沈黙の血脈

第十一話 捏造の善意

 決意は、ある朝の手の甲に残った爪痕から始まった。無意識に皮膚を引っ掻いた跡が細く赤く残り、その線が、否応なく文字の始筆に見えた。書け、と皮膚が言っている。書け。救え。救えば、変えられる。変えられるなら、現実は従う。従わせてしまえ。
 緋真は、机の端に自分で貼った戒めの紙を指で隠した。《これは誰かの息の記録である。改竄をしない》。指で隠すと、見えない文字はすぐに軽くなる。軽くなった戒めは、別の紙に差し替えられる。《救済稿》。彼はおどけてそう名付け、ファイルを新規作成した。名前をつけることは、世界の端を切り取る作業に似ている。端を切って、こちら側へ引き入れる。こちら側に来たものだけが、擬似的に守られる。
「俺がハッピーエンドを書けば、そうなるかもしれない」
 独り言は、確信ではなく呪いの発音練習だった。虚構が現実を上書きしたと、人はときどき錯覚する。錯覚でもいい。錯覚が長く続けば、現実は疲れ、膝を折ってくれるのではないか。倒れた現実の上に、彼は静の生還を置ける。置いて、誰にも見つからないよう布で覆う。そういう雑なやり口でも、効くことがある。効かせたい。効かせるために、彼は手順を変えた。
 儀式を、逆回しにする。
 カーテンは全開。灯りは強め。枕元の竹の守りは引き出しにしまい、ラベルの瓶は棚の奥へ押しやる。祖母の紺の布は、机から外す。暴れてくれ、と内心で挑発する。暴れて、こちらが勝つ。暴力を、礼ではなく意志で平伏させる。意志は若さの別名だ。若さは無礼だ。無礼は、今夜に限って許される。緋真は、そう決める権限を自分に与えた。
 スマホは完全に電源を落として机の引き出しへ。グループチャットの緑の吹き出しが彼を見張る目のように思えたからだ。コンビニの袋からエナジードリンクとナッツ、チョコレート、塩むすびを取り出し、机の左端に並べる。家族に悟られないよう、冷蔵庫の裏から拾ってきた古い保冷剤で缶の温度を下げる。背徳の小道具をより完璧に配置できる自分の手際の良さに、緋真は毒の甘さを感じた。
 母がノックする。「お風呂、入っちゃいな」「あとで」。父の咳払い。妹の動画の笑い声。家は相変わらずいつもの家で、彼だけが別の劇場の舞台に上がる。
 書く。
 キーボードに指を置き、緋真はまず「生還」の段取りから組み立てた。着陸を描けば簡単だ。だがそれでは嘘が安すぎる。安い嘘は、すぐ剥がれる。剥がれない嘘のために、彼は細部を選び抜く。海沿いの滑走路。風向き。飛び石のように配置された灯火。整備兵の油の匂い。遠くの社の鈴の音。――帰投の条件を、現実よりも現実らしく並べる。
 静は機体から降り、耳を押さえ、少し笑う。下唇の右端だけ上がる癖。迎える人々。国防色の制服。拍手。驚きすぎて泣けない顔。誰かが「よく戻った」と言い、静は「戻りました」と答える。その声は少しかすれて、でも、笑い声にすぐ移行できる高さだ。
 矢野は、いるべきだろうか。彼は思い切って配置した。軍服の影の後ろから一歩出てきて、肩を軽く叩く。戦後の野球場みたいに、空が広い。矢野は言う。「おまえのままで」。静は笑い、緋真は泣く――物語の中の緋真は、ここにいない。彼は筆を握る神に徹する。
 最初の夜は、筆が滑るのに任せた。滑る筆はたいてい脆い。脆さは勢いに似ている。勢いでしか越えられない段差を、勢いで越える。越えたところに正論はない。正論がない領域にだけ、捏造は根を張る。
