移動する。移動した痛みは、言葉になりかけて消える。
ケンタからメッセージが来ていた。母が緋真のスマホを手にしていて、「友だちから」と画面を見せる。〈死ぬな。マジで。〉〈生きろよ。〉〈おまえの宿題の写し、俺にしかないぞ。〉めちゃくちゃで、やさしい。緋真は笑ってしまい、肺がまた少し痛んだ。笑いと痛みは、いま仲良くしている。
窓の外は薄い雲がかかっていて、海は見えない。病室の窓は細く開いていて、そこから潮の匂いが入ってくる。匂いは音よりも早く記憶の層を通り抜けて、夢の入口を軽く叩いた。叩いたきり、扉は開かない。今はそれでいい。扉が勝手に開かない夜を、彼はやっと迎えられたのかもしれない。
夕方、父が仕事を切り上げて駆けつけた。額に汗が浮き、スーツの襟に塩の白い線が出ている。緋真の顔を見て、父は一度だけ大きく息を吐いた。「馬鹿」と言い、その一語の中に救いと怒りと安堵と、いくつものヴァリエーションが詰め込まれているのがわかった。緋真は「うん」と言った。父の「馬鹿」はこの家では最高の「おかえり」に近い。病室の床の色が、少しだけ温かく見えた。
夜。点滴の滴る音が耳の奥で規則正しく鳴り、看護師のサンダルが廊下のワックスの上を滑る。祖母は「帰らなきゃ」と立ち上がり、緋真の枕元で囁く。「あんたは、名前を呼ばない子だね」。緋真は笑って、「祖母ちゃんの真似」と言う。祖母は「そうかい」と言い、緋真の頭に、そっと手を置いた。手のひらの骨のかたちを、頭蓋骨が内側から受け取る。受け取った形は、彼の祈りの「かたち」をまた一つ増やす。
母は窓際のソファで眠り始める。父は椅子で背中を丸めている。カーテンの上部から白い明かりが漏れて、夜の病院を避難所みたいに見せる。緋真は枕元のナースコールの赤いボタンを見つめ、押す理由がないことを確かめた。押すべきときは押す。それまでは、押さない。押さないのも礼。
息を整え、胸の内側で瓶の列を確かめる。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉〈浜辺の徹夜〉。ラベルに新しい一本を足す。《飛翔(見届け)》と書く。瓶は空でいい。中身を詰めようとすると、勝手に余計なものまで入ってしまう。空っぽのまま、その瓶がここに存在したことだけを、彼は記録する。
手を伸ばして、ベッド脇の棚に置かれた自分のリュックのポケットを探り、祖母の紺の布を取り出す。布は乾いて軽い。蘇生した布の軽さに、深いところで安堵が広がる。布の上には前にこぼしたインクの痕があって、薄い月のように見えた。布を胸に置き、目を閉じる。布は暴れない。彼の中の言葉の多くも、今夜は暴れない。
――静。
胸の奥で、呼びかけの形だけが浮かび、唇まで上がりかけて、沈む。皆まで言わない。言ってしまえば、すべてが確定してしまうから。確定を恐れているのではない。確定を、まだここに連れてこないために。緋真は、名を呼ばない祈りの仕方を、初めて身体で納得した。
窓から潮風が吹き込む。病室のカーテンがわずかに持ち上がり、その裾がまた戻る。青い空で飛んでいたはずのものは、今、見えない。見えないもののために風が動くのだと思う。彼はその風に祈りを渡す。渡した祈りは、どこへ行くのか知らない。知らないまま、渡す。
※
翌朝。
体の節々が、ずっと泣いていたあとのように重い。医師の回診が来て、緋真は短く質問に答える。意識消失の時間、救助された海の場所、体温、矢印みたいな単語が飛び交い、最後に「しばらく安静に」という普通の言葉に落ち着く。普通がありがたい。ありがたさは、抒情よりも心に長く残る。
廊下から朝の音が聞こえる。配膳車の金属の音。遠くで子どもが泣く声。駐車場で誰かが車のドアを閉める音。現実は音からやってくる。音があるところに、彼は戻ってきたのだ。
