沈黙の血脈

第十二話 浜辺の徹夜

「次に眠れば、静は飛ぶ」
 その文は、目覚めた朝の天井に薄く貼りついていた。昨夜、保健室の白いカーテンの向こうで泣き腫らした目で見上げた天井の白と、今朝の自室の天井の白は別物のはずなのに、そこにのしかかる言葉の重さは変わらなかった。緋真は起き上がり、机の上の瓶を指で揃えた。〈慟哭の空〉〈捏造〉〈名を呼ばない祈り〉。空の瓶は、今朝に限って、彼の足首に結んだ鈴のように鳴った。歩けば鳴る。座っても鳴る。鳴りやむ方法を、彼はもう一つだけ知っている。
 眠らない。
 眠らなければ、夢は来ない。夢が来なければ、静は飛ばない。論理は粗末だが、儀式はいつだって粗末な論理から始まる。粗末さは若さの盾だ。盾は軽い。軽い盾ほど、最初の一撃には効く。二度目は知らない。知らなくていい。今は一度目だけを考える。
 学校へ行く支度をしながら、緋真は台所に降りた。母が味噌汁の鍋をかき混ぜ、父が新聞をめくり、妹が寝癖のままトーストをかじる。いつもの音。彼は食卓に座り、味噌汁を一口飲んだ。塩気が舌に現実を戻す。戻した現実の上に、彼は嘘を一枚置いた。
「今日、図書委員の当番で帰り遅くなる」
 母は「そう」と言った。父は「鍵」と言い、妹は「帰りにアイス買って」と言う。彼は頷く。嘘は軽い。軽い嘘は、すぐ堆積する。堆積の手前で家を出る。
 通学路の舗道の端に小さな白い花が揺れている。名前を知らない。知らないまま通り過ぎる。通り過ぎながら、心の中で数える。「一、二、三……」。眠らない初日、朝のうちは数が規律を与えてくれる。数はすぐに裏切る。裏切るまでの短い時間、緋真は歩幅を均等にして学校へ向かった。
     ※
 午前の授業、教科書の本文が黒い列になって行進し、彼の網膜を素通りする。先生の声は拍で刻まれ、拍の間に眠気が入り込む。眠気は猫のように机の上で丸まりたがる。緋真は指先でこいつの背中を軽く叩き、追い払う。叩く音は小さく、机の木目が少し震えるだけだ。
「神田、当てるぞ」
 現代文。先生の指が彼の席のあたりで止まり、空気が軽くざわめく。緋真は立ち上がり、本文の一行を読み、要旨をまとめる。口が勝手に動き、いつもの凡庸な「正しさ」を言う。凡庸な正しさは美徳だ。今の彼には。
 昼休み、ケンタが机の端で袋菓子を開け、「一枚だけ」と言う。緋真は一枚だけ受け取り、塩気を舌で潰す。潰した塩気の下に眠気がいる。眠気は柔らかく、甘い。甘さは恐ろしい。彼は立ち上がり、「図書室行く」と言って教室を出た。図書室の窓際に座り、ノートに《昼寝禁止》《目を閉じない》と丁寧に書く。文字の濃さが儀式の濃さだ。
 放課後、担任が廊下で彼を呼び止める。「昨日は大丈夫だったか」
「大丈夫です、きっと」
 担任は苦笑し、「神田語」と小さく呟いた。緋真は「すみません」と頭を下げ、靴箱へ向かう。白い上履きを脱ぎ、紐を結びなおす。結び目は意地を持つ。矢野の結び目はいつでもほどけにくかった。こういう日、彼はわざと強く結び、靴紐の反発を指に伝える。
 校門の外の空が薄い灰色を帯びている。風が少し強い。海の匂いがする。電車に乗る。駅で乗り換える。商店街でエナジードリンクとガムとおにぎりを買う。店員の「温めますか?」に「大丈夫です」と彼は答える。温められるのは心だけでいい。温められた心は眠る。眠らせない。
 駅からさらにバスに乗って、海の近くまで行く。下車した停留所の名は記号のように短く、道路沿いの看板は塩に焼けて角が丸い。歩道の隅に飛び散った砂。潮の匂いが濃くなる。夕暮れの空がオレンジを凝らし、海面に細長い光の道が立つ。彼はその道の端に立っている気がして、一度だけ深呼吸した。
 防波堤へ。灰色のコンクリートの階段を上り、平らな道に出る。欄干は低い。腰より少し下だ。向こうに釣り人。帽子を深く被った老人が二人、黙って糸を垂れている。子どもを連れた家族が帰るところ。犬の散歩。風が少し湿っている。波が足元の壁にあたって砕けるたび、細かい水が頬に付く。彼は袖で拭わない。濡れた頬は、涙の練習に似ている。