 二夜目、彼は現代パートを挿入した。祖母の家に届く一本の電話。受話器の向こうの知らない声が、「見つかりました」と言う。白骨でも遺品でもなく、本人――老いた静本人。彼は遠い町で歳を取り、終戦後、名を捨て、別の名で暮らしていた。紙のように軽い名前。返してくる沈黙。祖母の手の具合。緋真は知りすぎた未来を、思い切って「現在」にねじ込む。
「よろしくお願いします、静さん」
「僕のことは、静とは呼ばないでください」
 その台詞は、みずからを否定するためではない。確定を避けるための礼だ。礼は生還にも必要だ。礼のない生還は、帰還ではない。ただの漂着だ。
 三夜目、緋真は「もし」を連打した。《もし、矢野が帰っていたなら》《もし、二人が道場へ戻れたなら》《もし、面紐の結び目がもう一度だけ指に触れたなら》。〈もし〉は善意の布団だ。かけると温かいが、息は苦しくなる。苦しみに気づかないふりをして、彼はキーを叩き続けた。
 それは、書くという行為の皮を被った祈りではなかった。祈りの皮を被った暴力だった。彼は、うすうすとそれを知っていた。知っていながら、止めなかった。止められないのではない。止めないのだ。止めないのは、優しさを装った自己保身だった。
 眠気は、最初の夜の半ばでいったん彼の肩に座ろうとしたが、彼は缶のプルタブを開ける音で追い払った。二夜目は、眠気が後ろから彼の首に指をかけた。彼は指をそのまま受け入れたふりをして、椅子の背を強く押して振りほどいた。
 三夜目、眠気は彼の胸の真ん中に入ってきて、文字の間に座った。座られた文字は、少し伸びをして猫背を直す。直された文は、妙にきれいで、妙に軽くて、妙に嘘くさかった。
「いいじゃん」
 彼は独り言で許した。許しの安さに、胃のあたりが熱くなる。熱は、残酷の前兆だ。
 そして、朝。教室の窓は白く、蛍光灯が昼の色をしていた。黒板のチョークは、先生の指の間で生き物みたいに動く。緋真はノートを開けない。ペンを持てない。指は、空を掴もうとして震える。
「神田、顔色」
 ケンタの声が遠い。「大丈夫」と返そうとして、言えない。舌が重い。唇が乾いて、指で触るとざらざらする。
 鉛直に落ちるみたいに、彼は机に倒れた。視界がラインからしみ状に変わり、音が布の向こうへ移る。先生の「保健室!」が、硝子を通して届く。
     ※
 保健室の白は、現実の白だ。洗いざらしのカーテンが風でふくらむ。ナースサンダルの底がきゅっと鳴る。看護教諭――顔に細いシミの星座を持つ女性――が脈を測り、「寝不足だね」と言う。「三十分、寝ていいよ。アラーム、こちらでかけておくから」
 緋真は頷く。頷きはすぐに睡眠の合図に変換され、目の裏の暗がりが音もなく濃くなる。濃さの中心に、いつもの気配が立つ。呼びたくない名の形をした風。風は、呼ばなくても来ることを、緋真は何度も学んだ。呼ばないことが礼だ。礼を守ると、夢は扉を開ける。
 滑走路。空は薄灰。低い雲が鈍く光る。地面は湿り気を保ち、靴底がわずかに沈む。遠くの山の向こうから低く低く爆音の輪郭が転がってくる。
 静がいる。
 軍服、鉢巻、指先の小さな傷。彼は胸の前で指を一度開き、閉じる。指の隙間には、恐怖が柔らかい布みたいに挟まっている。挟まれた恐怖は、ちぎれない。ちぎれない恐怖の一枚を、彼は丁寧に畳んで内ポケットに入れる。
 顔には、冷たい笑み。笑みの角は、礼の角度に近い。礼はたいてい、笑いと似ている。似ているのに、少し違う。違いが、彼の「静らしさ」だった。
「死にたくない」