ケンタが見舞いに来た。プリンを二つ持ってきて、一つを緋真に渡し、もう一つを自分で食べる。「なんでおまえも食うんだよ」と緋真が笑うと、「こういうのはシェアだろ」とケンタが言って、容赦なくスプーンを突っ込む。病室で笑うことに罪悪感を持つべきではない、と彼はこの友人から学ぶ。ケンタは窓の外を見て、「海の匂いするな」と言い、「海、嫌いになった?」と尋ねる。「ならない」と緋真は答える。「嫌いになったら、俺はたぶん書けない」。ケンタは「おまえはそこに戻るのか」と目だけで言って、声では言わない。言わない配慮が、呼吸を楽にする。
午後、祖母が短い便箋を持ってきた。「読んでも読まなくてもいいよ」と言って緋真に渡す。封を切ると、簡単な筆致でこう書いてあった。《名前を呼ばないことは、忘れることではない》。緋真は便箋を胸に当て、目を閉じた。祖母の筆圧が紙を軽く凹ませている。その凹みに、自分の今いる場所の深さを測る。
丸一日、夢は来なかった。来ないことに焦りはなかった。代わりに、思い出す作業が静かに続いた。夢の中の静の拳の開き方。ベルトの擦れる音。窓枠の塗装の剥げ。矢野の影の不在。緋真はノートを取り出し、長い文を避け、短い行だけを書いた。《笑いは礼の別名》《怖いと言えるのは勇気》《怖くないと言う勇気もある》《手放すものは形がない》。短い行は、病室の白に合っていた。長い文は、今は布に吸われる。祖母の紺の布が、彼の膝の上で小さく波打つ。布の上では、言葉は暴れない。
夕暮れ、母が窓を少し開ける。「風、冷たかったらすぐ閉めるからね」。潮風がまた入ってくる。昨日のそれより少し柔らかい。浜辺の徹夜の夜と同じ匂いなのに、別の匂いに感じるのは、彼が生きてここにいるからだ。匂いは、生きている者にだけ別の顔を見せる。
祖母が帰り際、緋真の耳元で囁いた。「静さんはね、行き先を人に預けない子だったよ」。緋真は目を丸くし、「祖母ちゃん、知ってるの」と言いかけたが、祖母は首を振る。「知ってるとは言わない。知ってると言えば、確定になるから」。祖母の言葉は鋭いのに、触れると温かい。温かさの皮膚感覚に救われて、緋真は「うん」とだけ答えた。
夜中、看護師が点滴の交換に来た。若い人だった。彼のバイタルの数字をメモに取り、微笑んで言う。「死ぬの、嫌ですよね」。驚くほど率直な言葉だった。緋真は「はい」と答えた。看護師は頷いて、「じゃあ、いっしょに嫌がりましょう」と小声で言い、去っていった。嫌がる、という動詞にこんなふうに寄り添われたのは、初めてだ。嫌がることに礼があると、誰が教えてくれただろう。彼は眼を閉じ、看護師の足音が遠ざかるのを聞いた。足音が角を曲がり、消えたところで、窓の外から海の音がまた一つ入ってきた。
――静。
胸の奥で、また呼びかけの形だけが浮かび、今度は胸骨の裏側にそっと貼り付いた。貼り付いた文字は、湿気を吸って柔らかくなる。柔らかくなったところで、彼はもう一度だけ、目を閉じた。
※
夢は来た。
病室の白の下で、眠りは透明だった。透明の底に薄い青が差し、音がひとつずつ立ち上がる。プロペラの唸り。計器の針の微かな揺れ。ベルトの擦れる音。静の呼吸。緋真は観客席に座る。手は膝の上。背中はまっすぐ。礼を保つ。静は飛んでいる。前を見ている。拳は開かれている。何かが手から離れていく。何かが戻ってくる。離れたものと戻ったものは、同じではない。同じである必要もない。
そこで、風が吹いた。
道場の縁側を通り抜けるあの夏の風と、病室の窓から入る潮風と、滑走路の上をかすめる冷たい風。その三つが一瞬だけ同じ速度で彼の頬を撫でた。撫でるという動詞を、彼はそのまま大切にポケットにしまった。どれだけ撫でられても、名前を呼ばないかぎり、確定は来ない。撫でられた頬は、しかし確かに温かい。温かさは、現実の側に残る。