 ベンチはない。緋真は防波堤の縁に腰を下ろした。寝たら海に落ちる。ここなら眠気が来ても恐怖で目を覚ますだろう。スマホを取り出す。通知は切ってある。メモを開く。《徹夜 開始》。時刻を入力する。「十九時四二分」。数字は儀式の杭。杭を打てば、夜が風で飛ぶのを少しだけ防げる。
 ポケットから竹の守りを出す。自作の、不器用な結び目。掌で温める。祖母の紺の布を小さく折ってポケットに入れてきた。それを取り出し、守りの下に敷く。布の上では、何も暴れない。暴れないで、風だけが通る。
「名は呼ばない」
 声に出さずに言う。言った言葉は、喉の内側に貼りつく。貼りついた言葉が、少しずつ効き始める。効きは弱いが、今夜はそれでいい。弱い効き目で、長く持たせる。まずは四十八時間――彼は計算し、笑った。笑いは風にさらわれ、波の上でほどけた。
     ※
 夜が落ちる。街の明かりが海に逆さまの街を作り、行き止まりで途切れる。消波ブロックの影が黒く並ぶ。釣り人が一人、二人、帰っていく。防波堤の端には、投光器の白が残る。
 体のどこかがずっと、眠りたがっている。膝の裏、首の付け根、まぶたの内側。眠気はそこに座って足をぶらぶらさせる。緋真は立ち上がり、欄干に手をついて背伸び。筋の鳴る音が小さく体内で聞こえる。コンビニで買ったガムを噛む。顎に運動を与える。運動は心を騙す。
 海の向こうに浮かぶ小さな灯りが、滑走路の誘導灯に見えた。見えた瞬間、彼は目を閉じた。閉じて、十まで数える。一、二、三。耳に入る音だけで世界を作る。波のすする音。遠くの車の走る音。どこかの港のクレーンの金属音。世界は音だけでも成立する。成立するなら、見ない。見なければ、確定は遅い。
 二十三時。緋真はメモに時刻を書き足す。《二三:〇一 まだ起きてる》。書くたび、指先が震える。震えは冷えではない。震えは恐怖そのものでもない。恐怖に似たものが、血の中に均一に混ざり、体温のわずかな上昇でふつふつと泡立っている。
 日付が変わる。彼は立ち上がり、防波堤の上を歩いた。歩く速度を一定に保つ。一定は呼吸の代わりだ。歩きながら、彼は頭の中で短いフレーズを唱えた。《礼は在る》《名は呼ばない》《今は飛ばない》。飛ばない――その言葉に自分でも笑ってしまう。誰に命令している。眠りにか。夢にか。静にか。静は命令に従わない。命令は礼ではない。礼はお願いの形をしていない。
 午前一時。釣り人がほとんどいなくなり、風の音が大きくなる。波の白い縁が、闇に細い爪を立てる。緋真の目は乾く。瞬きを忘れる。忘れた瞬きを取り戻すように、彼は意識して大きく目を閉じた。暗闇の内側に、うっすらと顔が浮かぶ。静の額。鉢巻。目の色。頬の薄い線。彼は目を開く。開いて、その顔を海に落とす。落とされた顔は、水の黒に混ざって見えなくなる。見えないものは、祈りの対象として危険だ。彼はポケットの布を握る。布は落ち着かせる。落ち着かせることで、眠りを呼ぶ。呼ぶな。彼は布をそっとポケットに戻した。
 午前二時。コンビニのエナジードリンクを一本、開けた。炭酸の細かい刺激が喉を引っ掻く。カフェインは正直だ。正直なものは、効く。夜の中盤、効果はすこしだけ持続する。効果の切れ目で眠気が牙をむく。そのタイミングを、彼は自分で選びたい。選ぶことで、夜の支配に参加しているふりができる。
 午前三時。空は黒から青に、微妙な変化の準備を始める。星のいくつかが消え、遠くの岸壁の灯りが眠そうに瞬く。緋真は靴ひもをまた結び直した。指先がこわばり、結び目が不器用になる。不器用な結び目はほどけない。矢野が笑っていた。笑い声がどこからかする。彼は振り向かない。振り向けば影が形になる。形になった影は、確定を連れてくる。
 午前三時半。体が朦朧とし始める。骨と骨の間に細工した綿が水を吸って重くなったみたいだ。下を向くと目の前のコンクリートの粒が巨大になる。上を向くと空が落ちてくる気がする。世界がぐらりと揺れる。海面が目の高さまで迫る。彼は欄干に手を置いた。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧なものは、油断を誘う。
 午前四時。水平線の向こうがわずかに薄くなった。夜にしか見えないものの輪郭がほどけ、朝でも見えるものへと移行するその境、緋真の視界は二重になった。防波堤の上に滑走路の白線が現れ、水面の上に点滅が並ぶ。幻覚は、睡眠不足の礼儀正しい副作用。彼は知っている。知っているのに、胸が高鳴る。