 声に出さない声が、胸の皮膚の内側で鳴る。鳴った瞬間、緋真の喉が反応する。声を出そうとする。出ない。出さない。出してしまえば、確定が来る。確定は、戻らない。
 静は、それでも笑う。笑いは、恐怖の重さが一定以上になったとき、自然に浮かぶ形だ。浮かせておかないと、沈んでしまう。沈んだ人間は、礼を忘れる。忘れないための苦笑い。苦笑いは、彼の鎧だ。鎧は重い。重いのに、彼は背筋を伸ばしている。伸ばしているのは、矢野の目に恥じないためだ。矢野はここにいない。いない目に向かって礼を保つことは、ときに在る目に向かうより難しい。
 誰かが言う。「次の出撃で君は飛ぶ」
 それは上官の声に似ていたが、緋真には上官の声にしては個人的すぎる熱を感じた。熱の出どころは分からない。緋真の胸のどこかの熱かもしれない。夢は、彼の中の声を他人の口に入れて喋らせる。
 静はゆっくりと頷いた。「はい」
 頷きの角度は、道場で師範代に礼を返すときの角度と少し違う。少し違う、その「少し」が、緋真の胸を裂く。「少し」のために、人生は変わる。「少し」を積み重ねた先に、飛ぶがある。飛ぶは、ここでは動詞の現在ではなく名詞の未来だ。名詞の未来は、書き換えが利かない。
 緋真は夢の端で、叫んだ。叫びは音にならず、喉の筋肉だけが強張る。
「待って」「やめて」「戻ってきて」――どの言葉も、彼の舌の上で砕けた。砕けた欠片が、口の中の塩の味に変わる。塩は涙だ。涙は、礼の言葉の代わりにならない。代わりにならないのに、彼は泣いた。泣くしか、なかった。
 白いカーテンに顔を押し付け、緋真は現実で号泣した。保健室の空気が彼の嗚咽で震える。看護教諭が慌ててカーテンを寄せる。「大丈夫、ここで泣いていい」
「死んでほしくない」と彼は言った。はっきりと、はじめて。誰かの死を正面から恐れて泣くということを、彼は初めて身体でやった。嗚咽で肺が痙攣し、横隔膜が熱を持ち、頭蓋の内側の血があふれそうに脈打つ。身体のすべてが「いやだ」を言う。口の形にできない「いやだ」を、涙が書記する。
 看護教諭は彼の背中を一定のリズムで撫でた。そのリズムは、祖母の掌の昔の記憶に似ていた。「ここで息を整えよう。吸って、止めて、吐いて」
 緋真は言われたとおりにする。吸う。止める。吐く。四拍子の祈り。祈りの中で、彼は自分のやったことを思い出す。「俺、書いたんです。ハッピーエンド。戻ってくる話。戻ってきて、笑う話」
 言葉が唇を抜け、空気に触れて重くなる。重くなった言葉は床に落ちそうになるところを、看護教諭の目が受け止める。「書いて、よかったじゃない」
「よくないです。よくない。俺の書いたのは、嘘で、暴力で、優しいふりをした押し付けで」
 看護教諭は少し黙り、それから言った。「押し付けて、初めて気づける暴力もあるのよ。気づいたんでしょう。なら、その先をやればいい」
 その先。彼は息を吸い、止め、吐いた。泣きながら笑ってしまう。「その先って、何ですか」
「わからない」看護教諭は笑う。「わからないって言うのは、礼よ。わかったふりをしない、礼」
 涙の波が落ち着くまで、十分かそれ以上か、緋真には数えられなかった。泣いた後に残る頭痛は、現実にしかない種類の痛みだ。痛みは嫌いだが、嫌いだけれど、ここに戻す手綱になる。
 ケンタがカーテンの外で心配そうに覗く影が揺れ、「神田、マジ大丈夫か」。緋真は鼻をすすり、笑う形を作った。「大丈夫じゃない。でも大丈夫」
 看護教諭が「詩人ぶるんじゃないの」と冗談を言い、ケンタは少しほっとして笑った。笑いは軽い。軽い笑いが、涙を吸うこともある。
     ※