緋真はそこで泣かなかった。泣くのをやめたのではない。泣く必要が、今は少し遠かった。代わりに、短い言葉を胸の内に置く。
――見た。
――生きていた。
それだけで、十分だった。十分であることを、自分で許す。許すのに時間がかかった。今、ようやく許せる。
夢は、また突然に終わった。
終わることは、死と似ている。似ているだけだ。終わったものは、すぐに起こさない。起こさずに、静かに布を掛けておく。それが礼だと、緋真は祖母に教わっていたのかもしれない。教わったことは、いつも言葉の形では覚えていない。手の温度で覚えている。
※
明け方。
病室の白が少しだけ青を混ぜる。窓の外で鳥が鳴き、遠くで誰かが新聞を配る自転車の音がする。緋真は目を開け、人のいない天井を見つめ、ひとつ呼吸を大きくした。胸はもう、昨夜ほど痛くない。痛みがなくなったわけではなく、位置がずれたのだ。ずれた痛みは、言葉にしないほうがうまく抱えられる。
枕元のノートを開き、彼はペンを取る。祖母の紺の布の上にノートを置く。布は暴れない。暴れない上で書く字は、暴力に似ない。彼は短く書いた。《結末を知ることより、そこに息があったことを記録する》。書きながら、病室の空気が少し新しく入れ替わるのを感じる。換気扇の音。廊下の誰かの笑い声。看護師の「おはようございます」。すべてが彼を現実へ戻す。
母が目を覚まし、髪を整え、緋真の額に手を当てる。熱はない。「よかった」と母は言い、窓を少し開ける。潮風が流れ込み、カーテンが持ち上がり、また戻る。入ってきた風が、出ていく。出ていく風に祈りを少し乗せる。乗せると、胸の中の重さが少しだけ軽くなる。
「君はどこへ行ったのか。死んだのか。生きたのか」
心の中でだけ、緋真は問いかける。声には出さない。問いを投げた手で、そのまま自分の胸を押さえる。押さえた掌の下で、心臓が規則正しく動く。動いている限り、彼は記録者でいられる。記録者は、救う者ではない。救うふりをしない。救済の嘘で上書きしない。上書きせずに、息のあった痕跡を並べる。短冊、竹の守り、紺の布、瓶のラベル、塩の匂い、笑いの線。遺るものを、遺るままに置く。
祖母が再び病室に顔を出し、緋真の枕元に小さな袋を置いた。「中身は見ていいけれど、名をつけるのは、もう少しあとのほうがいい」。緋真は頷く。袋の布は洗いざらしで、指に馴染む。彼はひもをゆっくり緩め、中を覗いた。中には小さな紙片と、古い糸で結ばれた細い竹の欠片。竹にはうっすらと人の指が触れた痕が残っている気がした。静のものかどうか、何も確証はない。それでいい。確証がなければ、彼は祈りの形を選べる。
彼は袋を閉じ、胸の上に置き、目を閉じた。
――君の名を呼ばない。
――でも、君の息を忘れない。
潮風がまた一度だけ吹き、病室の白が、ほんの瞬間だけ青に傾いた。青はすぐにまた白に戻る。その白の下で、緋真は静かに息を整えた。整えながら、彼は決める。結末を書かないこと。結末を求めて誰かを急かさないこと。記録者でいること。礼を失わないこと。名を呼ばない祈りを続けること。
静はどこへ行ったのか。死んだのか、生きたのか。
答えは与えられない。
与えられないからこそ、彼は記す。ここに、確かに一人の少年が生き、拳を開き、何かを手放し、前を見ていたことを。そこに、祈りがあったことを。礼があったことを。
その夜、病室の窓からまた潮風が吹き込んだ。緋真は涙を指で拭い、もう一度だけ胸の内で名の形をつくり、そっとほどいた。ほどかれた名は、風に混じってどこかへ消え、代わりに温もりだけが彼の掌に残った。温もりは、確定を呼ばない。温もりは、遺る。遺るものの側に、彼は筆を置く。置いた筆の先で、見えない瓶がちいさく鳴った。〈飛翔/病室〉。ラベルは、今夜はまだ貼らない。貼らずに、眠る。眠りは、今度は静かだった。静かな眠りの中で、彼はもう、名を呼ばなかった。