「飛ぶ」
 誰の声でもない声が、耳の内側で鳴った。彼は首を振る。振って、波の音に集中する。集中は短い。別の音が入り込む。遠くのサイレン。カモメの鳴き声。風の靴音。そのすべてが、「飛ぶ」の背景に従属する。
 午前四時半。彼は一度、大きく息を吸った。吸って、止めて、吐く。祖母の教えてくれた呼吸の礼を守る。守りながら、足元の世界がふっと軽くなる。軽くなって、彼の体がふらりと傾く。傾いた先に海がある。海は待っていたみたいに受け止めの姿勢を取る。取られた受け止めに、彼の足が応じる。
 落ちた。
 景色が一段、低くなる。欄干の上の空が遠くなり、目の前に黒が広がる。黒は冷たい。冷たいものは、礼を持たない。持たない冷たさに、彼の体は本能で反応する。肺が大きく開こうとする。それを、彼は必死に止める。止めて、止めて、止める。止めた先で、水が口の中に入る。塩が舌に乗る。喉が焼ける。胸が裂ける。裂け目から、叫びが出る。
 ――死にたくない。
 叫びは水の中で音にならず、内側で爆発する。爆発のたび、頭蓋の内側の世界が白くなる。白の端に、誰かの顔が浮かぶ。静。額の髪。目。笑み。冷たい笑み。彼は手を伸ばす。伸ばした手に、水の重みが積もる。積もって、指がゆっくり落ちる。
 ――死にたくない。
 それは緋真の声か。静の声か。誰のでもない声か。境界が消える。消えた境界の代わりに、痛みが在る。痛みは確定だ。確定にぶつかった瞬間、緋真は初めて「自分」を思い出した。自分の肺。自分の喉。自分の心臓。自分の母。父。妹。祖母。ケンタ。教室。机。瓶。紺の布。すべてが一気に押し寄せ、彼の頭を水上へ持ち上げようとする。持ち上がらない。波が来る。来て、彼の口の中を満たす。満たされて、彼は再び沈む。
 耳が、遠くなる。遠くなる耳に、別の音が入る。人の声。「おい!」。懐中電灯の光が水の粒を斜めに切る。光は重い。重い光が肩に落ちる。落ちて、水の中で破片になる。破片のひとつが、彼の頬に触れる。触れたところが痛い。痛みは、生の証だ。
 手が伸びてくる。黒い手。革の匂い。滑り止めのざらざら。指の根本に短い傷。緋真の伸ばした手が、その手を掴む。掴んだ瞬間、彼は確信する。
 ――静だ。
 いや、違う。違うとすぐに分かる。分かるのに、彼の目は静の顔を見ようとする。水が間にある。水は顔の輪郭を崩す。崩れた輪郭の中から、別の顔が現れる。釣り人の顔。帽子の影。口の端から出る荒い息。息の匂いが塩に勝つ。塩に勝った匂いは、救助の匂いだ。
「掴め! 離すな!」
 声が空気を震わせ、緋真の指の骨がその震えを受け取る。受け取って、力を入れる。入れた力がすべる。すべって、もう一度掴む。掴むことを繰り返す。繰り返しの途中で、どこか遠くに静の手が浮かぶ。浮かんだ手は、やわらかく、乾いている。乾いた手は、現実にはいない。いない手に、彼は胸のどこかで礼をする。水の中で礼はできない。できない礼を、彼は内側でだけ、形にする。
「ロープ! ロープ!」
 別の声が重なる。防波堤の上で人影が動く。懐中電灯の光が揺れる。光が緋真の目に入り、目の中に小さな白い花を作る。花はすぐにほどけ、水に散る。散った花びらの一枚に、彼は自分の名を書きたい衝動に襲われ、やめる。名を呼ばない。呼ばなければ、確定は遅い。
 手が強く彼の腕を引く。肩が抜けそうになる。痛い。痛いのは生きているからだ。生きている痛みは、彼に怒りをくれる。怒りは、反復の力になる。反復して、彼は何度目かの波の上に顔を出す。空気。空気が肺の奥まで落ちる。落ちすぎて、咳が出る。咳の音が夜に破れ目を作る。破れ目から海の音が逃げ、陸の匂いが入ってくる。
「大丈夫、大丈夫だ」
 誰かが言う。「大丈夫」という言葉は、今夜に限っては嘘ではない。嘘ではない「大丈夫」が、彼の背中に手を置く。置かれた手が、彼を外へ、外へと引く。引かれて、防波堤の縁に体が触れる。コンクリートの冷たさ。肘の皮膚が擦れて痛い。痛いのに、笑いそうになる。笑いは水を吐き出す最初のささやかな方法だ。