 午後の授業は免除された。保健室から教室へ戻る途中、廊下の窓の外に入道雲の子どもみたいな塊が浮いている。まだ夏ではないのに、空は気早に盛り上がりたがっている。
 教室の机の中から緋真は「救済稿」を引っ張り出し、破るのではなく、丁寧にファイルを閉じた。USBに保存したデータを削除する手は震えなかった。震えないのが、かえって怖い。怖さを受け入れるのも礼だ。
 帰宅して、机に祖母の紺の布を広げる。布はもう完全に乾いており、インクの黒が薄い影のように残っている。緋真はあの影の上に紙を置き、瓶を一本棚から戻した。ラベルに書く。《捏造》。瓶は空のまま置く。空のまま「ここにあった」という事実だけを保存する。空の重さは、意外に重い。
 ノートを開き、こう書いた。《救うための嘘は、嘘である限り暴力だ。暴力を礼に変えるには、書かないを選べ。書くなら、記録だけを書け》。
 書き終えると、緋真は耳の奥で誰かの咳払いを聞いた気がした。父の咳払いに似ている。生活の中の小さな音が、決意の前でいつもどおり鳴ることに、ありがたさが湧く。台所から母の鍋の音。妹の笑い声。これらは、救済稿には登場しなかった音だ。現実の音は、嘘の文体に馴染まない。
 夜、眠りの儀式を元に戻す。カーテンは二十センチだけ開ける。竹の守りを枕元に。アラーム三つ。ノート、ペン、水、ティッシュ。瓶の列を整え、一本、ラベルの白紙を引き寄せる。ペン先が迷い、彼はそっと書いた。《名を呼ばない祈り》。
 布団へ。静かに灯りを落とす。祖母の「名前を呼ばない」を胸の裏に貼り付け、目を閉じる。眠りは早く来ない。今夜は、彼の焦りをからかう余裕を持っている。からかわれている間、緋真は祖母の言葉を反芻する。「わからないは礼」。礼。礼。礼。
 やがて、眠りが来る。来た眠りは深くはない。浅い水の上を滑るようにして、夢が始まる。
     ※
 夢の舞台は、道場だった。畳の目は誠実で、柱の油の光は慎ましい。面のひもが壁の釘に整然とかかっている。静が正座している。膝と膝の間はこぶし一個分。背筋は一本の弦。指は膝頭に置かれ、爪は短い。顔を上げるでも下げるでもなく、まっすぐ前。誰もいない前に向かって、礼をする。
 緋真はそこへ立ち会うだけだ。書かない。口も手も出さない。出さないことは、無力のふりではない。礼だ。
 静は面を取り、額の髪が汗で額に貼りつく。彼は微笑む。誰に向けてでもない微笑み。梁の節に、微笑む。梁は返事をしない。返事のない微笑みは、世界でいちばん静かだ。
 その静けさの中で、緋真は胸のうちにだけ、言う。「死んでほしくない」。言って、飲み込む。飲み込んだ言葉は、血の中に溶けて、身体のどこかで小さな熱になる。熱は害ではない。生き物の必須の証である熱。
 夢から上がると、枕は乾いていた。涙は出なかった。出ない夜も礼だ。彼は胸の上で手を組み、ゆっくり呼吸する。
 ――会いたい。
 ――それでも、呼ばない。
 その矛盾は、相変わらず彼の胸に住んでいる。住人と家主のちがいは、今夜は測らない。測らないで、眠る。眠りは今度は優しく、彼の肩へ毛布の端をかける。
     ※
 翌朝。学校へ向かう歩道の端に、小さな白い花の群れが風に押されて揺れている。名前を知らない花だ。知らないまま通り過ぎる。通り過ぎることも、礼。
 教室では、ケンタが机の上にポテトチップスを出して、「先生が来る前に一枚だけ」と言う。緋真は笑い、一枚だけ食べる。塩は現実を舌に戻す。
 HR、担任がいつもどおりの声で点呼を取り、最後に「神田」と呼ぶ。緋真は「はい」と答える。自分の「はい」の高さが、静の「はい」と同じ音域に近づきそうになるのを、そっと半音下げる。礼は、模倣ではない。隣り合うことだ。
 進路指導室に呼ばれる。「体、大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でも大丈夫です」
 担任は少し笑い、真面目に戻って言う。「君は『書くために生きる』に寄りすぎた。『生きるために書く』に戻る方法を探せ」
 緋真は頷く。「戻ります」
 口にした瞬間、彼は嘘を言っていないと分かった。戻るとは、過去に復帰することではない。自分の位置をやり直すことだ。その位置の近くに、祖母の沈黙がある。沈黙は、道標だ。
 放課後、図書室で彼は郷土誌の別の号を手に取り、目を通しもせずに閉じた。閉じた理由は、知ることを拒むためではない。知るタイミングを選ぶためだ。タイミングを選ぶことも礼。礼は、なんでもかんでも先回りして触らないことから始まる。
 帰り道、神社に寄る。絵馬の棚を眺めるが、何も書かない。書かないことは、祈らないこととは違う。書かない祈りを、風に預ける。風は受け取る。受け取って、どこかへ運ぶ。運ばれた祈りは、緋真の手を離れてしまう。離れてしまうから、効くときがある。効かないときもある。それでいい。
     ◇
 夜、机に向かい、緋真は「救済稿」の隣に新しいファイルを作った。ファイル名は未定。未定のまま、最初の行だけ書く。《これは恋の話ではない。けれど、恋の仕方を学ぶ者の話だ》。
 彼はペンを置き、指先で瓶の列を一つずつ整えた。〈慟哭の空〉〈すみませんの温度〉〈矢野の踏み込み(音なし)〉〈睡眠という逃亡〉〈捏造〉。空の瓶は、何も入っていないのに、それぞれ形を持つ。形が、彼を支える。
 灯りを少し落とし、カーテンの隙間から遠い車の音を聞く。たぶん、どこかの誰かが帰ってくる音だ。帰還は、物語の大団円を意味しない。帰還は、風が同じ匂いで吹く場所に、名前のない戻り方で戻ることだ――十五話で彼が書くことになる文を、緋真はまだ知らない。知らないままで、今夜はただ、眠る。眠りは毒であり、薬であり、礼であり、暴力だ。そのどれでもないときもある。
 目を閉じる前に、胸の中でだけ、言う。
 ――どうか、生きて。
 それを言ってしまう自分の身勝手さに気づき、それでも、言わずにいられないことの重みを、彼はやっと正面から受け取った。受け取った重みは、泣いた翌日の頭痛みたいに、現実だけに属していた。
 夢は、その夜、来なかった。来ないことが、今夜の贈り物だった。緋真は目を閉じたまま、息の通りを確かめる。通っている。通っているなら、それでいい。
 捏造の善意は、瓶の中で静かに名札だけを光らせている。光りは弱い。弱い光の中で、彼は午前四時の気配を聞き、やがて眠りの底から起き上がって、白い天井を見た。白は、現実の白。現実の白は、彼を手荒く、そして正確に迎えた。
 彼は起き上がり、窓を開け、冷たい空気を吸った。台所からは味噌汁の匂い。母の足音。妹があくびをする声。父の新聞をめくる乾いた音。
 それらの音の上に、彼は新しい一日を置く。置き方は、昨日より少しだけうまい。うまさの誇示はしない。しないことが、彼の礼。
 そして、書く。救うためではなく、遺すために。救済の嘘ではなく、慟哭の息を、淡々と。名前を呼ばずに、しかし、名を失わないように。そんなふうにして、緋真は、自分の「生きるための書き方」に、ゆっくり、戻ろうとしていた。