 彼は咳き込みながら、腹の中の水を吐いた。塩と胃酸の匂いが鼻に逆流し、目の奥が熱くなる。釣り人が彼の背中をさすり、別の男が彼の腕を持ち、もう一人が彼の携帯を拾い上げ、胸のポケットに入れてくれる。誰かが「救急車!」と叫び、誰かが「タオル!」と応え、誰かが走る。走る足音が夜の上を軽く叩く。
 緋真は仰向けになり、空を見た。空は低い。低い空に、薄い色の輪郭が重なる。静の顔。矢野の横顔。祖母の手。看護教諭の白いカーテン。ケンタの笑い声。父の新聞の音。母の卵焼きの匂い。全部が、薄いフィルムのように重なり、彼の上に乗る。重さは、彼を潰さない。潰さない重さを、彼は初めて「生の重さ」と呼ぶことを許した。
 まぶたが落ちる。落ちる直前、彼は確かに見た気がした。水の中で、静が手を差し伸べていた――のかもしれない。かもしれない、で十分だ。十分な曖昧さは、祈りの容器になる。
 意識は、そこで切れた。
     ※
 ――波の音が遠くなり、誰かの声が近くなる。「意識ありますか」。緋真は返事ができない。返事は、いつだって礼の始まりで、今は礼よりも生に用事がある。誰かが「寒いはずだ」と言い、誰かが彼の腕に毛布を巻く。毛布の毛足が濡れた肌にくっつく。くっつく感触に、彼は生きていると理解する。理解は遅い。遅い理解は、優しい。
 救急車の音。赤い光。光がまぶたの裏に赤い点を打つ。点は、小学校の体育館の天井にあった白いボールの痕のようだ。昔の白。今の赤。色は変わるのに、形は似る。
 担架に乗せられ、彼は防波堤の角を見た。角に小さな貝殻がひとつ貼りついている。誰のものでもない殻。彼はその殻を、瓶のラベルにしたくなった。〈生の重さ〉。書けるなら書く。今は書かない。呼ばない。ただ、息をする。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 同じ言葉が繰り返され、反復が子守歌になる。子守歌に乗って、彼の意識はふたたび沈む。沈む途中で彼は一度だけ、自分の心の底に向かって呟く。
 ――死にたくない。
 ――そして、生きてほしい。
 前者は緋真。後者は静。いやどちらも緋真。いやどちらも静。境界は、また消えた。消えたことが、今夜に限っては許される。許す者は、彼自身だった。
 救急車のドアが閉まる音が、静かに夜を切った。切れ目から、遠い港のクレーンの金属音が一度だけ顔を出し、すぐに隠れた。
     ※
 防波堤に残ったものは少ない。濡れたコンクリート。ポケットから落ちたガムの銀紙。釣り人の忘れた小さな浮き。風。風は、何も持たずに行く。行く途中、緋真の自作の竹の守りを一度だけ揺らして通り過ぎた。守りは、防波堤の縁で夜明けを迎え、朝日で乾いた。結び目は意地を持ち、ほどけなかった。揺れた影だけが、短い時間、防波堤の上に残った。
 海は、何も言わない。言わない海の前で、彼はようやく声を尽くしたのだと、朝の光だけが知っている。波の泡が砕け、また形を作る。砕け、また作る。反復の向こうに、飛ぶがある。飛ばない夜が、確かに一つ、増えた。
 彼のポケットの中、紺の布は濡れて重くなり、救急隊員の手で丁寧に取り出され、ビニール袋に収められた。袋の口が結ばれ、結び目が意地を持った。意地の重さを、誰も知らない。知らないことは、今は礼だ。
 緋真の眠らない夜は、徹夜のカレンダーで赤く囲まれた一日として、後に残るだろう。彼は覚えているだろうか。覚えていても、覚えていなくても、どちらでもいい。大事なのは、今、彼が生きていることだ。生きていることの証拠は、救急車の中の薄い毛布の温度と、朝の海風に残った咳の匂いと、誰かの手のざらざらでしかない。
 彼はそれらの微細な証拠を抱いたまま、深い暗がりへ落ちていった。落ちる先に、病院の白い天井があることも、白の下で彼が子どものように泣くことも、まだ知らない。知らないままで、今はただ、眠る。眠りは、久しぶりに毒でも薬でもなかった。眠りは、海から上がったばかりの身体に与えられた冷たい水のように、彼の全身に行き渡った。
「次に眠れば、静は飛ぶ」。
 緋真は眠った。
 その眠りの深いところで、確かに誰かの手が、彼の指をいちどだけ、優しく押した。誰の手かは、問題ではない。ただ、手は温かかった。温かいのは、礼だ。礼は、いつでも生の側に残る。